石飛将夫が去り、南目輝と蒲生亮太を下がらせた直後のことである。今度は管理部門を統括する専務の住倉哲平が血相を変えて飛び込んで来た。良く言えば鷹揚、悪く言えば能天気な彼にすれば珍しいことだった。
二ヶ月前、森岡は臨時取締役会を開催し、野島真一を副社長、住倉哲平を専務に昇格させていた。
「社長、大変なことになりました」
狼狽する住倉に、
「落ち着け。いったい何があった」
と、森岡は自らも先刻の余韻を静めるかのように、努めて静かな声で訊いた。
「富国銀行が株の引き受けを断ってきました」
住倉は失意の声で報告した。
株式上場する場合、公開する前に安定工作の一環として、一定の株数を特定の企業に引き受けてもらうのが通常であるが、その際対象となるのは取引企業や銀行、証券、保険などの金融機関が主である。特に銀行は、事業融資との兼ね合いから最も重要な引き受け先である。
「ちょっと待て。お前に連絡があったのか」
森岡は意外と冷静だった。この夏、故郷の浜浦に帰郷した折、山陰銀行米子支店長の萱嶋正隆からそれとなく耳打ちされていたからだ。
「はい」
住倉はそれがなにか、という顔をした。
――おかしい……。
森岡は訝しく思いながらも、
「理由はなんや」
とまずは訊ねた。
「それが、梅田支店の支店長は、ただ上からの指示と言うだけで、はっきりと言わんのです」
「富国の支店長やて、なんでや」
「なんでやって」
住倉は森岡の疑念が理解できなかった。
「普通は幹事証券会社から連絡があるやろ。それも、こないな重大事やったら、お前にではなく俺に直接あるはずや」
「そういえば、そうですね」
住倉もようやく奇妙な事態を悟った。
「富国の支店長は、確か池端さんやったな」
「そうです」
「そうか、それでわかった」
森岡は腑に落ちた表情で言った。
「わかったって、何がです」
「池端さんは、こちらが一刻でも早く善後策を打てるように、社内決定事項を内密に教えてくれはったんや。いずれ幹事証券会社から正式に連絡があるやろ」
そう言うと、森岡はしばらく沈思し、
「野島を呼んでくれ」
と秘書室の蒲生亮太に命じた。
すぐさま、野島真一が社長室にやって来た。
森岡は野島にこの件を伝えると、二人に向かって厳しい顔を向けた。
「お前たちにだけに言うとくが、富国銀行の件はウイニット(うち)を的に掛けてきた工作の一環やと俺は睨んでいる」
そして、その名刺代わりの挨拶が先の週刊誌の異聞だと言い足した。
「何ですって」
「ええ……」
野島と住倉が同時に声を上げた。
森岡は不安顔の二人に、恩師神村正遠の一件が大本山本妙寺から別格大本山法国寺へと移り、種々の暗闘が繰り広げられ、今また得体の知れぬ敵の出現があることを詳しく話した。
森岡は、私事である神村の件はウイニットと切り離して考えていた。したがって二人は薄々知っている程度だった。しかし、敵がウイニットをも的に掛けてきたと考えられる以上、二人にも知らせておく必要があった。
「敵にすれば、社長の資金源を断とうという狙いということですか」
野島は早くも状況を飲み込んでいた。
「そこがもう一つようわからんところや」
「わからない……?」
森岡の意外な反応に野島も戸惑いを見せた。
「ウイニット(うち)を的に掛けて来たとは言ったが、本腰ではないような気もするのや」
「と、言われますと」
「よう考えてみろ。俺の資金源を断つというのなら、遅きに失していないか」
「うーん」
野島も住倉も首を捻った。
「それにや。上場すれば大金は入るが、上場しなくても俺が資金に困ることはないと敵かて知っているはずなんや」
「では、社長はどうお考えに」
野島が訊いた。
「陽動作戦かもしれんな」
「と、言いますと」
「週刊誌の一件にしても、神栄会との闇の交際なら痛かったが、今更大昔の事故なんかを掘り返したということは、俺の動揺を狙ったとしか考えられん」
「……」
二人には答えようがない。
「いずれにしてもや、今回も本格的な攻撃ではない気がするんや。どうも、俺の目をこっちに釘付けにしておいて、何か裏で画策しとるのやないかと思う」
「社長の勘はよく当たりますからね」
「というたかて、侮ったら足元を掬われるで」
安堵したように言った住倉に、森岡が忠告した。
「株の引き受けは、他の銀行を当たってみても同じでしょうか」
野島が渋い顔で訊いた。
「それもわからん。ウイニット(うち)みたいな小さな会社や、別に何千億という金が動くわけやないから、引き受けてくれる銀行もあるやろ。せやけど、銀行は当てにせんことにした」
「せやせや、別にウイニット(うち)は、銀行なんかに頼らなくても十分やって行けるやんか」
金庫番の住倉が誇らしげに胸を張る。
「住倉専務、そう悠長なことは言っておれないですよ」
「どういうことや」
「社長の懸念は金のことよりも、もし敵が本気でウイニットを潰しに掛かってきたら、これからどんな不測の事態が起こるかわからないということです。ですから、私たちに詳細を話されたのですよ」
野島は住倉が叱責される前に、森岡の心中を代弁した。
「住倉やないが、資金的には何ら問題ない。いざとなりゃあ、榊原の爺さんや福地の義父(おやじ)さんに株を引き受けてもらったらええ。合わせて五十億や百億程度なら出してくれはるやろ。それに、お前らに黙っていたことがあるのやが」
森岡が前のめりになった。
「何でしょうか」
と、野島が森岡を見据える。
「上場後、松尾技研さんと業務提携することになった」
「松尾技研って、あの?」
住倉が目を丸くした。
そうだ、と森岡が顎を引く。
「先日、松尾正之助会長と直接お会いして、縁談を持ち掛けられた」
「松尾会長とお会いになられた……社長は会長をご存知なのですか」
何事であれ、少々の事では動じない野島も驚きを露にした。
二人には、北新地の最高級クラブロンドのママ山尾茜が松尾正之助の援助で開店したことも、松尾が榊原荘太郎と旧知の仲であることも知らせていない。
「ある人の紹介で知り合うたんやが、お前らに相談せんと俺の一存で決めてしもて心苦しく思うとる」
森岡は頭を下げた。
「何を言われるのですか、天下の松尾会長からの提携話を、私らと相談するから持ち帰るなんて言ったら、その方が会長を失望させたでしょう。即諾されて正解です」
野島が言うと、
「私も否はありません」
と、住倉も口を揃えた。
「しかし、そうなると資金面だけでなく、営業面も助かりますね」
「そういうことや。せやけど、お前の言うように、今後敵はどないな仕掛けをして来るかわからん。せやから、お前らと東京にいる中鉢には知らせておいた方が良いと思ったんや。中鉢にはお前から言うといてくれ」
顔を綻ばせた野島に指示をした森岡は、
「ところで、営業の方で変わったことはないか」
と訊ねた。
筧の造反以降、当面の間、営業部門も野島の管轄となっていた。
野島の面に緊張が戻った。
「実は、椿原機械が契約を断ってきました」
「椿原というと、筧が売り込んでいた会社やな」
「そうです。筧の後、兵頭課長に担当させていましたが、契約寸前で仮契約を解除すると通告してきました」
「向こうは筧を信頼していたんやろうから、仕方がないわな」
いいえ、と野島は首を横に振った。
「担当が兵頭課長に代わっても、最近までは良好な関係でした。それを急に断ってきたのには裏があるのではないでしょうか」
「裏って、どないなことや、野島」
住倉が訊いた。
役職は野島が上だが、年は住倉の方が三歳年上で菱芝電気でも先輩であったため、公でないところでは呼び捨てにしていた。
「実は……」
そう言ったきり、野島は暫し逡巡したが、やがて意を決したように、
「筧が裏で動いているような気がします」
と因縁の名を口にした。
「筧やと? まさか、あいつにそないな力があるはずないやろ」
住倉は全く取り合わない顔をした。
「それが、そうでもないかもしれないのです。これまでは半信半疑でしたが、椿原機械どころか、今回の富国銀行の件も彼が絡んでいる可能性があります」
野島は深刻な表情で言った。
「馬鹿言え。椿原機械はともかく、富国銀行とはどういう接点があるというのや」
住倉は尚も否定的だったが、
「何か掴んどるんやな」
森岡は裏事情を察したように訊いた。
野島は決していい加減な推量でものを言う男ではない。何か確たる材料があってのことだと睨んだのである。
また、鴻上智之から筧克至が富国銀行の上層部とも繋がりがあるのと聞いていた。
「今も申しましたように、いま一つ確信が無かったので、報告していませんでしたが、先程社長から事情を伺って、社長が懸念されている得体の知れない敵と繋がるかもしれないと思い当りました」
「何やて! ほんまか」
森岡は驚愕の顔で訊いた。
野島は、はいと頷くと、厳しい顔で話し始めた。
ウイニットの元営業部長だった筧克至の裏切りが判明した後、野島真一はその事後処理に奔走した。社内に筧の影響がどれほど残っているか徹底的に調査したのである。
梅田のパリストンホテルにおいて、筧が森岡に告白した棚橋祥悟(しょうご)、萩原勉(つとむ)、宇都宮史雄(ふみお)の三人から詳しい事情を聞き出した。
野島は西中島南方の活魚料理店に三人を呼び出していた。地下鉄駅前にあり、漁港から生きたまま輸送して届けられる生け簀が自慢の店であった。店の名は「安兵衛」と言い、「味は高田、値は安兵衛」という謳い文句を看板に掲げていた。
忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の、高田の馬場での武勇伝に肖った語呂合わせを森岡が気に入って暖簾を潜った店なのだが、店主との会話の中で魚介類の仕入先が鳥取県の境港と聞いて驚いた。
さらに、なんと店主は浜浦、しかも森岡が幼少の頃、馴染みとしていた近所の駄菓子屋の身内だというではないか。森岡は名前に記憶がなかったが、店主の方は良く憶えていた。
以来、社員を連れて足繁く通っていたため、ウイニット社員の行き付けの店となっていた。
筧が唐突に懲戒解雇となったことから、自分たちも内々に懲罰内容を通達されるのであろうと覚悟していた三人は、緊張と落胆の入り混じった表情で座していた。
そのような三人に、野島は笑顔でグラスにビールを注ぎながら、
「安心しろ。社長に、お前たち三人を懲罰されるお気持ちはない」
とまずは不安を払拭する言葉を掛けた。
「本当ですか」
棚橋が三人を代表して確認した。
野島は力強く顎を引くと、
「それどころか、棚橋、お前をインターネット技術開発部のリーダーにするとの内示があった。待遇は次長並や」
「えっ」
棚橋は呆気に取られた。
棚橋祥悟は三十歳。野島と同じく京洛大学工学部を卒業後、大手電機メーカーに就職しながら、二年前ウイニットに転職していた。事、ソフトウェアー開発技術、言い換えればコンピューター言語修得レベルに限って比較すれば、森岡や野島よりも数段優れていた。間違いなく、この世界での特級のエンジニアである。
昔の剣客に例えて言えば、森岡洋介や野島真一は門弟数百人を抱える名門道場の道場主あるいは師範代になれる腕前だが、棚橋祥悟は一流を興す、つまり流祖になれる能力を有していた。
同じく鎌倉仏教で言えば、森岡や野島はその宗派の法統を継げるほど優秀だが、棚橋は宗祖にさえなれる器だということである。
棚橋の技術スキルはそれほど秀でていた。
「棚橋だけやない。社長は、萩原と宇都宮にも期待されておられる。せやから、今回のことは不問にせよとの指示があったんや」
「……」
三人は黙って頭を垂れていた。
「社長の期待を裏切らんようにな」
野島が念を押すと、三人は背筋を伸ばして、
「はい」
と答えた。
「さて、そこでだ。筧がお前ら以外に声を掛けた奴を知らんか」
「うっ」
再び三人の顔に緊張が奔った。野島は、片手を顔の前で左右に振りながら、
「心配せんでええ。俺は、筧が誰に声を掛けたのかが知りたいだけで、お前らがしゃべったことも黙っとるし、そいつらもどうこうするつもりもない」
と柔和な口調で言った。
三人はほっとした表情になり、棚橋が他に四名の名を上げた。そして彼は、七人のある共通項をも明かしたのである。
「その共通点とはなんや」
森岡が、野島を睨み付けるようにして訊いた。
野島はごくりと、唾を飲み込むと、
「七人とも天真宗の信者で、しかも立国会の会員でした」
「り、立国会!」
森岡は叫ぶように言った。あまりの動揺ぶりに、
「社長、どうされたのですか」
「……」
と、野島は不安顔を向け、住倉は唖然として言葉もない。
「いや、なんでもない」
呻くように言った森岡は、
「話を続けてくれ。何かが繋がるかもしれん」
と先を促した。
はい、と肯いて野島が話しを再開した。
「立国会は天真宗における最大の壇信徒会ですが、何かと物議を醸している団体でもあります」
「物議ってなんや」
「会長の勅使河原氏は裏社会との付き合いを取り沙汰されています」
「よう知っとるな」
感心顔で言った住倉に対し、森岡の顔面は蒼白となっていた。
――そうか、そういうことだったのか……立国会、頭文字はまさしく『R』……熊太の親父や景山さん口からその名が出たとき、なぜ気づかなかったのか。
静岡面高屋での会話と景山からの報告の場面を思い出した森岡は、臍を噛む思いで呻いた。
と同時に、筧克至と須之内高邦に共通する隠語の正体に迫った気がした彼は、本能的に何か大きな策謀を肌で感じ取った。
「嫌な予感がする。坂根と統万が危ないかもしれん」
悲壮な声を漏らすと、話を一旦中断し、携帯を手に取り坂根に電話をした。
しかし、繋がらなかった。胸騒ぎが増すばかりの森岡は、続いて足立統万に連絡をした。
「はい。統万です」
こちらは繋がった。一安心した森岡だったが、
統万の、
「坂根部長は、お一人でどこかに出掛けておられます」
との言葉に、彼の胸中には再び寒風が吹き荒れた。坂根は単独行動をしているらしいのだ。
森岡は、至急坂根と連絡を取り、即刻調査を中止して帰阪するよう統万に命じた。
「坂根に何かあったのですか」
住倉が心配げに訊いたが、
「まだ、わからんが……」
森岡は曖昧に応じ、
「野島、良く調べたな」
と誉め、暗に話を進めるよう催促した。
「これは南目の受け売りです」
「南目やて」
驚きを隠せない住倉に対して、
「そうか、南目の実家は天真宗の信者やからな。その線やな」
と、森岡は言い当てた。
南目の実父昌義は、神村の伯父の自坊である米子市大経寺の檀家役員であり、併せて護山会の役員も務めていた。
「その通りです。南目は筧の裏切りの後、私と同じように棚橋らに接触していたようです」
「あいつは、パリストンホテルで筧を恫喝したとき、棚橋らの名を聞いていたからな」
そのようです、と肯いた野島は、
「棚橋らは、南目には何も話さなかったらしいのですが、南目は私が彼らから事情を訊いたことを知ったようで、探りを入れてきました」
「そこでお前は、立国会のことを話したのやな」
「はい。あまりの執拗さに、つい口を滑らせてしまったのです」
「それが瓢箪から駒やったということか」
「まさか、南目の父親が立国会中国地区の幹部だったとは知りませんでした」
「あいつの実家は地元山陰だけでなく、中国地方では有名な老舗の和菓子屋やからな。有り得んことではないな」
「ただ、今も申し上げましたとように……」
と、二代目会長の勅使河原公彦には闇の世界との噂が絶えないため、嫌気の刺した昌義が中国支部の役員を辞する決心をしたことも輝から聞いたと付言した。
「ともかく、筧は天真宗の信者、しかも立国会の会員に絞って誘いを掛けたようです」
なるほどな、と得心顔になった森岡が、
「ということは、筧自身も天真宗の信者で立国会の会員ということやな」
察したように言った。
「それも、ただの会員ではないようです」
「というと」
「これも棚橋と南目から聞いたのですが」
野島の声が一段と低まった。
安兵衛を出た後、野島は三人をロンドへ誘った。野島には、さらに遇することで彼らの口を軽くする狙いがあったのである。むろん、当時専務だった野島は社用でロンドを使用できる立場にあった。
「あら、野島さんが部下の方をお連れになるなんてお珍しいことですね」
ママの山尾茜が接客にやって来た。
「そうからかわないで下さい」
野島は照れたように言う。
生来、真面目な性格の野島は江坂の欧瑠笛で真弓こと、本名町村里奈と再会するまで、華美な世界とは無縁の男だった。森岡に誘われたときに足を踏み入れるぐらいで、自ら進んで顔を出すことは滅多になかった。
棚橋、萩原、宇都宮の三人は、ロンドのような最高級クラブは初めての様子で、借りて来た猫のように畏まっていた。
「あらあら、別に取って食おうなんて思っていませんよ」
茜がそう言って嫣然たる笑みを浮かべると、三人はその美貌にますます緊張の度を増すばかりだった。
「では、おばさんは退散して、若いホステス(こ)に任せるとしますね」
茜が席を外し、二十歳そこそこのホステスだけになると、ようやく三人も雰囲気に打ち解けたようだった。
その最中だった。用を足して戻った棚橋が真剣な顔つきで野島の横に座った。
「専務。筧さんのことで、お耳に入れておいた方が良いと思うことがあるのですが」
――待ってました。
野島は心の中で手を打ったが、
「なんや」
とつとめて自然体を装った。
「筧さんは、先ほどお話した立国会の現最高執行部とも面識があるとのことでした」
「ほんまか」
野島は驚いたように訊き返した。
はい、と棚橋は肯くと、
「ですから、新会社を立ち上げても、営業的には全く問題がないと自信満々でした」
そう言った後、棚橋は筧の口車に乗ってしまった自分を後悔するかのように、顔を歪めた。
「筧の人脈については丸ごと信用したわけではなかったのですが、私から棚橋の話を聞いた南目が裏を取ると、なんと筧の祖父は先代公人氏の戦友とかで、立国会本部の最高幹部まで務め、父親は現在関西支部の要職にあることがわかったのです」
南目昌義は、立国会の全国会合などを通じて、筧克至の祖父と父を見知っているということだった。
「するとなにか、その筧の父親が富国銀行に捻じ込んだというのか」
住倉は、珍しくも怒声を上げた。
「それとも、富国銀行の役員の中に立国会の会員がいるのかもしれませんね」
「うーん。筧の背後にそのような力が蠢いていたか」
さすがの森岡も、沈痛な面で考え込んだ。
謎だった「R」は立国会の頭文字に間違いないだろう。筧に立国会、もしかして会長の勅使河原公彦という後ろ盾があれば、神栄会を背景にした恫喝的警告を受けても尚、鴻上智之を利用して、敵対行為に及んだことが納得できだ。
そしてもう一つ。今さらながら、
――須之内高邦も立国会の会員で、筧と共謀していたのだろう。
という複雑な想いも駆け巡っていた。
森岡は、須之内に情報を漏らしたのは桐子というロンドのホステスだったとの報告を茜から受けていた。
桐子は森岡が交際を断ったホステスだった。桐子の執拗な誘いに、何度か同伴やアフターに応じたが、彼女はすっかりその気になってしまったため、森岡がきっぱりと断った経緯があった。
その腹いせなのか、あるいは須之内高邦が、森岡の義兄だったことを持ち出して桐子を安心させたのかは定かではないが、ともかく真鍋高志との会話が漏れていたのである。
森岡がふと首を傾げた。
「しかし、筧本人や奴の父親に、それほどの力がほんまにあるのかなあ」
「と言いますと」
野島には予想外の反応だった。
「富国といえばメガバンクやで。いかに立国会の会員同士とはいえ、いちいちいち要望に応えるやろうか。第一、筧らに富国の幹部を動かすほどの力があるのなら、何も寺院ネットワークシステム事業を盗まんでも、いやそもそも、ウイニット(うち)なんかに来なくても、営業的には十分やっていけるやないか」
「それもそうですね。となると、圧力を掛けたのはもっと上ということですか」
「さて、そこがわからんところや」
「それは……」
野島が首を傾げた。
森岡はすこぶる頭脳明晰である。この場合の頭脳とは学力ではない。学力で言えば、野島の通った京洛大学は森岡の通った浪速大学より受験偏差値は概ね高い。
だが、野島は地頭ではとうてい敵わないと思っている。地頭とは論理的思考やコミュニケーション能力のことで、さらに言えば洞察力、分析力、判断力、決断力のことのことである。
その森岡が珍しくも判断に迷っているのだ。
「立国会の最上層部に恨みを買う理由がわからんのや」
森岡は、おそらく立国会の勅使河原会長自らの謀略だと推察していた。
彼から恨みを買うとすれば、味一番の一件だと思われたが、臨時取締役会の裏工作は森岡の仕業ではない。福地正勝の拉致監禁の解決には尽力はしたが、それで恨みを抱いたのであれば、それこそ逆恨みも甚だしい。まさか、勅使河原ほどの人物が、そのような器の小さい男であるはずがないと思っていた。
「なるほど」
野島は、ガセネタだったかと考え込んだ。
「まあ何にしても、お手柄やないか、野島」
住倉が野島の肩をポンと叩いた。彼の能天気なところは、その場の雰囲気を和らげる効果がある。
「社長から棚橋や萩原、宇都宮の三人の責任は不問に伏せとの命があったので、棚橋が何もかも正直に話してくれたのです。もし、怒りに任せて彼らを懲罰していたら、筧の正体は掴めず仕舞いだったでしょう」
野島は冷や汗ものだったことを強調した。
「よし、住倉」
森岡は思いを振り切ったように言った。
「何にしても、お前は片っ端らから他の大手都市銀行を当たってみろ。ええか、条件は下げるんやないで。富国銀行と同じ条件を提示せえ」
「えっ、榊原さんや福地さんに相談するのと違うのですか」
「阿呆。お二人は最後の手段や。それに、敵を油断させるんや」
「油断……?」
住倉には森岡の謀がわからなかった。
「専務。こちらが困っていると見せ掛けるのですよ。そうすれば、敵の気も緩むでしょう」
「なるほど、そういうことか」
野島の言葉で、住倉はようやく理解した。
「野島は、筧が手掛けた得意先を調べろ。それと、茜に教えてもらった前の五名もな。たぶん、そいつらも立国会の会員のはずや。最悪の場合、筧が関わった全ての得意先と縁を切る覚悟をしておけよ」
「わかりました」
野島は緊張の声で肯いた。
ウイニットに限っていえば、言葉とは裏腹に森岡は意外と平静だった。この頃、ウイニットの中心事業は、ゲームソフトウェアの開発販売と、インターネットポータルサイトの運営に移行しつつあり、企業向けソフトウェアーの開発は、全体の売上の二十パーセントを切っていた。
時代はパーソナルコンピューターが爆発的に普及し、つれてインターネットユーザーが拡大の一途を辿っていた大転換期だった。先見性のある森岡は、寺院ネットワークシステムの開発を最後に、企業顧客の新規獲得から徐々に撤退し、個人向けソフトウェーの開発に重点を移行しようと考えていたのである。
ただ、森岡が陰鬱の沼に浸かっていたのも事実だった。
筧克至の背後には、立国会という難敵が控えていると判明した。日本でも有数の仏教宗派を媒介した巨大団体が、ただ単に筧の復讐に手を貸しているとは思えない。必ずや別の大きな目的があると考えるのが常識的だった。
そして、立国会と瑞真寺はどのように関わっているのか。さらに、虎の尾を踏んだかもしれない坂根の安否は……。ともかく森岡は、全く予断を許さない状況に追い込まれていたのである。
森岡洋介が坂根好之の安否を気遣っていた同時刻、東京のパリストンホテル高輪では、ある宴会が催されていた。天真宗最大の壇信徒会・立国会の全国支部長会である。
会場となった飛燕の間は、ホテルの宴会場としては国内最大級の広さを誇り、大規模な各種イベントの会場として重宝されていた。
立国会の支部は、全国に三百二十七ヶ所であったが、各支部長の他に本部職員や来賓客を加えたため、実に四百人を超える盛大な立食パーティーとなっていた。
宴もたけなわの頃合だった。
会長の勅使河原公彦が、再び壇上に立った。公彦は冒頭に挨拶を済ませていたため、一同は何事かと注視した。
「ご来場の皆様。近い将来、皆様があっと驚くお知らせを届けることになります。この場で詳細は申し上げられませんが、我が立国会、いや天真宗にとって大変な慶事でありますので、お楽しみにお待ち下さい」
と、公彦は思わせぶりな発言をした。
会場内に異様なざわめきが轟いた。ほろ酔い気分だったとはいえ、大風呂敷を広げたのだ。参加者各人の勝手な想像の波紋は、ときに重なり合いときにぶつかり合いながら、その後しばらく収まることがなかった。
その中に南目昌義もいた。彼は渋い顔つきで、
「早まったか」
と独り言を呟いた。
宴会が始まる一時間前、南目は勅使河原公彦の許を訪れ、中国地区幹事並びに島根出雲支部長を辞任する旨を申し出て、了承されていたのである。
――あの男、いったい何を画策しているのか。
昌義は懐疑的な視線を送っていた。
勅使河原公彦という男は、野心の強い人物だと承知していた。先代公人の血を受け継いだだけのことはあって、度量と胆力に優れていたが、彼には人間として決定的に欠落しているものが有ると昌義は思っていた。 公人にあった宗教人として最も肝要な慈愛の精神が、公彦にはごっそりまるごと欠落しているのである。
その公彦が昌義に近づいて来た。
「南目さん、あらためまして長い間ご苦労様でした」
労いの言葉を掛けたが、昌義の耳には皮肉の響きを伴って届いていた。
「会長、天真宗の慶事とは、どのようなことですかな」
昌義は端的に訊いた。
「いや、まだそれを言うには時期尚早です」
「去って行く老兵です。餞にお話下さいませんか」
昌義は食い下がった。
「そうですな。直接は申せませんが」
前置きをした公彦の目が鈍く光り、
「南目さんのご子息は、森岡洋介という男の側近だとか。そのあたりに関係していると思し召し下さい」
と婉曲な言葉を吐いた。
「なぜそれを」
と驚きを隠せない昌義に、
「ご子息の身に塁が及ばないよう、くれぐれも慎重になさって下さい」
勅使河原公彦は嫌味な笑みを残して立ち去った。
――なぜ、あの男が知っているのだ。政敵として私の身辺を洗ったのか、それとも森岡氏本人に興味を抱き、周辺を調べ上げたのか……。
いずれにしても、遠ざかる背に訝しいものを感じた昌義は、すぐさま森岡に連絡を入れた。
南目昌義から連絡を受け、勅使河原公彦の直接関与を確信した森岡は、ますます不安に苛まれていた。夜になっても依然として坂根好之からの連絡はなく、足立統万からも状況に進展がないとの報告しかなかった。
――坂根の身に何が起こったというのか。
森岡の不安はそのまま悔恨へと変わった。
岡崎家において総務藤井清堂との密談を首尾良く終え、大阪に戻った森岡は、まずインターネットを検索し、勅使河原公彦の顔写真を入手した。その写真を鈴邑の女将にFAX送信して、カワハラと名乗った人物と同一であることを確認した。
この時点で、森岡は勅使河原が偽名を使ったことに関して疑念を抱かなかった。社会的地位のある人間が身分を隠すことはよくあることで、森岡自身も正体を伏せて遊興に耽ることがあるからだ。
しかし、それでも森岡は芸者小梅の身請け話は偶然ではなく、自身を的にした罠だとの思いを強くしていた。彼の危機察知能力の一端なのだが、そこでどの時点で計画されたかということが気になった。
岡崎家に於ける総務清堂との会談は、秘密裏に行われたはずだった。清堂と執事の景山律堂以外に知り得る人物は、火急の折、法主代理の任がある総務の居場所を把握しておかなければならない宗務院だけである。それとて用件、同席者等の会談目的まで承知しているわけではない。
如何にして総務清堂の面談相手が自分であることを知り得たのだろうか。森岡の疑念は尽きなかったが、多忙な彼には自ら出向く時間的余裕はなかった。
一方で三週間ほど様子を見たが、小梅の方で解決できる兆候はなかった。そこで、予定通り坂根と足立の二人に対処を託したわけだが、それが裏目になったのではないかと悔やんでいたのである。
結局、森岡は一睡もせずに朗報を待ったが、彼の耳に届いたのは統万の、
『まだ戻られません』
という悲壮な声でしかなかった。
足立統万はホテルの自室で待機していた。坂根が『ちょっと出て来る』との書置きしかない以上、彼には捜索しようがないのである。それでも統万は、岡崎家、面高屋、総本山真興寺など心当たりの場所は訪ね歩いたが、坂根が訪れたという形跡はなかった。
森岡も警察に届け出ることはしなかった。いや、できなかった。曖昧な情報を元に警察力を頼れば、却って状況の悪化を招くかもしれないと懸念したからである。
――坂根はいったいどこへ行き、どのような災難に遭ったというのだろうか。
少なくとも、坂根の足取りを掴まない限り動きようがなかった。森岡は心を痛めながらも、最悪の事態を想定して対応策を思案した。
当の坂根好之は群馬県吾妻郡のとある山荘にいた。
登山者用に設けられた山小屋といったものではなく、万代茂平(まんだいもへい)という人物が接客用に建てた別荘であった。万代は草津町長を三期十二年も務めた地元の名士だったが、ある事件に巻き込まれ失職した。
その事件とは万代の所有する土地がダムの建設予定地に指定されたことが発端だった。
万代家は群馬山中に約三十万坪の広大な山林を所有し、林業を主な生業としていた。その万代を田鹿功夫という五十絡みの男が訪ねてぃたのは、二年前の春であった。
田鹿は先のブックメーカー事業推進に当たり、鷺沼幸一を媒介して、柿沢康弘からの五億円出資に暗躍した灰色世界の住人である。
このとき田鹿は国土交通省の役人を同道していた。そして、水利事業の一環として万代家の所有する山林にダムを建設したい旨を説明し、道路も含めて約八万坪を一坪当たり七千円の、総額五億五千万円で購入したいと付け加えた。四期目を狙う万代茂平にとって、選挙資金の捻出が適う買収話は願ったり叶ったりだった。
だが、これは周到な詐欺だった。
田鹿と共に訪れた役人は、国土交通省に席を置く本人だったが、このときすでに田鹿の毒牙に罹っており、田鹿とは一蓮托生の闇に浸かっていた。
ダム建設の計画というのも本当の話で、万代の土地が候補地となっているというのも事実だったが、最終決定ではなかった。しかし、高級官僚の登場と田鹿の巧みな話術にすっかり心を許した万代は、言われるがまま土地の権利書を田鹿に預けてしまった。
田鹿は、万代の土地を担保に街金から三億円を借り入れ、二人は行方を晦ました。ほどなく、万代の土地と敷地内の建物一切、つまり坂根が監禁されている別荘も街金の手に渡ったのだが、その街金というのが虎鉄組傘下の企業舎弟だったという経緯である。
坂根は三十畳もあろうかと思える広いリビングのソファーに座らされていた。手足を拘束されることもなく、移動の他は目隠しもなかった。ただ、携帯電話は取り上げられていた。
拉致監禁に加わっているのは五人だった。リーダーと思しき男は、四十代半ばでかなりの貫録があった。他に三十代が二人、二十代前半が二人という構成だった。二十代の二人は使い走りのようである。五人とも拳銃とかナイフといった武器は所持していないように見受けられた。
「不自由をさせてすまないな」
リーダー格の男が柔らかい物腰で声を掛けた。
「いいえ、大丈夫です」
坂根は気丈に答えた。
坂根は、思わず『ここはどこですか』とか、『監禁の目的は何ですか』と聞き出しそうになる気持ちをぐっと呑み込んだ。
極道者というのは、一旦は下手に出ても、相手が付け上がった態度を取ると、途端に急変する人種であることを森岡から教わっていたのである。
「もうしばらくの辛抱だ。お前さえ大人しくしていれば、手荒なことはしないと約束する」
「有難うございます」
坂根は丁重に頭を下げた。
「ところで、森岡という男は相当な漢(たま)らしいな」
言葉と裏腹に、男の口調には敬意のような、あるいは畏怖のような色が漂っていた。坂根は、すばやく神栄会の峰松を思い浮かべたが、
「三十代で起業した会社を上場させようとしていますから、そうかもしれません」
と言葉を選んだ。
違う、と男が首を横に振った。
「俺が言っているのは神栄会の峰松のことだ」
「峰松さん? ああ、そちらでしたか」
と惚けた坂根だったが、男には見抜かれていた。
「峰松がずいぶんとお前の社長を頼りにしているという噂を耳にしているけどな」
「あいにくと、私はそちらの世界との接触から遠ざけられていますので良くは知りません」
「そうか」
男は坂根を睨み付けた。
その威圧に、坂根は強烈な悪心に見舞われた。
男が、ふっと圧力を解いた。
「いや、すまない。脅すつもりはないのだが、誤魔化されるのは嫌いな性質なのでな」
笑顔で言ったが、目は笑っていなかった。
「峰松さんが社長を頼りにされているかどうかは知りませんが、社長の方が相談されたことはあるようです」
坂根は精一杯頭を働かせた。極道らしき男を前にして、大物極道者が堅気を頼りにしている構図を否定したのである。
「互いに、持ちつ持たれつという関係だな」
男はにやりと笑った。
「やはり、森岡という男はただ者ではないな」
「えっ?」
「お前を観ればわかるというものだ」
「……」
坂根は懐疑的な目をした。
「俺に何がわかる、と思っているな」
男は坂根の心中を読み取るように言った。
「今の答えもそうだが、何よりお前の手の胼胝だ」
坂根の目が自身の指に行った。
「それは空手の胼胝だな」
坂根は黙って肯いた。
「俺も若い頃に空手の稽古をしていたからわかるが、それは相当な修練を積まなければできない。何段だ」
「二段です」
「二段?」
男は意外という顔をした後、
「そうか、極誠会か」
と訊いた。
「はい」
男の顔が感心顔になった。
「極誠会の二段ならたいしたものだ」
荒稽古で知られる極誠会の有段者は『段数二倍の実力』と言われていた。坂根が二段を有しているのであれば、他の流派なら四段という最強クラスの実力の持ち主となる。
「やはり、森岡はたいした男だな。お前なら拘束した二人と戦っても勝てただろう。だが、お前はそうしなかった。なぜだ?」
「それは……」
坂根は口籠った。
「お前は拘束しようとした二人が極道者だと直感したのだろう。そして、もし二人を打ちのめしたりすれば、完全に我々と敵対してしまう。そうなれば森岡の身にも危険が及ぶかもしれない。それに大人しく従えば、自分を拘束する理由がわかるかもしれない」
男は坂根を見据えた。
「そう考えたのだろう」
「はい」
坂根は素直に男の推量を認めた。
――この男はただ者ではない。嘘を吐き通せは状況は悪くなる。
坂根は咄嗟にそう判断した。
「我が身に危険が及んだ状況で、瞬時にそれだけの分析と判断ができるということは、腕力だけでなく知力も備えていることを証明している。そういう有能な男を従えている森岡は人物と言えるだろうな」
「私のことは誉め過ぎです。貴方が言われるような優秀な男であれば、このようなことにはなりません」
と軽率な単独行動を悔やんだ坂根を、
「まあ、そう自分を責めるな。結果は同じことだ。むしろお前が一人だったことが幸いだったかもしれないぞ」
男は慰めるように言った。
「それにしても、良い親を持ったな」
「親、ですか」
「森岡はお前にとっての親だろう」
男は極道世界に照らして言った。
「お言葉ですが、社長は親というより、師と言った方が正しいでしょう」
坂根は神妙な顔つきで言った。
「師か。なるほどの」
男は感心したように言い、
「どうだ、ビールでも飲むか」
と右手でコップを掴んで口に向ける仕種をした。
「いいえ、結構です」
「まあ、そう言うな。俺が飲みたくなったのだ。付き合ってくれんかの」
男は柔和な顔でそう言うと、使い走りの男の一人に準備を命令した。
坂根の取り扱いは丁重なものだった。拉致時の状況もそうだが、監禁の間も、暴力行為はもちろんのこと、恫喝や暴言もなかった。
そうはいうものの、坂根にとっては未体験の緊張を強いられることに違いはなく、彼はしだいに憔悴していった。
同じ日の夜、立国会のパーティーを終えた勅使河原公彦は、同じパリストンホテル高輪で虎鉄会の組長である鬼庭徹朗(おににわてつろう)を、それこそ鬼の形相で詰問していた。
「森岡の部下を拉致監禁しただと? 何て馬鹿なことをしてくれたのだ。俺の計略が台無しになったではないか!」
「まあまあ、少し落ち着いてくれ」
鬼庭はあまりの剣幕に、弱り顔で宥めた。
「あんたの計略とは何だ」
「父親の借金をたてに、芸者の娘を絡めて森岡のキャンダルを仕組んだのだ。それをお前がぶち壊した」
勅使河原公彦は、岡崎家で小梅の身の上話を聞いているうち、森岡を嵌める計略を思い付いたのだと言い足した。
「森岡のスキャンダル……いったい何のためだ」
「あいつに多額の損失を被らせるためだ」
鬼庭は首を傾げた。
「わかるように話してくれないか」
「森岡は近い将来、自社を上場させる予定でいる。その際、当然奴も持ち株を売却する。奴の会社は資本金が五億円、一株五万円として一億株だが、そのほとんどは奴が所有しているはずだ。仮に、持ち株の半分の五千株を売ったとして、一株が五百万ならば、二百五十億を手にすることになる。しかも税金はほとんど無しだ」
そこまで言って、勅使河原は鬼庭を見据えた。
「それぐらいはお前だって知っているだろう」
「創業者利得ってやつだな」
うむ、と勅使河原は肯いた。
「最初は上場そのものを妨害しようと考えたが、さすがにそれは無理な相談だ。そこでだ、もし上場前に森岡のスキャンダルを大々的に流布すれば、上場時の株を下落させることができる。もし、半値の二百五十万に下がれば、奴は百二十五億を損することになる」
「そんなにうまく行くとは思えないが」
「むろん、スキャンダルだけで半値は無理だ。だが、他の材料を絡めれば、少なくとも三割程度なら下落させられた」
「なら、その他の材料とやらを使えば良いじゃないか」
「単独では無理なのだ。というか、スキャンダルの流布で十分に森岡の人格を否定した上でないと効果が薄いのだ」
「よくわからないが、それが御門主とどういう関わりがあるのだ」
「御門主とは一切関係ない。俺の個人的な恨みだ」
「森岡との間に何かあったのか」
勅使河原は忌々しそうに歯噛みした。
「奴のせいで味一番の乗っ取りに失敗した。御蔭で俺は数百億を儲け損なったのだ」
勅使河原は、福地正勝社長の解任案可決で終わるはずだった味一番の取締役会が不調に終わった理由を知った。
取り込んでいた役員の一人から、東京菱芝銀行の瀬尾会長の関与があったことを聞き出したのだ。この時点で、勅使河原の脳裡に森岡の影は浮かんでいない。味一番のメインバンクは東京菱芝銀行であるから、福地自身が泣き付いたのだろうと推察していた。
ところが須之内高邦から、福地正勝の救済に奔走したのは森岡だったと聞いて、俄かに取締役会の裏工作にも一枚噛んでいたのではないかとの疑念が生じた。
いや、そもそも福地正勝が森岡洋介を後継者にと願わなければ、須之内高邦がすんなり後を継いでいたのだという妄念にも囚われた。
ちなみに、須之内高邦が森岡の暗躍を知ったのは、むろん妻早苗の口からである。
「そう言うことか」
鬼庭が得心したように肯いた。
「島根で奴を襲わせたのも、御門主の為だと言っておきながら、その実は自身の意趣返しも含んでいたのだな」
「正直に言えば、そうだ」
「そうなら、いっそのこと殺してしまえば良かったのではないか。傷を負わせるだけだなどと中途半端なことをいうからしくじったのだ」
「なんだと」
勅使河原が冷たい目で睨んだ。
「殺しなら外国人を使えた」
「安く上がったと言いたいのだな」
勅使河原は皮肉を込めて言った。
実際、組員が殺人を犯して懲役となると金が掛かった。弁護士費用はもちろんのこと、もし妻子がいれば、服役中の生活費を看なければならなかったし、たとえ独身であっても、出所後の慰労金など多額の金が必要だった。それどころか使用者責任を問われる可能性すらあった。
その点、たとえば中国人であれば、百万円で事足りる場合もあるので、旅費や滞在費を入れても多寡が知れているし、国外逃亡すれば迷宮入りとなる。
「最初は俺もそのつもりだった。奴さえ消してしまえば、福地も気力を無くすに違いない。手駒の須之内は使えなくなったが、二人の娘婿だろうと誰だろうと、俺の軍門に降らせるのは簡単だからな」
「ならばなぜ……」
気が変わったのか、と鬼庭は訊いた。
「背後に思わぬ大物が控えていたのだ」
勅使河原は顔を歪めた。
「その後の調べで、東京菱芝銀行の瀬尾会長を動かしたのは松尾正之助だとわかったのだ」
「松尾正之助って、あの世界の、か」
そうだ、と勅使河原は忌々し気に応ずる。
「松尾が福地に肩入れしているのであれば、たとえ森岡を消しても、そう簡単に味一番は手に入れることができない。なにせ、松尾は日本経済界の首領だからな。味一番が手に入る確たる見込みがないのに、殺害という危険を犯すことなど割に合わない」
「そうかといって、すごすごと退散するのも口惜しかったということか」
「だが、それも失敗した」
勅使河原は苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「まさに恨み骨髄だな」
鬼庭は皮肉混じりに言った。
勅使河原が鬼庭を睨み付ける。
「だから、今度は手を変えて、奴に多額の損失という俺と同じ思いをさせたかったのだ。それをお前がご破産にした」
鬼庭徹朗は神戸神王組、東京稲田連合に次ぐ巨大暴力団の組長である。その彼を睨み付けることができるのだから、勅使河原の持つ力の大きさが窺えるというものだろう。
実際、巨大檀信徒会の社会的権力は大きい。
それは昔も同じで、時代を戦国末期に向ければ、軍神上杉謙信や革命児織田信長でさえ一向一揆に苦戦を強いられていたし、徳川家康に至っては、家臣の七割以上が一向宗側に寝返ったほどである。
むろん、現代人とは信仰心の度合いが全く違うし、現代において信者側から暴力的な行動を取ることは決して無いが、署名活動やマスコミを使った暴力団非難キャンペーンという強力な武器を持っている。
多数の信徒の心を掴んでいる上に、布施という名の元に巨額資金を調達できる檀信徒会の力は計り知れないのだ。
加えて、二人の父親が知人ということで、子供の頃からお互いを見知っており、しかも勅使河原が年上というのもあった。
「それは悪いことをしたと思うが、俺の知らないことだし、それに今回のことは御門主の依頼だからな」
と、鬼庭は弁解した。
「御門主が森岡の部下を拉致しろとお命じになったのか」
いや、と鬼庭は口籠った。
「拉致までは命じておられない。恫喝するだけのはずが、経緯上そうなった」
ふん、と勅使河原が鼻先で笑った。
「何が経緯上だ。お前だって、神栄会の峰松に五千万を毟り取られた腹いせだろうが」
「……」
鬼庭は反論できなかった。図星なのである。
――まてよ、経緯上だと?
引っ掛かりを覚えた勅使河原は、怒りの矛を収めるように訊いた。
「まあ、良いわ。済んでしまったことは仕方がない。それより、どのような経緯なのだ」
「野津という材木の伐採権を持つ男が、連れを伴い枕木山に入ったので、至急若い者を寄越して欲しいという連絡があった」
「野津だと」
勅使河原が驚きの声を上げた。
「知っているのか」
「そいつがさっき言った芸者の父親だ」
勅使河原が経緯を詳細に話した。
「こんなところで二つの話が繋がるとは……」
驚きを隠せない鬼庭を他所に、勅使河原が話を戻した。
「連れの男が森岡の部下なのだな」
「そうだ」
「名前はわかるか」
「確か、坂根と足立とか言ったな」
「坂根?」
――どこかで耳にしたことがある……そうだ、筧が言っていた森岡が最も目を掛けてる男だ。そうか、森岡は小梅の身請け話の裏を探ったのか……さすがというべきか。
勅使河原は心の中で唸った。
「しかし、野津も含めて三人いたのに、なぜ坂根一人を拉致したのだ」
「そうじゃない。宗務院の記帳を元に三人を見張っていたら、翌日坂根が一人で再び枕木山に入ったのだ」
「坂根という男が一人で……枕木山で何をしていたのだ」
「それは言えないな」
鬼庭は強い口調で拒否した。
「なぜだ」
「宗務院から固く口止めされたからな」
「宗務院だと? そんなところに義理立てする必要はないだろうが」
勅使河原はせせら笑った。
「そうもいかない。御門主の内意を受けて宗務院が動いたのだ」
――御門主の内意だと? 宗務院内にもすでに御門主の手が伸びているのか。
勅使河原は感心しながら、
「どうしても言えないのだな」
と凄んだ。
「御門主を裏切ることはできない」
だが鬼庭の姿勢は揺るがなかった。
勅使河原は心の中で舌打ちをした。
――枕木山には何かある。御門主が俺から金銭的援助を受けないことと関係があるのかもしれない。
勅使河原公彦は、栄覚門主が自身を頼らないことに不満があった。
彼が栄覚に近づいた理由はただ一つ、天真宗の「筆頭信者」という栄誉を得たいがためである。
人間の欲というのは際限が無い。
最低限の衣食住が足りれば、金銭欲が頭を擡げる。
金銭欲が満たされれば、今度は権力欲が胸中を席巻する。
権力をも手中にした者が欲するのが名誉、栄誉である。
つまり人が最後の最後に望むものが、他人からの評価というわけである。
勅使河原グループをはじめとして父公人の遺産を全て受け継いだ彼が、唯一相続できなかったものが人徳だった。
数多くの功績に加え、その人品骨柄で周囲から尊崇の念を抱かれていた公人に対し、公彦の人物評価は必ずしも芳しくない。そこで名誉挽回のためにも、栄覚を法主に押し上げて恩を売り、見返りとして筆頭信者の座を得ようという魂胆だったのである。
総本山真興寺で催される法要等には、全国から敬虔な信徒が集まるのだが、その際主だった信者には格付けがあった。一般家庭の葬儀における特別焼香の順番のようなものだと思えばわかりやすいだろう。
筆頭信者は、当代法主の出身宿坊の檀信徒から選ばれ、第二位と第三位は滝の坊と華の坊の檀信徒代表が占めた。両者の上下は、当代住職の僧階、役職、年齢等でその都度毎に総合判断された。
その次が勅使河原公彦だった。
勅使河原は、立国会という天真宗最大の壇信徒会会長でありながら、序列は常に第四位に甘んじていたのである。だからこそ、勅使河原は助力を惜しまないつもりだったが、当の栄覚が距離を置いたため、如何ともし難い状況に置かれていたのである。
忸怩たる思いの勅使河原だったが、それ以上無理強いをしなかった。鬼庭は口を割る男ではないし、栄覚の耳に入れば不興を買い、一層疎遠になる可能性があった。
勅使河原は話を進めた。
「金で決着を付ける腹だな」
「それしかないだろう」
鬼庭は苦い顔をして言った。勅使河原の反応がわかっているのである。
「恫喝すりゃ済むものを、今時拉致監禁などつまらないことをしやがって。やはり腹いせではないか」
予想通り、勅使河原は嫌味を言った。
「何度も同じことを言うな。そもそも、森岡と伊能の襲撃もあんたの依頼を受けたまでじゃないか。三千万で請け負って五千万取られたのじゃあ、割に合わない」
鬼庭は不快感を露にした。
「まあ、そう怒るな。その程度の金ならいつでも埋め合わせする」
一転、勅使河原が宥めた。
だが、鬼庭の愚痴は続いた。
「あんたから補填してもらっても俺の気持ちは収まらない。それにだ、この際だから言わせてもらうが、第一森岡と神栄会の関係は知らされていなかったんだぞ」
「いや、その件は俺の見通しが甘かった。この通り詫びる」
勅使河原は素直に頭を下げた。
「言い訳になるが、確かに森岡と神栄会の関係は知っていた。知ってはいたが、俺もまさかこれほど峰松が森岡を買っている思わなかったのだ」
勅使河原にしても、森岡と新栄会の関係は筧克至の報告によって耳にしていたが、峰松や神栄会がこれほど森岡を買っているとは思いも寄らないことだったのだ。
常識的に考えれば、峰松重一のような大物極道が、一青年社長など相手にするはずもないからである。
「それで、いくら要求するのだ」
勅使河原が話題を変えた。
「五億だ」
五億か、と考え込んだ後で、
「倍の十億にして五億を俺に寄こせ」
と持ち掛けた。
「あんたにか」
鬼庭は不満げな顔をした。森岡がすんなり応じるか不安になったのである。
「心配するな。森岡にとっては五億も十億も大差ない。それに、奴を良く知る男に言わせると、その坂根というのは、森岡が最も可愛がっている部下だそうだから、たとえ十億が二十億でも必ず応じるはずだし、警察にも知らせることはない」
勅使河原が再び鬼庭を睨んだ。
『だからと言って、調子に乗って本当に二十億を要求するなよ』
という警告の眼だった。
鬼庭にもそれはわかっていた。
「あんたに取っちゃあ、五億なんてゴミみたいなものだろう」
と揶揄を込めたものに替えた。
当たり前だ、と鼻であしらった勅使河原は、
「味一番の件で煮え湯を飲まされ、今回の罠も断念せざるを得なくなった。お前の言うように、五億なんぞ目腐れ金に過ぎないが、俺の腹の虫を一時だけ鎮めることはできる」
そう囁いた勅使河原の目が底光りした。
「その間に次を考えるさ」
いかにも憎々しげなその面に、鬼庭徹朗は怨念の深さを覗き見た気がした。