翌早朝、野島真一と住倉哲平、そして南目輝の三人に対して岡崎家での芸者小梅の身請け話に始まった一連の状況を説明し、午後には来社した探偵の伊能剛史にも打ち明け、待機を要請した。最終手段として、警察庁内閣官房審議官の平木直正を通じて警察の全面協力を仰ぐためである。
沈痛な空気が覆っていた。社長室は何人(なんぴと)も存在しないかのように深閑としていた。部屋に集った森岡、野島、住倉、南目、蒲生そして伊能の六人は一言も発することなく、息を呑むように押し黙っていた。
いつ果てるとも知れない静寂を打ち破ったのは森岡の携帯電話の着信音だった。
着信番号を確認すると坂根からだった。
「坂根!」
森岡は叫ぶように呼んだ。
「社長、すみません」
小声だった。森岡には冷静というより、憔悴しているように聞こえた。
「大丈夫か」
「私は大丈夫です。ですが、困った状況です」
と言った坂根の傍らに人の気配があった。
「誰かいるのか」
「ええ。社長と話がしたいそうです」
と、坂根が言い終えるや否や、
「お前が森岡か」
と冷たい声が届いた。
「そうですが、貴方は」
「青虎会の鮫島だ」
「青虎会の鮫島さん? いったい、どういうことでしょうか」
森岡は皆に知らせるため復唱した。すると、伊能が鋭敏に反応した。
『虎鉄組本家の若頭補佐』
メモに書いて森岡に見せた。
――やはり、最悪のシナリオだったか。
森岡が顔を歪める。神王組本家における峰松重一と同じ座布団の男が関わっているのだ。
「お前の部下は俺が預かっている」
「何か不始末を仕出かしましたか」
森岡はあくまでも下手に出た。
「不始末といえば、まあ不始末だな」
「申し訳ないことをしました。それで、どうすれば返して頂けますか」
「それは俺が考えることじゃない」
「と申されますと」
「条件は別の者が連絡する。わかっていると思うが、それまで余計なことはするなよ。警察に知らせたら交渉は終りだ」
淡々とした声が、ただの脅しではないことを物語っていた。
「わかっています。そちらも坂根に手荒いことは止めて下さい」
「こいつが大人しくしていれば危害は加えない」
鮫島は請け負うと、
「次の連絡を待て」
と言い残し、一方的に携帯を切った。
「坂根は虎鉄組に監禁されているのですね」
野島が確認した。
「そういうことだ。それも最上層部が絡んでいる」
森岡は苦い顔で答えた。
「社長、浜浦の報復でしょうか」
「浜浦ってどういうことや」
緊張の面で訊いた蒲生に、住倉が問い質した。
「この夏のお盆に浜浦へ帰省された社長を虎鉄組が襲ったのです」
「なんやて!」
初めて明かした事実に、浜浦に同行していた南目が声を上げた。
野島、住倉、伊能の三人もその衝撃に言葉が見つからない。
「本隊らしき三人は境港で神栄会に取り押さえられが、別働の一人に浜浦で急襲されたところを蒲生が救ってくれた」
森岡が経緯を話した。
「やはり、森岡さんにまで手を出して来ましたか」
「貴方に蒲生を紹介して貰っていて助かりました」
伊能に頭を下げた森岡は、
「この一件、神栄会は虎鉄組と五千万で話を付けたんや。せやから、その報復といえば報復やろうな」
と顔を歪めた。
「では、身代金を要求して来るのでしょうか」
「問題はそこや。金で済めば簡単なんやが」
と、住倉に応じた森岡に対し、
「他にどんな要求があるというんや」
苛ついた体の南目が毒づくように言って、言葉使いを間違えたことに気付いた。
「他にどのような要求が考えられますか」
と慌てて言葉をあらためた。
「虎鉄組単独の仕業であれば金で済むと思うが、そうでなかったら、少々ややこしいことになるような気がする」
「だったら、いや、でしたら峰松さんに相談したらどうでしょうか」
南目がしたり顔で進言した。
いや、と森岡が頭を横に振った。
「今度ばかりは神栄会の力は借りられん」
「なぜですか、福地社長のときは相談されたじゃないですか」
「お義父さんのときと今回は違うんや」
「社長、南目の肩を持つわけではありませんが、私にも何が違うのかわかりかねます」
咎めるように言った森岡に、いつもは心の内を見抜く野島も訝しげな顔で訊いた。
「お前にもわからんか」
「福地社長の件は神王組の組内の諍いでしたので神栄会の顔が利きましたが、今回は敵対する組織なので、そう簡単ではないということでしょうか」
切れ者の野島も言葉に窮する中、伊能が代わって言った。
「むろん、それもあります」
森岡は伊能に向かって肯くと、視線を南目に戻した。
「だがな、俺は神栄会が仲裁役を受ける受けない、あるいは法外な金が掛かるというようなことを言っているんやない。神栄会は使いたくないんや」
「ですから、どうしてですか」
南目は語気を強めた。
「ええか。福地のお義父さんの件も含め、これまでの依頼が金で片を付けられたのは、神栄会との共同事業がなかったからや」
そう言った森岡に、南目は反論を言い掛けたが、それを目で押さえ、
「霊園事業には神栄会の息の掛かった傘下組織を下請けに使っているが、これはうちが発注元やから立場は上や。せやけどな南目、今はブックメーカーという巨大事業を控えているんやで」
と因果を含めるように言った。
「社長は神栄会が口を挟んでくるとお思いなのですね」
野島が察したように言った。
そうだ、と言った森岡は、
「ブックメーカー事業は、蜂矢六代目から好きなようにして良いとのお墨付きを貰ろうとるから、いかに近しい峰松さんでも俺に注文は付けられん。せやけど、武闘派の神栄会にとって、いや八代目を狙っている峰松さんにとって、ブックメーカー事業は喉から手が出るほど影響力を行使したい事業や。それを坂根救済など依頼してみいや、勿怪の幸いとばかり、我が意を通そうとすると思わんか」
と続けた。
「しかし、たった今蜂矢六代目からお墨付きを貰った、と言われたじゃないですか」
南目は不満顔で反駁した。
「せやから、上納金を別に出せといったような露骨な催促は無い。しかも俺が陣頭指揮を執っている間もないやろう」
「私に引き継がれた後、影響力を行使すると」
「俺が様々な事業を展開しようとしていることは峰松さんも承知や。いずれブックメーカーが軌道に乗れば、誰かに任せると推察しているやろう。せやから、峰松さんの強かな要求を受け止めるのは南目、お前やで。その際、いちいち俺に相談するつもりか」
と突き放すように言った。
「うっ」
言葉に詰まった南目に、
「輝、極道者を甘く見たらあかんで。ただ暴力を誇示しているだけやない。人の弱みに付け込むことに関しては天才的な能力を持つ人種や。今は下手に出ていても、常にこちらに向けて牙を研いでいる連中やで。せやから、彼らとの付き合いは隙、迷い、弱点を見せたらあかん。そして、作る借りは必ず金で返せる範囲でなきゃあかんのや」
と諭した。
南目は暫し黙していたが、やがて、
「兄貴は、本当にそれでええんか」
と兄弟付き合いの口調で言った。
その表情に、並々ならぬ決意を看て取った森岡はそれを許した。
「どういう意味や」
「前もって断っておくが、これは決して嫉妬やないで、兄貴」
南目が曰く有りげに言った。
「たいそうやな」
森岡が苦笑いすると、
「俺は大真面目やで」
南目は珍しくも森岡を咎めた。
「兄貴は俺らの中で、好之が一番可愛いんやろう」
「うん?」
意外な言葉に森岡は首を傾げた。南目には、それが誤魔化しのように映った。
「隠さんでええ。俺や野島副社長、住倉専務、中鉢常務より好之が可愛いことはわかっているんや」
「何を言い出すんや」
「せやから、隠さんでええって。俺は遺言書のことを知っているんや」
「遺言書って何や」
住倉が口を挟んだ。
「例の凶刃に遭って生死の境を彷徨ったとき、兄貴は好之に遺言書を渡しているんです」
「本当ですか、社長」
野島も初めて聞く話だった。
森岡は、そのことか、と思い定めた顔つきになった。
「本当だ。皆も知っての通り、俺は天涯孤独だっただろう。茜とのこともどうなるかわからんかったから、万が一のことを考えて遺産の処理をまとめておいたのだ」
「なるほど、社長の立場であれば至極当然ですね」
と理解を示した野島を南目が睨んだ。
「副社長、それで納得したらあきまへんがな。問題はその中身ですわ」
「中身だと」
森岡は驚嘆の声を上げた。
「輝、お前内容を知ってるんか」
「とんでもないことになったと、好之から相談を受けたんや」
「相談やて!」
森岡は一層目を丸くした。病床で問うたとき、坂根は読んでいないと答えていたはずだ。
南目には森岡の心中がわかっていた。
「読んだんや、兄貴。遺言書を読んで、その内容に驚愕し、思い悩んだ好之はな、荷が重過ぎると言って俺に相談したんや」
「扱いに困り果て、俺には読んでいないと嘘を吐いたんやな」
「好之の身になって考えてやってや」
南目は、坂根を叱責するなと訴えた。
「わかっている」
森岡がそう言うと、住倉が、
「南目、荷が重いってどういうことや」
と訊いた。
「社長は、いずれ坂根にウイニットの経営を任せようと思っておられると言うのやろう」
野島が代わって答えた。
「いや、違うのです、副社長」
「違う?」
野島は困惑の面になった。
南目は森岡を見つめた。その眼は公表しても良いかと訴えていた。
森岡は黙って肯いた。
「いつの日にかウイニットを任せるというのは、副社長の言われた通りですが、兄貴は自身の持ち株の全てを好之に譲ると遺言されていたのです」
「なに!」
「本当か」
野島と住倉が驚きの声を上げた。だがそれは、森岡に対する不満という響きは無かった。
「兄貴、もう一度念を押すけど、俺は好之に嫉妬しているんやないで。それどころか、社会からドロップアウトしていた俺を引き上げてくれただけでなく、ブックメーカーという大事業を任せてくれるという。この通り、感謝以外に何もない」
南目は深々と頭を下げた。
「兄貴、俺が言いたいのは、それだけ大切に思っている好之の命が掛かった正念場やろ。形振り構わず、全ての手を打たにゃならんのやないかということや」
「そういうことか」
南目の心中を理解した森岡の顔つきが変わった。
「輝、それはちょっと違うんや」
「何が違うというのや」
「お前らの眼にはどう映っているか知らんが、俺にとってお前ら五人は、かけがえのない家族やと思っている」
三人が肯いた。
「好之は中学から大学までの後輩で、秀樹との関係もある。輝は俺との交誼ということで言えば五人の中では一番古いし、何といっても神村先生との縁絡みや。住倉、野島、中鉢は役職こそ違うが、菱芝電気以来、苦楽を共にして来た、言わば戦友や。この五人に甲乙を付けることなど俺にはできん」
「じゃあ……」
「なんで、好之に全株式を譲るのかって言うのやろう」
森岡が南目の言葉の続きを奪った。
「まあ、そういうことやが……せやけど、決して嫉妬や不満やないで、兄貴」
南目はしつこく念を押した。
「お前がそないなケツの穴の小さい男やないのはわかっとる」
森岡は優しい笑みを投げ掛けると、
「坂根には違う役目を引き受けて欲しかったんや」
「違う役目って、もっとわかるように言ってくれ」
南目は苛立つように催促した。
「俺の後を継いで欲しいということや」
「せやから、野島副社長の次の社長にするんやろう」
「そっちやない。灘屋の方や」
「ああ、灘屋……」
南目は、目から鱗を落としたように呟いた。
「俺は大学進学で大阪に来るとき、船や網、会社の株式、山林田畑を売却し、祖母が亡くなった後には、灘屋の屋敷までも売り払った。そのときは、二度と浜浦に戻ることはないと思っていたからや。だが年を取るにつれて、故郷を懐かしむ自分に気づいた。と同時に、灘屋を俺の代で終わらせてしまって良いのだろうか、と葛藤し始めたんや」
森岡は、一旦言葉を切って皆を見回した。
南目、野島、住倉の三人にしても、初めて聞く森岡の心境の変化であった。伊能と蒲生もまた、彼の心底を知る好機と神妙に耳を傾けていた。
森岡は話を続けた。
「奈津美とは死別したし、子供もおらんから、もしものときのためには、誰かに森岡家の戸籍に入って継いでもらうしかないやろ。かといって、灘屋の親戚の中から選ぼうとしたら、親戚の間に余計な波風が立つかもしれんから、結局は俺の近しい者から選ばざるを得ん。となると、野島と住倉は長男やし、中鉢は一人っ子や。輝、彩華堂は弟の悠斗君が継ぐとしても、南目家は地元の名士やで。外聞を考えれば、長男の養子縁組など親御さんにとっては迷惑千万な話やろうな」
南目には返す言葉が無かった。
「残る好之だけが次男なんや。長男の秀樹は障害者になったが、幸いというか秀樹には男の子がおる」
「五人の中では、好之だけが可能性があるということか」
「しかも、好之の実家は浜浦の隣村や。終の住処として環境的にも違和感がないと思ってな」
「条件が整っているということやな」
「本人の意思は確認しておらんが、秀樹からは好之の心次第という返事を貰っていてな、俺にもしものことがあったら、秀樹から話をしてもらう段取りになっていたんや」
「兄貴が好之を厚遇する理由にはそれも含まれていたんか」
「俺の我儘を聞いてもらうわけやから、それなりの処遇はせにゃならんやろ」
と言った森岡が辛そうな顔をした。
「依怙贔屓かな」
「いえ、そうは思いません。後継者ということでいえば、坂根は非常に有能な男です」
野島が言うと、
「実家を再興したいという社長の気持ちも十分理解できます」
住倉も納得の表情で言った。
「輝よ、お前は好之と同様、かけがえのない義弟なんや。せやから、伊能さんが言われたように、百パーセント無事解決できるという保証があれば考えるが、そうでないなら、ブックメーカー事業に重大な支障が出るかもしれない危険を冒してまで峰松さんを頼るわけにはいかんのや」
「兄貴……」
森岡の深い心情に触れた南目は黙ってうな垂れた。
「社長の真意は良くわかりました。しかし、虎鉄組相手にどのように交渉されるおつもりなのですか」
野島が皆の心中を代弁した。森岡のことである、何か妙案があるに違いないという期待があった。
「そこや。彼らの目的は金かそれとも……」
「それとも……」
「それもこれも、彼らの要求を待つしかない」
森岡は話を一旦打ち切るように言うと、
「とりあえず、野島と住倉は仕事に戻れ」
と命じた。
「しかし……」
不服そうな二人に、
「何かあったら必ず知らせる。業務に戻れ」
と有無を言わせぬ邸で重ねて命じた。
二人は不承不承部屋を出て行った。
「さて、森岡さんは虎鉄組以外の関与をお考えのようですね」
野島と住倉が退出したのを見計らって伊能剛史が口を開いた。
「坂根は立国会の勅使河原会長が絡んだ一件を探っていました。常識的に考えて彼が関わっていると見るのが妥当でしょう。その一方で、貴方を襲ったのも虎鉄組だった事実で言えば瑞真寺も捨て切れません」
森岡が本音を漏らすと、伊能が核心を突く言葉を吐いた。
「もしかしたら、三者は同じ穴の狢かもしれません」
「うーん」
森岡は腕組みをして沈思した。
瑞真寺と立国会の繋がりは疑っていた。勅使河原公彦が自分のことを知っていたのは、瑞真寺からの情報なのだろうとの確信にも至っていた。
だが森岡は、
「前言を翻すようですが、私には瑞真寺が虎鉄組と直接与しているとは思えないのです。仮にも天真宗の本山格のお寺です。いや、何といっても宗祖家縁の寺院ですからね」
と瑞真寺と虎鉄組の深い関係は庇い立てした。
いや庇うというのとは、少し違っているのかもしれない。森岡は菊池龍峰の件で当時仇敵だった総務清堂を頼ったように、元来は人を信用する性質だった。
少年期の不幸もあってか、誰彼と無く盲目的に信用するわけではないが、政界であろうと経済界、宗教界であろうと、あるいは極道社会であってもさえも、それなりの地位にいる人物は仁義を弁え、理非に聡いと信じていた。そうでなければ人の上に立てるはずがない、というのが彼の哲学であり、信念なのである。
「では、私を襲撃した件はどう考えれば良いのでしょう」
「瑞真寺と勅使河原が与していれば、門主から相談を受けた勅使河原が独断で虎鉄組を使ったとも考えられます」
森岡は神村の知らぬところで、神王組との関係を深める自分自身に照らし合わせて答えた。
「なるほど」
伊能は肯いた後、
「しかし、少なくとも勅使河原と虎鉄組が与しているのは間違いがないようですね」
と念を押した。
「私もそう思いますが、ただ坂根は何をしていて虎鉄組に捕まったのかがわからないのです」
「と言われますと」
「坂根は、小梅という芸者の身請け話の裏を探っていました。探っていた相手は勅使河原ですが、坂根を拉致する理由が思い当たりません。また、虎鉄組の報復であれば、まず狙うのは私でしょう」
「お言葉を返すようですが、貴方を拘束してしまうと、金を動かす人間がいないでしょう」
「金銭だけが目的であればそうでしょうが、何かもう一つすっきりしません」
「では、このように考えたらどうでしょう」
森岡と伊能の会話を聞いていた蒲生が口を挟んだ。
「小梅という芸者の身請け話は社長を陥れる罠で、坂根さんが妙な動きをしたため、ともかく彼を拘束した」
「目的はなんだ」
森岡が訊いた。
「おそらく、当初の目的は単純に社長のスキャンダルだったのではないでしょうか」
「なるほど、森岡さんは独身ですから、一般女性であれば何も問題ありませんが、芸者の身請けとなると話は違います。マスコミにとって、時代の寵児の下ネタは格好の材料でしょうからね」
伊能が蒲生に同調した。
「しかし、それやったら社長が断ったら意味がないじゃないですか」
南目が疑問を投げた。
「意味がなくても別に損をするわけではありませんし、勅使河原に小梅の身体という別の目的もあったら、全くの無駄骨にはなりません」
との蒲生の言葉に、
「ところが、坂根が目に余る行動を取ったため、急遽計画を変更したということか」
森岡が続いた。
「蒲生、お前は浜浦での暴漢は命を取るのが目的ではない、と言ったな」
蒲生は小さく肯いた。
「ナイフの切先は腹より下に向いていました。おそらく大腿部を狙ったのでしょう」
「となると、スキャンダルの罠から、坂根の拉致によって勅使河原の再警告に変わり、もし金の要求があれば虎鉄組の報復も加わるということか」
「目的が見えてきましたね」
伊能が言った。
「そのようですね」
と、一応同意した森岡だったが、大きな疑念は残っていた。
そもそも、いったい何のための警告なのかということである。勅使河原個人の意志なのか、それとも瑞真寺の意向を受けてのものなのか。
そして、勅使河原の目的は警告だけなのだろうかという点も気に掛った。もし彼が、須之内高邦の野望を打ち砕いた人物が自分だと知っていれば、勅使河原もまた多額の金銭を要求するような気がしていた。
森岡の携帯が再び鳴った。知らない番号だった。
「はい。森岡です」
森岡は平静を装った。
「わしは青沼という者だが、鮫島から連絡は受けたな」
「青沼様。確かに受けました」
森岡は今度も復唱した。伊能はさっとメモに走り書きをした。
『虎鉄組本家の若頭』
とあった。
黙って肯いた森岡は、
「坂根を返して頂くにはどうすれば良いでしょうか」
と訊いた。
「まず、現金で十億円を用意してもらう」
「十億!」
森岡は、冷静な顔をして大きく叫んだ。
「ほう。さすがにお前でも十億はきついか。だが、一円たりとも負けることはできんぞ」
「承知しました。いつまでに用意すれば良いですか」
「明日だ」
「明日? いくらなんでも今日の明日では、銀行と話しが付けられません」
森岡は悲痛な声で言った。決してできない相談ではないと思っていたが、時間稼ぎをしたかった。
しばらく沈黙があって、
「ならば、明後日にしてやる」
「有難うございます。それで、どこへ」
「一億ずつ段ボール箱に詰めて、お前一人で本部に持って来い」
「虎鉄会の本部に私一人で、ですか」
森岡の目顔に伊能が激しく首を振った。
「十億を私一人では無理です」
「無理は承知だ」
「ですか、私は車を運転できません。少なくとも運転手は必要です」
咄嗟の機転で嘘を吐いた。もっとも、起業してから滅多に運転はしていないし、東京の地理や道路事情に不案内であることには違いなかった。
青沼は再び沈思した後、
「運転手は許可する」
「刻限は」
「明後日の夕方の五時に持って来い」
「念のため、住所を教えて頂けますか」
「足立区千住曙町××―××だ」
「承知しました。一つだけ、坂根に手洗いことはしないで下さい」
森岡が請うと、
「できるだけ、そうしよう」
と答え、青沼は携帯を切った。
「十億だなんて、二十倍やないか」
憤りを露にした南目に、
「南目さん。この際金のことより、社長の身の上を心配しなくては……」
と、蒲生が諌めた。
「そ、そうやそうや。社長、運転手役は私がします」
南目が意気込んで申し出た。
「それはあかん」
「どうしてですか」
「向こうで何があるかわからん。もしお前まで拘束されたら、ブックメーカー事業の準備が滞ってしまうやないか」
「しかし……」
南目は尚も食い下がった。
「神王組には、来年の春から営業すると伝えてあるんやで。万が一遅れることにでもなったら、それこそ立場が無くなる」
「では私が……」
蒲生が申し出たが、
「元警察官もあかん」
と、森岡はにべも無く断った。
「では、誰を」
伊能が訊いた。
「東京という土地柄、また私個人の金とはいえ、十億円は東京の銀行から引き出すことになりますので、銀行と面識のある中鉢に頼もうと思います」
と、森岡は答え、
「私の身に何か起こったときは、これを使って警察を動かして下さい」
鮫島、青沼との会話の内容を録音したカセットテープを渡した。
「録音は彼らも想定しているでしょうから、手荒なことはしないでしょう」
伊能が期待を込めた口調で言った。