黒い聖域   作:安岡久遠

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第五巻 聖域の闇 手打(1)

 翌早朝、東京へ着いた森岡洋介は帝都ホテルで仮眠した後、午後一番に唐橋大紀の事務所を訪れた。連れ立ったのは、蒲生亮太と静岡から合流させた足立統万の二人である。

 影警護として付き従っている神栄会若頭補佐の九頭目弘毅には、夕方まで仮眠すると言ってホテルの部屋で待機させた。言うまでもなく、虎鉄組と同様に大物国会議員との面談を秘匿するためである。

 面談場所は国会議事堂の裏手に建つ議員会館ではなく、赤坂に構えている個人事務所であった。

 二人は過去に一度だけ出会っていた。唐橋大紀は森岡洋介の祖父洋吾郎の葬儀の際、弔辞を読んだ父大蔵に付き添っていたのである。しかし、当時森岡は十歳、しかも二千名を越える参列者とあって、大紀の顔など覚えてはいない。

 事務所に入ると、秘書らしき男が蒲生亮太を見て、おや? という顔をしたが、蒲生本人は気づいていなかった。

 唐橋が待つ部屋には森岡一人が入った。

「初めましてと言って良いのでしょうか、お久しぶりと言って良いのでしょうか」

 森岡は当惑の体で挨拶した。

「久しぶり、だろうな」

 と、唐橋は答えた。

 唐橋大紀は六十八歳、細身の体躯だが頭髪も豊富で高齢を感じさせない精力感があった。もっとも唐橋に限らず、政治家という生き物は皆同様ではある。

「忙しい先生に急遽時間を取って頂き、恐縮しております」

 と深々と頭を下げた森岡に、

「いやいや、大変に懐かしい人からの連絡だったから、私も心が弾んだよ」

 言葉とは裏腹に、唐橋は薄く笑った。

 今や唐橋は、政権与党民自党の最高幹部の一人である。通常であれば、昨日の今日で会える人物ではない。しかし、昨今の国会議員にとって最も重要なことは天下国家の政ではなく、自身の選挙であり、畏怖することは落選である。実に嘆かわしいが、これが現実である。したがって、地元の有力な後援者は大切に扱わざるを得ない。

 その一人である森岡忠洋からの懇請とあれば、断るわけにはいかなかった。しかも森岡忠洋の口ぶりからして、灘屋の親族一同は、未だ森岡洋介を総領として扱っている。そうだとすれば、恩を売っておくのも悪くないと考えた。

「さて、急用とやらの中味を聞こうか」

「単調直入にお訊ね致します。先生は宗光賢治という人物と知己がおありとか」

 転瞬、唐橋の顔から笑みが消えた。

 凝っと森岡を睨み付け、

「思いも掛けない名前が出たな。君のような若者の口から出るような名ではないぞ」

 戒めるように言った。

「恐縮です」

 と、森岡は言ったが、その表情に少しも変化はなかった。その泰然自若とした落ち着きに、むしろ老練なはずの唐橋の方が気圧された。

「どこからそのような情報を得たのかな」

 心の乱れを押し隠すように低い声で訊いた。

「私の近しい者から入手しました」

「私と宗光氏との関係は、極々少人数しか知らない秘事だというのに、なかなかの情報源を持っているな」

 唐橋は皮肉交じりにそう言うと、ソファーに背もたれ、

「仮に知己があったとして、それがどうかしたのかな」

 と凄んだ。

 たいていの者であれば、大物政治家の圧力に怯むところであろうが、

「先生に仲介の労を取って頂きたいと思っております」 

 森岡はどこまでも悠然としていた。

 唐橋はこれにも驚いた。祖父、父を早くに亡くし、灘屋は廃家同然と聞いていた。然るに、眼前の男の漲る余裕はどこから生まれて来るのか。一体どのような人生を送っているというのか。

 唐橋は話の先に興味が湧いた。

「君は宗光氏と会ってどうしようというのだ」

「虎鉄組の鬼庭組長に取り成して欲しいことがあるのです」

 唐橋は再び目を剥いた。

「宗光賢治だの鬼庭組長だのと、いったい君は何をしようというのだ」

 唐橋の鋭い舌鋒に、森岡は岡崎家での経緯のみを話し、京都大本山本妙寺の貫主を巡る暗闘は秘匿した。相手は老獪な政治家である。いつ寝首を掻かれるとも限らない。

「昨今の極道者は、一般人の拉致監禁などという愚かなことはしないはずだ。虎鉄組は、必ずや君が警察には内緒で金の要求に応じると見越しての蛮行ということだな」

 唐橋は事情を察したように言い、

「それで、宗光氏には何を依頼するのかね」

「部下と私の命の保証です」

「虎鉄組は君の命まで狙っているというのか」

「可能性は否定できません」

 森岡は事もなさげに言った。

 その、臆病風に吹かれている様子が微塵もない言動に、唐橋は腕組みをして思案に耽った。

 やがて、おもむろに口を開いた。

「残念だが、君の期待には応えられない」

「無理ですか」

「誤解して貰っては困る。虎鉄組の名を聞いて怯んだのではない」

 承知している、と森岡は肯いた。

「父大蔵と君の祖父洋吾郎氏との過去の経緯も関係ない。私は父から詳しい事情を聞かされ、努々灘屋を恨んではならぬ、と釘まで刺されている」

 森岡は、ではなぜ? という顔をした。

「実はだ、森岡君。私は宗光賢治とは付き合いがないのだよ」

「そうなのですか」

 蒲生の誤認だったのか、と落胆した森岡を見て、

「君の推察通り、あの街宣活動の中止を宗光氏に願ったのは私だが、如何せんそれまで彼とは一面識もなく、とてものこと交渉どころではなかった。ところが、ある私の後援者から呼び出しがあり、指定された赤坂の料亭に行くと、宗光氏が待っていたというわけなのだ。後援者は、私に手柄を上げさせようとしたのだ」

 と経緯を詳らかにした。

「その後援者と宗光氏が知り合いだったのですね」

 そうではない、と唐橋は首を横に振った。

「後援者は別のある人物を頼ったのだが、そのお方が宗光氏と昵懇だった、いや宗光氏は借りがあるようなことを口にしていた」

「その人物とは」

 森岡が前のめりになる。

「それはわからないのだよ。宗光氏が固く口を閉ざしたのでね。ただ、そのお方の口利きのお陰で宗光氏が街宣活動の中止したのは間違いない」 

「……」

 何とも要領を得ない話だった。

「訝しい話だと思うだろうが、その頃の阿久津首相はノイローゼ気味になられるほど追い詰められておられたし、傍にいた私としては藁にも縋りたい思いでいたというのが事実だ。半信半疑だったが、思い切って会ったのが正解だったという訳なのだ」

 その後、阿久津首相も仲裁に入った謎の人物を知りたがったが、仲立ちをした後援者は名を明かさないという約束していると、頑として口を割らなかった、と唐橋は補足した。

「だから、私は宗光氏には何の影響力もないのだ」

「良くわかりました。お手間を取らせて申し訳ありませんでした」

 森岡は深く頭を下げると、鞄の中から一千万円の束をテーブルの上に置いた。

「君……」

 唐橋が眼を剥いた。

「貴重なお時間を割いて頂き、ありがとうございました。これはほんの気持ちです」

「気持ちって、いくらなんでも……」

「領収書のいらない金です」

 戸惑いを見せる唐橋に、そう言い足して森岡は腰を上げた。

――万事窮すとはこのことか……。

 森岡は途方に暮れる思いで退室した。

 唐橋との面談が不調に終わったことで、仮に虎鉄組から金銭以外の条件を突き付けられても、拒むことができなくなった。しかも、条件の内容が自身のことであればともかく、神村の進退に関することであれば……。そう考えるだけで、森岡は暗澹たる気持ちになっていた。

 部屋を出た森岡に、秘書が近づいて来て、

「何かありましたら、ご連絡したいので」

 と携帯の番号と宿泊先を訊ねた。

 むろん、森岡に拒む理由はない。

 秘書は、森岡ら三人をエレベータ前まで見送ってから唐橋のいる部屋に戻った。

 

「一緒にいたうちの一人は、元警視庁のSPだった男です」

「なに」

「確か、田淵首相の警護に当っていたと思います」

「なるほど、SPからの情報か」

 唐橋は得心顔になった。

「威風堂々とした佇まいに加え、ぽんと一千万を差し出す気風といい、元SPを従えていることといい、灘屋の親族一同が期待しているだけのことはあるな」

 得心した唐橋大紀の脳裡に、ふと二十六年前の記憶が蘇った。

「そう言えば……」

 唐橋の目が宙に浮いた。

 父大蔵に同道して、灘屋の当主洋吾郎の葬儀に参列した大紀は、その際異様な光景を目にした。

 当時の浜浦界隈はまだ土葬であり、葬儀中も遺体は祭壇の前に安置してあったのだが、少年がその遺体から片時も離れずにした。いや、離れないどころか、遺体の布団を剥がして横に添い寝したり、面布を退け、顔を覗き込むようにして何やら囁いているのである。

 涙を流すどころか、笑みさえ浮かべている。傍から見れば、祖父の死を理解できない少年が、まだ生きている病人とでも会話しているように映った。

 それだけであれば、まだ理解できなくもなかったが、何を思ったか、遺体の口元に自身の口を近づけ、息を吸い込むようにするではないか。

 それはまるで、死者の魂を体内に取り込もうとしているようであった。

 そうした少年の常軌を逸した奇行もさることながら、加えて目を疑ったのは、家族や親族の誰一人として咎める者がいなかったことである。

 死者から殊の外溺愛されていた少年である。親類縁者も彼のなすがままにさせたのだろうし、少年にして見れば、愛する祖父の死を受入れ難かったのだろうと推察されたが、それにしてもあまりに奇異な光景だった。

――あのとき、洋吾郎氏の魂が乗り移ったのかもしれない。

 唐橋は背筋に悪寒が奔るのを感じた。

「どうかされましたか」

 物の怪にでも憑り付かれた面相に、秘書が不安げな声を掛けた。

「いや、なんでもない」

 唐橋は我を取り戻すかのように首を振ると、

「とてつもない大物になるかもしれないな」

 と声にならない声で言った。

 その小さな呟きを秘書は聞き逃さなかった。  

「身上調査を致しましょうか」

「そ、そうだな、今後何かの役に立つかもしれん。だが、くれぐれも慎重に頼むぞ」

 唐橋は何かに畏怖するように言った。

「承知しました」

 秘書は緊張の面で軽く肯くと、札束を受け取り部屋から出て行った。

 

 その日の夜、森岡洋介は中鉢博己と二人きりで酒を飲んでいた。夕食は皆と一緒に取ったが、その後中鉢一人を部屋に呼んた。

 森岡が中鉢と二人きりで酒を酌み交わすのは、実に久しぶりのことだった。

 中鉢は緊張の中に忸怩たる思いを募らせていた。

 明日、虎鉄組と交渉が難航して、森岡の身にもしものことがあればウイニットの未来は間違いなく潰える。

 その重大場面に、自分はただ運転することしかできないという苛立ちも加わっていた。

「お前と二人きりで酒を飲むのは久々やな」

 森岡が微笑みを浮かべながら言う。

――さすがは社長だ。

 大物極道との厳しい交渉を明日に控えているとはとても思えない泰然自若とした森岡に、中鉢は驚きを超えてある種の感動さえ覚えていた。

「私が東京支社の支社長に命じられたとき以来です」

「そうか、そんなに前のことか」

 中鉢は、ウイニットの東京支店開設と同時に支店長に任じられ、二年前に支社に格上げしたとき、そのまま支社長に命じられていた。

 むろん、役員会議などの後の飲食会では、二人は何度も同席している。あくまでも二人切りで、という意味である。

 中鉢は菱芝電機の後輩で、野島より二歳年下だった。

 森岡はウイニットを起業する際、迷うことなく住倉、野島、中鉢の三人に白羽の矢を立てた。

 三人は、いわゆる森岡プロジェクトで一緒に汗を流し、喜びも苦しみも共有してきたいわば戦友だった。

 苦楽を共にする過程で、森岡は三人の人となりも十分理解し、決して裏切ることはないとの確信を得た。

 とはいえ、三人を選んだ理由は異なる。

 技術者としての能力は野島真一が抜きんでていた。ウイニットを起業した頃には、森岡に匹敵するレベルにあった。

 住倉は技術者としては極々平凡だったが、なんと言っても底抜けの善人だった。全く裏表の無い性格で、森岡に対しても遠慮なく言いたいことを言ってのけた。

 中鉢は技術者としては中の上クラスだが、類稀な努力家で一歩一歩階段を踏み締めて上がる堅実タイプだった。したがって、システム構築には時間が掛かるが、出来上がったシステムに瑕疵があったことは一度も無かった。

 森岡が中鉢に東京を任せたのは、たとえ時間が掛かろうと彼ならばしっかりとした土台を築いてくれるだろうと信じてのことだった。

「社長、明日の再確認ですか」

 自分が一人だけ呼ばれた理由を聞いた。

「菱芝銀行とは話が付いたんやろう」

「はい、明日の閉店直後に来店して欲しいとのことでした」

「それで良い」

 森岡は顎を引くと、ところで、と表情を厳しいものに変えた。

「中鉢、今から話すことは、しばらくお前の胸に留めておいて欲しい」

「明日のことで、他に何かあるのですか」

「いや、明日のことやない。ウイニットとお前の今後のことや」

「私、ですか」

 中鉢は何のことか見当が付かなかった。

「まだ、はっきりと決断したわけではないが、神村先生の事が一段落したらお前を大阪に戻す」

「私が大阪に……野島専務、いや副社長を補佐するのですね」

 森岡はウイニット上場後に、社長の座を野島真一に譲ると明言していた。

 中鉢は、野島の片腕に任命されたと思ったのである。

「違う。俺の後のウイニットを任せようと思っている」

「なんですって!」

 中鉢は驚愕の声を上げた。 

「野島副社長ではなかったのですか。野島さんは、副社長はどうなるのです」

 中鉢は自身の出世より、菱芝電機以来の先輩の処遇を気にした。

 森岡がにやりと微笑む。

「お前、自分のことより野島のことが気に掛かるのか」

「当たり前です」

 中鉢は怒ったように言う。

「それや、そういう律儀なお前だからこそ俺の後を任せたいんや」

「しかし……」

「心配するな。俺が野島を切る訳がないやろうが。あいつには別の事業をやってもらうことにした」

「別の事業って、ブックメーカーのことですか」

 ブックメーカー事業は世界を股に掛けた大事業に化ける可能性があった。有能な野島であれば任せて安心である。 

「いや、それも違う。また別や」

「社長は、他にもまだ新しい事業を考えておられるのですか」

 中鉢は驚いた顔で聞いた。

 森岡は首を横に振った。

「新規事業ではない。ではないが、新たに事業を起こすより難しい仕事や」

「それは……」

「だからこそ、野島にやらせてみたいのや。あいつならできると信じているんでな。と言っても、まだ百パーセント決まったわけやない。相手さんの了承を得ないことにはな」

「どういった事業か話して頂けないのですね」

「まだ詳細を話す段階にはない。ただな、お前も俺の後は野島だと思い込んでいたように、いきなり俺の後を継げと言われても困惑するだろう」

「はい」

「だから、前もって話したんや。少しずつでええから時間を掛けて覚悟を固められるようにな」

 森岡は、中鉢の性格を勘案して時間を与えるのだと言った。

「では、もしかしたら本当に私がウイニットの社長になるのですか」

 そうだ、と森岡は頷いた。

「はっきりと決まったら、幹部連中には俺の口から詳細な事情を説明する。それまでは一切他言無用にな」

「それは、もちろんです」

 中鉢は複雑な表情で誓った。

 

 翌日の午後三時過ぎ、東京丸の内にある東京菱芝銀行本店に、森岡と中鉢の他、南目、蒲生、足立、そして伊能の姿があった。南目ら四人は、現金を届けるまでの警護と、その後の事態の推移を見守るため森岡に従っていたのである。

 森岡は後日事情を明かすという約束を交わし、松尾正之助から東京菱芝銀行の瀬尾会長に便宜を図るよう一報を入れて貰っていた。

 身代金は、森岡個人の口座から引き出すのであるが、なにせ十億円を現金で用意するというのは、尋常なことではない。

 会議室で現金をダンボールに詰め込む作業中、会長の瀬尾が顔を出した。これもまた異例中の異例なことである。思いも寄らない東京菱芝銀行の天皇のお出ましに、銀行員が緊張を強いられる中、森岡は瀬尾に近づくと、

「ウイニットの森岡洋介と申します。味一番の件では大変お世話になりました」

 と頭を下げた。瀬尾の顔は前もって確認していた。

 瀬尾は怪訝な表情を浮かべ、

「味一番と言いますと」

「社長の福地正勝は、かつての岳父に当ります」

「おう、そうでしたか」

 瀬尾は大きく顎を引き、

「松尾会長のご依頼ですので……」

 断ることはできないと、微笑した。

「此度も申し訳ありません」

「いやいや、然したることではありません。ですが貴方は、よほど松尾会長のお気に入りのようですな」

 瀬尾が熱い眼差しを向ける。

「とんでもございません」

 森岡は謙遜すると、

「後日、今般のお礼とお近づきの印に一席設けたいのですが、時間を頂戴出来ませんか」

「それは楽しみですな」

 瀬尾は穏やかな笑顔で頷いた。 

 

 森岡は虎鉄組本部に出向く直前になって、初めて影警護を務める九頭目弘毅に、東京へ出向いた真の理由を話した。

 深刻な事態を知った九頭目だったが、事ここに至ってはどうなるものでもなかった。虎鉄組に手出しができない以上、峰松重一に報告しても同じことである。

 九頭目もまた、森岡の身に何かあれば自身の極道世界における出世の道が、一層険しくなることを覚悟しながら、彼の無事帰還を祈るしかなかった。

 虎鉄組本部は足立区千住曙町にあった。本部といっても神王組と同様、組長の住まいがその役割を果たしている。

 約一千坪の敷地は四方を壁に囲まれ、上部には忍び返しの鉄線が引いてあった。

分厚い壁の中は銅版が隙間無く敷き詰められている。防壁の強化と、いざというときの軍資金であった。資産隠しのため、金塊も埋め込んであるという風聞もあった。

 正門前で訪いを告げると、重々しい鉄の扉が自動で開き、中から出て来た数人の若衆が車の先導をしたり、外の様子を窺ったりした。

 車の後部から段ボール箱を運び出すと、中鉢博己は屋敷の外に出された。

 森岡は若衆の一人に案内されて奥へと向かった。

 通されたのは十畳ほどの茶室だった。先客があり、ちょうど茶が点てられていたところであった。想像もしない展開だったが、森岡は先客に目礼して横に座った。

「一服どうかな」

 お手前が訊いた。

 先客が正客(しょうきゃく)だとすると、お席主はお手前を兼ねていることになる。つまり、この袴姿の五十歳絡みの男が虎鉄組組長の鬼庭徹朗だと思われた。

「頂戴致します」

 落ち着いた声だった。

 森岡は、暇を見ては山尾茜から茶道の手解きを受けていた。彼女は、表千家で台天目を相伝された上級者である。

 茶道には表千家の他に裏千家、武者小路千家などの流派があるが、流派が違えど嗜みがあるのとないとでは心持が違う。

 森岡が茶を頂いて所定の動作を終えたときだった。

「約束は守ったようだな」

 お手前が口を開いた。

「もちろんです」

「ではこちらも約束は守ろう」

 お手前が、

「青沼」

 と襖越しに声を掛けた。すると、開かれた襖の向こうに憔悴した坂根が座っていた。

 坂根は何か言い掛けようとしたが、森岡の目顔での合図に口を閉じた。

「失礼ですが、鬼庭様ですか」

 そうだ、とお点前が小さく肯いた。やはり、この男こそが十代目虎鉄組組長の鬼庭徹朗であった。

「鬼庭組長、このまま坂根を連れて帰っても良いのですね」

 森岡が念を押すと、

「構わない。だがその前に、一献傾けたいのだが、時間はあるか」

 と誘った。

「時間はなくもないですが、ご遠慮申し上げます」

「そりゃあ、金を毟り取られた相手の酒は不味いだろうからな」

 いいえ、と森岡はゆっくりと首を横に振った。

「坂根を無事返して頂けるのであれば十億など、少しも惜しいものではありません」

「ほう。この男はそれほど値打ちがあるのか」

 鬼庭が興味を滲ませた目で坂根を見た。

「百億でも利きません」

「なんと、百億以上の男か」

 今度は驚愕の声を上げた。

「私の義弟同然ということもありますが、二十年後には日本経済界の寵児と成り得る男です」

「……とはいえ、拉致などという理不尽な行為に、惜しげもなく十億も差し出す君もなかなか豪気なものだな」

 胸を張った森岡に、鬼庭は感心して見せた。張本人のくせして、白々しいとはこのことである。

「では、なぜ断るのだ」

 どこまでもぬけぬけとしている鬼庭に、森岡も少々腹立たしくなった。

「恐怖で私の身が持ちません」

 しらっとした顔で森岡が言った途端、先刻から沈黙を通していた横の男が、

「あははは……」

 といきなり高笑いをした。

「いや、失礼」

 男は詫びると、

「面白い冗談を聞いたものでな」

「どういうことですか」

 鬼庭が訊ねた。

「この男、お前に臆してなどいないということだ」

 そう言った男を、森岡はいったい何者だろうか、と推察していた。

 男は鬼庭をつかまえて「お前」呼ばわりした。東京での「お前」は、浜浦でのそれとは違う。明らかに鬼庭より格上の人物ということになる。

――まさか、この男が宗光賢治なのか。

 森岡は思わず声を上げそうになったが、かろうじて喉の奥に仕舞い込んだ。

「滅相もありません。どうにか平静を保っているのです」

 森岡が慌てて否定した。素人が極道者を、しかも大組織の親分を畏怖していない構図など、面子を潰す以外の何物でもない。

「徹朗、存外命拾いをしたのはお前の方かもしれんぞ」

 宗光と思われる男が真顔で言った。

「兄貴、それはどういう意味ですか」

「そのあたりは一杯やりながら話をしないか」

 苛立ちを隠せないた鬼庭に、そう応じた男は、

「どうだね」

 と、森岡にも誘いの言葉を掛けた。

「おっと、これはすまない。申し遅れたが、私は宗光という者だ」

――やはり、宗光賢治だったか。もしや、唐橋先生が連絡を入れてくれたのか。

 森岡はその思いを強くしながら、

「宗光様、あらためまして森岡洋介です。そうまで仰るのでしたら」

 と軽く会釈した。

 鬼庭徹朗とは違い、宗光賢治には興味があったのである。

 

 三人は茶室を出て、二十畳もある広い和室に移った。既に酒宴の用意が整っていた。

 森岡の正面に座った鬼庭は、おもむろに懐から拳銃を取り出すと、銃口を森岡に向けてテーブルの上に置いた。

 初めて本物の拳銃を目の当たりにし、心臓が凍り付くような驚きを覚えた森岡だったが、その一方で、まさか宗光賢治が同席している場で、凶行に及ぶはずがないとの冷静な判断もしていた。

 これは威嚇というより、

『お前を信用した訳ではない』

 という鬼庭の意志表示だと理解した。

 鬼庭が宗光、宗光が森岡、森岡が鬼庭の杯にそれぞれ酒を注ぎ、杯を持った手を軽く上げた。

「兄貴、先刻の言葉はどういう意味だ」 

 杯を乾した鬼庭が満を持したように口を開いた。

 宗光はテーブルの拳銃を指さしながら、

「お前、場合によっては、この男を殺(や)るつもりだったのだろう」

 と訊き返す。

「正直に言えば、考えなくもなかった」

 躊躇いがちに告白した鬼庭を、

「もし、そうしたらお前の命も無かったということだ」

 と、宗光が咎めた。

「まさか、それこそ冗談だろう」

「いや、冗談ではない」

「いくら神栄会の峰松と昵懇といっても、この男の命(たま)ぐらいで、虎鉄組(うち)と戦争をおっぱじめるとは思えない」

 鬼庭は鼻を鳴らした。本式の組員が殺られたのであれば面子を潰されたことになるが、森岡はあくまでも堅気なのである。

「徹朗、この男が昵懇なのは峰松だけではないぞ」

「寺島とて同じだ。蜂矢が首を立てに振るはずがない」

「本当にそう思うか」

 顔の前で手を振り、 いっこうに取り合わない鬼庭に、宗光は不気味な笑みを返した。その瞬間、鬼庭の背に悪寒が奔った。

「まさか、六代目も」

 二の句が継げない鬼庭が口を半開きにしたまま目を向けたが、森岡は素知らぬ顔を通した。

「俺の耳に入った情報では、蜂矢はこの森岡君にぞっこんのようだ。その証拠にな、ブック何とかという事業の仕切りをこの男に任せたということだ」

「ブック? もしやブックメーカーのことか」

 目を見張った鬼庭に対し、森岡は怪しい雲行きになった、と困惑しながら黙って肯いた。

「一度失敗して大量の逮捕者を出した神王組としては、同じ轍を踏むことは許されない。それがどういう意味かわかるな、徹朗」

「それほど、この男が信頼されているということか」

「蜂矢にとってこの森岡君は最後の切り札だろう。そのような男を万が一でも殺ってみろ。如何なる事になるか」

「それほどの男なのか」

 唸るように言った鬼庭に、宗光がとんでもないことを言い出した。

「お前も一枚噛ませてもらったらどうだ」

「そ、それは……」

 森岡の口から思わず洩れた。無理もないことである。抗争はしていないが、神王組と虎鉄組は対立している暴力団組織なのだ。

「徹朗、十億は返して彼の力を借りたらどうだ」

 鬼庭は暫し沈思した後、

「そうしたら、考えてくれるか」

 と真顔で訊いた。

「申し訳ありませんが、十億を収めて頂きたいと思います」

「ははは……冗談だ、冗談」

 蒼白面の森岡を見て、宗光は笑い飛ばした。だが、森岡は冗談ではないだろうと思った。隙を見て無理やり捻じ込んで来ると推測した。

「ブックメーカーの話は別としても、今度のことはどう見てもお前の無茶だ。俺の顔に免じて金は返せ」

「しかし、兄貴。それでは俺の面子が立たない」

 鬼庭はいかにも不服げな顔をした。境港と浜浦での失態で、鬼庭は神栄会に五千万円の詫び金を渡し、手打ちをしていた。

「詫び金はいくらだった」

「五千万だ」

「では、その五千万を取って残りを返したらどうだ。それなら文句はないだろう」

「いや、それでも……」

 鬼庭はまだ何か言いたげだったが、宗光の有無を言わせぬ眼つきを見て、

「兄貴がそこまで言うのであれば仕方がない」

 と不承不承応じた。

「いえ。十億は受け取って下さい」

 森岡は声を強めて言った。

 拉致をしておいて身代金を要求するのは、この上ない卑劣な犯罪行為であり、理不尽な話である。また、ほぼ全額返済の提案を断るというのも首を捻る話ではあるが、宗光の冗談話が気に掛かった森岡は、ここで借りを作った形だけにはしたくなかったのである。

「君も面白い男だな」

 宗光は苦笑すると、

「君の立場は承知しているから、先刻の話は気にしないで良い」

 と諭すように言った。

「では、半分の五億ということでどうでしょうか」

 それでも森岡は増額を申し出た。坂根の拉致は、鬼庭と勅使河原の共同謀議であり、十億を折半する予定ではなかったか、と推測したからである。鬼庭にさらなる金の持ち出しをさせ、後腐れ残すことを嫌ったのだった。

「徹朗、そういうことだそうだ。どうするな」

「兄貴がそれで良いのであれば」

 鬼庭はそう言って頷くと、銃口を自身に向け直した。森岡を信用するという意思表示なのだろう。

 宗光がにやりと笑い、

「よし、これで話は決まった。では手打ちの盃を交わすか」

 と張り切ったように言ったが、

「手打ち……ですか」

 大胆にも森岡が疑義を挟む声を上げた。

「不満か? まあ、何の落ち度もないのに五億も毟り取られたのだからな」

「いえ。金のことではありません」

 森岡はきっぱりと否定した。

「金のことではないだと」

 宗光が不審の顔を向ける。

「今回の拉致、私への襲撃、さらには探偵の伊能さんを襲撃したのも、僭越ながら勅使河原への義理立てではないですか」

 森岡は今回の件に勅使河原公彦が関与していると睨んでいた。南目が憤った通り、神栄会の峰松に分捕られた五千万円の報復にしては十億円は多額過ぎた。通常、この手の談合金は三倍の一億五千万円から、どんなに多くても十倍の五億円までである。森岡は、勅使河原が絡んでいる分だけ高額になったと読んでいたのである。

「何が言いたい」

 鬼庭が問い質した。

「一連の件には、勅使河原が一枚噛んでいるのでしょう」

「だとしたら、どうだというのだ」

 図星を刺された鬼庭は、開き直ったように言った。

 その動揺ぶりに、やはりと確信した森岡は、

「勅使河原の意向を無視して、私と手打ちをして良いのですか」

 と当然の疑問を口にした。

 うっ、と返答に詰まった鬼庭に代わり、宗光が助け舟を出した。

「森岡君、虎鉄組は勅使河原の手下ではない」

 と暗に金を介在した関係なのだと示唆したのだ。

「しかし、お言葉を返すようですが、そうであれば、再度金を積まれれば同じ事を繰り返すということになります」

「なんだと!」

 と怒りを面に滾らせた鬼庭を宗光が目顔で抑えた。

「理屈ではそうなるが、ここで手打ちをするという意味は、今後君が敵対しない限り、こちらも牙を向けないという意味を持つのだ、森岡君」

 因果を含めるような物言いだった。

 これ以上の問答は宗光を不快にさせると思った森岡は、

「身の程知らずなことを申し上げました。お詫びします」

 頭を深く下げてから、杯を口にした。

 

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