一時間後、森岡からの連絡を受け、迎えの車が到着した。
恐縮する森岡を、宗光賢治がわざわざ玄関まで見送った。
そして森岡が靴を履こうとした、そのとき、
「さすがに大先生の血は争えないな」
と耳打ちした。
「えっ」
森岡は思わず仰け反るように宗光を見詰めた。
「何のことだ、と思っているな」
宗光は、森岡の動揺を弄ぶかのように笑う。
「は、はい」
「君の頭に浮かんだ人物だよ」
「誰だかおわかりに」
宗光はうむ、と顎を引くと、
「稀代の大学者だな」
畏敬の念の籠った口調で言った。
「し、しかし……」
驚嘆した森岡は言葉に詰まる。
「右翼人の因だよ、森岡君」
「因、ですか」
「私には政治家の公権力も、財界人の金力も、極道者の暴力もない。生きて行く拠り所は情報だけだ」
――それにしても……。
と、森岡は訝った。
自分でさえ灘屋と奈良岡家の関係を知ったのは一昨日である。どのようなルートで宗光は知り得たというのか。
他では園方寺の可能性が浮上するが、先代も当代も信頼できる人物である。祖父、あるいは父が他者に漏らしたというのかであろうか。
森岡は、もう一方の当事者に目を向けてみた。
――奈良岡家からか……。
と思ってみるが、知る限り奈良岡家と宗光の間に交誼があったとは思えなかった。仮にあったとしても、奈良岡家と灘屋の曰くが話題に上るはずがない。
『どのようにして知ったのですか』
と、森岡は問い質したかったが、わざわざ因とまで言った情報源を宗光が明かすとは思えなかった。
その代わりに、
「宗光様はどうしてここへ来られたのですか」
と訊いた。
これもまた、本来であれば、
『唐橋先生からの依頼を受けてのことでしょうか』
と訊きたかったが、迂闊に政権与党の要人の名を口にするのは憚られた。間違っていれば、どういう波紋が唐橋に届くかわからないのである。
「それも秘密だ。硬く口止めされているからの」
と、宗光は口にチャックをする仕種をした。
――口止め? ということは唐橋ではない。
森岡はますます混乱した。政治家の唐橋が骨を折っておいて口止めするはずがない。政治家はそのような奇特な生き物ではないのである。
――いったい誰が。
戸惑う森岡に、
「いずれまた会おう」
と、話に蓋をするように宗光が肩を叩いた。
「そ、その折は本日のお礼を致します」
「いや、それは堅く遠慮する」
我に返って頭を下げた森岡に、宗光はひらひらと手を振った。
「しかし……」
尚も言い掛ける森岡を、
「義理を欠いては、この先顔を上げて生きて行けなくなるのでな」
宗光が真剣な目で制した。
「次回は楽しい話で飲もう」
はい、と肯いた森岡は、
「では、失礼します」
とわだかまりを残しながらも、中鉢が運転する車に乗り込んだ。車のトランクと後部座席にダンボールが五個積んであった。
部屋に戻って来た宗光賢治に、鬼庭徹朗は恨めしそうな顔を向けた。
「いきなりやって来たかと思いきや、一服点てろと催促し、挙句に金のことまで口出しするとは……どうして兄貴はそこまであの男の肩を持つのだ」
「徹朗、さっきは本人がいたから、神王組を持ち出したが、お前の命、いや虎鉄組そのものが危うくなる本当の理由は他にある」
宗光のあらたまった口調に、
「神王組より手強い敵だと? そんな奴がこの日本のどこにいる」
と不満の声で嘯いた。
「彼はな、奈良岡先生の縁者なのだ」
「奈良岡というと、事ある毎に兄貴の口から出る奈良岡真篤先生か」
「そうだ」
「孫なのか」
「直系ではないが、縁者であることに間違いはない」
「先生はもうすでに亡くなられている。直系でないなら、たいしたことはなかろう」
いかにも軽んずるような口調だった。
「それが甘いというのだ。あれほどの大学者だぞ。日本の歴史上でも他に類を見ない傑物であられた。現在でも先生を師と仰ぐ人間が各界にどれだけいるか考えてもみろ」
「……」
返答のできない鬼庭に向かって、
「かく言う俺もその一人なのだぞ」
と、宗光は引導を渡すかのように言った。
宗光賢治の右翼思想の師は、戦前の大物思想家南一誠(みなみいっせい)であった。南は、一時奈良岡真篤に師事していたことがあり、若き日の宗光も酒宴に同席していたことがあった。つまり、宗光にとって奈良岡真篤は大師匠ということになった。
「それにだ。奈良岡先生の縁者ということは、高野山の堀部真快大阿闍梨の縁者にもなるということだ」
「高野山の大阿闍梨?」
「日本仏教界の首領だ。こちらも敵に回すと面倒になる」
「坊主が、か」
鬼庭はまたも懐疑的な声で言った。
「お前は馬鹿か。これまで、どれほどこの国の権力者が、その坊主に頼ってきたと思っている」
宗光は怒声を浴びせた。
日本は多神教の国である。つまり絶対神を持っていない。そのため確固たる思想や哲学、信条の無い各界の指導者たちが、難事に直面したとき心の弱さを、高僧の法力に頼ってきた歴史がある。
古くは奈良時代の法相宗道鏡、徳川家康の側近で幕府草創期の朝廷政策や宗教政策に強い影響力を行使した天台僧天海が有名だが、現在でも歴代首相の多くが重要な決断を高僧に頼っている現実がある。
さしずめ、久田帝玄や神村正遠もそうである。ましてや、日本仏教界の第一人者であれば、言わずもがなであろう。
「これまで、あの男が奈良岡先生や大阿闍梨の縁者であることなど誰も知らなかったであろう。にも拘らず、彼の許には有為な人材が集まっている。今後、彼の素性が公になれば、支援しようとする人物が我も我もと手を上げるだろう」
「日本中を敵に回すということか」
「日本中というのは大袈裟だが、あの男が巨大な力を手にすることは間違いない」
ふう、と鬼庭は息を吐いた。
「勅使河原は、金は持っているが人物ではない。五億は全て勅使河原に渡し、腐れ縁を残すな」
「しかし兄貴。それでは二千万ほど足が出たままになる」
鬼庭は不満げな面を向けた。
宗光の表情が一変した。
「いつまでも下らないことを言ってんじゃねえ。森岡とつるんでりゃあ、一億や二億なんざ鼻糞みてえなものだということがわかんねえのか!」
とうとう伝法な口調で一喝した。
宗光賢治がいかに兄貴分とはいえ、仮にも神戸神王組、東京稲田連合に次ぐ広域暴力団虎鉄組の組長に横柄な口が利けるのには理由があった。
鬼庭徹朗は、先代鬼庭徹太郎の実子だった。
神王組の田原政道同様、虎鉄組勢力拡大の大功労者である徹太郎もまた、組内では神格化されていた。だが、その伝説の極道でさえ人の親ということなのだろう。後継に息子の徹朗を望んだ。
弱小組織ならいざしらず、傘下組員が一万八千名を超える大組織を、ただ実子というだけで後継させる危うさを徹太郎はわかっていた。そこで、周囲を納得させるため、後継者教育係として、右翼の世界にその人有りと謳われていた宗光賢治に白羽の矢を立てたのである。
したがって、鬼庭徹朗にとって宗光賢治はただの兄貴分ではなく、親または師に当たった。徹朗が十代目を襲名した折、外聞上あらためて兄弟盃を交わしたのである。いずれにせよ、鬼庭徹朗にとって生涯頭の上がらない存在であった。
また彼が二千万円に拘ったのは、金額の多寡というより、侠客としての面子の方が大きい。極道世界に生きる彼にとって、たとえ一円であっても、敵対する神栄会に詫び金を差し出したことは、屈辱以外の何物でもないのである。
言わずもがな、神栄会から取り戻すのが本筋であるが、そのためには神栄会と諍いが起こり、尚且つ神栄会側に瑕疵が無ければならない。そのような好機は滅多に訪れるはずもなく、そこで神栄会と昵懇の森岡から回収し、少しでも留飲を下げようとしたのである。
「わかった。だが、ブックメーカー事業は期待できないのだろう」
鬼庭は諦め口調で訊いた。
「そうでもない。まあ、俺に任せておけ」
宗光は自信有り気な顔で言うと、
「徹朗、今日のことは他言無用だぞ。鮫島らにも徹底しておけ」
「言われるまでもない。どうして堅気を拉致監禁して身代金を分捕ったなどと言えるか」
鬼庭は憤慨した。
「呆れた奴だな。そのことではない」
「では、ブックメーカーのことか」
「それもあるが、森岡君が奈良岡先生や堀田真快大阿闍梨と血縁関係にあるということだ」
鬼庭は首を捻った。
「どうしてそれを秘匿する必要があるのだ」
ああ……と宗光は嘆いた。
「俺は泉下で徹太郎親分にお目に掛かったら、何とお詫びをしたらよいのか」
宗光は親指と中指を両目の瞼に当てて頭を垂れた。
「そこまで言わなくてもいいだろう」
自身に対する嫌味だとわかった鬼庭は口を尖らせた。
「いいか、ブックメーカーの話も、森岡君の出生の秘密も今後金になるかもしれない希少価値のある情報だということがわからないのか」
「……」
「ブックメーカー事業は、神王組が極秘裏に進めている大事業だ。仮にこの先、神王組との間にトラブルが発生したとき、この情報がまだ世間に知れ渡っていなければ、取引材料になるかもしれないだろうが。それをわざわざ自分から捨てる馬鹿がどこにいる」
「なるほど。それで、森岡の出生の秘密の方は」
「彼は今、誰と対立しているのだ」
「さしずめ、勅使河原と瑞真寺の御門主といったところか」
「そうであれば、勅使河原には奈良岡先生との関係を、門主には堀田真快大阿闍梨との関係を教えてやれば、感謝されるとは思わないか」
「そうか、下手に森岡に手を出せば火傷をするという警告になる」
「そういうことだ。金は取れなくても大きな貸しにはなる」
「さすがは兄貴だ」
感心顔で唸った鬼庭に、
――先が思いやられる。
と、宗光は暗い気持ちになった。
車が門を出たところで、坂根好之が何か言おうとしたのを森岡が目で制止した。そして、追尾車両がないことを確認すると、携帯電話にメモを打ち込み坂根に見せた。
『盗聴は大丈夫か』
坂根は身体やバッグを調べ、
『大丈夫です』
と首を縦に振った。
「じゃあ、詳しい話はホテルに戻ってからや」
森岡はそう言うと、付近に待機させていた南目と、どこかで待機しているであろう九頭目にも連絡した。
帝都ホテルの部屋に戻った森岡らは、ようやく安堵の表情になった。
「まずもって、お二人が無事に戻られて何よりです」
伊能剛史の言葉に、一同が肯き合った後、
「いったい何があったんや」
と、南目が坂根に詰め寄った。
「待て、輝。その話は飯を食いながらにしよう」
「社長も食べてないのですか」
「輝、なんぼ俺でも、虎鉄組の本部じゃ食い物が喉を通るわけがないやろ」
と、森岡がおどけて見せたので、皆に笑顔が戻った。
数刻後、運ばれて来たルームサービスを口にしながら、森岡が虎鉄組でのやり取りを縷々説明した。
「手打ちをしたということは、今後虎鉄組は敵対しないということですね」
「おそらくそうでしょう」
森岡は伊能に応じ、
「その代償として、必ずブックメーカー事業に口出ししよるで」
と、南目に忠告した。
「そんなことを許したら、神王組が黙っていないでしょう」
南目にも事の重大さがすぐにわかった。
「頭の痛い問題になるわな」
「申し訳有りません」
坂根が力なく頭を垂れた。
「お前のせいやない」
「しかし、私が判断を誤ったために、社長に迷惑を掛けてしまいました」
「判断やと」
「単独行動をしてしまいました」
「俺も最初はそう思ったが、結果的には統万が一緒でも同じことだったな。むしろ、身代金が半分で済んだのかもしれんぞ」
「しかし、私が大人しく拘束されたため、五億円もの損害を出してしまいました」
「どういうことや」
「あのとき、相手は二人でしたから、叩きのめすことはできたと思います」
「だがお前は、拘束された方が真相に近づくと思ったんやろ」
「はい」
「なら、それでええがな」
「でも、多大な迷惑をお掛けしました」
森岡がブックメーカー事業の運転資金確保のために、東奔西走したことを知って いた坂根してみれば、単独行動を取った軽率さに忸怩たる想いだったのである。
「それなら確認するけどな、相手が極道者だとわかったか」
「はい」
「だが、暴力に訴えようという気配はなかったんやな」
「殺気は感じませんでした」
「空手の修練を積んだお前が感じなかったのであれば、そういうことやろ。だったら、抵抗しなかったのは正解やで」
「しかし、そのせいで……」
森岡は途中でその先を制した。坂根が、尚も金に拘っていたからである。
「俺は五億を失ったことより、今のお前に失望するな」
「えっ」
坂根の顔から色が失せた。
「皆もよう聞いてくれ」
と、森岡が一同を見回す。
「確かに五億は大金やが、その多寡に囚われてはあかん。金は所詮金や。そんなものはまた働いて儲ければええ。肝心なことは、金額に拘わらず、その多寡に見合うものが得られるかどうか、また失うことが無いかを判断することや」
森岡は、一旦言葉を切って、ビールグラスを口に運んだ。
「もし、二人が坂根に危害を加えようとしたのであれば、一も二もなく戦うことが正解や。命さえ危ないわけやからな。だが、そうでないのなら、暴力団には逆らったらあかん。坂根が二人を叩きのめした後のことを考えてみろ。暴力団というのは面子を第一に考える集団や。一般人に恥を掻かされて黙っていると思うか」
「報復行動に出るというのですね」
南目が答えた。
「間違いなくな」
「ですが、社長には神栄会の護衛が付いています」
「的が俺とは限らんだろうが」
「では、私たちにも危害が」
「さしずめ、坂根が真っ先に的に掛けられる」
「では、私たちにも護衛を付けてもらうよう神栄会に依頼してはどうですか」
南目の言葉に、
「期間はどうしますか」
蒲生が言い、
「それは意味がありません」
と、伊能が続けた。
「さすがに二人とも元優秀な警察官やな」
森岡はにやりと笑った。
「輝、蒲生が言いたいのは一生護衛を頼むつもりなのか、ということや」
うっ、と南目は言葉に詰まった。
蒲生と森岡の言わんとする意味がわかったのである。暴力団の報復が終了するのは、誰かが被害を蒙ったときである。もし護衛を付けて命を長らえれば、それだけ金が掛かるということなのだ。
「それに、伊能さんが言いたいのは、的に掛けられるのは何も俺たちとは限らないということや。ウイニットの社員、いや社員ならまだ関係性があるが、その家族まで魔の手が及んだらどうするんや。俺は、その警告を受けただけでも心が折れるやろうな」
「では、どうすれば……」
南目は苦渋の顔で訊いた。
「早々に謝罪するいかないでしょうね」
「その通りです」
森岡は伊能の答えに同調した。
「それがもっとも金が掛からない方法やが、それでも今回の倍は掛かるだろうな」
「そんなに……」
思わず坂根が呟いた。
「彼らにとって、お前は全く非の無い人間やで。そのお前がおとなしく拘束されたのにも拘わらず、理不尽にも十億を要求してきたんや。もし組員二人に怪我をさせた上での謝罪なら、二十億は要求してくるだろうな」
「……」
もはや坂根に返す言葉はなかった。
「だから、無抵抗は正解だったと言ったんや」
「そもそもが、私は枕木山に入るべきではなかったということですね」
坂根が肩を落として言う。
「あほなことを言うな」
森岡が呆れ顔を向ける。
「お前が枕木山に入ったのは、俺の命に忠実やったからやないのか」
「……」
失言だったと気付いた坂根の口がまた重くなった。
「事の発端は、俺がウイニットをほったらかして、神村先生の支援に精を出しているからや。でなければ、小梅の身請け話など舞い込んで来んかった。せやから今度のことは、お前には済まんことしたと思っている」
そう言って森岡は坂根に頭を下げた。
「や、やめて下さい、社長」
坂根は顔を引き攣らせながら止めた。
「結局、このまま泣き寝入りか」
と悔しげに言った南目に、森岡が鋭い目を向ける。
「輝、俺が五億も毟り取られて、そのまま黙っている男だと思っているのか」
「報復するのですか」
「当り前やがな」
「しかし、たった今暴力団に逆らったら駄目だと言われたではないですか」
「それに虎鉄組とは手打ちをしています」
南目の言葉に、蒲生が付け加えた。
「せやから、虎鉄組には手を出さん。宗光賢治という右翼の首領とも知己を得たことで損は取り返した」
「相手は立国会の勅使河原ですね」
沈黙を通していた中鉢博己が初めて口を開いた。彼は、昨夜の森岡との会話が頭の隅にこびり付いていて、皆の会話に入り切れないでいたのである。
森岡もそのことはわかっていた。
微かに笑みを浮かべながら無言で中鉢に頷くと、決意の籠った顔つきに変えた。
「五億のうち少なくとも半分は勅使河原の手に渡るはずや。いずれ奴から何十倍、何百倍にもして取り戻す」
「何か考えがあるのですか」
「ああ。まだ大枠の段階だがな」
森岡は言葉を濁すと、顔を中鉢から坂根に向け、
「そんなことより、お前は何をしにもう一度枕木山に入ったんや」
と核心部分に切り込んだ。
「はっきりとはわからないのですが」
と、坂根は首を捻りながら話し始めた。
坂根好之と足立統万は、総本山真興寺の門前町に店を構える今福屋に立ち寄り、主人の野津に会った。野津に話を持ち込んだ男は音信不通だったが、材木の伐採権の話は真実だった。そこで、坂根と足立は野津と共にその樹木の確認のため、宗務院の許可を得て山に入った。総本山の西に位置する枕木山であった。
なるほど良質の檜である。素人の坂根にも一目でわかるほどに太い幹が天に向かって真っ直ぐに伸びていた。
検分を終えた三人が山を降りようとしたときだった。坂根が異様な空間があることに気づいた。辺りは良木が一定の間隔を置いて群立していたが、谷間近くの一角だけ、更地の立ち入り禁止区域があったのだ。
十メートル四方うちの三方を石塔で囲み、残る一方は斜面なのだが、その斜面の前に錆びれた石碑が立っていた。碑文は苔が生していて文字が読めない状態だった。
一見したところ、歴史的価値のある敷地にも見えなくはないが、枯れ草はそのまま、雑草も生え放題で手入れがされている様子が無かった。
坂根は、その石碑の背後の斜面に不自然さを感じたが、野津に促されてそのまま山を後にしたのである。
岡崎家に戻った坂根だったが、そのことが頭にこびりついて離れなかった。そこで、翌日一人で山に入ったところを待ち構えていた何者かに拉致されたということだった。
「それが虎鉄組だったというわけやな」
「そうです」
「その更地はどんな風やった」
「石碑の後方の斜面に何か細工が施されているような感じでした」
「斜面に細工? そうか……」
森岡に閃きが起こった。
「もしかしたら、お前は神隠しと関係があるのではないか、と思ったんやな」
はい、と坂根は肯いた。
「神隠しって、何ですか」
南目が二人の会話に割り込んだ。
森岡は枕木山で起こった二度の失踪事件と人身事故を話して聞かせ、
「お前らが枕木山に入ることを知っているのは誰や」
と、坂根に訊ねた。
「統万と野津さん以外では宗務院しかいないと思います」
「野津さんが勅使川原と謀っている可能性も棄て切れんが、宗務院の方が怪しいな」
――やはり、岡崎家での総務清堂上人との密会も宗務院から漏れたのだろう。しかし、岡崎家の宿泊名簿は偽名を使用した。岡崎家が本名を漏らしたか、あるいは自分を見知った者が見張っていたのか……ま、まさか、これも筧が仕組んだのか?
森岡は、かつて伊能から筧が総本山をうろついていたとの報告を受けていた。そのときは総務清堂との関係を疑っていたが、立国会と瑞真寺の関係が明らかになった今であれば、筧克至の目的地は瑞真寺だったとも推量できる。
森岡の険しい顔つきに、伊能が不安の目を向けた。
「どうかされましたか」
「いや、何でもありません。それより、明日もう一度枕木山へ行ってみるか」
「それは危なくないですか」
と忠告した南目に、
「虎鉄組とは手打ちをしたから、大丈夫やろ。それに明日は、中鉢を除いてここにいる皆と行くんやから心配ない」
森岡は何かを思い定めたように言うと、腕時計を見てがらりと表情を崩した。
「統万、フロントにタクシーの確認をしてもらえ」
ホテルの玄関前に待機してるかどうかの確認である。
「どちらへ行かれるのですか」
「これから皆で銀座に繰り出そう」
「今からですか」
足立統万が驚いたように訊いた。
「坂根が無事戻った祝いをやろう。お前にも苦労掛けたしな」
「私は何もお役に立てていません」
「しかし、いくらなんでも……」
足立が悔し気に言い、坂根は恐縮そうな顔を向ける。
「さっき、ものは考えようやと言ったばかりやろ。十億が五億で済んだということは五億儲けたのも同じや。こじ付けやが、験直しにぱーっとやろう、ぱーっと」
森岡はあらためて、足立統万にクラブへの予約とタクシーの手配を命じた。
翌日の午前、森岡らは今福屋の野津に同道を願って枕木山に入った。野津を伴ったのは、彼が枕木山の地理に詳しいからである。宗務院を疑っている森岡は、妙顕山側からではなく、反対側のルートを使った。
坂根の案内で問題の場所に訪れた。
「なるほど、立ち入り禁止区域か。これがミソだったのだろうな」
森岡が薄笑いをした。
「ミソって、どういうことですか」
野津が訝しげに訊いた。
「過去の神隠し騒ぎのとき、この石碑が捜索の目を遠ざけたのでしょう」
「では、この敷地には何か細工があるのですか」
「おそらく」
森岡は野津に向かって答えると、
「南目、ちょっと石碑の背後の斜面を探ってみろ」
「良いのですか」
南目が畏怖するように言った。さすがの彼も古い史跡を荒すことには抵抗があったのだろう。
「お前でも祟りが怖いか」
森岡はからかうように言い、
「気が進まんのなら俺が調べよう」
と自ら斜面を調べ始め、洞窟らしき入り口を発見したところで、元通りに整えて下山した。
森岡は、伐採権を担保に六千万円を融資すると野津に伝えた。
伐採権の売買には厳しい条件が就き付けられていた。伐採権を取得できる者は、宗務院の選定した業者、または同じく宗務院が認定した天真宗縁者に限られていた。したがって森岡といえども、おいそれと伐採権を買取ることはできなかったのである。
天真宗の御山の樹木である。いかがわしい業者に転売されるのを懸念して当然といえた。
森岡は岡崎家に宿泊し、鈴邑の女将と小梅を部屋に呼んで問い質した。この一件で部下の坂根が拉致されたことを聞かされ、酷く驚いた二人は懺悔するように裏話を告白した。
勅使川原から最初に身請け話が持ち掛けられたのは二ヶ月ほど前だったが、実は森岡に相談する前日にも岡崎家に姿を見せたのだという。
言うまでもなく、宴席には小梅が呼ばれた。部屋は鳳凰の間である。
勅使河原の返事の催促にも、小梅が承諾を渋ったため、此度こそ話を決めたかった勅使河原は、岡崎家の女将に連泊を願い出たのだという。
話が岡崎家の女将にも及んだため、森岡は一旦話を中断し、女将を部屋に呼んで確認した。
岡崎家の女将は丁重に断った。翌日は森岡によって予約済みだったからである。
信用が第一の客商売である。当初女将は森岡の名を秘匿していたが、勅使河原の執拗な翌日の予約客の、つまりは森岡の予約部屋の変更要求に、堪らず名前を告げてしまったと丁重に頭を下げた。
森岡の名を聞いた勅使河原は、しばらく沈思していたが、やがてにやりと薄笑いをしながら連泊の要求を取り下げると、さらに小梅に対しても、この身請け話が嫌なら、明日宿泊する予定のその森岡という男に相談してみたら良いと言い出した。自分は森岡という男をよく知っているが、実に好青年で世話好きな男だから、必ずや力になってくれるだろうと力説した。
しかも、通常の借金より身請け話の方が通り易いだろうまでと助言し、最後に今後の二人の関係に差し障りがあるとも限らないので、まるで女衒のような気まりの悪いことをしたことを秘匿するようにと言い含められた。
むろん、女将も小梅も胸に訝しいものを感じた。これまでの執着が嘘のような掌返しに、邪悪な裏事情を憶測した。憶測はしたが、そこは小梅を救ってやりたい鈴邑の女将も、勅使河原の身請け話から逃れたい一心の小梅も、疑念を胸の隅に押し込んで、彼の意に従ったのだと詫びた。
さて、置屋鈴邑の女将は森岡が信頼できる人物だと承知していた。十五年も前から、神村正遠ばかりでなく、現栄薩法主や名門宿坊である滝の坊の中原是遠と親交のある者として信用できた。
小梅にしても、一男性として勅使川原よりは断然気が向いた。そこで駄目で元々と相談したというのが真実だった。とはいえ、自身にも実家にも担保は無いし、森岡が伐採権などに興味を持つはずもないであろうから、勅使河原に言われるまでもなく、身請けを願うつもりだったと付言した。
ただ、鈴邑の女将も小梅も、立国会の勅使川原ではなく、あくまでも「カワハラ」なる実業家として認識していたと抗弁した。
二人の話を聞き終えた森岡には疑問が残った。
仮に、小梅の身請け話を即諾していたら、スキャンダルとして攻撃材料に用いたのだろうと推察できたが、坂根の拉致監禁は辻褄が合わなかった。彼は、枕木山に入ったからこそ、災難に遭ったのであり、計画に一貫性が見られないのである。
肝心の目的にしても、虎鉄組の意趣返しの金銭奪取というのは理解できたが、勅使川原の狙いは依然として不明だった。味一番の件に絡んだ金銭奪取が目的であれば、彼にとって五億円はあまりに少額であるし、警告であれば何のためなのか見当が付かなかったのである。