女将らが去った後の、世間話が一息吐いたときだった。
「ところで……」
とあらたまった面持ちの鶴乃が口を開いた。
「さっきから二人の様子を見ていて思ったんどすけど、森岡さんと瞳姉さんはどういう関係どすかあ」
うう……と名指しされた森岡は口にしていた物を喉に詰まらせそうになった。片桐瞳も口を半開きにしている。
「関係も何も、昔からの知り合いというだけよ」
「俺が大学生の頃、神村先生の書生をしていた恩恵で、この吉力や他のお茶屋での接待のご相伴に預かったんやが、その折宴席に呼ばれた芸妓の中に瞳がいたというだけやで」
瞳と森岡がそれぞれ弁解したが、
「それだけにしては、えろう馴れ馴れしい言葉遣いやこと。瞳姉さんなんか最初、『ちゃん』付けでしたえ」
鶴乃の舌鋒は鈍らない。
「いや、それはね、鶴ちゃん、知り合った頃は年下で田舎から出て来たばかりの純朴そうな『お子ちゃま』だったから、からかいも込めて『ちゃん』付けしていたの。その癖が抜けないのよ」
瞳は如才なく誤魔化したつもりだったが、
鶴乃は、ふーんと未だ疑いの目を緩めることなく、
「せやけど、なんでも菊乃の開店資金は、どこかの実業家はんが出したんやないかと噂になっていますえ。その実業家というのは森岡さんやおへんの」
えっ、と二人とも言葉に詰まった。
「そうなのか。法国寺晋山式の二次会の祝賀会場だったから、私はてっきり御前様がスポンサーだと思っていた」
大河内も森岡に迫るように言った。
「確かに、開店資金は私が出しました」
「ちょっと、洋介」
瞳が慌てて止めに入ろうとしたが、
「いや、この際だ、誤解を解いておこう」
と、森岡は瞳の目を見て肯いた。
「あまり言いたくはなかったのですが、本妙寺貫主の件で桂国寺の坂東貫主を懐柔するとき、貫主がぞっこんだった彼女に手助けをしてもらったのです。そのお蔭で坂東貫主を味方に付けることができましたので、そのお礼に開店資金を提供したのです。ですが、あくまでもビジネスパートナーとしての出資でして、利益から分配金をもらっています」
森岡は仕事上の関係を強調した。当然のことながら、二人が男女の関係にあったことも――もっとも一夜限りではあったが――瞳が強姦に遭い、その慰謝料として五億円を得たことも秘匿した。
「もっともらしいけど、なんすっきりせんわあ」
依然として疑念を解消しない鶴乃に、
「常人では考えられませんが、森岡社長はそういうお方です。過日もある芸者に六千万を融通されました」
と、蒲生が静岡岡崎家での小梅の身請け話を口にした。
これに噛み付いたのは他ならぬ瞳だった。
「身請け話に六千万って、洋介、愛人を作ったの」
「誤解せんといてや。身請け話は本当だが、それは断った。担保を取って融資したんや」
森岡は毅然と言った。
「社長は、その身請け話の裏に敷かれていた陰謀の罠に嵌った部下を救うため、十億を用意されました」
「十億」
瞳が目を剥いた。
「命に関わることやからな、金には代えられんやろ。それに五億で済んだ」
森岡は何事もなかったように笑った。
「他にも、部下の知人の借金を肩代わりしたばかりか、仕事まで用意されたり、菩提寺の関連寺社の増改築に七千万、従兄弟と姪御さんためにそれぞれ二億と一億を融通なさったと同僚から聞いています」
と、蒲生は続けた。
すると九頭目までが、
「部下ということで言えば、恋人の難儀を救うために惜しげもなく大金を支払われています」
と言い出した。
森岡は、野島の恋人である町村里奈のために、塩見という極道者に手切れ金を支払った。森岡から依頼された峰松は、塩見に引導を渡す役目を九頭目に命じていた。
「それだけではありません。社長は実に情の深いお方です。お金だけではなく、障害者の身になった中学時代の友人のために尽力なさってもいます」
統万も、坂根好之の実兄秀樹の件を付け加えた。
「おいおい、皆で褒め殺しか」
森岡は俯き加減でうなじを擦った。気恥ずかしさから上気した顔をしているが、それがまた何ともさわやかに映る。
「いや、照れている場合じゃないな。皆にはお人好しが過ぎると思われているのやろうな」
と自嘲した。
「そのようなことはない。実に奇特なことだと思うがな」
森岡は、大河内の気遣いに頭を下げ、
「ただ俺が情に脆いのは、特に女性の難儀を見過ごせないのは、俺の性、業なんや」
と嘆息した。
「どうしたのよ、急に」
瞳が森岡の顔を窺うように言った。
「言い訳がましいが、子供の頃のトラウマのせいなのかもしれない」
そう言った森岡は、自身の過去に触れる事柄にも拘らず、心の澱が無くなっていることに気づいた。
ならば、と森岡は神妙な顔つきで話し始めた。
「俺の生家は島根半島の漁村だった。自分で言うのも憚れるが、その界隈随一の資産家で権力者だった。その基礎が築かれたのは、先刻話が出た奈良岡家と姻戚関係が結ばれたからだろう。奈良岡家は代々松江藩二十万石の国家老職にあったから、様々に便宜を図って貰っただろうということは容易に想像できる。
それを拡大、強固なものにしたのは祖父の力によるものだったのだが、祖父の後を継いだ父は、何かにつけ祖父と比較され続ける人生に心が疲弊して行ったらしい。間が悪いことに祖父の代には豊漁だったのが、父の代になると不漁続きとなった。
不漁は乱獲と異常気象のせいやから、なにも父の責任ではなかったが、世間は父の無能ぶりを噂するようになったんや。それが父の心を毒が回るように侵蝕して行った。素面のときは真面目で大人しい父が、酒を飲み酔っぱらうと、その心の憂さを母にぶつけるようになった。
当時の祖父は檀家総代やら、漁協会長、消防団長、PTA会長など十あまりの役職に祭り上げられていたから、夜はしょちゅうその会合に出ていて不在やった。そういうときに、父は酒を飲み、酔っぱらっては母に暴力を振るった。母を畳の上に押し倒して、上から跨り顔や頭を殴り付けたんや。祖母が止めに入ってもお構いなしやった。
幼い俺は、ただじっとそれを見ているだけやった。俺は早く大きくなりたかった。大きくなって父の暴力を止められるようになりたい、母を助けてやりたいと強く願うようになった。
ところが八歳のとき、その母が突然目の前から消えてしもた。父から逃げ出したんや。肩透かしを食らったような、梯子を外されたような、ともかく母を護ってやりたいという俺の覚悟が宙ぶらりんになってしまったんやな」
長い独白が終わった。
「だから困っている女性を見ると、お母様を思い出し、つい見過ごすことができないのね」
瞳が切なそうな声で呟くと、
「心が母を失ったときのままなのじゃな」
大河内も労わるような眼差しを向けた。
少し間があって、鶴乃が眼を輝かせて訊く。
「じゃあ、私が困ったときも助けてくれはりますか」
「それは遠慮するよ」
森岡はにべもなく断った。
「なぜどすか」
鶴乃が口を尖らせる。
「贔屓筋が大勢いる日本一の舞妓に、昨日や今日出会ったばかりの新参者が出しゃばったりしたら、どんな嫉妬を買うとも限らない」
「……」
鶴乃は、舌を出して首を竦めた森岡を無言で睨み付けた。
そのとき、女将の貴子が座敷に戻って来た。
「森岡さん、ご相談があるのですが」
「あらたまって、また何でしょうか」
「実は、柳屋の女将さんから連絡がございまして」
女将は一旦言葉を切った。
「どうぞ遠慮なく」
「今夜予約を受けていたお座敷が、お客様の都合で急にキャンセルになったので、厚かましいお願いとは重々承知の上で、芸妓と舞妓、三味線方を呼んでやって欲しいと仰るのですが」
「そうやな、俺の昔話で座が辛気臭くなったから、パーッと明るくするのにはちょうどええなあ」
森岡はそう言うと、
「お上人、どうでしょうか」
大河内に承諾を求めた。
「君の話は少しも辛気臭いものではなかったが、私も久しぶりに羽目を外したくなった」
大河内が肯くや否や、
「ほなら、今夜は無礼講で遊びまひょ」
と、鶴乃が張り切って言った。
ほどなくして、芸妓や舞妓に鳴り物が加わり、賑やかな宴となった。
その日、富国銀行梅田支店長の池端勲夫(いけはたいさお)は、不安を抱えたまま松尾電器の本社へと出向いた。
日本を代表する世界的大企業の松尾電器は富国銀行の主要取引先である。しかも関西にも本社を置く数少ない大企業である。
したがって、梅田支店という関西の重要拠点の支店長を務める彼であれば、同本社へ出向くことも多々あったが、この日は会長である松尾正之助直々の呼び出しという、いささか勝手が違ったものだったのである。
松尾電器の本社は、大阪ビジネスパーク内にあった。
森岡が度々利用する帝都ホテル大阪とは幹線道路を挟んだ真向かいに聳え立つ、二十八階建てのビル一棟がそれである。
元々は、創業の地でもある伊丹工場の敷地内に建屋があったが、手狭になったため本社ビルを新築したものである。
池端は極度の緊張強いられながら、二十五階にある会長室へと案内された。
通された部屋に松尾の姿はなかった。間取りから推察するに、どうやら会長の執務室と隣接している客間のようであった。
しばらくすると、松尾正之助が青年を伴って入って来た。
彼の顔を見た池端の表情が曇った。
――なぜ、この男がここにいるのだ?
「池端君、今日はお呼び立てして済まなかったの」
開口一番、松尾が詫びた。池端は飛び上がるようにソファーから立ち上がると、
「とんでもございません。会長直々の御用とあれば何をおいても馳せ参じますます」
池端はそう言った後、
「ですが、本日の御用向きがわかりません」
と正直な心情を吐露した。
「今日はの、わしではなく彼が君に相談があるというので、ご足労願ったのじゃ」
松尾はそう言って森岡を紹介した。池端は名刺を交換しながら、
――やはり、そうか。
と圧し掛かる重圧に息が詰まりそうになった。
「実は……」
ソファーに腰を下ろした森岡が口を開こうとしたとき、機先を制するように、再び池端が立上がった。
「森岡様、申し訳ございません」
そう詫びて、頭が膝に付こうかというほど腰を折った。ところが、意外にも池端の耳に笑い声が届いた。
「ははは……池端さんは何か勘違いをされていますね」
池端は驚いて頭を上げた。
「今日は、お嬢さんの件でお願いしたいことがあったのです」
「敦子の……? それはもう、御社への就職は諦めさせます」
池端敦子は森岡直々の面接に合格し、ウイニットへの就職が内定していた。
「そうではありません。その逆で、お嬢さんには是非とも我が社に入社して頂きたいのです」
「い、今何と言われましたか」
池端は思わず問い返した。富国銀行は、ウイニットの上場に絡む株式の引き受けを断った。梅田支店長の池端はその担当責任者である。
「しかし、富国銀行(うち)は、御社の顔に泥を塗ったのですよ」
森岡の真意を量りかねる様子の池端に、
「株式の件は池端さんの責任ではないでしょう。それに、貴方は誠意を見せて下さいました」
と、森岡は社内の重要秘密事項を事前に漏らしてくれたことに感謝していると言った。
「池端さん、わしの義理の孫になる男は、江戸の敵を長崎で討つような器の小さい男ではないですぞ」
松尾が自慢げに微笑んだ。
「なんと、森岡様が会長の義孫に?」
池端はますます混乱した。
「血は繋がっておらんが、わしが実の孫娘のように可愛がっている女性と結婚するのじゃよ」
「何と、そうでございましたか」
ようやく事情が掴めた池端に、
「実は、富国銀行さんが株の引き受けを断ることは察知していました」
と、森岡が衝撃の告白した。
「なんですと!」
池端は腰を浮かさんばかりに驚いた。
「山陰銀行の小田島頭取とは大学以来の友人であられるとか」
「な、なぜそれを貴方が……」
「小田島頭取とは、面識がありまして情報を掴んでいたのです」
「し、しかし……」
池端には信じ難いことだった。
自身と小田島の交流を森岡が知っていたとしても、彼と小田島との関係がわからなかったし、小田島がそう容易く情報を他者に漏らすとも思えなかった。
だが天下の松尾正之助が、義孫という扱いをしているほどの男である。松尾と同様、小田島もこの男をそれだけ買っているということなのだろう。
森岡は疑心顔の池端に、鳥取の見相寺の法要で知己を得たこと、従兄の借金問題に絡んで山陰銀行と取引関係が生じたことを話した。
「ですから、富国銀行の決断に時間が掛かったのは、貴方が上層部の方針に異を唱えたからだと推察しています」
森岡はにこやかな笑みを浮かべると、
「お嬢さんの成績は申し分ありませんでしたし、それより直接話をしてみて、大変に気に入りました。私は、我が社の戦力として考えています」
と、森岡はあくまでも敦子個人の評価を強調した。
「しかし、そうそう甘えて良いものでしょうか」
それでも躊躇いを見せる池端に向かって、
「もう一つ、この際お嬢さんと坂根好之という男との交際も認めてやって頂きたいのです」
森岡が頭を下げた。
「坂根さん、と言われますと」
「ウイニット(うち)の若い社員ですが、会社の将来を担える逸材です。いずれウイニットの経営を任せるつもりでおります」
「まさか、敦子がそのような方とお付き合いをしていたとは……妻からは中学時代の塾の講師とだけ聞いておりました」
池端は何とも複雑な表情をした。前途有望な若者との交際は好ましいことではあるが、父親というものは娘の男性関係など耳にしたくないものである。
「人物も保証します。実は、私の中学以来の親友で恩人でもある坂根秀樹という男の実弟でして、私も義弟のように接しています。もちろん、私情だけではありません。帝都大学法学部への進学も可能な頭脳の持ち主でありながら、浪速大学へ進学し、実質上首席で卒業しています。性格も義理人情に厚く、正義感に溢れた申し分のない男です」
森岡はいつになく力説した。
「もちろん、今すぐ将来をどうこうということはないでしょうが、坂根は真剣にお嬢さんを想っています」
「よくわかりました。森岡さんがそうまで言われるのですから、よほどの人物なのでしょう。恋愛は自由ですから、当人同士に任せます」
池端は観念したように言った。
「有難うございます。これで池端さんにお会いした甲斐があったというものです」
晴れ晴れとした面で言った森岡に、
「それでは、もしや娘のことだけのために、私をお呼びになったのですか」
池端は信じられないと言った顔つきで訊いた。
「そうです。ですが、私がお会いしたいと申し上げても、池端さんは会って下さらないと思いまして、松尾会長に一役買って頂いたのです」
「なんと、松尾会長もそのためにわざわざ貴重なお時間を……」
池端の面から血の気が失せて行った。それも無理のないことであろう。
世界の松尾正之助が私事、しかも可愛がっているとはいえ、所詮は赤の他人に過ぎない森岡のために動いているのだ。
「先ほど、この男はわしの義孫も同然と言ったが、それだけではない。人物も大いに評価しておる。許されるものならば、将来松尾グループを率いて貰いたいぐらいじゃ」
松尾は、本気とも冗談とも付かぬ体で言った。
池端の目には、それがより真実味を帯びて映った。
「池端さん、会長の戯言ですよ」
と言った森岡の面が、次の瞬間引き締まった。
「正直に申し上げましょう。実は、池端さんには一つだけお教えて頂きたいことがあったのです」
「何でしょうか」
そう答えた池端は内心、
――やはり、そうだろうな。
と身構えた。
「うちの株式の引き受けを断るように圧力を掛けた貴方の上司のことです」
「それは……」
池端は眉間に皺を寄せた。
「いえ、名前を教えろとは申しません」
「では何を?」
「その上司は天真宗の信者でしょうか」
「……」
思いも寄らぬ問いであった。池端には、信仰する宗教を知ることにどういう意味があるのかわからなかったが、しばらく沈思した後、覚悟を決めたようにゆっくりと頷いた。そして、
「森岡様だけでなく松尾会長までも、私の娘のために時間を割いて頂きましたからには、お二人の誠意にお応えするためにもはっきりと申し上げましょう」
池端はあらたまった顔つきで、、
「圧力を掛けたのは財務担当の横溝専務です。宗派は存じません」
と告げた。
「有難うございました」
彼の苦衷を推し量った森岡が、礼を言って頭を下げると、
「言い訳に過ぎませんが、正当な理由のない決定に納得できなかった私は、専務に異論を唱え続けましたが力が及びませんでした」
池端も頭を下げた。
「やはりそうでしたか。しかし、次の頭取候補に逆らって大丈夫なのですか」
「さすがにクビにはならないでしょうが、地方の支店に左遷にはなるでしょうね」
池端は力のない笑いを零した。
それを見た森岡は咄嗟に、
「どうでしょう。左遷の憂き目に遭うくらいでしたら、経理担当役員としてうちに来て頂けませんか」
と突拍子もないことを口にした。
「はい?」
池端は気の抜けた声を出した。
「私の会社にお誘いをしたのです」
「しかし、御社には住倉専務がおられるではありませんか」
当然のことながら、池端と住倉は仕事を通じて見知った仲である。
「住倉は、もうすぐ別会社の社長に転じます。経理に明るい貴方が野島を助けて下されば、これほど心強いことはありません」
「野島副社長……を」
「私はウイニットの上場後、直ちに代表権の無い相談役に退き、野島に後を任せるつもりでいます。その野島の次に、ただ今申し上げました坂根を、と考えているのです」
内心は中鉢博己を後継者と定めていたが、まだ世間に公表する段階になかった。
「池端さん、彼はもうすぐ数社を傘下に置く持ち株会社の代表に就くのじゃよ」
松尾が、榊原商店と味一番そして自分が所有する三社の持ち株会社を設立する計画を話した。
「なんと、そのような話になっているのですか」
唸るように言った池端に、
「誠に僭越ですが、私の見るところ、坂根とお嬢さんは一緒になると思います。順調に行けば、二十年後の社長の椅子には坂根が座っています。そのとき、傍らで娘婿を手助けするというのも、案外やり甲斐のある仕事ではないでしょうか」
森岡は面接時の敦子の履歴書で、池端勲夫が四十八歳であることを知っていた。二十年後でも、十分に現役を通せる年齢である。
「もっとも、ウイニットが生き残っていればの話ですが」
と言って森岡は、あはは……と笑い飛ばした。
「お話を伺って、松尾会長様はじめ、森岡様の支援者は多士済々であることがわかりました。生き残るどころか、前途洋々でしょう」
「本音を申しますと、急拡大する組織の運営には、貴方のような重石となる有意な人材が必要なのです」
と、森岡は偽りのない心情を告白した。
拡大路線を突き進むウイニットにとって、技術者と同様、優秀な管理職の人材確保も切実な課題であった。森岡が即戦力として、他に人材を求めるのはそのためである。
「大変失礼ながら、年収は今の倍を保証します」
「いえ、給与など少しも心配しておりません」
池端は微笑みながら言った。
すでに森岡の人となりに感心しきりの彼は、
「家内とも相談しなければなりませんが、前向きに考えさせて頂きます」
と軽く頭を下げた。
「よし、これで話は終わったの。池端さん、この後の予定はあるかの」
「ございません。会長とお会いするのですから、スケジュールは空けて参りました」
池端は畏まって答えた。日本経済界の大立者との面会である。当然の配慮だった。
「森岡君、池端さんを交えて、幸苑で一杯というのはどうじゃ」
松尾が口の前で猪口を傾ける仕種をした。
「良いですね」
森岡が二つ返事で賛同すると、
松尾はさらに、
「榊原さんと福地さんにも声を掛けたらどうじゃろ」
と持ち掛けた。
「では、坂根と敦子さんも呼びましょう。二人も安心するでしょうし、坂根という男を知って頂ける良い機会となります」
「うむ。もののついでじゃ、もう一人呼ぼう」
「彼女の同伴となりますと、また店を貸し切りにしなければなりませんが、もちろん今回も会長の奢りでしょうね」
弾んだ声で言った松尾に森岡が念を押した。