黒い聖域   作:安岡久遠

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第五巻 聖域の闇 秘宝(3)

 森岡は、大河内法悦との話を景山律堂に伝え、再び枕木山に関する資料の探索を依頼したが、大河内が指摘した資料を含め、鉱脈に関する記述は一行も見つからなかった。

 敵もさるもの、先手を打って証拠隠滅を図ったと見られた。

 そこで森岡は視点を変えた。

 史跡という観点から総本山に拘ることなく、広く世間に眼を向けたのである。

 森岡には当てがなくもなかった。

 高校時代の恩師藤波芳隆である。彼は、出雲大社の流れを汲む由緒正しい古社の神官で、宗教学にも造詣が深かった。

 一縷の望みを掛けて、再び藤波を頼ることにしたのだが、何分身体が二つも三つも欲しいほど多忙を極めている森岡である。藤波に来阪を願うことにした。

 十分な饗応と引き換えに大阪入りを承諾した藤波を、森岡は幸苑に招待した。

「先生、ご足労をお願いし、申し訳ありません」

 森岡は神妙な顔つきで頭を下げた。

「なあに今日、明日と取り立てて急ぎの用事はなかったでの。美味い物を食わせ、美味い酒を飲ませてくれるらしいから、旅行気分で来たわい」

 藤波は幸苑の料理を口にしながら、満足の笑みを浮かべて言った。

「ところで、電話で言っておった枕木山だがの」

 はい、と森岡は期待の目で藤波を見た。

「わしなりに調べててはみたが、何もなかったわい」

「そうですか」

 森岡は落胆の色を隠せなかった。

「ただ酒を飲ませてもらうようですまんの」

 と、藤波はいかにも申し訳なさそうに詫びた。

「とんでもありません。先生にお調べ頂いて何も無ければ、諦めも付くというものです」

 森岡はさばさばした顔つきで言った。気持ちの切り替えの速さは彼の天性である。

 ビールグラスを置いて、ふっと藤波が息を吐いた。

「しかし、ずいぶんと大きくなったものだな」

「……」

「過日、十数年ぶりに会ったときも感じてはおった。おったが、得心がいかなかったというのも正直なところじゃった。だが、今日再会してみて素直にそう思う」

「誉め過ぎです」

「考えてみれば破天荒、いや破滅的だったわしのような教師を真摯に受け止めてくれたのはお前だけだった」

「それは違うでしょう。私が言うのもおこがましいですが、先生の授業は圧巻でした。尊敬していた学生は大勢いました」

「授業だけはの」

 と、藤波は寂しい目を森岡に向けた。

「だが、私の心の中に踏み込んで来たのはお前だけだった」

「私は運が良かったのかもしれません」

「運、とな」

「私は幼くして父を失っています。父も酒好きでした。当時は嫌悪感しか抱いていませんでしたが、先生の飲みっぷりを見て、父の面影を重ね合わしていたのかもしれません」

「なるほどの」

 藤波は感慨に耽ったように言うと、一転して意気込んだ声になった。

「実はな、わしもただ酒を飲むのは寝覚めが悪いで、これはと頼りになる人物を見つけておいた」

「あ、それはどうも」

 森岡も明るい顔になった。

「お前、『目加戸瑠津(めかとるつ)』と女性を憶えているだろう」

 藤波の目が悪戯っぽい輝きを放っている。

「『めかとるつ』って、まさかあの?」

 森岡が複雑な表情で問い返す。

「その目加戸瑠津じゃ」

「憶えているもなにも、クラスメートでした」

「それだけか」

 藤波は神職に携わる者とも思えぬ下卑た笑みを浮かべた。

「まあ、多少の恋心も」

 あった、と森岡は戸惑いながら答えた。

 目加戸瑠津は高校一年次のクラスメートで、入学早々から全校男子生徒の熱い眼差しを受けていたマドンナ的存在であった。

 彼女は正真正銘、深窓のお嬢様だった。

 先祖は鎌倉の御世、後醍醐天皇と供に隠岐に配流となったやんごとなき身分の血筋で、江戸時代からは千利休を源流とする観世流茶道の家元である。

 小柄で華奢な体つき、少女のような童顔だったが、近寄りがたいほどの凛とした気品を纏っていた。森岡は、瑠津をよく知る中学時代の同級生から彼女の生家のことを聞き、血筋の成せる業か、と納得したことを憶えている。

「目加戸瑠津」、下から読めば「つるとかめ」、すなわち「鶴と亀」という真に目出度い名で、いかにも女児誕生のときのために用意していた名のように見受けられたが、当人は不服のようで、朝礼時などの点呼の際、姓名で呼ばれることを非常に嫌っていた。

 そこで藤波に代わって点呼をしていた森岡は、姓だけを呼ぶようにした。ただ、彼女だけそのようにすると却って目立ってしまうため、他の者も同様とし、同じ姓の者のみ姓名で呼ぶようにした。 

 森岡は瑠津との出会いを追憶すると、今でも赤面する。ほろ苦い失恋を思い出すのだ。

 

 それは入学して二ヶ月が経った頃のことである。

 クラスの席替えがあったのだが、予め男女が均等に分布するよう配慮されてからくじ引きとなった。

 そのとき、小さな事件が起こった。森岡の右横になった女子生徒に目加戸瑠津が何やら話し掛けると、二人は席を替わったのである。

 森岡は、瑠津にとってその席が授業を受ける上で都合が良いのだろうとしか思わなかった。

 ところが、休憩時間になると瑠津が話し掛けてきた。クラスメートであるから、話し掛けられることなど当然といえば当然なのだが、彼女は実に親しみの籠った表情で身の上を訊いてきたのである。

――まさか、俺に気が有るのか?

 森岡もしだいに淡い期待を抱くようになった。

 それから、さらに二週間が経った頃である。

 瑠津が何時になく神妙な顔つきで森岡を見つめた。

 森岡はいよいよ告白か、と胸躍る想いになった。

 ところが、彼女の口から出た言葉は思いも寄らぬものだった。

「森岡君って、坂根君とお友達でしょう」

 一瞬、森岡は何を言っているのわからなかった。

「え? う、うん。坂根秀樹は親友だけど……」

「でしたら、私を彼に紹介して下さらない」

 瑠津は、はにかみながら俯いた。

――そういうことか……。

 森岡は、席を替わったときからの彼女の言動を理解した。

 森岡には、怒りとか悔しさ、嫉妬などの感情は一切起こらなかった。坂根秀樹は親友であり、全ての面で自分を凌駕している男である。男の自分でさえ、惚れ惚れする男である。瑠津のようなお嬢様が恋心を抱くのは、自分ではなく坂根秀樹で当然だ、という思いがあった。

 結局、森岡の仲立ちで目加戸瑠津と坂根秀樹は交際を始めたのだが、ともあれ彼にとっては何とも面映ゆい名であった。

「わしの目には、むしろ彼女の方がお前に気があったように見えたがな」

「それはないでしょう。彼女は坂根秀樹と交際していました」

 森岡は取り合わなかったが、

「そうかな、彼女の心はお前に移って行ったように見えたがな」

「有り得ません」

 あらためて強く否定した森岡は、でも先生はどうして、と訊こうとして愚かだったと後悔した。

「……先生は観世流茶道の高弟でしたね」

 そうだ、と藤波が頷く。

「稽古が終わると話す機会があったのだが、いつ頃からか彼女はしきりにお前のことを聞いてきた」

「私と先生との特別な関係に気づいていたのでしょうね」

「そういうことだろうの」

「とはいえ、やはり有り得ないでしょう」

 森岡の否定が弱くなる。

「では、今度会ったら昔話に訊いてみると良い」

 藤波は意味深長な言葉を吐いた。

「はあ?」

「実はな、目加戸は京都の日本歴史学芸館というところで古文書を解読する仕事に就いているらしいのじゃ」

「古文書ですか」

「先祖が先祖だけにの。大学で日本史を専攻し、そのまま仕事にしたということらしい」

「そう言えば、高校時代にそのようなことを言っていました」

 森岡は、将来について雑談したときのことを想起していた。目を輝かせて自身の未来を語った瑠津に、森岡は何を言ったか憶えていない。その頃の彼に未来の展望など無かったのである。

「だからの。ひょっとしたら、何か手掛かりが掴めるかもしれんぞ」

「可能性はありますね」

 森岡の目に希望の灯が射した。 

「電話番号はわかりますか」

「もちろんじゃ。今から掛けてみようか」

「では先生、もし彼女の都合さえ良ければ、明日にでも京都にご一緒しませんか」

「わしが居っては邪魔じゃないかの」

 藤波がからかうように言う。

「な、何を仰っているのですか。いくらなんでも、人妻に手など出しませんよ」

 森岡は動揺を隠すかのように、激しく手を振った。

「彼女はまだ独身じゃ」

「そうなのですか」

「案外、想い人を追い続けているのかもしれんな」

 藤波はじろりと森岡を見詰めた。

 森岡の面に困惑の色を看取った藤波は、

「それはそうと、この後はどこへ連れて行ってくれるのかな」

 と話を逸らした。

「北新地を予定していますが」

「それは楽しみじゃな。安月給じゃったから、北新地など二、三度しか行ったことがない。しかも安っぽいラウンジばかりだ。そこは高級クラブなのだろうな」

「そこそこには」

「お前のそこそこは期待できるからな」

 藤波は頼もしそうに笑った。

 

「ママ、高校時代の恩師の藤波先生だ」

 森岡が席に着いた茜に紹介すると、

「これは、まさに天女のような美しさだの」

 藤波は神妙な口調で言葉を紡いだ。

「まあ先生ったら、まるで神主様か何かのような口ぶりですね」

「ママ、本物の神主さんや。しかも、出雲風土記にも名がある由緒正しき古社やで」

「あら、これは大変失礼しました」

「さすがに天下に名高い北新地じゃの。ママさんだけでなく、皆美形揃いじゃ」

 恐縮して詫びる茜に、藤波が誉めた。

 茜は、ありがとうございます、と小さく頭を下げると、

「このお方が、森岡さんの大恩人でいらっしゃいますね」

 そうだ、と森岡は肯いた。

「お前、そんなことまで話しているのか。もしや、この別嬪さんはお前の……」

 恋人なのか、という顔の藤波に、

「まさか、私など見向きもされませんよ」

 と、森岡は大仰に手を振った。

 そうかな、と疑いの目をした藤波に、ふといたずら心が湧いた。

「まあ、良いわ。わしはこの別嬪さんと酒が飲めれば良い」

 上機嫌でそう言った後、

「それにしても、明日は楽しみだの、森岡君」

 とからかったのである。

「あら先生、明日は何かございますの」

 案の定、茜が敏感に反応した。

「うん。それがの、この男の『憧れの君』に会いに行くのじゃ」

「先生……」

 と泡を食ったように藤波の口を封じようとした森岡に、茜が詰め寄った。

「憧れの君ってどなたですの」

 笑顔だったが、目は吊り上がっていた。

 森岡は、背に冷や汗が伝うのを感じつつ、

「大昔のことだ。それに、明日は本妙寺の件に絡むことで相談したいことがあるからで、特別な感情など無い」

 と弁解に終始した。

「神村先生を盾にすれば、何事も罷り通るなどと思わないで下さいね」

 茜はすっかり女房気取りの口調である。傍から見れば、夫婦の痴話喧嘩だ。

 藤波はにやにやしながら、

――お嬢さんはがっかりするかもしれないが、先妻を亡くしたこいつも、やっと幸せになれるのか。

 と胸に熱いものを感じていた。

 

 日本歴史学芸館は京都市東山区にあった。この学芸館は政府の外郭団体ではなく、京都府、京都市、京都にある大学、民間企業が共同出資して、日本の歴史研究のために設立された組織である。

 特に京都、奈良を中心に長らく日本の都があった畿内一円は、数多の古文書が残っている。その多くは私文書であるが、これらを解析することで、歴史の蓋然性の担保や当時の社会慣習、環境を推察することができるのである。

 目加戸瑠津は、この学芸館で主任研究員をしていた。

 二人は一階ロビーの喫茶室で彼女を待っていた。

「まあ」

 森岡を看留めた瑠津がその場で立ち竦んだ。

「先生も意地悪ですね。森岡君が同道するなんで、一言も仰っていなかったでしょう」

 拗ねたような顔がまた魅惑的だった。彼女は二十年の時を重ね、大人の美を纏っていた。それは高校時代、童顔だった分だけ三十六歳にはとうてい思えない若葉のように瑞々しい美しさだった。

「お前さんを驚かしてやろうと思ってな」

 藤波は、してやったりという目をして言った。

「森岡君、お久しぶり。貴方の活躍は耳にしているわよ」

 と微笑んだ瑠津の顔は少し赤らんでいた。

「俺の活躍?」

「京都はね、広いようで案外狭いのよ」 

 不審の色を見せた森岡に、瑠津はもっともらしいことを言った後、

「実は、学芸館の後輩研究員の親戚に本妙寺の関係者がいるらしいの」

 と種を明かした。

「関係者?」

「確か、護寺院の会長さんって言っていたわ」

「相馬上人かい」

 そう、と瑠津は肯いた。

「後輩はその相馬さんの姪御さんなの」

「ふーん、確かに世間は広いようで狭い。僕はこれまで何度も同じような経験をしているよ」

 森岡は吉永母娘、鴻上智之との関わり、ギャルソンの柿沢父子と勝部雅春や阿波野光高との因縁を脳裡に浮かべて言った。

「最初、やり手の若者で森岡って名が出たとき、貴方だなんて思わなかった。その後、詳しい話を聞いても貴方とイメージが重ならなかった」

「そりゃそうだろ。わしなんか、今でも信じられないもんな」

 藤波が同調した。

「でも、さらに話が深まって行くと、ふと貴方の姿が頭の片隅に浮かんだの」

「ほう。どうしてかの」

「先生、彼って異様に一途じゃありませんでした」

「なるほどの」

 藤波は何度も顎を上下させた。

「それで、今日はどういう御用かしら。まさか、その本妙寺の件じゃないわよね」

「そう言われてしまうと、話し辛くなる」

「あら、本当にそうなの」

 と、瑠津はつぶらな瞳をさらに丸くした。

「私に何を聞きたいの」

「天真宗所有の枕木山というお山を知っているかな」

「枕木山って、確か静岡県の」

「そう」

「ごめん、それ以上詳しくは知らない」

 瑠津は申し訳なさそうに言った。

「いや、それは構わないんだけど、その枕木山についての古文書があるかどうか調べて欲しいんだ」 

「どういった類のことなの」

「特別にこれ、というのはない。というより、どんな些細なことでも良いんだ」

「うーん」

 瑠津はしばらく沈思した。そして、

「枕木山がそうかどうかはわからないのだけど……」

 と前置きすると、耳寄りなことを口にした。

「あの辺りの山はね。金鉱脈があるかもしれないの」

「金?」

「武田信玄の甲府金山は有名でしょう」

「それなら俺も知っている」

「武田の古文書によると、信玄は所領地の甲府、信濃の他にも周辺の山々を山師に調べさせていたようね」

「他国を、か」

「当時の山師というのは乱破(らっぱ)が多かったから、軍事情報の収集も兼ねていたようね」

 乱破とは忍者のことである。

「信玄はいずれ上洛した後、織田と徳川は滅ぼす腹積りだったから、そのときまで隠匿していた可能性もあるな」

「その枕木山がそうだったかどうかは不確かよ」

「わかっている。目加戸さん、もう少し詳しく調べて貰えるかな」

「どうしようかな」

 瑠津は勿体ぶるように言い、

「見返りは何かあるのかしら」

 と訊いた。

「お礼なら、出来得る限りのことするつもりだよ」

「じゃあ、もしお役に立てたら、デートしてくれない」

「……」

 返事に戸惑った森岡に代わって、

「お嬢さんも、ずいぶんと積極的になったものだの」

 と、藤波が助け舟を出したが、

「あら先生、私も三十六歳の女盛りですのよ。いつまでも初心な少女ではありませんわ」

 瑠津は平然と一蹴した。  

「でも、それは冗談。できたら、学芸館に寄付をお願いしたいの」

 瑠津の面に憂いが宿った。

「うちは半官半民なのね。だから、片方の柱である民間支援の激減は痛いの」

 時代はバブル崩壊後の不景気の真っ只中にあった。IT関連企業以外の分野では軒並み業績の下方修正が続いていた。そのため、民間企業の多くは文化事業への投資を縮小していた。

「どれくらい必要なの」

「百万でも二百万でも……いくらでも助かるわ」

 瑠津は遠慮がちに言った。職場の後輩から聞いていた、本妙寺次期貫主を巡って活動しているIT企業経営者というのが森岡だとわかったが、そうかと言って多くを望むことはできない。

「そんなんで良いの」

「えっ」

「学芸館の規模は知らないけど、焼け石に水じゃないのかな」

「ええ、まあ……」

 瑠津は口を濁した。

「遠慮せずに希望額を言ってごらん」

 森岡に背を押されて、ようやく瑠津は意を決した顔つきになった。

「当面、三千万ほど寄付して貰えると助かるわ」

「良いよ。一億寄付しよう」

森岡は二つ返事で応じた。

「い、一億って」

 驚く瑠津に、

「仕事の内容を吟味した上で賛同できれば、一億とはいかないけど、三千万ぐらいなら来年以降も継続させてもらうよ」

 と、森岡が言葉を継いだ。

「本当に」

「約束しよう」

 信じられないという顔の瑠津に、森岡は力強く顎を引いた。

「とても有り難い話だけど、ITってそんなに儲かるの」

「ううん、まあ」

 今度は森岡が言葉を濁した。

「お嬢さんや。こいつはな、とてつもない大金持ちになっているらしいぞ」

「大金持ち……」

 瑠津は首を傾げた。森岡のイメージとは一致しないらしい。

「なんというか、俺自身もピンこないのだが……」

 と煮え切らない森岡に代わって、

「近々、年商一兆円企業群のトップに座るそうだ」

 業を煮やしたように藤波が言った。

「一兆円……」

 あまりの多寡に呆然とする瑠津を他所に、

「どうしてそれを」

 森岡は不審げに訊いた。

「坂根から聞いたが、悪かったかの」

「いいえ、隠しておくことでもないですから……。でも、坂根からお聴きになったのはそれだけですか」

「それだけ、とはどういう意味だ。他にも何かあるのか」

「まあ、無くもないですが、先生はお知りにならない方が良いでしょう」

 森岡は厳しい眼つきで言った。

 藤波はごくりと生唾を飲んだ。彼は、出雲風土記にも記載がある古社の神官である。人を見る目は十分に養っている。

「ほう、お前がそのような目をするか。なにやら、違う世界にも足を踏み入れているようだの」

 森岡は黙って首肯した。

「とはいえ、別に犯罪に手を染めているわけではない。寄付は真っ当な金だよ」

 呆然とする瑠津に向い、森岡は真顔で言った。

 調べが付き次第、連絡を貰うという約束をして森岡は瑠津と別れた。

 

 東京永田町の議員会館で、秘書の金丸から森岡洋介に関する調査報告を受けた唐橋大紀は、唇を噛み締め、身を震わせていた。

 唐橋の私設第一秘書である金丸は、森岡の身辺調査を興信所に依頼した他、自らも浜浦に出向いて森岡忠洋に会い情報を収集した。

 通常、国会議員は「金帰火来」といって、週末の金曜日に地元選挙区に帰り、週明けの火曜日に東京へ戻るという日程を熟している。

 しかしそれは、陣笠議員、つまり次回の選挙に不安のある、その他大勢の議員が地元後援者との親交を深めるためであって、現職閣僚や唐橋大紀のような政権与党の重鎮など、盤石の選挙基盤のある大物議員はその限りではない。東京に残ってやるべき仕事が多いからである。その場合は、議員の妻女や秘書が役目を代行する。

 したがって、懐刀ともいえる金丸が、唐橋に代わって有力後援者と会うことに違和感はなく、次回選挙に向けての相談の合間に、さりげなく森岡の近況を問い質すことは容易であった。森岡忠洋にしても、取り立てて警戒する必要も感じなかったので知る限りのことを口にした。

 ウイニットが上場を予定していることはもちろんのこと、森岡の婚約者である山尾茜が松尾正之助の縁者であること、その松尾の所有する会社と味一番株式会社を含む数社の持ち株会社のトップに君臨する予定であることなどを話をした。

 いずれも、お盆の酒宴の際、南目輝が自慢げに漏らしたものであった。しかし、さすがに酔ってはいたものの、ブックメーカー事業の話は口にしなかったらしい。

 唐橋大紀がことさら後悔の念に苛まれたのは、森岡の昇龍の如き立身出世もさることながら、神村正遠の薫陶を受けているという事実だった。

「わしとしたことが、手抜かりだった」

 唐橋大紀は呻くように言った。

 首相も務めた竹山中の急逝に伴う補欠選挙に、竹中陣営は満足な後継者を立てることができなかった。為に、島根半島界隈の地盤が唐橋大紀に戻った。取り纏めに尽力したのは、森岡忠洋をはじめとする灘屋の親戚の面々である。

 その際、何度か森岡洋介の消息が話題に上ったのだが、唐橋は潰れた家の者など気にも留めなかった。もっとも、森岡自身が消息を絶っていたので、彼の噂が浜浦に届くことはなかったのだが……。

 ただ、唐橋大紀は父大蔵から決して灘屋を恨んではならない、と釘を刺されていただけでなく、注視を怠るなとも忠告されていた。いま思えば、殊の外利発な子供だった森岡洋介の今日を予感してのことだったのかもしれない、と彼は悔いていた。

 現在の唐橋は、民自党最大派閥・阿久津派の後継領袖の座を巡って、宿敵議員と鍔迫り合いの真っ最中にいた。願望成否の鍵は、表向きには阿久津に対する忠誠心、すなわち禅譲後も彼を厚遇するか否かということになっているが、内実は金、資金力である。

 派閥の総領ともなれば、身銭を切って所属議員の金銭的面倒を看なければならない。お盆と暮れの、俗に言う「もち代」や選挙資金など、所属議員が多ければ多いほど、派閥維持は潤沢な資金が必要となる。故に、いかに強力なスポンサーを確保するかが最重要課題となる。 

 その観点からいえば、森岡ほど条件の揃った人物はそうそういるものではない。

 まず第一に、父大蔵と森岡の祖父洋吾郎の長年に亘る交誼である。最後は反目する形となったが、両人共に本意ではなかった。大紀には遺恨など微塵も無いし、森岡洋介には何の関わりもないことである。

 次に、森岡自身が資産家ということである。ウイニットの上場で一時的に巨万の富を得るだけでなく、年間売上一兆円規模の企業群のトップに君臨するとなれば、安定的な支援が期待できる。

 そして極め付けが神村正遠の存在である。神村の高名は唐橋大紀の耳にも届いていた。政権与党の重鎮たちの中にも、指導を受けている者がいることも知っていた。何といっても神村は、あの「歴代総理の指南番」と称された希代の大学者奈良岡真篤から後継指名されたほど人物である。

――あのときの余裕は、確かな理由に裏付けされていたのか。

 唐橋は、赤坂の事務所での面談を想起していた。

「まさか、そのような男だったとはい思いも寄りませんでした」

 金丸が嘆息した。

「灘屋一門が、これまで一片の揺るぎもなく彼を総領として扱ってきた所以だな」

 と、唐橋も切れ者秘書に同調した。

「虎鉄組とも円満解決したようです」

「そうか」

 唐橋は抑揚なく受け流した。森岡であれば当然だろうな、という思いがあった。

 だが、

「その場に宗光氏も同席していたようです」

 との秘書の言葉には驚愕した。

「なに!」

 さしもの大物政治家も二の句が継げなかった。

――いかにして、右翼の首領を引っ張り出したのか。

 思いはその一念だった。

 唐橋との面会を終えた森岡から東京での宿泊先を聞き出した金丸は、旧知の興信所に依頼して、森岡の行動を監視させていたのである。

「大魚を逃がしたかのう」

 唐橋は落胆の声で言った。

 面会の際の尊大な態度と、宗光賢治に関して何も助力できなかったことを照らし合わせれば、森岡が不快に思っていても仕方がないところである。

「森岡忠洋さんに仲立ちしてもらってはいかがでしょう」

 金丸が提案した。叔父と甥の関係に期待してのものである。

「それはできない。失策を重ねるだけだ」

 唐橋は強い口調で断じた。

 さすがに、魑魅魍魎が蠢く政界にあって出世を重ねた政治家である。森岡忠洋を介することは下策だと見切っていた。

 森岡洋介は凋落した灘屋を捨て、自力でここまで登り詰めている。いまさら、親族の言に耳を傾けるとは思えなかった。さすれば、森岡忠洋を使って籠絡しようという姑息な手段を用いた自分に嫌悪感を抱くかもしれない。唐橋大紀はそう考えたのである。

「では、どうのようにいたしたら」

「考えどころだの。こちらは一度失態を演じている。二度目はない」

「はい」

「焦りは禁物だ。あれだけの大魚だ。網に掛ける方策はじっくりと考えねばなるまいな」

 そう言った唐橋の眼は、いつもの老獪な政治家のそれに戻っていた。

 

 

 

 

 

 

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