黒い聖域   作:安岡久遠

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第五巻 聖域の闇 不穏(1)

 森岡洋介が推量した通り、週刊誌によるスキャンダル報道、富国銀行の株式引き受け拒否、そして坂根好之の拉致監禁と、彼が自身に降り掛かる火の粉の対応に追われていた裏では、京都大本山本妙寺の新貫主選出の鍵を握る貫主たちが微妙な動きを始めていた。

 そのような折、森岡は片桐瞳の呼び出しを受け、京都祇園のお茶屋吉力に足を運んだ。傳法寺前貫主の大河内法悦と面談してから半月も経たないうちの祇園入りだった。

 森岡は蒲生亮太と足立統万、そして神栄会若頭補佐の九頭目弘毅を隣室に上げ入れ、残る影警護の二人は近くの喫茶店で待機させた。

 座敷では片桐瞳が一人で待っていた。料理は運ばれてなかったが、ビールと簡単なつまみが用意されていた。

 彼女は森岡を見るなり、

「洋介、忙しいのにごめんね」

 と顔の前で両手を合わせた。

「それは構わんけど、何かあったんか、お姉ちゃん」

 森岡は深刻な顔つきで訊いた。

「その、お姉ちゃんっていうのは止めてくれない」 

 迷惑そうな顔をしながら、森岡のグラスにビールを注いだ。

「二人きりのときは、昔通りでええやないか」

「でも、あの頃とは違うわ。私はともかく、洋介は世間が注目する新進気鋭の若手経営者だもの。そんな人にお姉ちゃんだなんて、恐れ多くて」

「社会的地位なんて関係あらへん。俺はお姉ちゃんと出会った頃のままの付き合いがしたいと思っている」

「出会った頃ねえ……」

 と感慨に耽った様子の瞳の目が悪戯っぽい輝きを放った。

「ねえねえ、あの頃洋介は私のこと好きだったの」

 ぷっ、と口に含んだビールを吐き出しそうになる。

「いきなり、なんだ」

「私に想いを寄せていたの。それとも身体に興味があっただけなのかしら」

「正直にって、お姉ちゃんに恋愛感情は無かった」

「まあ、はっきり言うわね」

 瞳は少し落胆の口調で言う。

「といって、姉ちゃんの身体が目的だったわけでもないで。なんて言ったらええのかな。大学に入ってすぐ祖母が亡くなり天涯孤独になった俺は、運よく神村先生に拾われ、生きる希望が湧いていた頃やった。せやけど、先生のお寺での暮らしは緊張の連続で、たとえ先生が他出されたときでも、何か試されてはいないか、何か落ち度はなかったかと、一時も神経の休まることがなかった」

 森岡は神村の知人からの苦情を受けて、一旦経王寺を出たことがあったのだが、そのとき気の緩みを神村にこっぴどく叱責されたことを生涯の教訓としていた。

「そうだったの。私は神村先生の同伴とはいえ、まだ大学生だというのにお茶屋で舞妓や芸妓遊びに興じる能天気な奴としか思っていなかった」

「そういう俺にとっては、お姉ちゃんといるときだけが気の休まる時間だったんや」

「だったら、本当に姉だと思っていたの」

「恋人というよりはそっちに近い」

「だったら私たち近親相姦しちゃったのね」

 瞳は冗談のつもりだったが、森岡の表情が一瞬にして曇った。

「どうしたの、洋介。真に受ける馬鹿がどこにいるのよ。第一、私たちは実の姉弟じゃないのよ」

 森岡の深刻な様子に、瞳もまた真顔になっていた。

「いや、なんでもない。ちょっと昔の嫌な思い出が蘇っただけだ」

「昔のって、なに」

「それは、お姉ちゃんにも言えない」

 森岡は強い口調で拒絶した。

 瞳は思わず身震いした。その苦悩に満ちた表情に、心底を覆い尽くす深い闇を垣間見た気がしたのである。

 そのとき、襖の向こうから気まずい空気を引き裂くような声が掛けられた。

「入ってええどすかあ」

 実に長閑な声音だった。

「鶴乃ちゃんの声やないか」

「あら、いけない。すっかり忘れてた」

 瞳が掌で額を叩くと、襖の向こうに返事をした。

「鶴ちゃん、どうぞ」

 襖を開けて、舞妓姿の鶴乃が入ってきた。

「いけずやわあ、瞳姉さん。いつまで待たせるんどすか」

 鶴乃は頬を膨らませる。

「ごめんなさい。つい話し込んでしまったの」

「うちのことを忘れるほど仲睦まじいなんて、よろしゅうおまんなあ」

 口調はのんびりとしたものだが、嫌味たらたらである。

「鶴ちゃん、機嫌直して洋介に酌をしてあげて」

 瞳は宥めるように言うと、腰を上げた。

「それじゃあ洋介、大事な話があるようだから、しっかり聞いてあげてね」

「えっ、話って鶴乃ちゃんなのか」

「そうよ、言ってなかったかしら」

「聞いてないけど、瞳もいたら良いじゃないか」

「せっかくだけど、これから私はお客様と同伴だからそうはいかないの。どうぞ二人で燃え上がってちょうだい。それから、他の舞妓さんや芸妓さんにも声を掛けてあるから、鶴乃ちゃんの話が済んだら呼んであげてね」

 瞳は無責任な捨て台詞を吐いて、さっさと部屋から出て行った。

「森岡はん、うちと二人きりは嫌どすか」

「そ、そんなことはないで。日本一の舞妓を独占できるのやから、男冥利に尽きる」

 口を尖らせた鶴乃に森岡が慌てて弁解した。

「ほんまに」

「ほんまや」

 森岡は気圧されるように言った。

 鶴乃は類い稀な美人である。素顔を見たときに想像した以上の、壮絶な美貌の持ち主だった。舞妓の化粧なので一般とは違うが、過日の素顔、眼前の舞妓の化粧から普段の化粧顔を想像すれば、なるほど各界の著名人が躍起になって口説いているのも理解できた。

「それで、大事な話って何かな」

 森岡が話を変える。

「へえ、その前に、もしうちの話が森岡さんにとって有益なことどしたら、鶴乃にご褒美をくれはりますか」

「俺に関係があることなんか」

 森岡が訝し気に訊く。

「へえ、たぶん」

 鶴乃は小首を傾げた。その仕種が少女のようにあどけない。

「だったら、もちろんお礼はするよ。ただで情報を貰おうとは思わんで」

「ほらな、話の前に鶴乃にもビールを一杯注いでおくれやす」

「おう、これは気が利かんことやった」 

 鶴乃は注がれたビールを一口飲んだ。

 鶴乃は十八歳だが、京都府の条例で舞妓の職にあるときは飲酒ができる。過日はプライベートだったので飲酒はしていなかった。

 ついでに言っておくと、京都や関西では芸妓というが、関東では芸者と呼ぶ。

「実は、蔦恵(つたえ)いう先輩芸妓の姉さんがいてはるんですけど、置屋も違うし、六歳も離れているのに、ほんに気安うてお互い何でも話せる仲なんどす」

「ほう。それは心強いやろうな」

 へえ、と肯いた鶴乃は、

「ところが、最近姉さんが元気がおへんのどす」

「困ったことでもできたのか」

「というより、近々身請けされる予定どしたが、流れてしもうたらしいのどす」

「なんでや」

「それが、相手はんが急に金が出せんようになったらしいのどす」

「わかった。その金、俺に出してくれと言うんやろう」

 過日、森岡が女性の難儀話に弱く、資金援助を惜しまないという話をしたばかりだった。

「話を先走る人は好きやおへん」

 鶴乃が駄々をこねるように、ぷいっとそっぽを向いた。

 好きになられても困ると思ったが、口にすれば藪蛇となる。森岡はぐっと言葉を呑み込んだ。

「話の腰を折ってすまん」

 と、森岡は素直に詫びた。

「そんなことを頼みはしまへん。そうではのうて、うちが森岡はんに伝えたかったんは、蔦恵姉さんを身請けしたいと言うてはったのが坂東上人だということどすj

「な、坂東上人やと」

 森岡の声が上ずった。

「間違いなく桂国寺の坂東貫主さんどす」

 これもまた、過日鶴乃が瞳との仲を疑った際、森岡が坂東明園の名を出して弁明したことを覚えていたのだと付け加えた。さすがに、当代一の舞妓は如才ない。高級クラブのホステスと同様、美貌だけではないということなのだろう。

「身請けの金額はいくらだったかわかるかな」

「へえ、なんでも小料理バーを開くとかで、当面の資金繰りや生活費やらで八千万と言うてはりました」

 京都では、畳敷きのカウンターバーで食事をしながら飲酒できる店がある。ショットバーと小料理屋を兼ね備えた店と言えばわかりやすいだろうか。畳敷きと言っても足を下に伸ばせるよう繰り抜いてあるので、カウンターの前に腰を下ろす形となる。

「それが用意できなくなったと」

「なんでも、急に融通できなくなったということでしたえ」

 森岡に直感が働いた。

――坂東は裏切る腹だ。

 現時点で神村支持は法国寺の久田、清門寺の戸川、経門寺の北見、法仁寺の広瀬、龍顕寺の斐川角、桂国寺の坂東の六貫主である。

 そのうち本妙寺の山際前貫主以来、揺るぎなく神村を支持してくれている戸川と北見の二人には、謝礼としてそれぞれ三千万円を前渡ししていたが、他の貫主たちとは成功報酬の形を取っていた。

「いや、これは大変な情報を貰った。ありがとう、礼を言います」

 森岡は頭を下げた。

「森岡はんにとって有益やいうことどすな」

「大いに……」

「ほなら、さっきの約束は守ってもらいますえ」

「もちろんだ。なんでも言ってくれ」

「今は特に何もありまへんけど、いずれお願い申します」

「もうすぐ襟替えやろ、その費用を持とうか」

 襟替えとは、舞妓から芸妓になることである。

 言うまでもないが、現在の舞妓や芸妓は自由恋愛である。旦那と呼ばれるスポンサーに身請けされることも、花街を辞めて一般人に戻るのも自由である。ただ、舞妓になる前に多額の費用を置屋が肩代わりしているので、それが残っている場合は返済しなければならない。

「それは結構どす。もう旦那さんが付いておます」

「色事抜きで?」

「もちろんどす」

 鶴乃がふくれっ面をした。

「それは野暮なことを聞いてしまった。謝る」

 森岡は両手を顔の前で合わせた。

「でも、うれしいわあ、森岡さんはうちの身体を心配してくれはったのでっしゃろう」

 今度は明るい声で言う。その天真爛漫さが男の心を惹きつけてやまないのだろう、と森岡は思った。

「君なら、ちゃんとしたスポンサーが付くとは思ったが、つい訊ねてしまった。俺もまだまだ下衆やな」

 と自嘲した森岡がふとあることに気づいた。

「変なことを聞くけど、その蔦恵さんというのは瞳と似てるかな」

 鶴乃が宙を仰いで思い比べる。

「へえ、そう言われればどことなく似ておます。顔もそうどすが、雰囲気がよう似ておますなあ」

――なるほど、瞳を諦めて蔦恵という芸者に鞍替えしたんやな。

 森岡は坂東の裏切りを確信した。

「それで、蔦恵さんはどうなるのかな」

「へえ、それがまだ契約はしていなかったものの、不動屋さんと口約束をしてはりましたし、一度芸妓を辞める決心をしてはりましたからな、難儀なことどす」

「それなら、俺がその八千万を出すよ」

 ええ……と鶴乃が睨み付ける。怒った顔がまた壮絶に美しい。

「森岡さんが蔦恵姉さんの色になりはるんどすか」

「ば、馬鹿を言うな。俺だって色事抜きでスポンサーなることはある。現に瞳はビジネスライクで出資した」

「せやけど、それは瞳姉さんとは昔馴染みだったからでっしゃろ。蔦恵姉さんとは面識すらおへんのどすえ」

 森岡は驚きを隠せない鶴乃の顔を見据えた。

 一呼吸間をおいて、にやりと笑う。

「何を言うとるんや。当代一の舞妓が仲立ちやないか。これ以上のことがあるかいな」

 鶴乃の目がうっとりとしたものに変わった。

「ずいぶんと粋どすなあ」

「もちろん、これは鶴乃ちゃんへのお礼とは別だからね」

「うちの方は五年後ぐらいになりますから、忘れたらあきまへんえ」

「わかった、約束する」

「ほな、指切りげんまん」

 鶴乃は小指を森岡のそれと絡めた。

「指切りげんまん、嘘吐いたら……」

 そこで、鶴乃は言葉を切った。

「嘘吐いたら、なに」

「嘘吐いたら……」

 鶴乃は絡まった小指を胸元に引いて、同時に顔を突き出した。

 二人の顔が接近した。

「容赦しまへんえ」

 鶴乃はそう囁くと、唇を森岡の唇に重ねた。

 その瞬間、森岡の股間に血が滾った。唇が触れただけで股間が膨張したのは初めてのことである。

――これはあかん。この舞妓(こ)の魔性は男を駄目にする。もし俺が惚れでもしたら、たちまち骨抜きにされてしまうのが落ちだ。

 目眩く官能の中にも、森岡は冷静に分析していた。

 

 

 

 

 

 

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