森岡洋介は、すぐさま谷川東顕、東良兄弟に神村支持者との面談を依頼した。
すると推量通り、桂国寺坂東貫主の挙動が不審だったとの結果が得られた。
確かに、坂東明園は心の疾しさを隠し通せる人物ではない。裏を返せば、それだけ正直者ということであろうが、その彼が曖昧な返事に終始したということは、間違いなく神村支持を翻意したと見るべきであった。
片桐瞳が森岡の出資で祇園にクラブをオープンしたことで、彼女を愛人にとの望みを絶たれ、大金が不要となった坂東の造反は考えられないことではなかった。だからこそ、次善の策として久田帝玄の法国寺貫主就任パーティーの二次会会場にクラブ菊乃を設定したのである。帝玄の威光は坂東の意思の重石になるはずであった。
しかも、片桐瞳から蔦恵なる芸妓へ鞍替えしていたのであるから、多額の金銭が必要な坂東明園に裏切る意志は無かったはずだった。
それでも坂東は裏切りを考えた。
――やはり、巨大な力が裏で働いている。
森岡は顔を歪めた。
というのも坂東明園が翻意しただけでは、神村正遠の優勢は揺るがなかった。
現時点での各貫主の意向は、神村支持が六名、久保支持が四名である。
京都 大本山 別格法国寺 久田 神村
傳法寺 大河内 (辞任)
本妙寺 ――
本山 国龍寺 安田 久保
清門寺 戸川 神村
顕心寺 酒井 久保
桂国寺 坂東 神村
相心寺 一色 久保
関西 本山 奈良 桂妙寺 村田 久保
奈良 龍顕寺 斐川角 神村
三重 法仁寺 広瀬 神村
大阪 経門寺 北見 神村
この状況から坂東明園が久保支持に寝返れば、形勢は五名対五名の五分となるが、その場合は別格大本山法国寺貫主で、京都本山会会長でもある久田帝玄の裁定に委ねられるのである。そのことを重々承知しているはずの坂東が、敢えて実力者久田帝玄に対峙してまで、無意味と思われる裏切りを決めたのは何故か。
森岡の脳裡を掠めたのは、
――坂東の裏切りが意味を持つための、更なる裏切りが画策されている。裏で意図を引いているのは、天真宗の影の実力者、瑞真寺の門主……。
という確信であった。
森岡は神村支持の五貫主の周辺と瑞真寺の調査を榊原壮太郎に依頼した。そして自身は、もう一人の裏切り者は誰なのかを推測した。
まず久田帝玄は消えた。法国寺の宝物の一件が解決を見た彼に、神村を裏切る理由は無い。
次に奈良龍顕寺の斐川角貫主が消えた。貫主の次男勇次の件で面談に及んだときの印象からして約束を違える人物には見えない。
三重法仁寺の広瀬貫主も問題ないと思えた。直接会ったことはないが、真鍋高志の話から地位や金に眼の暗むような人物とは思えない。
残るは、清門寺の戸川貫主と経門寺の北見貫主ということになる。
この二人とも面識はなかったが、ただ彼らは本妙寺の山際前貫主の時代から、山際そして神村を一貫して支持してきている。いまさら裏切り行為に及ぶとは考えられなかった。
では、この五名のうち一体誰が裏切者なのか。それとも杞憂に過ぎないのか。
森岡の推測は堂々巡りするばかりだった。
一週間後、森岡洋介は榊原壮太郎の会社を訪ねた。
「言い難いのやが……」
と、榊原が顔を曇らせた。
「坂東以外では斐川角貫主が一番怪しいな」
「なんやて!」
森岡は驚愕の声を上げた。何度推量を繰り返しても、久田帝玄と共に一番に消えた名だった。
「嘘やろ」
と、森岡は初めて榊原の言葉を疑った。
「お前から貫主さんの息子との関係を聞いとったからな、わしも信じられんかったわ」
森岡の心中を察してか、榊原も沈痛な面持ちである。
「しかし、あの実直そうな斐川角貫主が……」
森岡は信じられなかった。僅かな時間ではあったが、直に会話をしてみて、金銭欲旺盛な一色魁嶺や好色家の坂東明園とは違い、斐川角雲水には一心に仏道に邁進してきた清廉さがあった。とてものこと、裏切りなどという言葉が当てはまるような人物ではなかった。
「爺ちゃん、間違いないんか」
森岡は念を押した。
「法国寺の久田貫主、清門寺の戸川貫主、経門寺の北見貫主、そして法仁寺の広瀬貫主の四人の周辺に異変は全くない。龍顕寺の斐川角貫主のみ、不穏な動きがあるのや」
「不穏な動きとは何や」
それやが、と榊原は声を低めた。
「龍顕寺の護山会会長の話によると、一年半ほど前、ちょうどお前が訪ねて行った頃から上人の表情が物憂げなものに変わったということや」
「心に重石を抱えているということやな」
「会長はな、お前のお蔭で勇次とやらの問題が解決し、公私共に憂いは無くなったはずなのに、貫主さんは何を悩んでおられるのやろうと思っていたらしい」
「勇次の問題を抱えていたときとは違うということやな」
そうだ、と榊原は肯いた。
「息子の引き籠りはの、心配は心配だが、それが露骨に表に出ることはなかったらしい。ところが、近頃では法会の段取りなどで打ち合わせをしていても、心ここに在らずといった様子での、度々溜息を漏らしていたというのや」
「なるほど、それはおかしいな」
「となるとや、誠心実直な人柄の貫主のこと、その悩みの種とはお前に対する罪悪感と考えられないか」
「俺を騙しているとでも? あまりに短絡過ぎやしないか」
「いいや、たぶん間違いない」
榊原は断定口調で言った。
「何か他にも掴んでいるみたいやな」
元より、榊原は当て推量で物を言う人間ではないと承知している。
「実はな。お前が斐川角貫主を訪ねた一ヶ月ほど前、その護山会会長は龍顕寺で正体不明の男と出くわしたことがあったらしい」
「正体不明……」
森岡は訝しい顔をした。
「不審に思った会長は、何者かと訊ねたらしいが、斐川角貫主の口は堅かったということや」
「どんな風体や」
「サラリーマン風の若い男だったらしいが、初めて見る顔で貫主の個人的な信者という風でもなかったらしい。そこでだ、さらに執事の一人にも探りを入れてみるとな、なんと斐川角貫主の方が下手に出ていたらしいで」
――はて? サラリーマン風の男とは、いったい誰に繋がるのだろうか。
と、森岡は頭を捻った。
「どうしたんや、洋介。心当たりでもあるんか」
「いや、なんでもあらへん。それより、その男は斐川角貫主より目上ということやな」
「あるいは目上の人物の使いということになるが、それでも、ただの使いに貫主の身分にある者が下手に出ることは、そうそうあることやないで」
そう言った榊原の眼つきが鋭くなった。
「わしはな、洋介。その男は瑞真寺の門主の使いやないかと睨んどるのや」
――う、うう……。
森岡の全身が総毛立った。榊原ほどの男が吐く言葉は重たい。
「お前かて、瑞真寺の暗躍を疑っとるから、わしに探らせたんやろ」
「ま、まあ、せやけど……だが、しかし」
さしもの森岡でも、現実を消化するのに時間が掛かった。否定したい願望が邪魔をしているのである。
無理もない。確かに事が別格大本山法国寺に移ってからの種々の画策は、瑞真寺門主の仕業ではないかと疑っていた。つまりそれは、門主の主敵はあくまでも久田帝玄だということである。
だが榊原の言葉を信じれば、門主の計略はすでに一年半前に始まっていたことになる。しかもその標的は、久田帝玄ではなく神村正遠だったということになるのだ。
榊原の言だけではない。現実に森岡の周囲で起こった様々な事件は、全て神村の懐刀として働く己の力を削ぐためだったと考えれば辻褄が合う。
たとえば、理由が不明だった桂妙寺の村田貫主の造反も、門主が仕掛けたものだと推量すれば腑に落ちる。
――いや、まてよ。
と、森岡はそこで別の連想が奔った。
そもそも事の発端となった、本妙寺山際前貫主の不手際も門主の策略なのではないか。
山際前貫主に神村を引き合わせたのは、現法主の栄薩大僧正であるから、いかに門主といえども、これ自体を阻止することはできない。そこで、後継問題で山際前貫主に圧力を掛けたのではないか。結果として、逡巡している間に山際前貫主が急逝してしまい、門主の思惑通りになった。
そこまで用意周到あれば、
――坂東や一色も……。
と思ったが、
――いや違う。
とすぐに思い直した。
門主の許に正確な情報が入っていたとすれば、懐柔は斐川角貫主一人で十分なはずである。三対八の劣勢から坂東、広瀬、斐川角の三貫主を寝返らせ、六対五に挽回したと安心させておいた方が得策だし、
――俺ならば、そうする。
との考えに至った。
現に、もし別格大本山法国寺の黒岩貫主が病に倒れず、あのまま投票による採決となっていれば、抱き込んだと思った斐川角貫主の再翻意によって五対六で敗れていたことになる。
そういう意味では、黒岩貫主の急病は門主にとっても誤算だったのであろう。そして、森岡が全く接触しなかった法仁寺の広瀬貫主が神村支持に回ったこともまたしかりである。
そこで今回、斐川角貫主の他にもっとも変節しやすい坂東貫主に狙いを付けた、と考えるのが妥当であった。
あっ! と森岡は心の中で叫んだ。脳裡に正体不明の男の姿がはっきりと浮かんだ。
「爺ちゃん、さっきの正体不明の男やけど、体形はわかるか」
「なんでも、小太りだったということやで」
「年は」
「三十過ぎといったところかの」
――三十過ぎの小太り……。はやり、これもまた筧克至だ。
森岡は、榊原に気付かれないよう、必死に身体の震えを抑えた。
斐川角雲水の許を訪れたのが筧だとすれば、門主と勅使川原の関係が明白となっただけでなく、門主の計略は一年半前どころか、さらにその一年以上も前、筧がウイニットに入社したときにまで遡るかもしれないという、実に深遠なものになるのだ。
森岡は想像を超える筧克至との悪縁の深さに嘆息し、同時に景山律堂が筧を知らなかった理由もわかった。
筧が門主の指示に従っていたのであれば、総務清堂側に素性を隠すのが当然だからである。筧にとっては、吉永幹子もまた駒の一つに過ぎなかったということなのだ。
「どないした、洋介。顔色が悪いで」
榊原が気遣った。
「いや、なんでもあらへん。ところで、爺ちゃん。二人が裏切る理由はなんやろ」
森岡は動揺を仕舞い込むかのように話題を逸らした。
「坂東には、何某かの金が渡っているんないか」
「金か。まあ、あいつならそんなところやろ。出所は久保かな」
「はっきりとした出所はわからんが、門主やないか」
「爺ちゃんが尻尾を掴めんなんて、よほどのことやな」
森岡はそう言ったが、門主が動いたのであれば、金ではないのだろうと思っていた。事実、坂東貫主は芸妓蔦恵の身請けを断念している。
「斐川角上人の方はなんや」
「そっちは皆目わからんのや。ただ、金ではないようやな」
「やはり金やないのか、実に厄介やなあ」
森岡は苦渋の面で言うと、しばし考え込んだ。
「ところで、他の四人は本当に大丈夫やろうか」
「そっちは間違いない」
榊原は確信に満ちた声で言った。
彼は、寺院周辺の至るところに人脈を持っていた。住職本人はもちろんのこと、妻女を始めとする家族、執事、弟子、檀家、護寺院、護山会と、ありとあらゆる方面との親交を保ち、調査の内容によって、接触する相手を選んだ。だからこそ、彼が掴んだ情報は信頼性が高いのである。
森岡の表情がようやく安堵したものになった。
「そうか。なら、一人寝返らせればええということやな」
門主は、神村支持者から板東貫主と斐川角貫主の寝返りを画策し、現状の四対六の劣勢から六対四に逆転しようとしている。ならば、逆に久保支持者から一人翻意させれば五対五の五分となり、久田帝玄の裁定にも持ち込むことができる。
「今度は誰を的に掛けるつもりや。もう一度坂東か」
「坂東なあ」
と気のない返事をすると、
「ところで、問題の枕木山や瑞真寺について、あれから何かわかったかな」
と、森岡は話題を転じた。
森岡は、枕木山の秘密についての継続調査を依頼していた。
榊原が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「それやがな。枕木山の件もそうやが、瑞真寺も閉口したで。何人かにそれとなく訊いてみたのやが、話が瑞真寺に及ぶと、皆途端に口を硬く閉ざすんや」
「それは仕方がないで。瑞真寺には、探偵の伊能さんも痛い目に遭うてはるからな。爺ちゃんもこれ以上の深入りは禁物やで」
「しかし、選りに選ってえらい化け物が出て来よったの」
榊原は怯むように言った。
瑞真寺は、総本山の中でも濃いベールに包まれている存在である。ましてや在野の寺院に当たって調査しようにも、限界があるのは当然であった。そうかと言って、総本山に乗り込めば伊能剛史のようなこともある。さすがの榊原を以ってしても、瑞真寺には迫ることができなかった。
森岡は、いよいよ本妙寺山際前貫主の急逝から始まった一連の動きの背後に、瑞真寺門主の影をはっきりと見た気がした。神村の前に立ち塞がっているのは、栄覚門主に間違いないとの確信を抱いた。
だが、大きな疑問もいくつか残った。
以前から抱いていたことだが、栄覚門主はなぜ勅使河原公彦と一線を画しているのか。勅使川原が後ろ盾であれば、栄覚門主の資金は無尽蔵ということになる。当然、森岡の坂東明園への買収工作など無力化することができたはずだ。だが、坂東に金が渡っていないのは明白である。
――栄覚門主が勅使川原と一定の距離を置いている理由は何だろうか。
森岡は、むしろ金銭的な攻勢を掛けない門主に底知れぬ力量を感じた。
もう一つは、栄覚門主がこれほどの周到な遠謀を企てる動機が不明なことである。
真の血脈者として、神村正遠が周囲から宗祖栄真大聖人の生まれ変わりと称されていることに忸怩たる思いがあったにしろ、菊池龍峰のように嫉妬などという陳腐な劣情がその理由ではないはずだ。
「とりあえず、瑞真寺は横に置くとして、問題は誰を引き入れるかやな」
森岡が自分で話を元に戻した。
「そう言うて、お前のことや、もう策は浮かんでいるのやろ」
榊原は、森岡を覗き込んだ。
「まあ、おぼろげには」
森岡は曖昧に答えた。
「やはり、坂東を引き止めるんか」
「いや、彼は当てにならん」
「斐川角貫主を」
「それも無理やろ」
「じゃあ、いったい誰や」
榊原は焦れたように訊いた。
「はっきりと決めたら、爺ちゃんにも力を借りることになるが、いずれにしても今回は時間も無いことやし、少々荒っぽいことをせにゃならんかもな」
森岡は榊原には言葉を控えたが、栄覚門主が相手となれば手段を選んでいる余裕はないと腹を括っていた。
榊原の目には、そのような彼の表情がどこか物憂げに映っていた。際限の無い泥沼の戦いに、さすがの森岡の心も疲弊しているように映っていたのである。
「ところで、金は大丈夫なんか」
「おおきに。爺ちゃんのお陰で、松尾会長のところから二十億入るから心配いらん」
「それならええが、困ったら遠慮なく言いや」
榊原は、実に愛情のある眼差しで言った。