黒い聖域   作:安岡久遠

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第五巻 聖域の闇 野望(2)

 東京から戻った森岡洋介は息を吐く暇もなく、南目輝、蒲生亮太、足立統万の三人と斐川角勇次を伴い、奈良の本山龍顕寺に貫主の斐川角雲水を訪ねた。雲水を説得するためではない。森岡は彼に確認しておきたいことがあったのである。

 斐川角雲水とは、勇次の件で面談して以来、二度目だった。

 裏切りが露見したことを知らない雲水は、森岡に会わないわけにはいかなかった。

「貫主様、私への裏切りの理由は何でしょうか」

 森岡は、雲水が着座するや否や唐突に切り出した。その方が腹を読まれない分、本音が出やすいからである。

「え?」

 案の定、いきなりの言葉に雲水は目を剥いた。実に率直な反応だった。 

 驚きの反応したのは雲水だけではなかった。同行した勇次と南目も唖然と目を剝いた。

「親父、社長を裏切っているんか」

 勇次が半信半疑の口調で訊いた。

 雲水は苦悶の表情で沈思していたが、やがて、

「ああ、裏切っている」

 と気後れした表情で答えた。

「なんでや、親父!」

 勇次はいまにも殴り掛からんばかりに叫んだ。

「落ち着け。俺は怒っているんやない。貫主さんの苦衷を知りたいんや」

 森岡は勇次を宥めると、雲水に向き直した。

「貫主様、口幅ったいことを言うようですが、此度の裏切りは不問に付します。息子さんもこのままウイニット(うち)で働いて頂きます」

 元来森岡は、白黒、敵味方をはっきりと区別する性格だった。まして裏切りなど、絶対に許さなかった。その彼が、このような態度に出たのには理由があった。菊池龍峰に追い詰められたときの、茜の怒りに任せて拳を振り上げるだけでは能が無い、という助言である。

 森岡は、まずは雲水の言い分を聞こうとしたのである。

「その代わりといっては恐縮ですが、理由だけでもお教え下さいませんか」

 森岡は丁重に請うた。

 斐川角雲水は葛藤した。森岡とは、息子勇次が世話になるという条件で、神村支持の約束を交わした。その約束を破ったのに、いや破ったのではない、最初から欺いていたのにも拘らず、怒りをぶつけるどころか、許してくれた上で息子もそのまま預かるという。

 裏切者に対する寛容な態度に、雲水は森岡の度量の大きさを看た気がした。さすがは、影の法主とも称される久田帝玄や明治以来の傑物と名高い神村正遠の懐刀だと感心もした。

――この男なら信用できる。

 と、雲水は自分自身に言い聞かせた。

 いや、それより何より、仮にも本山貫主の立場にある者が、如何なる理由が有ろうとも、人を欺くことなど言語道断の所業だった、とずっと恥じていた。

「他言無用に願えますか」

 雲水は観念した表情で言った。森岡は、目顔で四人に席を外させた。

 

 雲水の告白に寄ると、山際前貫主の急逝によって本妙寺の次期貫主の件が合議に持ち込まれた直後、栄覚門主の使いだという男が訪れたのだという。用件は、神村の貫主就任阻止に協力して欲しいというものだった。

 男は栄覚門主自筆の手紙を持参していた。そして、早晩神村の腹心である森岡洋介という男が、神村支持を依頼しに訪山するであろう。どのような条件を提示するかはわからないが、その折には承諾する振りをして欲しい、と言い残して去った。

――やはり、そうだったか。

 森岡は唇を噛んだ。

 なるほど、栄覚門主ほどの人物であれば、周囲に榊原壮太郎のような情報提供者がいてもおかしくないし、森岡と同様に探偵を雇っているかもしれない。何よりも立国会と繋がっているのであれば、森岡に無くて栄覚に有るもの、すなわち全国に散らばる無数の壇信徒から情報を得ることができる。栄覚の野望など知らない壇信徒であれば、喜んで情報を提供するに違いない。

「私も、まさか貴方が愚息の就職を条件にされるとは思いも寄らぬことでしたので気が咎めましたが、門主のご意向であれば、逆らうこともできませんでした」

 斐川角雲水の表情には、苦渋が滲み出ていた。

「その男の名前を教えて下さいませんか」

「鴻上智之と名乗っていました」

「な、本当ですか!」

 つい声が昂じてしまった。使者は筧克至であるとの思いを強くしていた森岡は、まさか寺院ネットワーク事業を任せた鴻上の名が、雲水の口から洩れるとは思ってもいなかったのである。

「間違いありません。名刺を渡されましたから」

 雲水は怯むようにように言った。

「申し訳ありません。声が大きくなってしまいました」

 森岡は詫びを入れると、

「どのような風体でしたか」

 と確認した。

 榊原の話では、男は小太りだったはずである。

「三十歳過ぎの小太の男でした」

「どういうことだ」

 森岡の口から思わず声が漏れた。

 榊原壮太郎が龍顕寺の護山会会長から聞き出したサラリーマン風の男の容姿とは一致するが、痩せ形で高身長の鴻上本人とは、外見がまるっきり違っているのだ。まさか、偶然に同姓同名であるはずもない。

 森岡は頭の整理に時間を費やした。

 数瞬の静寂が流れた後、

「何かご不審な点でもありますか」

 と、雲水が気遣った。

「いえ、ちょっと偶然が重なったものですから」

 森岡はそう言い訳すると、ともかく一時鴻上のことは放念した。

 そして、

「もし宜しければ、貫主様がそこまで御門主に義理を通される理由をお聞かせ願えませんか」

 と遠慮勝ちに請うた。

 雲水は、茶を一口啜ると、

「先代の御門主が命の恩人だからです」

 と告白した。

 今を遡ること三十年前、斐川角雲水が四十二歳のときである。彼はこの年、妙顕修行堂において五度目の荒行に挑戦していた。雲水は在野の僧侶だったが、最初の三度を久田の天山修行堂、後の二度は妙顕修行堂で荒行に挑戦していた。

 この荒行には、この回から踏破行が加わっていたのだが、その九十二日目に彼を悲劇が襲った。

 荒行の後半に入った雲水の体力消耗は酷く、脱落は時間の問題と思われたが、今回の荒行を成満すれば大本山・本山貫主の資格を得られることから、彼は無理を通していた。

 荒行も最終盤に入ると、体力は限界に達し、半ば意識朦朧のまま山野を歩くこともある。その日の雲水はまさにそのような状態であった。

 然して彼は踏破行中に意識を失い、山中に身を横たえてしまったのである。四月初旬とはいえ、標高千二百メートルの山中である。

 寒さは斐川角雲水の体力を奪い、絶命までは時間の問題と思われた。

 その絶体絶命の危難を救ったのが、同じく踏破行を行っていた瑞真寺先代門主の栄興であった。

 瑞真寺は世襲が許されている寺院であるから、必ずしも荒行を敢行する必要はないのだが、彼は敢えて妙顕修行堂において荒行を遂行していたのだった。

 瑞真寺へと運ばれた雲水は、手厚い看護により一命を取り留めた。雲水が命の恩人と言ったのは、まさしくこのことであった。

 それから三年後、雲水は見事五回目の荒行を達成し、現在奈良の本山龍顕寺の貫主としてあるのだ。

「なるほど、良くわかりました。話をお伺いして、貫主様が門主の指示に従われるのは至極もっともなことだと思いました。ですから、どうぞお気兼ねなく」

 森岡は、雲水の心中を察して言った。

「ただ一つだけ、本日私が参ったことは無かったことにして頂けませんか」

「無かったこととは」

「私が貫主様の裏切りに気づいたことを内密にお願いしたいのです」

「それは」

 雲水は困惑の表情を浮かべた。

「もし、門主から確認があったときは事実を述べて頂いて結構ですので、敢えて貫主様からの報告は控えて頂けませんか」

 雲水は暫し沈思した後、

「では、私はこのままで良いのですね」

 と訊いた。

 はい、と森岡が肯いた。

「合議、投票の際は栄覚門主の指示通り、久保上人を支持して下さって結構です」

 その言葉に、雲水は居住まいを正すと、

「承知しました。貴方に対する最低限の誠意だと思います」

 と承諾した。

「ありがとうございます」

 と頭を下げた森岡は、

「御門主の意向を伝えに訪山したのは立国会の者ですね」

 と訊いた。

「勅使河原会長の命を受けたと申しておりました」

 雲水は小さく肯いた。

「最後に確認したいのですが、もしや鴻上というのはこの男ではありませんか」

 森岡は、内ポケットから一枚の写真を取り出して訊いた。

 彼は榊原から聞いた三十過ぎの小太りという風体から、確認のため持参していたのである。

「そうです。この男に間違いありませんが、なぜ貴方が鴻上を知っているのですか」

 驚く雲水に向かって、

「貫主様、この男は筧克至というのが本当の名です」

 と、森岡は落ち着いた声で答えた。

――これで筧克至と栄覚門主の関係も明確になった。

 そう確信した森岡は頭を整理した。

 筧は立国会の勅使河原を通じて、栄覚門主の指示を受け、総務清堂側に付いたのであろう。そもそも、ウイニットに入社したのも、門主の命を受けてのことだったのかもしれない。筧は己の野心への協力を条件に、此度の役目を請けたものと推察できた。

 内通が発覚し、総務清堂を担ぎ出せなくなったが、門主や立国会の会長と知己があれば、寺院あるいは壇信徒をターゲットにした通信販売の事業化は十分可能である。

 また、筧にそれだけの後ろ盾があれば、恫喝されても尚、何度も寝首を搔こうするのも肯けた。

 森岡は、栄覚門主による神村潰しの計画が、山際前貫主逝去の一年も前から実行に移されていた事実を突き付けられても、もはや爪の先ほども驚きはしなかった。

 栄覚の力量を嫌というほど見せ付けられた彼は、誰が、何時から、何を画策していたとしても、何ら不思議ではないと達観していたのだった。

 そして、これほどまでの深慮遠謀から鑑みれば、総務清堂の懸念も早晩現実のものとなるかもしれないと思った。

 もっとも森岡にとっては、神村が法主に就任した後でさえあれば、総務清堂の懸念などどうでもよかった。神村の意志は尊重するが、天真宗の法主の座がどのような仕組みで決定されようとそれほどの関心は無かったのである。

 だが栄覚門主は、恩師神村正遠を標的としている。神村の法主への最大の難敵が栄覚である以上、「打倒栄覚門主」は必須となった。

 森岡はギュッと唇を噛んで、栄覚の出鼻を挫くためにも本妙寺の戦いには是が非でも勝利しなければならないと気力を奮い立たせた。

――そのためには枕木山の秘事では弱い。仮に何かの鉱脈を失っても栄覚には勅使河原という強力な手駒が残っている。何としても新たな攻撃材料を手に入れなければならない。それこそ栄覚門主を一撃で倒せる強力な武器を……。それともいっそのこと、勅使河原に対して坂根拉致への仕返しを前倒しで実行に移し、奴の金を根こそぎ奪い取ってしまうか。さすれば、枕木山の秘事の暴露は、栄覚門主に大きな打撃を加えることにもなる。

 森岡は様々な考えを巡らしながら奈良の龍顕寺を後にした。

 

 

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