黒い聖域   作:安岡久遠

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第五巻 聖域の闇 開帳(1)

 その日、森岡洋介に意外な人物の来訪があった。

 松江高校の後輩の相良浄光が、ひょっこりとウイニットに顔を出したのである。

 森岡が大本山国真寺の一件の謝礼にと、一席設けたことがきっかけで何度か飲食を共する関係となっていた。

 この日も父の代理で、総本山真興寺の宗務院へ出向いた帰りに立ち寄ったもので、大阪で一泊するので馳走して欲しいと言う。

 相良は中肉中背、僧侶らしく髪を短く刈り上げていた。飄々とした性格で、捉えどころのない受け答えをするが、事仏像に関してはマニアックな知識を持っている。

 一般家庭の少年ならばロボット物のフィギュア、少女ならば着せ替え人形等に興味が湧くのだろうが、天真宗寺院に生まれ育ち、仏師でもある父を持つ彼が仏像に心を奪われたのも不思議ではない。

 しかも、その造詣の深さは専門学者に勝るとも劣らないほどで、その見識が国真寺作野貫主の妄言を見抜いたのだから恐れ入る。

 反して森岡はどうだったかと言えば、彼は物欲のない子供だった。

 今では滅多にお目に掛かれなくなったが、メンコやビー玉、ベーゴマといった当時の浜浦の子供が競って集めた玩具にも全く興味を示さなかった。形あるものに執着がなかったのである。資産家となった彼が、高級車や高級時計といった装飾品に興味がないのは今に始まったことではないのだ。

 その代わり、森岡は人の心というものに関心を抱いた。

 きっかけは、祖父洋吾郎の許に陳情にやって来る人々だった。彼らの表情や所作を祖父の胡坐の上に座って観察していると、不思議なくらいに心理が読み取れたのである。本音を語っているのか、お愛想あるいは追従なのか、正直なのか嘘を吐いているのか面白いようにわかったのである。

 いつしか洋吾郎も愛孫の異能に気づき、孫の判断に任せるようにもなった。洋介が右手の膝を叩けば「諾」、左の膝であれば「否」という具合にである。

 森岡が人混みを嫌う本当の理由は、あまりに多くの人の心が脳に入り込んできて混乱してしまうから、というのが真実だった。

 だが、その異能も母小夜子の駆け落ち失踪をきっかけにした精神の病に蝕まれたことで、いつしか影を潜めてしまったのである。

 

 森岡は相良を北新地の高級すき焼き店に連れて行った。

 相良は島根県の浜田という漁港の近くに住んでいる。少し内陸部だが、それでも新鮮な魚介類に不自由はない。そこで、高級肉を食わせようというのである。

「いやあ、こんな美味い肉を食ったのは初めてです」

 などと愛想を言いながら、相良は満足そうな笑みを絶やさない。

 あれこれ世間話をしながら、ひとしきり腹を満たした後である。

 相良が真顔になった。

「あれからずっと考えていたんですが……」

「急にあらたまって、なんだ」

「国真寺の御本尊ですけど、ひょっとすると作野貫主の主張は真実かもしれません」

「なんだと」

 森岡の箸を持つ手が止まった。

「どういうことだ」

「国真寺の釈迦立像が、御宗祖様の処女作の可能性があるのです」

「馬鹿を言うな。瑞真寺の御本尊が最古なんじゃないのか」

 森岡は取り合わない素振りをした。

 天真宗開祖栄真大聖人の仏像処女作は、第三回京都巡教の折に製作が開始されたものの、完成したのは総本山真興寺に戻ってからだった。その貴重な仏像を末弟の栄相が強く所望した。

 このとき、まだ栄相の野望に気づいていなかった栄真大聖人は、『一層、仏道修行に邁進せよ』と付言して差し与えたのである。

「文献にもそう記述されていますし、私もそう思っていました。ですが……」

 と二の句を続けようとした相良に森岡が言葉を被せた。

「なら、なぜ作野貫主は沈黙を通したのだ。お前の追及に対してはともかく、僧侶にとっては著しく体面を損ねる規律委員会に諮られる寸前だったのだぞ」

 森岡の画策によって、作野貫主の吹聴が事実だったと悟った総務清堂は、久田帝玄の処罰に目を瞑ることを条件に、作野貫主の規律委員会への告発を中止させたのである。もっとも清堂は、宗門自体に傷を付けかねない久田帝玄の醜聞には、端から言及しない腹ではあった。

「ですから、本物であっても声を上げられない特別な裏事情があるのではないですかね」

「……」

 森岡は視線を落として思案したが、思い当らなかった。

 その様子を尻目に、相良が話を続けた。

「実は、私には以前から別のある疑念がありましてね」

 そこで一旦言葉を切り、勿体ぶるように肉を頬張った。

「肉など食いたいだけ食わせるから、早く言え」

 すかさず森岡が急かす。

「その疑念が作野貫主の言動と重なったとき、ある一つの結論に至ったのです」 

「だから、その別の疑念とはなんなのだ」

「瑞真寺の出開帳です」

「でかいちょう?」

 と首を捻った森岡に、相良が呆れ顔を向けた。

「先輩。先輩は神村上人という偉大な高僧にお仕えしていて出開帳もご存じないのですか」

「面目ない」

 森岡は素直に頭を掻いた。

 相良は掻い摘んで開帳を説明すると、

「瑞真寺は一七三四年(享保十八年)の大本山澄福寺での出開帳以来、なぜか居開帳すら一度も行っていないのです」

「澄福寺って、目黒のか」

「そうです。先輩はご存知なのですか」

「芦名貫主とは懇意にして頂いている」

 相良は何とも言えない顔をした。

「今更ですが、先輩と話をしていると自分自身が嫌になります」

「うん?」

「芦名貫主は、天真宗では間違いなく十本の指に入る傑物ですよ。そう簡単に懇意にしているなどと言わないで下さい」

 そういうことか、と軽く受け流すと、

「それが国真寺の御本尊とどう繋がるのだ」

「私が導いた一つの結論ですが」

 と、相良は前置きをした。

「瑞真寺の御本尊がどういうわけか国真寺に移っているとしたら、どうです」

 相良は、森岡を覗き込むようにした。

「瑞真寺が開帳しないことも、作野貫主が栄真大聖人作の処女作だと言い張ったことも納得できると言いたいのだな」

 そうです、と相良は肯いた。

「ですが、まさか元は瑞真寺の御本尊であるとは言えません。そこで作野貫主は、第二回京都巡教という方便を持ち出したのではないでしょうか」

 学説上、栄真大聖人が手ずから彫った最古の釈迦立像は、第三回京都巡教の折というのが定説だった。

「なるほど、考えられなくはないな」

「どうです、面白い話でしょう」

 相良は自慢げに言った。

 だが相良の期待に反して、

「辻褄は合うし、小説の世界では面白いだろうが、それだけではなあ」

 と、森岡はつれない素振りをした。

 別格大本山法国寺の件が決着をみた現在、本妙寺新貫主選出に関係のない国真寺は、すでに森岡の関心の外にあったし、門主栄覚への攻撃材料としては弱いと思ったのだ。

 出開帳をしない理由は、破損して鑑賞に耐えない、あるいは火事で焼失したとでも弁明すれば済むことだからである。全焼するような大火事ならともかく、実際にボヤ程度の火事が有ったかどうかなど、今となってはも検証しようもないのだ。いずれにせよ過失は過失だが、隠蔽の事実を真摯に謝罪、説明すれば重大な責任を負わされることはないだろう。

 だが、相良は自信有り気な表情を崩していない。

「では、どのような抗弁をするか、一つお尻を突いてやったらどうでしょう」

「どういう意味だ」

「瑞真寺が動かざるを得ないように仕向けるのです」

 なるほど、という顔をして、

「慌てさせるのも面白いか。となると、マスコミにでも騒がせて……」

 と、森岡は言ったが、

「無理だろうな」

 すぐに自分自身で否定した。

「なぜですか。有効な手だと思いますが」

 足立統万が口を挟んだ。

 確かに森岡自身、女傑吉永幹子や国真寺の作野貫主を追い詰める手段として、マスコミを利用しようと考えたし、逆に菊池龍峰のリークによって、過去の傷を週刊誌に暴露されたことで、社長の座から降りようと決断したこともあった。

 然様に「第四の権力」と言われるマスコミの権は大きい。

 だが、森岡は首を横に振った。

「自分の首を絞めることになりかねんから、マスコミは動かんだろうな」

 こと瑞真寺に対しては全くの無力だと言った。

「自分の首を絞めるのは瑞真寺ではないのですか」

「なんでや」

「マスコミが騒げば、瑞真寺は無視できなくなります。無視すれば御本尊不在を認めたことになりますからね。といって名誉棄損か何かで訴えれば、瑞真寺はそれを証明しなくてはならない」

 統万の理屈は通っていた。

 だが、森岡はもう一度首を横に振った。

「瑞真寺は名誉棄損などで訴えはしない」

「それでは、瑞真寺は記事を認めたことになり、ますます筆力は強まります」

「そうはならないのだ」

「……」

 統万には理解できなかった。

「お前が説明してやれ」

 と、森岡は相良に預けた。

「統万さん、瑞真寺は立国会を従えているのです」

「ああ……」

 と、統万は顔を歪めた。

 立国会とは、会員数三百五十万人を誇る天真宗最大の檀信徒会である。

 天真宗開祖栄真大聖人の手掘りの御本尊に纏わる話である。しかも処女作の御本尊である。中傷記事を檀信徒会が黙って見過ごすはずがない。瑞真寺は、必ずや檀信徒会を煽って記事を書いた出版社にクレームという圧力を掛けさせるだろう。

 ただでさえ、宗教法人はタブー視されているのに、ましてや天真宗は我が国最大級の仏教宗派である。確固たる証拠も無しに、これに表立って刃を向けるということは相当な返り血を覚悟しなければならない。

「相良、そこまでわかっているのなら、他に策があるのだろう。勿体ぶらないで先を話せ」

 森岡の言葉に、相良が顔を突き出した。

「先輩は、二年後のミレニアム年に日本仏教会主催の『日本仏教秘仏秘宝展』というのが開催されるのをご存知ですか」

「いや、知らんが、それがどうかしたのか」

「先輩にしては勘が悪いですね」

 相良が揶揄するように言った。

 普段であればムッとするような態度だが、どういうわけか森岡は相良に対しては気が立たない。

「それで」

 森岡はクイッと顎をしゃくって先を促す。

「その秘仏秘宝展に瑞真寺の御本尊を出展させるのですよ」

「それも無理だな。瑞真寺が拒否すればどうにもならん」

 森岡は手を振ったが、相良は不敵な笑みを浮かべている。

「宗務院からの要請ならそうでしょうね」

「……」 

 さすがの森岡も思いが至らなかった。

「主催事務局に働き掛けて、瑞真寺の御本尊を出展するよう宗務院へ催促させるのですよ」

 森岡は目を見張った。

 日本仏教会事務局からの要請が無いのに、宗務院が瑞真寺に話を持って行けば、拒否されたとき、それ以上強く出ることができない。その後あらためて日本仏教会事務局からの要請を盾にすると、森岡の陰謀が栄覚門主の嗅覚に引っ掛かる危険性があった。

 その点、端から全国仏教会事務局からの要請であれば、宗務院に大義名分が生まれ、瑞真寺が拒否した場合は何らかのペナルティを臭わすことができる。

 そうなれば、瑞真寺はじっとしては居れなくなるというわけであった。

 相良が不敵な笑みを浮かべたまま続ける。

「栄覚門主は、非常にプライドの高いお方と聞き及んでいます」

 ほう、と森岡は目を細めた。

「お前の耳にも入っているのか」

「私だって天真宗僧侶の端くれですよ。それぐらいの情報は耳に入ります」

 相良は不満顔になったが、森岡は気にする素振りもなく、

「今日はやけに謎掛けが多いが、いったい何が言いたいのだ」

「はたして、栄覚門主が素直に謝罪するでしょうか」

 うん? と森岡は首を捻った。

「抗弁するとでも……」

 相良は黙って首を横に振った。その目はやはり自信に満ち溢れている。 

「もちろん、仮に火事で焼失あるいは盗難に遭っていたと抗弁するとして、それが何時のことだと説明するのか興味が無いわけではないですが、私はむしろ門主は非常手段に……」

 相良はそこで口を噤み、森岡を見た。

 相良の言葉の先を推量した森岡は、

「良くそのような想像が浮かぶな」

 と、普段とは別人のような顔の相良を見つめた。

 森岡は宙を仰いだ。

 よくよく考えてみれば、なるほど相良の言うように、栄覚門主が素直に頭を下げるとは思えなかった。プライドもさることながら、野望遂行の支障となる恐れが全く無いとは言い切れないのだ。

「私も、満更捨てたものではないでしょう」

 相良が胸を張る。

 ああ、と森岡が感心したように頷くのを見て、

「じゃあ褒美に、この後高級クラブを三軒ほどはしごですよ」

 とちゃっかり要求したものである。

 わかった、と苦笑いした森岡は、

「となるとだ、是が非でもその事務局から天真宗の宗務院へ要請させる必要があるんやが、当然お前には算段があっての発言だろうな」

 と訊いた。日本仏教会事務局に伝手があるか、という問いである。

「冗談を言わないで下さい。そんなもの、あるわけがないじゃないですか」

 いつもの飄々とした彼に戻って、さも自慢げに言うからおかしい。

確かに、相良にこれ以上を期待するのは無理がある。

「後は先輩の仕事ですよ」

「面子はわかるか」

「それならインターネットで検索して有ります」

 と、日本仏教会の役員一覧を記した書類を差し出した。

 日本仏教会は主だった伝統宗派の全てが参加している親睦団体である。当然会長をはじめ役員は各宗派の法主、管長、座主といったトップが名を連ねていた。

 だが、森岡に面識のある人物はいなかった。

 唯一面識のある天真宗の栄薩現法主が副会長の要職にあったが、まさか自宗派の秘仏を推薦するといった厚顔無恥な真似を依頼するわけにはいかない。

「困ったな」

「知り人はいませんか」

「こんな雲上人ばかりじゃ、いるはずがないだろう」

「神村上人であればご存知のお方が入らっしゃるのではないですか」

 相良の言い分はもっともであったが、森岡は醜い暗闘に神村を巻き込む気はない。

 待てよ、と森岡はあることに気づいた。

「おそらく、このお歴々はお飾りだろう。実務を担当している者がいるはずだ」

「実際に秘仏秘宝展を仕切っている事務局長というのは、禅宗系道臨宗の大本山太平寺の宗務総長らしいです」

「道臨宗か……」

 森岡には思い当る人物がいた。

 故郷浜浦の菩提寺である園方寺の先代住職道恵和尚である。道恵は地方の末寺の先代住職に過ぎないが、僧階は権僧正である。大本山大平寺の宗務総長と面識があってもおかしくはない。

 ただ太平寺は名称こそ大本山だが、天真宗に照らし合わせれば総本山の格式を有している道臨宗の頂点に立つ寺院である。その宗務総長ということは次期管長に最も近い人物であった。したがって、面識があっても仲介の労を執れるかどうかは不明である。

 

 翌日、森岡は園方寺に連絡を入れ、急遽帰省した。今回は蒲生良太、足立統万の他に南目輝を伴った。むろん、神栄会の影警護陣が従っているのは言うまでもない。

 従兄の門脇修二には連絡をしなかった。日帰り予定の森岡は、修二をはじめとする親戚筋の歓待を避けたのである。六年前、米子自動車道が開通したことで、途中で休憩を入れても片道五時間ほどである。早朝に出発すれば十分往復できた。

 車は大阪吹田ICから中国道を西に二時間ほど走った後、米子道へと入った。

――ずいぶんと便利になったものだ。

 この道を通る度、森岡は心からそう思っていた。

 彼が大学進学のために大阪へ出向いたとき、あるいは祖母のウメの葬儀のために帰省した折はまだ旧道で、中国山地の四十曲峠の急勾配を越えるときには恐怖を覚えたものである。

 旧盆に続いての俄かの帰郷に、道恵は何事かと身構えた。

「私に相談事ということですが、何か不都合でも起こりましたか」

「時間がありませんので、いきなりお尋ねします」

 うむ、道恵は頷く。

「付かぬ事をお尋ねいたしますが、御先代は大平寺の宗務総長と親交がおありでしょうか」

「大本山の宗務総長とな」

 道恵は意外という顔をした。

「もちろん面識はありますが、親交というほどの付き合いはありません」

 大本山の宗務総長であるから、当然宗務を通じて面識はあったが、年齢は道恵より一回り下であった。修行においても熟練度が異なるため、一緒になることはなかったという。

「我が宗派の宗務総長に何の用があるというのですかな」

 道恵の目が胸襟を開けと訴えていた。

 森岡は、日本仏教会主催の秘仏秘宝展の開催を説明し、事務局長の要職にある太平寺の宗務総長から、瑞真寺に御本尊の出展要請をして欲しい旨を伝えた。

「何か思惑がありますかな」

 森岡は瑞真寺の本尊に纏わる疑念を話した。

「なるほど、突けば動き出すということですな」

 森岡は黙って肯いた。

 道恵はしばらく瞑目した。

 森岡の耳に浜浦湾の潮騒が届いていた。

 園方寺は浜浦湾の南方にあった。岸壁からは五十メートルほどの距離である。潮騒に交じって海鳥の鳴き声や破れた網を修復する漁師たちの濁声も届いて来る。

 おもむろに道恵が目を開けた。

「残念ながら、総領さんを紹介するほど親しくはありません。しかも、相談事が相談事だけに……」

 無理だと、道恵は仄めかした。

「御先代がそう仰るのでしたら、諦めるしかありません」

 森岡がそう言って腰を上げたときだった。

「まあまあ、そう早合点しないでお座り下さい。拙僧は宗務総長には紹介できないと言ったまでですよ」

 道恵は悪戯っぽい目で笑っている。

「と仰いますと」

「現管長の丹羽猊下は、私の直接の後輩に当たります」

 そう言った道恵が心なしか胸を張ったように、森岡には見えた。

 道恵は十五歳のとき大本山太平寺で得度し、そのまま十年間の修行を満行していた。道恵の得度から二年後、現第百十二世管長の丹羽秀尊(しゅうそん)が十三歳で得度した。したがって修行僧としては二年後輩だが、年齢は四歳下であった。

 どの世界でも先輩後輩という序列は越えがたいものであるが、宗教界は殊の外厳しく、得度したばかりの二年というのは天地ほどの差があると言っても過言ではない。いかに寺院の子に生まれ、父親から薫陶を受けていたとしても、大本山での修行生活となれば全く別物なのである。

 起床後の蒲団の上げ方、洗顔、掃除、食事等々の生活作法一つとっても細かい所作が定められている。それら全ては先輩僧侶から指導を受けることになるのである。肝心の修行に至っては、小学校入学早々と中学生の学力差ほどもある。

 大学の運動部において、四年生は天皇、一年生は奴隷と揶揄されるが、それ以上の開きがあった。

「管長様から宗務総長に話して頂けるのでしょうか」

「一つ手土産が要りますが」

 道恵が間髪入れずに切り返す。

「手土産とは、どのような」

「それは管長から直接聞いてもらうとして、とりあえず面会できるよう取り計らいましょう」

 道恵の思惑有り気な顔が気になりつつも、

「宜しくお願いします」

 と、森岡は頭を下げるしかなかった。

 

 浜浦を後にした森岡は大阪には戻らず、そのまま米子空港から東京へと向かい、目黒の澄福寺を訪れた。相良浄光の話から、瑞真寺御本尊の最後の出開帳が澄福寺だとわかったからである。

 南目輝は、実家の彩華堂に立ち寄ってから車を運転して大阪へと戻った。影警護の神栄会は九頭目他一名が森岡に付き添い、残る一人が南目と同じく車を運転して帰阪した。

 貫主の芦名泰山が訝り顔で訊いた。

「電話では瑞真寺の出開帳がどうのこうのと言っておられたが、どういうことですかな」

「江戸時代、瑞真寺の出開帳は、此処澄福寺で行われていたとか。そこで何か古文書でも残っていないかと思いまして」

「古文書のう……仔細は話してもらえないのですかな」

「身勝手だとは重々承知していますが、何卒ご勘弁下さい」

 森岡は深々とを下げた。

「古文書はあるにはありますが、調べる必要はありません」

 拒否されたと思った森岡の顔が苦渋に歪んだ。確かに、理由を述べずに教えろ、というのは虫が良過ぎる。

「致し方ありません。では、今日のことはお忘れ下さい」

 森岡は肩を落として言った。他宗派の道恵和尚とは異なり、同門の芦名貫主に、瑞真寺の門主を罠に嵌めるとは言い難い。

 芦名がふふふ……と含み笑いをした。

「誤解しないで頂きたい。古文書を読む必要がないと申したまでで、私がお答えしましょう」

「貫主様が? お調べになったのですか」

「晋山して間もない頃、文庫を整理したとき、歴代貫主の備忘録を見つけましたのでな、暇なときに読んだのです」

「それで、こちらでの最後の出開帳のとき、何かトラブルのようなことは起きなかったのでしょうか」

「何もございません」

「そうですか」

「ただ……」

「ただ」

 一旦落胆した森岡の声に力が戻る。

「瑞真寺の御本尊様の出開帳は澄福寺(うち)が最後ではありません」

 えっ、と森岡は驚きの眼を向けた。

「では、どこが最後なのですか」

「翌年に鎌倉の長厳寺で行われたのが最後のようです」

「長厳寺、御前様の……」

 怪しい雲行きに森岡の声が自然と低くなったた。

「そうです」

「瑞真寺の出開帳は三十三年に一度のはずでは」

 相良浄光の受け売りである。

「よくご存じですな。ところが、間違いなく翌年に長厳寺でも出開帳が行われたのです。当代の貫主は『いかなる仔細か不明』と記しています」

「では、長厳寺の出開帳が最後というのは間違いないのですね」

 事は重大である。森岡は念を押した。

「間違いありません。当時の出開帳は布施が主な目的ですから、江戸での出開帳となると、澄福寺か八王子の興妙寺ということになりますが、当時八王子は目黒より田舎ですからな。わざわざ選ぶはずがありません。かといって末寺では評判になりませんし、他宗派の寺院というわけにはまいりません」

 言外に、長厳寺は例外で、まずは澄福寺以外には考えられないと示唆した。

「では、長厳寺での出開帳のとき、何かが起こったということはないでしょうか」

「それに付きましては何も書き残されていませんし、瑞真寺の公式見解はあくまでも澄福寺の出開帳を最後としています」

 長厳寺での出開帳は無かったことにしたい意向だ、と芦名は言っているのだ。

――栄覚門主と御前様の間には何か深い因縁があるのかもしれない。

 森岡はそう思いながら、アタッシュケースから中国聖人の姿見の墨を取り出した。

「実は中国聖人の墨は十体ではなく十三体だったようです。本日の御礼として追加の三体を持参しました」

「このようなことで、三体もの品を受け取っても良いのですかな」

 三体で一千五百万円は下らなかった。

「私の手元にあっても何の価値も生みません。ご遠慮なく」

 恐縮する芦名泰山に森岡は鷹揚な笑みを返した。

 

 数日後、道恵和尚の計らいで、森岡は丹羽秀尊管長と面会することができた。場所は、道臨宗大本山大平寺の管長室である。面会は仲介人である道恵の他は余人を交えずに行われた。

 秀尊は理由も聞かず、森岡の申し出をあっさりと承諾した。それは取りも直さず、道恵の言った「手土産」が難しい話であることを意味していた。

 はたして、森岡が話の矛先をそこに向けたとき、秀尊は眉間に皺を寄せた。

「是非とも拙僧を、いや愚息をお助け頂きたい」

 秀尊はソファーから立ち上がると、森岡に近づき、藁をも掴むかのように彼の手を握った。

「ご子息様を……」

「愚息は大阪の正元寺(しょうがんじ)という、先祖代々の寺院を継いでおります」

 この正元寺は、道臨宗開祖道正(どうしょう)上人が、滋賀に太平寺を開山したのと時を同じくして開基された、この宗派においては最も古い寺院の一つである。

 開基したのは同じく道正上人だが、後に丹羽元成(もとなり)が出家して住職となった。丹羽元成は道正上人を献身的に支援した豪族で、本来であれば本山の寺格を授かってもよいほどの名刹だったが、道正上人の遺言で末寺のままとなった。

 道臨宗には、本山は宗門所有の寺院に限るとの決まりがあった。となれば、住職の座は丹羽一族の想いのままとはいかなくなる。末寺のままとする代わりに、道正上人は自らの性の一字を授けた。つまり正元寺は、道正上人と元成から一字ずつ取って命名された名刹なのだった。

「正元寺がどうかされましたか」

 森岡の問いに、秀尊は口元を歪めた。

「暴力団に乗っ取られようとしているのです」

「そのようなことが……」

 俄かには信じられない言葉であった。

 二年前のことである。

 正元寺に香取慎司と名乗る二十二歳の若者が訪れた。俳優にしても良いような眉目秀麗の好青年で、要件は出家したいのだという。

 香取から悩みを聞いた現住職の秀仁(しゅうにん)は得度を許可した。

 得度後、香取は修行に励む真面目な申し分のない男に思えた。秀仁の一人娘との熱愛が発覚するまでは……。

「総領さんは『出家詐欺』というのをご存知ですかな」

 道恵が代わって訊いた。

「いえ、初めて耳にしました」

 だが、言葉から何となく察することはできる。

 従来は休眠宗教法人を買い取り、その税制優遇を利用する暴力団が多かったが、当局の目が厳しくなり思うように行かなくなっていた。

 そこで、出家すれば戸籍の名前を変更できる仕組みを悪用し、多くの多重債務者を出家させて住宅ローンなどを金融機関などから騙し取る新手の詐欺行為を編み出した。最近では暴力団対策法の下、新たな資金源を求める暴力団関係者自身が名前を変えて表社会に進出する手段にもなっている。

「香取は由緒ある正元寺そのものを乗っ取る気なのです」

 秀尊管長はいかにも忌々しげに言った。およそ、伝統仏教宗派の頂点に立つ人物とは思えない俗人の顔である。

 それも無理からぬことなのかもしれない。丹羽家には一人娘しかいなかった。香取がその孫娘と一緒になればどうにもならないということなのだ。

「私にどうせよと」

「香取が正元寺から出て行くように取り計らってもらえないだろうか」

「私にそのようなことができるはずもありません」

 森岡は即座に断った。香取だけならまだしも、孫娘との関係も清算しなければならない。香取の正体を知らせずに恋心を覚ませるのは難題だった。

 丹羽秀尊管長あるいは秀仁が直接対応しないのには理由があった。

 まず、香取に因果を含めるには交換条件が必要になる。香取を送り込んで来た経緯には深謀遠慮が見て取れ、交渉次第では、却ってさらに窮地に陥る可能性があった。

 といって、問答無用と香取を破門すれば、いかなる報復に出られるとも限らない。さしずめ孫娘の身の上が心配となる。

 丹羽秀尊管長がその身分を利用して政治力を使えば、醜聞は自宗派のみならず他宗派、いや広く世間一般にまで知れ渡ることになるであろう。そうなれば、少なからず脇の甘さを指摘されることは避けられず、著しい名誉の毀損となる。最悪の場合、ペナルティとして正元寺に許された得度許可寺の特典が取り上げられる可能性が高い。これは大きな収入源の喪失となるのだ。

「総領さんであれば、と思ったのじゃがの」

 道恵が奥歯に物の挟まった言い方をした。

「御先代様、いくらなんでも買被り過ぎです」

「そうかのう、総領さんはその世界にも顔が利くと聞いておったのじゃが」

「なっ」

 思わず森岡の腰が浮いた。

「今年の旧盆の帰省に合わせて、総領さんに危害を加えんと境港に現れた不審人物を神栄会の峰松という極道者が捕縛したそうな」

「……」

 森岡はぐうの音も出ない。

「峰松といえば神王組でも名うての強面で、将来の組長候補にも名が挙がっていると聞く」

「どこから、それを」

「秋の法要のとき、足立万吉さんから聞かされました」

 足立統万の祖父万吉は、森岡の祖父洋吾郎の義弟で盟友だった人物である。彼は洋吾郎と腹違いの妹の婿に入った。洋吾郎の実父で、万吉の義父だった男は灘屋を出て境港で一家を構えたとき、菩提寺を園方寺としたのである。

 また万吉自身も、現在は境港市民であるが、元は島根半島の多島(たしま)という浜浦の隣村の出身だった。多島は八十世帯の小さな村で、ほとんど家の菩提寺が園方寺であった。

――さすがの万吉爺さんも老いたな。

 以前の万吉であれば、いかに信頼厚い道恵といえども、その種の話をしたりしないはずであった。齢九十歳、棺桶に片足を突っ込んだ年になり、口が軽くなったのであろう。

「そこまでご存知とあれば隠し様がありませんね」

 森岡は苦笑いをした。 

 それにしても暴力団というのはなんとも抜け目のないことだろうか、と森岡は思った。正元寺は、道臨宗において世襲と得度儀式執行の両方を認可された数少ない寺院の一つなのだ。もし香取が後を継げば、手あたり次第に暴力団関係者を得度させ、法の目から逃れさせると予想できた。

「香取が極道者だと良く見抜けましたね」

「幸運なことに、偶然にも香取が組らしきところに電話しているところ目撃したのです。その口ぶりに疑念を抱いた秀仁が興信所を使って調べたのです」

「それでは、香取という男はこちらが正体に気づいていることは知らないのですね」

「そうです」

 秀尊が厳しい顔つきで肯いた。

「さて、大変お聞き難いのですが」

 森岡は遠慮がちに言った。

「お孫さんとの関係はどこまで進んでいるのでしょうか」

 秀尊の顔が緩んだ。

「香取は殊勝を装うためか、修行中ということで、まだ深い関係にはなっていないようです」

 秀尊は肉体関係を否定した。

「それは不幸中の幸いです」

 森岡もほっと息を吐いた。仮に妊娠でもしていたら、さらに面倒なことになるからである。

「香取はどこの組かわかりますか」

「興信所の報告では東京の青虎会ということです」

「青虎……」

 森岡の口が滑った。

「総領さんは、ご存知かの」

 道恵の声には期待が籠っていた。

「知っているというほどではありませんが、伝手はあります」

 おお、と秀尊は口元を緩め、

「では、何とかなりますか」

 道恵が期待の顔で訊く。

 森岡はしばらく瞑目して沈思した。

「実は、旧盆の前に管長とお会いしたとき、その苦衷を打ち明けられたのですが、拙僧如きに解決できるはずもない。ところが、十数年ぶりに総領さんにお会いし、また万吉さんから神王組との関係を聞いたとき、もしや総領さんならばとは思ったものの、連絡を躊躇っておりましたのじゃ」

 溜まりかねた道恵が言い訳をした。

「そこへ私からの相談が舞い込み、渡りに船と思われたのですね」

 瞑目を終えた森岡が微笑んだ。

「いかにも」

 道恵はいかにも決まりが悪そうに、つるつるの頭を撫でた。

「さて管長様、青虎会といえば、広域暴力団虎鉄組の中核組織です。その青虎会が周到に準備を重ねてきた計画から手を引かせるには、宗務総長への指示をお願いするだけでは割りに合いません」

 森岡に駆け引きをするつもりなど毛頭なく、実に本心であった。

「金かの。二、三億なら何とかなるが」

「それでは香取個人への手切れ金にしかなりません」

「では、いくら掛かるのかの」

「私が交渉するとなりますと、百億単位の利権を手放すことになるでしょう」

「ひ、百億……」

 秀尊と道恵が揃って悲鳴を上げた。幼少期から森岡を知る道恵は、彼が大風呂敷を広げる男ではないと承知している。

「いくらなんでもそのような大金を、総領さんが肩代わりすると言われるのか」

「現金ではありません。あくまでも利権です」

「どのような」

「それは御先代様といえども、この場で申し上げるわけにはいきません」

 森岡は道恵に軽く会釈した。

「では、総領さんは百億何某かの利権お持ちなのか」

 森岡は不敵な笑みを浮かべ、

「御先代様とも思えないお言葉ですね」

 と少し揶揄するように言った。いくら道恵の頼みでも、全ての利権を手放すはずがない。

だが、道恵は不快になるどころか、

「総領さんの利権はそれ以上ということですな」

「二桁違うとだけ言っておきましょう」

 森岡は平然と言った。

「一兆円?」

「もっとも十年の時を要しますが」

「それにしても……」

 秀尊と道恵は開いた口が塞がらない。

「そこで、憚りながら管長様にはそれに見合う協力をもう一つお願い致します」

「百億の利権に見合う協力など、拙僧にできようか」

 秀尊が不安な顔を覗かせる。

「額面の百億など、管長様のご威光に比べれば何ほどのものでございましょう」

 森岡が慇懃に頭を下げる。

「私に何をせよ、と」

「私の事業に協力して頂きたいのです」

「して、その事業とは」

「そちらの宗派においても損になる話ではありません」

 と、森岡は寺院ネットワーク事業について縷々説明した。

「そういう話であれば、我が宗派にとっても有り難い話です。協力どころかこちらから頭を下げてでもお仲間に入れて頂きたい」

 日本全体で少子高齢化と地方の過疎化が進み、特に田舎の末寺は経営が成り立たなくなっていた。現に、後継者が見つからず廃寺となった寺院は数知れない。また、そういった廃寺の法人を暴力団が買い漁るため、長閑な集落が突然きな臭くなっている現実があった。

 森岡の提案はそういった貧困に喘ぐ末寺を救済する可能性があった。

 丹羽秀尊管長が率いる道臨宗の寺院数は三千余、森岡の事業推進に拍車を掛けるという意味において申し分のない数であった。

「では、引き受けて下さいますか」

「出来得る限りのことをしてみましょう」

「有り難い。この通りです」

 秀尊は両手をそれぞれの膝に置き、肘を深く追って頭を下げた。これは、目上の者が行う正式な「礼」の所作である。畳に座っているときは胡坐を搔いて同じ動作をする。正座をして、手を畳に着けて頭を下げるのは「謝罪」、または「懇願」である。ただ、同等または目下の者は、いずれの場合も手を畳や床に着いて頭を下げる。

「ただし、手法については一切詮索なさらないように願います。また、本日の事も他言無用を堅く守って頂きます」

 森岡は二人の目を交互に見て言った。

「それはもう……」

「総領さんの言われる通りに」

 二人は神妙に肯いた。

「最後に、大変失礼ですが、宗務総長さんは信用の置けるお方ですね」

「それは拙僧が保証します」

 秀尊が胸を叩いた。

「とはいえ、瑞真寺の御本尊の件は、万が一にも私の名が出ませんようにお願いします」

 森岡は鋭い目つきで念を押した。

「承知しました」

 さすがの高僧二人も気圧されるように口を合わせた。

 

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