森岡洋介は赤坂の高級料亭・磯松(いそまつ)で宗光賢治と会った。
帝都ホテルのスイートルームを提案した森岡に、宗光が磯松での密談を希望した。
青虎会は虎鉄組の構成団体である。したがって虎鉄組の鬼庭徹朗組長と直談判するのが筋道であったが、森岡は鬼庭本人よりも彼の兄貴分の宗光に話を通した方が早いと思ったのである。
女将の案内で座敷に入った途端、森岡は訝しさを感じた。部屋の両側に隣部屋があったのである。
通常、料亭は全室が個室である。客の会話が漏れないためには当然のことである。
人数に応じて六畳から三十畳程度まであり、全室床の間付きである。むろん、政治家や大企業の最高幹部であれば、秘書や御伴の者が控えるための続き部屋があるが、左右両側にというのは珍しかった。
森岡は学生時代から神村に同伴し、大阪や京都だけでなく、東京や名古屋、札幌、仙台、福岡、鹿児島など数多くの料亭を訪れていたが、このような座敷は滅多になかった。
しかも、約束時間より三十分も早く着いたのに、宗光はそれよりさらに早くやって来ていた。
どう考えても、何か仕掛けがあるのような気がしてならなかった。
「どうかしたかな」
不審顔の森岡に宗光が声を掛けた。
「いえ、なんでもありません」
取り繕った森岡は、
「過日は大変お世話になりました」
と、まずは畳に手を着いて礼を述べた。
「なんのなんの。また会いたいと思っていたが、こんなに早く、しかも君の方から連絡があるとは思ってもいなかったぞ」
宗光は満足気に笑った。
宗光賢治は六十五歳。身長は百七十五センチほどで、彼の年代では大柄の方である。目、鼻、耳、口の一つ一つの創りが大きく、唇も厚い。どことなく天礼銘茶の林海徳と容貌が似ている。彼との差異は、豊富な頭髪が見事に白色化していることだろうか。
「少々、面倒なお願いがあって参りました」
その深刻な口調に宗光から笑いが消えた。
「君ほどの男が、そのような顔をするということは金ではないの」
宗光は手で顎を撫でると、
「勅使河原が、なんぞ無茶を仕掛けてでもきたか」
と訊いた。
「いいえ。青虎会のことで」
「青虎?」
宗光は意外という顔をした。
「先日、手打ちをしたばかりだろう」
宗光の言う通り、坂根好之の拉致監禁事件は、森岡が五億円を支払うことで手打ちとなっていた。鬼庭組長は不満げであったが、一度手打ちをした以上、よほどのことがない限り反故にしないのが極道社会の鉄則である。
「その件ではなく、正元寺の件です」
「なんだと!」
さすがの宗光も動揺を露にした。森岡の用件がわかったのである。
「どうして君が関わっているのだ」
言うまでもなく、森岡の師である神村正遠は天真宗僧侶である。森岡が修羅道に身を落としてまで献身するのは、あくまでも神村のためであったはずである。宗光の疑念は、他宗派の正元寺とどのような関わりがあるというのか、そのことである。
「知人に頭を下げられまして」
と、道恵の名は伏せて経緯を話した。
「なんとも奇特なことだな」
――どうやら、この男は揉め事の仲裁役を担うように宿命付けられているようだ。
宗光は曰く言い難しという顔をした。
「それで……」
どういう心積もりなのか、と訊いた。
「宗光様のご要望に沿いましょう」
一瞬、宗光賢治の頭に空白が生まれた。
そして次の瞬間、ブックメーカー事業のことを言っているのだと理解した。虎鉄組の鬼庭組長を交えて手打ち交渉をしたとき、宗光は虎鉄組が一枚噛めないか打診していた。そのときは冗談を装ったが、見事に腹の底を見抜かれていた。
――なんとも恐ろしい男だ。
宗光は震撼した。
「六代目とは話が付いているのか」
と探るような眼つきで訊いた。
とんでもない、と顔の前で大きく手を振った。
「殺されてしまいますよ」
いかに神王組六代目の蜂矢司の覚えがめでたくても、他組織の介入を許すはずがない。だが、殺伐とした言葉を吐いた割りに、森岡の表情は緩んでいる。
「どういうことだ」
「台湾の利権を割譲しましょう」
「台湾だと? ば、馬鹿を言うな」
間髪入れず、怒声を上げた。
無理もない。台湾の裏組織は世界最強とも言われている殺戮集団として恐れられていた。その台湾の黒社会に手を突っ込むことなど自殺行為に等しかった。
「こちらは話が付いています」
森岡は事もなさげに言った。
数瞬、呆気に取られていた宗光は、
「それは台湾だけでなく蜂矢組長とも、という意味か」
と前のめりになった。
はい、と森岡は力強く顎を引いた。
この会談に先立ち、森岡は神王組六代目蜂矢司との交渉を済ませていた。
ブックメーカー事業の台湾進出を相談したのである。
面談場所は神王組本家だった。
蜂矢司との面会には慎重を期さねばならない。日本最大の暴力団の首領との会談が世間に漏れれば、相当なバッシングを覚悟しなければならないからだ。
したがって、北新地のクラブや峰松との面談に使うホテルの一室というわけにはいかなかった。蜂矢司と峰松重一とでは、警察やマスコミをはじめ世間の注目度が全く違うからだ。
これまでのように、クルーザーという手も考えないわけではなかったが、同じ方法を重ねると、足が付く恐れもある。
そこで、大胆にも神王組本家に決めた。
むろん、本家は警察当局の監視下にあったが、「灯台下暗し」ということもあるし、寺島龍司の車に同乗すれば、たとえ人目に付いても、極道者と見間違うだろうという計算があった。
とはいえ、当たり前だが、サングラスと付け髭をして変装している。
ただ一人同行した蒲生亮太もまたそれに倣っていた。
森岡の報告を聞いて、まずもって蜂矢司は驚愕した。同席していた本家若頭で神栄会会長の寺島龍司、同じく本家若頭補佐で、神栄会若頭の峰松重一も同様に目を剥いた。
日本最大の暴力組織神王組にとっても、いや台湾黒社会の実力を知る神王組だからこそ、驚きは倍加した。
「洋介君、その話は本当か」
蜂矢には、俄かには信じられなかった。
はい、と頷いた森岡は世界最大のウーロン茶製造販売会社・天礼銘茶社長林海偉から要請があったことを話した。
うーん、と思わず寺島が唸った。
「若頭、どうかしたか」
蜂矢が怪訝の声で訊く。
「いや、いまさらながら、さすがは……と思いまして」
「ほんにのう」
蜂矢が頷いた。
「まさか、台湾へ進出がこうもあっさりと成功するとは……」
いえ、と寺島が首を横に振った。
「親父、そのことではありません」
「どういう意味だ」
「もちろん、親父の言われるように、台湾進出など想定外のことではありますが、さらにその話を付けた相手が相手だけに……」
「天礼銘茶の林海偉という男のことか」
はい、と寺島が頷く。
「実は、前回の事業化のとき、神州組は林海偉に資金の拠出を依頼し、断られていたのです」
「なんだと」
蜂矢は大きく目を見開いて森岡を見た。
五代目からブックメーカーの事業化の後見を任された神州組組長で本家舎弟頭の川瀬正巳は、事業化資金の拠出を林海偉に求めたが、林は今一つ信頼性に欠けると判断し、断っていた。
その後、沖縄の末端組織の勇み足から警察当局の捜査を受ける羽目になったのであるから、さすがは世界最大のウーロン茶製造販売会社の首領の慧眼たるや恐るべしといったところである。
その林海偉が、此度は彼の方から森岡に接近してきたのである。
蜂矢はあらためて、自身が見込んだ男に惚れ直していた。
「そこで、親父さんにご相談というか、お願いがあります」
「ほう、あらたまってなんや」
蜂矢は、森岡に「親父」と呼ばせていた。
これは実に異例なことだった。神王組には、蜂矢から直接盃を貰った直参と呼ばれる子分が百十七名いるが、親父と呼べるのは若頭補佐や支部長などの、側近幹部までであった。
「その台湾からの収益の分配ですが……」
「それは考えんでええ」
蜂矢が、途中で右手を翳しながら森岡の言葉に重ねた。
「しかし……」
「あんたには、日本での事業しか頼んでおらん。せやから、日本以外の収益はあんたの好きにしたらええんやで」
「……」
森岡は沈思した。
なるほど、森岡は日本での事業化しか要請されていなかった。しかし、極道者を相手にして、それも日本最大の暴力団神王組の組長、若頭、若頭補佐を前にして、台湾利権を話してしまっている。
蜂矢本人はともかく、これまでしのぎと言われる経済活動に疎かった神栄会の寺島と峰松にとっては垂涎の利権話だろう。
それが、蜂矢の言によって泡と消えようとしているのだ。一旦、目の前にぶら下げられた甘い餌である。それを取り上げられれば、未練が増すというものだ。
「親父さん、本当に私の好きにして良いのですね」
「ああ、ほんまや。文句は言わん」
蜂矢の言葉に寺島と峰松の顔が曇った。落胆を隠しきれないのである。
だからと言って、寺島は口を挟むことができなかった。ただでさえ親分の蜂矢に意見するには勇気がいるのに、この件に関して蜂矢の考えは筋が通っている。
寺島と峰松は諦めるしかなかった。
森岡は二人の顔色をチラリと窺った後、口を開いた。
「であれば、台湾に限らず、日本以外の収益の一.〇パーセントを本家に、〇.五パーセントを本家若頭の組に上納致します」
「な……」
「なんですと」
「……」
蜂矢が目を剥き、寺島が喜色の含んだ声を上げた方で、峰松は複雑な表情をしていた。
台湾プロ野球の闇賭博市場は、一兆円とも五兆円とも言われている。
仮に一兆円として、二十パーセントを取り込めば、蜂矢の懐には年間二十億円、寺島のそれに十億円が転がり込む計算である。
もし、日本以外の全世界での売り上げが一兆円になれば、それぞれ百億円と五十億円という法外なものになる。
森岡が郭銘傑に説明した、『台湾側から受け取るのは、神王組へ上納する四パーセントとコンサルティング料の一パーセント』というのは方便だった。端から、一パーセントを蜂矢個人に、〇.五パーセントを当代若頭の組に上納するつもりでいたのである。
むろん、残り二.五パーセント分も、森岡は自分の懐に入れるつもりなどない。
蜂矢とは日本国内での事業しか請け負っていない。日本以外の事業については自由なのである。したがって、蜂矢にとっても一パーセントは望外ということになる。
森岡の言葉が巧妙なのは、「本家」と「本家若頭の組」だということである。
今現在では、本家は蜂矢個人を指すが、本家若頭の組つまり寺島個人ではなく神栄会に上納すると言ったのだ。
寺島が七代目を襲名すれば、本家分は寺島個人に上納されるが、そのときの本家若頭は峰松に決まっているわけではない。
峰松は、六代目の間は神栄会の懐は潤うが、その先が不透明ことに懸念が生じていたのである。
ははは……と蜂矢が高笑いした。
「なるほど、そういう手で来るか」
蜂矢は目を細めて言った。
「どうする、若頭」
「せっかくの森岡はんの好意を袖にすることはないかと」
寺島は、ばつの悪そうな顔で言った。
「しかし若頭。そうなると、わしらは洋介君に金玉を握られることになるの」
「どうも、そのようで」
寺島は苦笑いしながら頷いた。
しばらく沈思していた宗光が、
「あはは……」
と両手を叩き、上半身を前後しながら笑い出した。
「君という男はなんという……手打ちのときもたいした『いごっそう』だと感心したが、思っていた以上だ」
いごっそうとは土佐弁で、胆の据わった男、快男児という意味である。
「宗光さんは高知のご出身でしたか」
「自慢じゃないが、先祖は坂本家の遠縁に当たる」
「坂本? 坂本龍馬ですか」
「おう、そうだ」
宗光が胸を張った。
「それは羨ましい限りです」
森岡は真摯な態度で言った。歴史上の人物の中で、彼は坂本龍馬の生き様がもっとも好きなのである。
「何を言うか。私こそ君の血筋にどれだけ嫉妬することか」
宗光も真顔である。彼は、森岡が奈良岡真篤と同じ系譜であることを知っていた。
「お互いに隣家の芝生は緑に見えるようで」
「そういうことらしいのう」
大きく肯いた宗光は、
「それで台湾はどの筋と話を付けたのだ」
と探りを入れた。
「それは企業秘密ですよ」
「教えられんか」
「話しても良いですが、それがどうだというのです」
森岡は、暗に楔は打てないと言った。
「わかった。では条件を聞こう」
「毎年、台湾での総売り上げの〇.五パーセントを上納しましょう」
「〇.五パーセントもか」
宗光は驚いたように言った。この右翼の頂点に立つ男は頭の回転も速い。瞬時に計算を終えていた。
「台湾の裏野球賭博の賭け金総額は、年に一兆円を上回っていると聞く。この牙城を崩すのは容易ではないと思うが、いずれ一割ぐらいは何とかなるかもしれないな」
一千億円の〇.五パーセントということは年に五億円である。宗光にとっても悪い条件ではない。
森岡は蜂矢や神栄会への上納の他にも此度のような状況を想定し、利権を残しているのである。
「宗光さんの指定口座に振り込んだ後は、私は……」
と、森岡は目を瞑り、口をぎゅっと閉じ、両手で左右の耳を塞いだ。
「見ざる、聞かざる、言わざる、だな」
森岡は、宗光がその金をどのように分配するか関心がないし、聞きもしない。また、仮に鬼庭徹朗から宗光への上納総額を問われても堅く秘匿すると言っているのである。
「よかろう。正元寺の件は手を引かせる。だが……」
「タイかスリランカにでも仏道修行に行き、十年ぐらいは帰国しないということにして下さい」
宗光の胸中を察した森岡が助言した。
「なるほど、それは良い。それだけ時間があれば、入れ揚げたお嬢さんの熱も冷めるであろう」
納得の表情をした宗光の口調が,
「ところで、どうして私のところに話を持ってきた」
と詰問口調に変わった。
「仰る意味が分かり兼ねますが」
「出家詐欺は青虎会が考えたこと。鬼庭徹朗に話を持って行くのが本筋だろうが」
「宗光様は鬼庭組長の兄貴分でしょう」
当人より、その上の立場にある者と話を付けた方が手っ取り早い、と森岡は言った。
「だが、私に話を持ってくれば、余計に金が掛かるだろう。事実、鬼庭であれば十億ほどで済んだものを、台湾の利権を割譲する破目になり、トータルすれば何十倍にもなった」
「正直に申し上げて良いででしょうか」
「許そう」
「今度の策略ですが、言い難いことながら、とてものこと鬼庭組長には考えも付かないことでしょう」
その瞬間、宗光は眉を吊り上げた。
「鬼庭をそう馬鹿にするな。出家詐欺など当世の極道者であれば誰でも思い付く」
不肖の教え子でも、いや世間では出来の悪い子ほど可愛いとも言う。宗光も例外ではないらしい。
「誤解しないで下さい。出家詐欺そのものではありません。正元寺は道臨宗でも特別な寺院です」
森岡は、少しも動じることなく弁明した。
「そっちか。なるほどの」
「いかに極道組織が情報通であっても正元寺の縁起は別物です。おそらく檀家組織からの情報でしょう。天真宗における立国会と同じ伝手が道臨宗にもある。そのような高度な情報網を持つ人物は宗光様の他に考えられません」
「買被り過ぎだ。第一、私と勅使河原にしても、それほど深い付き合いではない」
「そうでしょうか。手打ちの席での話の成り行きから察するに、五億は全て勅使河原の手に渡る流れでしたが、鬼庭組長は折半したと私は思っています。当然、勅使河原は文句の一つも言ったでしょうが、そこで組長は宗光様のご意志と伝え、納得させたはずだと推察しています」
森岡は、当初の十億円は鬼庭と勅使河原で折半する腹だと推測していた。それが宗光の仲介で五億円に半減した。話の経緯からすれば、鬼庭が取り分の五億円を放棄した格好だが、森岡には鬼庭が素直に諦めるとは思えなかったのである。
「くく……」
宗光は言葉を失った。まさしく森岡の言う通り、勅使河原から鬼庭の発言の裏を取る連絡があったのである。
「君には未来が見えるのか」
「とんでもない」
森岡は顔の前で手を振った。
「ただ、人となりと人間関係から推し量っただけです」
「一度会っただけで、そこまで見通すのか……。さすがは奈良岡先生の血筋、実に恐ろしい男だ」
宗光は畏怖するように言うと、
「君の言う通り、正法会(しょうぼうかい)の会長と昵懇でな。以前、何気に耳にしていた。会長には悪いと思ったが、利用させてもらった」
正法会とは道臨宗の最大檀信徒会で会員は約百二十万人である。
「宗光様は他の宗派の檀信徒会ともお付き合いがございますか」
「他にも三つ四つの宗派の檀信徒会幹部と懇意にしている」
「さすが、以前『情報は右翼の因』と仰ったのは伊達ではありませんね」
と感服した表情で言った森岡がビール瓶を手にして酌をした。
「そこで、別のご相談があります」
「あらたまって、なんだ」
「それらの最高幹部または責任者を私にご紹介して頂けませんか」
宗光は射抜くような目で森岡を見据える。
「今度は何をするつもりなのだ」
森岡は寺院ネットワーク事業を説明し、各檀信徒会から宗門への働き掛けをして欲しいのだと言った。
「ITの世界と宗教界、対極にある二つを結合させるのか。何とも良いところに目を付けるのう」
「ご協力頂ければ、憚りながら一団体に付き二億の御礼を致します」
そう言って頭を下げようとした森岡を、
いや、と宗光は手を翳して止めた。
「礼は良い。その代わりと言っては何だが、私事の願いがある」
「はて、それは……」
森岡は、右翼の首領が自分にどんな願い事があるのだ、と訝った。
「実は、私の息子を傍に置いてくれないか」
「ご子息を……それはご勘弁下さい」
森岡は即座に断った。
なに! と宗光の顔が見る見るうちに険しくなった。
「私の頼みを断るか」
「いつ寝首を搔かれるか、しれたものではありませんので……」
表情一つ変えない森岡を凝っと見ていた宗光は、やがてふふふ……と笑った。
「冗談か。本当の理由は何だ」
「私などより、宗光様ご自身の傍にいた方がよほど糧になると思います」
うーん、と宗光が頭を掻いた。
「こう見えても、私も世間の親と変わらないのだよ、森岡君」
「ご子息を崖下に突き落せませんか」
獅子は我が子を崖下に落とし、這い上がって来た子のみを育てるという。
「恥ずかしながら」
と言った宗光の顔は、右翼の首領から一人の父親のそれになっていた。
「何せ、四十歳を過ぎてからの恥じ掻きっ子でな。というより、半ば諦め掛けていたときに授かった子でな、どうしても甘くなってしまう。そこで他人の釜の飯を食わそうという魂胆なのだ」
「では、一度ご本人と会ってからにしたいのですが、それで宜しいですか」
「それならば、今会ってやってくれないか」
そう言って宗光は襖に向けて声を掛けた。
「賢一郎、森岡さんに挨拶しなさい」
失礼しますと応じ、襖を開けて若者が座敷に入って来た。
――なるほど、この座敷にしたのはこういうことだったか。
森岡は、賢一郎と呼ばれた息子に会話を聞かせ、自分の値踏みをさせたのだと推察した。
「宗光賢一郎です。以後お見知りおき下さい」
と言って平伏した。
今時の若者にしてはしっかりとした挨拶と所作だった。
「どうだ、私の言う通りの男だろう」
「いえ、お父さんの言われる以上かと思います」
賢一郎は平然と答えた。
「ほう、なぜだ」
「これまでお父さんと正面切って話のできる者がいましたでしょうか。言葉に詰まるか、追従する者ばかりでした」
「だな」
「お父さんには悪いですが、ただいまの交渉は森岡様の方が上だと見ました。この貫録で、私より一回りしか違わないとは、嫉妬心や劣等感などを超えて、己の将来に絶望感さえ抱きます」
ははは……と宗光賢治は高笑いすると、
「良く言った。それでこそ私の息子だ」
満足顔を森岡に向けた。
「まあまあだろう」
はい、と森岡は肯いた。
「失礼ですが、今は何をしておられますか」
「大学を出た後、父の許で修行をしています」
「大学はどちらを」
「関東大学の政治経済学部を出ました」
賢一郎は、大学を卒業したばかりの二十三歳だった。
「ほう。あそこは帝都大学受験者が併願するところ。なかなかに優秀ですね」
森岡は素直に褒めると、
「スポーツは」
「スポーツではありませんが、空手と合気道を少々修練しています」
賢一郎の背格好は森岡と似かよっているが、鍛え上げられた肉体は森岡の比ではなかった。
「どうかの」
宗光賢治は覗き込むようにした。
森岡は数瞬間を置いた後、
「いまさら申し上げるまでもありませんが、私の仕事は危険を伴います。ご子息の命の保証はできません」
と念を押した。
「むろん、承知している。その上での頼みだ」
つい先頃、弟分の鬼庭徹朗率いる鬼庭組が、森岡の部下の坂根好之を拉致監禁したばかりである。また今後、ブックメーカー事業は全世界に展開されることだろう。であれば、各国の裏社会との折衝は不可避となる。その過程において、万が一森岡が的になるようなことがあれば、身近にいる賢一郎は巻き添えを食う可能性が高い。
「ならば、お引き受けいたしますが、一旦私の手許に置いた以上は、どなた様の縁者であっても遠慮は致しません。そのように心にお留め置き下さい」
「わかっている。むしろ、それこそが私の望むところなのだ」
宗光賢治はきっぱりと言った。
「賢一郎も良いな」
「はい」
と言った賢一郎の面には覚悟の程が顕れていた。
「良し、決まった。では固めの盃といこう」
宗光賢治は破願して森岡に酌をした。
森岡にとって宗光賢一郎を手許に置くという決断は大きな賭けであった。
賢一郎は言わば「堂々たるスパイ」である。森岡の傍にあって彼に集まる様々な情報を父賢治に漏らすことができる。そうなれば、今後宗光賢治との交渉において駆け引きができなくなる。また場合によっては、賢一郎は森岡を殺害、あるいは罠に嵌める先兵としての役割も果たすことができる。
一方森岡にとってみれば、宗光賢治の掌中の珠を人質に取ったようなものである。賢治の溺愛が真実であれば、反対に彼の持つ情報を利用する道が開ける。しかも、これが最も重要なのだが、もし賢一郎を一人前に薫陶した上で、将来彼が父賢治の後を継げば、日本の右翼の世界にも顔が通用することになる。
むろん、子息だからといって、必ずしも右翼の首領の座が受け継げるものではないが、それでも心の絆で結ばれた者がその世界にいるといないとでは雲泥の差である。
森岡は、瞬時に両方を天秤に掛け、前に出ることを選択したのだった。
半月後、宗務院からの使者を見送った栄覚門主は、貫主室に執事長の葛城信之を呼んだ。
貫主室に入り、栄覚の顔色を見た葛城は、彼の心の陰りに気づいた。
「何か新たな不都合が生じましたか」
「困ったことになった」
葛城は栄覚が見せた渋面に事の重大さを悟った。
「もしや、例のことでございますか」
うむ、と栄覚が肯いた。
「私の代で憂いを取り除いておきたいと思っていたが、この二年の間に解決しなければならなくなった」
「宗務院が何か言って来たのですね」
「寄りによって、全国仏教会の事務局から、二年後の日本仏教秘仏秘宝展に当寺の釈迦立像を出展して欲しい旨の要請があった、と告げられた」
「なんと。断ることはできませんか」
「断れば、間違いなく疑いを招く」
「そうでございましょうな」
「もし、紛失の事実が明らかになれば、何らかの処分対象になる」
「御門主の野望にも支障が出ますね」
「支障どころではない、大きな痛手となる」
紛失したことより、隠蔽し続けて来たことの方が罪が重い、と栄覚は苦い顔をして言った。
瑞真寺の御本尊は、江戸享保時代、長厳寺での出開帳後に盗難に遭っていた。しかも、犯人は長厳寺が雇った警護の侍と下働きの小者であることが濃厚だった。
「こうなれば手段を選んでいる暇はない。たいていのことには腹を括るつもりだが、何か良い方法はないものかのう」
栄覚の吐息混じりの呟きに、葛城が眦を決して口を開いた。
「実は、御門主様がいつそのお言葉を口にされるかと待っておりました」
「その口ぶりでは、すでに腹案があるのだな」
栄覚が期待の籠った声で訊いた。
栄覚から御本尊の紛失を聞いた葛城は、まず久田帝玄が稲田連合に渡した法国寺の宝物の中に、その御本尊を加えていなかったかどうかを調査した。
その結果、法国寺から持ち出された五点の宝物のうち、四点は稲田連合傘下の極東金融へ、残り一点は菊池龍峰の手元へ流れたが、いずれも森岡の尽力で総本山へ戻っていた。
問題は、それらとは別に御本尊を稲田連合に差し出したかどうかであった。帝玄が別格大本山法国寺の宝物に手を出すくらい追い込まれていたのだとすれば、瑞真寺の秘仏を手放したのではないかと推察したのである。
だが極東金融からの返答は、菊地龍峰に譲ったものも含めた五点限りで、他にはないというものだった。
つまり、瑞真寺の御本尊の行方は、依然として不明のままであった。
「御門主、いっそのこと開帳をいたしたらどうでしょう」
「ば、馬鹿なことを」
栄覚の身体が小刻みに震えた。狼狽しているのが一目瞭然だった。
「む、無茶にも程があるぞ」
「いえ。起死回生の良策だと思います」
と間髪入れずに応じた葛城の自信顔が、栄覚には尊大に映った。
「良策だと? 何を言っているのだ。当寺の恥が、いや罪が世間に知れ渡るのだぞ。第一、御本尊様はどうするのだ」
今にも飛び掛からんばかりに怒鳴った。
「落ち着いて下さい。声が外に漏れます」
葛城が慌てて宥めた。
瑞真寺は、宗粗栄真大聖人の末弟栄相上人の血脈者が代々貫主を務める本山格の寺院である。栄真の遺言により血脈、血縁者が不当に排斥されて来た歴史の反省に立ち、室町時代に建立された。
だが、宗務自体は宗務院の関与から免れたものの、その代償として貫主の補佐、身の回りの世話をする執事は全て宗務院から派遣されていた。
言わば、公然たる監視役である。したがって、歴代の瑞真寺貫主は、隠忍自重して己の本心を直隠しにしなければならなった。
その点、栄覚は恵まれていた。執事長の葛城は、先代門主栄興上人の縁の者だったのである。といっても、味方は葛城ただ一人、他の執事は宗務院の監視員に違いはなかった。
「贋作すれば良いかと」
「ば、馬鹿な……」
あまりの進言に、さしもの栄覚も二の句が継げない。
「よくよくお考えになって下さい。当寺の御本尊様を最後に開帳したのは、二百六十年以上も昔のことなのですよ」
「……」
栄覚がしばらく沈思した。
「本物は誰も知らないということか」
にやりと葛城が肯いた。
「その通りでございます」
「とはいえ、確実ではあるまい。学者や古美術に造詣の深い者の中には看破する者がいるかもしれない」
「ですから、そいつを抱き込んでしまえば宜しいのではないでしょうか」
「なに……」
鋭利な頭脳を持つ栄覚が首を捻った。動揺が完全に収まっていないのである。
「当代一の見識者からお墨付きを貰うのです」
栄覚がそういうことかと、小刻みに何度も顎を上下した。
「金で偽物を本物とせよ、と言うのだな」
「これで御門主様の、そして御宗祖様の血縁寺である瑞真寺の暗雲は払い除けられます」
葛城は両手を畳に着いて頭を下げた。
「誰か当てはあるのかの」
葛城が頭を上げるを待って栄覚が訊ねた。
「帝都大学の海老沼名誉教授は、私の遠縁に当たります」
「海老沼? 確か、古美術品真贋鑑定の権威だな」
「右に出るものはおりません」
葛城は胸を張ったが、栄覚の面は沈んだものになった。
「そのような大家が、悪巧みに加担するはずがない」
「それが有り得ますので」
葛城は口調は揺るぎないものだった。
「海老沼名誉教授の弱みを一つ二つ握っています。ですがご容赦を」
一族の恥になるので、詳細は話せないと葛城は言った。
わかった、と眼で答えた栄覚は、
「間違いないか」
と念を押した。
「ご懸念無く」
葛城は寸分の迷いもない口調で言った。だが、それでも尚、栄覚は厳しい表情を崩さない。
「もう一つ懸念があるぞ」
「どのようなことでござましょう」
「長厳寺が異論を挟んだらどうする」
「これは御門主のお言葉とも思えません」
葛城の言葉に、あっと栄覚が自分の間違いに気づいた。
「久田自ら墓穴を掘ることになるか」
はい、と葛城が肯いた。
「長厳寺はわかった。だが、他の者の手に有ったときはどうするのだ。下手をすれば真贋論争になるぞ」
ふふふ……と葛城は不気味に笑った。
「それは、さらに勿怪の幸いでございます」
「なんだと」
初めて見る葛城の一面に、栄覚が思わずたじろぐ。
「御門主様は何もご存知ない方が宜しいでしょう。そのときは全て私にお任せ下さい」
葛城は乾いた声で決断を迫った。
それでも栄覚は逡巡した。
彼は大いなる野心家で策謀家でもあるが、決して悪党、悪辣漢ではない。勅使河原公彦と一定の距離を保ち、虎鉄組に必要以上の暴力を振るわないように戒めているのがその証拠である。
宗祖栄真大聖人の血縁者の末裔である彼の念頭にあるのはただ一つ――。
不当に排除されて来た瑞真寺の歴代門主、つまりは祖霊方の名誉回復である。そして、現法主栄薩大僧正をも凌ぐ力量と謳われた父栄興ですら、法主の座を断念せざるを得なかった理不尽な状況に憤っていた。数々の謀略は、心に鎧を纏って実行しているだけなのだ。
そのような彼にしてみれば、天真宗教義と同等の重きをなすと言っても過言ではない、秘仏の御本尊を蔑ろにする行為など容易に決断できるはずもなかった。
やがて栄覚はゆっくりと口を開いた。
「少し考えさせてくれないか」
虚ろな目をして言った彼の眉間には、深い皺が刻み込まれていた。
天真宗開祖栄真大聖人の処女作と言われている瑞真寺所蔵の釈迦立像は盗難に遭っていた。
一七三五年(享保十九年)に、時の瑞真寺門主栄経(えいきょう)が鎌倉の長厳寺で出開帳を行った後に紛失した。
本来、前年に三十三年周期の出開帳を目黒の大本山澄福寺で済ませたばかりで、二年連続での出開帳には難色を示した栄経門主だったが、長厳寺の住職帝蓮(ていれん)上人の断っての要望を断り切れず、不承不承応じた。
というのも、澄福寺での出開帳の仲介役の労を取ったのが帝連だったため、無下に断れなかったのである。
事件は二ヶ月に亘って行われた出開帳を終え、その帰路の途に着いた直後だった。長厳寺側が警護のためにと付けてくれた侍の一人と下働きの小者が、金二百両と釈迦立像を持ち逃げしたのである。
このとき警護役の侍は五名いたが、持ち逃げしたのは新規に雇われた者ではなく、長年長厳寺の警護を勤めていた侍だったため、栄経は帝蓮の騙り、つまり警護侍と謀ったのではないかと疑った。
だが確証がない上に、御本尊が盗難に遭ったなどという噂が広まれば、瑞真寺の威光は地に落ち、自身は門主の座から降りなければならなくなる。いやこの際、我が身はどうなろうとも、宗祖家の名誉が傷つけられることは回避しなければならなかった。
故に、栄経は盗難の事実を隠匿せざるを得なかったのである。
幸いというべきか、栄経の執事や他の警護侍は、金銭の紛失に目を奪われていたので、本尊がすり替えられたことに気づかなかった。そこで、栄経は己一人の胸に留めることにした。
瑞真寺に戻った栄経は、密かに人を雇い長厳寺を調べさせたが、御本尊を持ち去った侍と共謀した事実は浮かび上がらなかった。もっとも、大胆不敵な暴挙をを行ったのである。証拠を残しておくとも思えなかった。
確証はないものの長厳寺への嫌疑は晴れなかった。当代門主栄覚が久田帝玄に憎しみを抱く理由がそれであった。
以降、瑞真寺の秘仏である釈迦立像の開帳は封印された。
さて釈迦立像の行方だが、実は持ち逃げした小者によって国真寺へと運ばれていた。というのも、この小者というのは、時の国真寺栄隆(えいりゅう)貫主の元執事をしていた僧侶だったのである。栄隆の元執事がこのような暴挙に出た理由は、ひとえに瑞真寺門主栄経に対する恨みであった。
それは、鎌倉長厳寺での出開帳の三年前だった。
その年の春、京都の別格大本山法国寺の次期貫主を選出する合議が行われた。場所は、静岡の本陣岡崎家である。出席したのは、総本山の宗務総長と各大本山の貫主たちである。
現在とは違い、当時には総本山に総務という役職はなかった。
本山末寺制度が敷いてあることで上納金は滞りなく収められたため、全国寺院の宗務報告を総本山に上げる必要がなかったからである。したがって、当時は宗務総長が次期法主の第一候補であった。また、現在と同じく、宗務総長と全国にある九大本山のうち当該の法国寺を除く八名の貫主の合議で決した。
滞りなく新貫主の選出を終えた九名の高僧たちは、そのまま岡崎家で慰労の席に付いた。当時は現在より戒律は厳しかったが、大本山の貫主が一堂に介する機会など滅多にあるものではない。親睦と各地域の情報交換を兼ねて宴に興じたのである。
もちろん、羽目を外すことはない。料理も精進料理に毛の生えた程度のものであるし、般若湯も一人当たり三合ほどである。それでも、日頃の己を律した生活から離れ、温泉に浸かり、風雅を愛でる一時は気分を高揚させるに十分だったのであろうか、しだいに皆が饒舌になって行った。
このとき、宗務総長は栄経を同道していた。瑞真寺門主の栄経に法国寺貫主選出の任はないが、このときの宗務総長は室町時代の瑞真寺建立に尽力した子院の生まれだったため、縁のある栄経を世に出そうと思ったのである。
これがある諍いを起こすきっかけとなった。
宴もたけなわになった頃、誰かが自坊の御本尊の謂れを話した。総本山は別格としても、集まったのは皆大本山の貫主たちである。各寺院は秘蔵書、秘仏に事欠かなかった。
各々がひとしきり秘蔵物を披瀝した後、最後に栄経の番になった。当然のことながら、栄経は宗祖栄真大聖人が最初に彫った釈迦立像を自慢げに話した。
極め付けの秘蔵仏である。
総本山の宗務総長以外の貫主たちは一様に溜息を吐いた。中でも、国真寺貫主栄隆の落胆ぶりは目を覆うばかりであった。国真寺は大本山の中では、とりわけ栄真大聖人の真筆、遺品が少なかったのである。
他の大本山の貫主たちは、国真寺を気の毒に思い、栄隆と目を合わせることを憚ったが、日頃不遇にあった栄経門主は、その鬱憤を晴らすかの如く、ここぞとばかりに勝ち誇った態度を取ってしまった。栄隆と目が合った途端、薄笑いを浮かべてしまったのである。
侮辱されたと受け取った栄隆は腸の煮え返る怒りを覚えたが、座を考え、その場は耐えた。しかし、国真寺へ帰途の途中、随行していた若い執事につい愚痴を漏らしてしまった。
当時は現代と比べようもなく師弟の絆が深い時代である。師の話に憤慨した若い執事は、その数日後に国真寺を出奔した。
若い執事は還俗し、名を駒吉とあらため、寺院の下働きをする小者になった。出奔した目的は瑞真寺の御本尊の強奪である。当初は、瑞真寺へ忍び込もうと考えたが、厨子は施錠されている上に、そもそも高尾山に隔離された瑞真寺へは近づくことさえ容易ではない。
そこで、二年後の目黒澄福寺での出開帳に狙いを付けた。駒吉は首尾よく澄福寺の下働きに入り込むことに成功した。だが、思っていた以上に警護が厳しく、駒吉は成す術がなかった。
落胆した駒吉に吉報が届いたのは、それから三ヶ月後のことだった。翌年、鎌倉の長厳寺でもう一度瑞真寺の御本尊の出開帳があるというのだ。
駒吉は天の配剤に感謝した。
この機会を逃すと三十二年後の出開帳を待たねばならなくなる。そのとき、五十歳を超えている自身の生死はともかく、瑞真寺門主の栄経、つまり師の栄隆に恥を掻かせた張本人は間違いなく亡くなっている。
駒吉は、栄経に煮え湯を飲ませる最後の好機だと腹を括った。
伝手を頼って長厳寺の下働きに入り込んだ駒吉は、まずは仲間になりそうな者を探した。そうして浮かび上がったのが、鏑木新右衛門(かぶらぎしんえもん)という侍であった。
鏑木新右衛門は、長年に亘り長厳寺が催す祭礼の際の警護役を務めていた。仲間として警護役ほど最適な者はいない。開帳の間は常に御本尊の傍らにいるのだ。しかも鏑木は長厳寺から信頼を得ていた。いわば警察官が泥棒をするようなものである。また、病弱の妻女を抱え、相当な借財を負っていたのも都合が良かった。
駒吉は鏑木に仔細を話し、金と御本尊の強奪を持ち掛けた。
鏑木は悩みに悩んだ末に企みに乗ることにした。鏑木は、親戚から資金援助があったと偽り、療養と称して前もって妻を長厳寺の長屋から箱根の温泉宿に移して置き、奪った二百両を持って西国へと逃避した。二百両というのは、妻の薬代を入れても、夫婦二人が十年以上は暮らせる額であった。
一方、御本尊を手に入れた駒吉は、まっしぐらに国真寺へと向かった。
仔細を聞いた栄隆は、思いも寄らぬ仕儀に困惑したものの、すぐに駒吉、いや元執事の忠誠に感激した。
しかし、栄隆が難しい立場に立たされたのも事実である。宗粗栄真大聖人の彫った御本尊を強奪する所業はこの上ない蛮行なのだ。
といって、いまさら瑞真寺へ返還するわけにもいかない。世間の知るところとなれば、国真寺の名誉は地に落ちる。むろん、元執事の悪事だなどという抗弁は通らない。
下手をすれば、自身の貫主解任だけでなく、大本山の寺格を剥奪される処分が下されるかもしれない。
悩んだ末に、強奪した釈迦立像を国真寺の御本尊とする腹を固めた栄隆は、その由諸を栄真大聖人が第二回京都巡教の折りと、史実を偽ったのである。
この秘事は国真寺の歴代貫主のみに受け継がれ、決して外に漏れることはなかった。
そういう次第で、大本山国真寺の当代貫主作野の、
『宗祖様が手ずから彫った最古の御本尊様』
という言は間違いではなかったのである。