黒い聖域   作:安岡久遠

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第五巻 聖域の闇 開帳(3)

 その日、天真宗瑞真寺執事長の葛城信之は、高尾山を下りて東京都内のホテルにいた。栄覚門主から下された密命を果たすためである。

 室町時代、宗粗家の血族寺院として建立された瑞真寺の御本尊は、宗祖栄真大聖人が手ずから彫った処女作とされる釈迦立像なのだが、実はこの御本尊は江戸時代の享保年間に紛失していた。

 故に御本尊紛失という大失態を隠蔽するため、それ以降開帳は行われていなかった。

 これまでの歴代門主は、苦しい言い訳をして開帳を拒んできたが、ここに来てそうもいかない事情が発生した。

 二年後の二〇〇〇年、ミレニアムの年に合わせて開催される全国仏教会主催の日本仏教秘仏秘宝展に、その釈迦立像を出展して欲しいとの要請があったのである。いかに、瑞真寺所有の秘仏とはいえ、天真宗を代表しての出展要請である。いい加減な理由で拒むことはできなかった。

 もし、この要請を拒めば法主直々の命で、秘仏の所在確認が実施されると予想された。その結果、御本尊紛失が明るみになれば、何らかの処罰対象になることは明白である。

 最も予想される処罰は、管理不行き届きにより、宗務管理一切が宗務院へ移行されることである。宗祖家の寺院である瑞真寺は、室町時代の開山から今日まで、唯一宗務院の監査を受けない不可侵の聖域である。宗務院にとっては苦々しいことこの上なく、虎視眈々と付け込む機会を狙っているというのが実情であった。

 栄覚にとってこの特典を剥奪されることは、ある意味で生きて死を宣告されたのも同然であった。なぜなら、経理、つまり金の入支出経路が筒抜けになれば、彼の野望は根底から瓦解してしまうのである。

 栄覚に心酔する葛城はこの問題解決のために、悪に手を染めようと覚悟を決めていた。そして熟慮の末に、単純にして大胆不敵な秘策を導き出した。

 不遜にも御本尊の贋作作りに手を染めようというのである。僧侶にあるまじき蛮行ながら、葛城には外に思い付く手立てがなかった。

 まず、釈迦立像の模倣仏を製作する。

 本物は享保時代に紛失しているので誰も実物を知る者はいない。御真影を写したものが「天真宗本山総覧」に載っているので、これを当代一流の仏師に模写させ、その上で堂々と開帳しようという企みだった。

 しかしながら、二百数十年も途絶えていた瑞真寺の御本尊を開帳するとなると、否が応でも世間の注目を浴びることになる。実物を知る者はいないが、造詣が深い者の中には、真贋を見抜く者がいないとも限らない。そこから科学的検査が必要などという話になれば万事休すである。

 そこで葛城は、先手を打って仏教美術界の権威である帝都大学名誉教授の海老沼英悟のお墨付きを得ようと、彼を籠絡にすることにした。

 籠絡は難しいことではなかった。海老沼の遠縁に当たる葛城は、彼のある弱みを握っていたのである。

 葛城は人目を憚り、東京都内のホテルの一室に海老沼を呼び出した。

 海老沼は六十八歳、帝都大学文学部から同学部博士課程を経て、同じく宗教学科の講師から名誉教授にまで上り詰めた博才であった。

「英悟兄ちゃん、ご無沙汰しています」

 葛城は親しげに声を掛けた。

 葛城は五十歳。彼の父と海老沼の父が従兄弟の関係にあり、幼少の頃より面識があった。

「信ちゃんも元気そうだな」

 一方で、海老沼は緊張の声で応じた。久方ぶりに会いたいとの連絡が有ったときから、嫌な予感を働かせていた。

「学長選挙の方はどうですか」

「な、なぜそれを」

 いきなりの問いに、海老沼はたじろいだ。

「知っているか、なんて驚くこともないでしょう。英悟兄ちゃんが、学長の椅子を狙っていたことなどお見通しですよ」

 葛城は事もなさげに言った。

 海老沼は浮かぬ顔をした。葛城に心を見抜かれていたからではない。

「その様子では劣勢のようですね」

「う、うん」

「玉不足ですか」

 金欠なのか、と葛城は当たり前のように訊いた。宗教界にせよ極道世界にせよ、はたまた教育界にせよ、猟官運動は世の常である。

「……まあ」

「用立てましょうか」

「な、なんだと」

 思わぬ申し出に海老沼は当惑した。支援の申し出は願ってもないことだが、無料(ただ)であるはずがない。

 思惑を推し量りあぐねる様子の海老沼に、葛城はさらに意外な言葉を掛けた。

「この世は万事金ですよ」

 うっ、と一瞬言葉に詰まった海老沼は、

「御仏に仕えるお前の口からは聞きたくない言葉だな」

 と精一杯の皮肉を言った。

「宗教の世界とて同じことですよ。重要な役職は、いや役職だけでなく僧階だって金で買える時代です」

 そう言って海老沼を見据えた葛城の口調が、がらりと変わった。

「それで、金はいるのか、いらないのか」

「い、いるといえば、いくら用立ててくれる」

 海老沼は気圧されるように訊いた。

 葛城は不敵に笑う。

「いくらでも」

「なに……」

 海老沼とて頭の回転は速い男である。その言動で、葛城が何かの悪巧みに引き込もうとしているのではないか、と疑念を抱いた。

「見返りは何だ」

「ある仏像の鑑定をして欲しい」

 海老沼はその一言で悟った。

「瑞真寺の御本尊に偽物の疑いがあるのか」

「さすがだな。たった一言でそこまでわかるか」

 はぐらかすように言った葛城に、海老沼が畳み掛けた。

「開帳しない理由なのだな」

 葛城は一呼吸置いて、そうだと認めた。

「実は、御廟の中は空なのだ」

「はあ」

 海老沼は間の抜けた声を出した。

「御本尊様は盗難に遭っている」

 葛城は栄覚門主から聞いた経緯を話した。

 なるほど、と肯いた次の瞬間、海老沼の顔からサァーと血の気が失せた。

「ならば、先刻の鑑定というのは、私に嘘を付けということだな」

「察しが良いな」

「馬鹿なことを言うな。犯罪に手を貸せるか」

 海老沼は声を荒げた。

「貸してもらわねば困る」

「お断りだ」

 海老沼は腰を上げようとした。

「まあ、待て」

 葛城は宥めるように押し止めた。

「どうしても駄目か」

「ああ、駄目だ」

 海老沼は強硬な態度を崩さない。

「仕方がないな。そこまで頑ななら、あのことを世間に公表するしかないか」

 葛城は捨て台詞のように言った。

 な、な……海老沼の顔が見る見るうちに紅潮してゆく。

「いまさら蒸し返すのか」

「そちらに誠意の欠片もないのであれば、こちらも容赦はしない」

「……」

 葛城の冷酷な視線に、海老沼は思わず身を竦めた。

「孫の不祥事を不問に付した上で、金まで提供しようというのだぞ」

 葛城は冷たい目で海老沼を睨んだ。

 彼の言う孫の不祥事というのは不正入学であった。

 一口に不正入学といっても方法は色々ある。入試問題の漏えいや大学幹部への裏金等であるが、海老沼が行った不正は理事長枠というものであった。

 帝都大学を目指した海老沼の孫だったが、夢破れ二浪して名門私大に入学した。

 私立大学というのは、言わば商売であるから、教育陣以外に経営陣が存在する。その筆頭の理事長は数人の合格者枠を有していて金銭で売るのである。

 言うまでもなく、金額の多寡によって判断するのだが、それ以外の判断材料として親戚縁者や親しい知人に売却することもある。いわゆる縁故入学である。縁故入学は公然の秘密であり、いまさら取り立てて騒ぎ立てることもないのだが、当事者の祖父が学長選挙の立候補予定者であれば、マスコミの格好のネタになるのは間違いない。

 入学後に偶然裏事情を知った当人が、遠縁でもあり僧侶でもある葛城に悩みを打ち明け、心の救いを求めた過去があった。

 黙考していた海老沼がおもむろに口を開いた。

「確認したいことがある」

「どのようなことでも」

 答える、と葛城は言った。

「本物の御本尊の行方は」

「はっきりしたことはわからない」

「話からすると、鎌倉の長厳寺にある可能性があるが、異議を唱えることないか」

「先祖の罪を公に認めることなど絶対にない」

 葛城が強い口調で断言すると、

 それはそうだな、と肯いた海老沼だったが、すぐに栄覚と同じ懸念を吐露した。

「他の者の手に有った場合は拙いことになるのではないか」

 ふふふ……と葛城は不敵に笑った。

「それこそが、私の望むところ」

「……」

 わけがわからない様子の海老沼に向かって葛城が言葉を継いだ。 

「こちらには立国会の資金力と虎鉄組の暴力がある」

 そう言うと、葛城は顔を海老沼に近づけた。

「この意味がわかるだろう」

「ああ」

 海老沼は虚ろな目をして頷いた。

 栄覚門主は両者に頼ることを必ずしも良しとしているわけではない。つまり、葛城のはったりなのだが、事情を知らない海老沼には大きな効力があった。 

「まずは買取交渉をして、相手が応じれば良し。不調に終われば……」

 葛城が不敵に笑った。

「不調に終われば、どうすると思う」

「まさか、本当に無茶をするのか」

「やるさ」

 葛城は躊躇いもなく即答した。

「おいおい、坊主が殺生するというのか」

「安心しろ。いくら何でも殺したりはしないが、脅迫や恫喝、暴行ぐらいはするだろうな」

「じゃあ、間違っても真贋論争が巻き起こることはないと信じて良いのだな」

 海老沼は念を押した。

「無論だ。そうなればこちらも墓穴を掘る」

 海老沼は暫し考え込むと、

「では、段取りを聞こうか」

 承諾の意を表した海老沼に、葛城は御本尊のすり替え計画を話した。

「仏師は誰だ」

「北大路無楽斉(きたおうじむらくさい)を考えている」

「当代一の仏師だが、受けるとは思えんな」

「いや、受ける」

 葛城は強い口調で断言した。

「まさかお前、北大路氏の弱みも握っているのか」

「そのまさかだ、と言いたいところが、残念ながら弱みなど握っていない。いや、必要がないのだ。彼には正当な仕事を依頼をするつもりだからな」

「企みは一切隠すということだな」

 葛城は軽く肯くと、単なる仏像製作を依頼するだけだと言った。

「ただ、どうせなら前立仏として可能な限り御本尊様に似させて欲しいと御真影を渡すつもりだ」

「もし、北大路氏が開帳した御本尊を拝観したらどうなる」

「それはない」

「なぜそう言い切れる。仏師だぞ、瑞真寺の本物の御本尊には興味があるだろうが」

「開帳の期間は一週間と短いものにする。そして、その期間を含めて彼には数体の仏像製作を依頼する」

 と言った後、葛城は反論しようとした海老沼を抑えるように言葉を被せた。

「怪しまれないように、瑞真寺ではなく他の寺院から注文させる」

「なるほど。だが、それでも彼が拝観したらどうするのだ」

「たぶん、真贋は付かないと思う」

「……」

「北大路無楽斉には白木で製作を依頼し、出来上がったものに細工を施す」

「年代ものに見せ掛けるのか。だが、相手は当代一の仏師だぞ。しかも自らが製作したものだ」

 見破るのではないか、という懸念を示した。

「そのときは因果を含めるさ」

 葛城が冷徹な声で言った。

――それに応じなかったときこそ、口を封じるつもりだな。

 背に冷たいものが伝った海老沼は、自身の悍ましい推量から逃れるように話題を変えた。

「お前がそこまで門主に肩入れする理由は何なのだ」

 葛城が眉を顰めた。

「い、言いたく無ければ言わなくても良い」

 とたじろぐように言った海老沼に、

「いや。この際だ、俺も腹を割ろう」

 葛城が神妙になった。

「門主様は俺の希望の光なのだ」

「希望?」

「帝都大学学長の椅子まで狙えるお前にはわからないだろうが、名門宿坊出身でもなく学才もない俺は、天真宗においてはとうてい出世など望むべくもない路傍の石ころのようなものだった。それが、ひょんなことから瑞真寺の執事長という役目を担うことになった」

 総本山の四十六子院は、天真宗開祖栄真大聖人から第十八世法主の栄静(えいせい)上人までの時代に建立されたものである。

 主に宗祖栄真大聖人の高弟たちが建立したものだが、第二世以降は総本山に自坊を持たない法主がその座を辞した後のことを考えて建立した。

 栄真大聖人から栄静上人までは法主による後継指名だったため、全国寺院の全ての僧侶が対象であった。そこで地方から総本山の法主へ上がった者は、その座を辞して後、自坊に戻らず総本山に留まる選択をしたのである。

 第十九世法主の選出から、総本山四十六子院のみが後継指名の対象となり、現在のように四十六子院による合議となるのは明治以降のことなのである。

 当然のことながら、この子院の中に栄真大聖人の末弟栄相上人はもちろんのこと、彼の関係者の子院もない。

 栄相上人が仏門に帰依したのは三十歳。このとき、すでに三人の男子を儲けていた。

 栄相上人は、浄土真宗の開祖親鸞上人が妻帯し、その子孫が信者から生き仏のように崇められている様を観て、自らの子孫による法統継承の企てを思い付いた。

 しかし、この企みを看破した栄真大聖人は、栄相上人とその子孫に対し、総本山敷地内の子院創建を許さなかった。

 そのため栄相上人は、妙顕山の西方に連なる枕木山に粗末な草庵を建て、以降彼の子孫はこの地で住まいすることとなった。

 時は流れ、室町時代の初期、一人の偉人が出現した。栄相上人から数えること十一代目の子孫栄羽(えいは)上人である。栄羽上人は、総本山の妙顕修行堂で荒行を成満すること十度、天真宗史上初の千日荒行到達という快挙を達成し、まさに宗祖栄真大聖人の生まれ変わりと、周囲から畏敬の念を集めていた。

 総本山の宗務執行部は、栄真大聖人の、

『後継は一等優れた者にすべし』

 との遺言を堅く守り、それまで栄相上人の子孫を悉く排斥してきたが、この栄羽上人の偉業だけは見て見ぬふりができなかった。栄真大聖人の真意は血脈者排除であるが、言葉を厳密に捉えれば、栄羽上人は、まさしく『一等優れた者』なのである。

 そこで妥協案として、総本山の護山である高尾山に、本山格の瑞真寺を建立し、栄羽上人の子孫の世襲を認めたのである。むろん、世間に堅く秘匿したことは言うまでもない。しかし、その代償として枕木山の廃庵は人々の心から忘れ去られて行くことになったのである。

 ただ、一言付しておかなければならないのは、総本山の宗務執行部は、それまでも明白に栄相上人の血脈者だと断定はしていなかった。

 栄真大聖人から、栄相上人の野望を阻止する旨の密命を受けた高弟たちが、自分たちの後継者のみに代々引き継いだものであり、栄相上人が建てた枕木山の草庵に住まいするのは栄相上人の末裔だと推定していたに過ぎなかったのである。

 一方、葛城信之の生家「藤(ふじ)の坊」は、第十六世法主の栄慈(えいじ)上人が開基した四十六子院の中では最も歴史の浅い寺院の一つだったので、明治以降においては、法主はおろか宗務次長の椅子さえ届くことがなかった。

 戦後、その藤の坊にも俊才が現れた。

 葛城執事長の実父栄念(えいねん)上人である。彼は総本山の妙顕修行堂で六度、久田帝法導師時代の天山修行堂で二度の、合わせて八度の荒行を成満した傑物だった。

 いかに末席の子院であっても、これほどの逸材であれば、「法主に……」との声が上がらなくもなかったのだが、運の悪いことに同世代に現法主の栄薩大僧正がいた。しかも彼に合力しているのが、総本山でも一、二を争う名門子院である滝の坊の中原是遠であれば、とうてい栄念に勝ち目はなかった。

 栄念上人は潔く法主への夢を諦め、人生目標を仏道の神髄を極めることに変えた。

 その栄念上人に思わぬ人物から声が掛かった。

 瑞真寺先代門主の栄興上人である。

 彼は稀有な才能が有りながら、日の目を見ることのない不遇の宿命を背負った栄念と、己の運命を重ね合わせていたのだろうか、それならばと自身が栄薩現法主から密教奥義伝承者の栄誉を譲られたように、神村正遠から教示された九度目以降の荒行修法の指導を買って出た。

 仏道の神髄に迫りたい栄念上人にとってみれば、それはこの上なく有り難い申し出だったに違いない。

 しかし栄念上人は、十度目の荒行中に体調を崩しこの世を去ることになった。

 葛城信之は、病床にあった父からその恩を何度も繰り返し聞かされていた。

 そこで、瑞真寺執事長の役職が決まったとき、息子の栄覚門主に忠誠を尽くことで父が受けた恩を返そうと決意したのである。

「それとて、本山格寺院の執事長というだけで、従来であれば明日の光も無い、言わば閑職のような役目だったのだが、御門主に仕えてみて驚いた。何と、御門主は法主の座を欲していらっしゃるという」

「馬鹿な。栄真大聖人の血脈者たる瑞真寺の門主は、法主の任の埒外にあるはず」

 その通り、と葛城は肯いた。

「だが御門主は、その不文律を打破すべく、着々と手を打っておられた」

「先刻の立国会と虎鉄組だな」

 それだけではない、と葛城はゆっくりと首を左右に振った。

「全国の大本山と本山の貫主や、驚くべきことに敵陣の本丸ともいうべき宗務院の中にも気脈を通じた者を作っておられた」

「ほう。宗務院の中にもか」

 海老沼は感心したしたように顎を摩った。

「ただ、そうして外堀は埋められつつあったが、内堀は手付かずの状態だったのだ」

「内堀?」

「肝心要の瑞真寺内に味方が一人もいないということだ」

「それで、お前が内応したのか」

「むろん、それだけで宗務院を裏切ったのではない。実際に御門主にお仕えしてみて、その知力、胆力に驚いた。間違いなく、天真宗の頂点に立つに相応しい器であられる。いや、日本仏教界と言い換えても良い」

「それほどの器か」

 葛城は無言で肯くと、

「そして、御門主の野望はこの私がいてこそ成し得る偉業なのだと悟ったとき、命を懸け てみる気になった」

 と揺るがぬ決意を語った。

「そうまでしてお前が得る見返りとは何だ」

「見返りなどない。亡き父が先代の御門主様から受けたご恩返しだ」

 ふん、と鼻で笑った海老沼は、

「表向きはいい」

 と、にべもなく言った。もっと腹を割れと促しているのだ。

「ご恩返しというのは嘘ではない。半分は本心だ」

「で、残りの半分はなんだ」

 数瞬、葛城は躊躇った。

「天真宗の裏支配」

「裏だと」

「天真宗には、総本山の妙顕修行堂と久田帝玄が所有する天山修行堂があるのは知っているな」

「天山修行堂の方が圧倒的だな」

 海老沼は仏教美術界の重鎮である。この程度知識は持ち合わせていた。

 海老沼の皮肉を葛城は黙って受け流し、

「その天山修行堂の運営を任せて貰えるよう御門主にお願いする」

「しかし、あそこは久田個人が所有する寺院だぞ」

「そのようなこと、御門主が法主になられればどのようにでもなる」

「仮にそうなったとしても、お堂は荒行の場……」

 高僧でもない者に務まるはずがない、と疑義を唱えようとしたのを葛城が遮った。

「だから、導師など望まないし、できもしない。あくまでも運営責任者となる」

 経理と人事の権限を獲得するというのである。なるほど、この二つを掌握できれば、畏敬の念こそ抱かれずとも、半ば支配したのも同然であった。

「大それたことを……」

 そう呟いた切り、しばらく押し黙った海老沼は、

「そのような大事を私に話して良かったのか」

 と今更ながら訊いた。

「いいさ。これでお前の孫が裏口入学したことを知る俺と、俺の野望を知ったお前とは五分になった」

 言外に、お互い抜き差しならない関係になったのだと示唆した。

「そうするために、わざと話してくれたのか」

「英悟兄ちゃんとは親戚じゃないか」

 葛城の口調が元に戻った。

「段取りはわかった。それで、私はどうすれば良い」

「さっきも言ったように、一般の開帳に先駆け、関係者を招いてお披露目する。英悟兄ちゃんも招待するから、そのとき感嘆の声を上げて称賛してくれれば良い」

「ただ、それだけか」

 そうだ、と葛城が顎を引く。

「あまりやり過ぎると、却って疑念を抱かれかねない」

 そうかもしれないな、と同意した海老沼が急に煮え切らない態度になった。

「それで、その……」

 と口籠った。

「最初に言った金ですね。いくら欲しいですか」

「できれば、二億」

「二億? 学長選など一億、いや五千万もあれば十分じゃないですか」

「いや、それが、なんだ……」

 海老沼が視線を逸らした。

「また愛人でも作りましたか」

 葛城は海老沼の好色を知っていた。彼のもう一つの弱点である。

「まあ、そのようなものだ」

 海老沼は気まずそうな顔を向けた。

「裏口入学は、大学関係者と当人と私しか知りませんから、情報漏れの可能性は低いでしょうが、愛人問題はマスコミの格好の餌食となりますよ。せめて、学長選挙が終わるまで自重したらどうですか」

 葛城はマスコミの密着マークの可能性を指摘した。

「そうだな。十分気を付けよう」

「であれば。二億は用意しましょう」 

 少し間をおいて発した声には侮蔑の色を含んでいた。

 

 瑞真寺に戻った葛城は、海老沼の懐柔成功と見返りの金銭要求を報告した。

「二億とは足元を見られたな」

 葛城が頭を下げた。

「申し訳ございません。足が出た一億は私の失策ですので、私の方で用意致します」

 栄覚は首を横に振った。

「執事長にはこれからも力になって貰わなければならない。それを金のことまで面倒を掛けるわけにはいかない」

「しかし、御門主様には何かとご入用の予定がございます」

「二億や三億の金で心の棘が取れるのであれば安いものだが、そうは言っても確かに、これから先、何かと物入りになるのは目に見えているのでな、出来得る限り出費は押さえたい」

 そう言った栄覚は、何か言いたそうな葛城に気づいた。

「執事長、前にも言ったが、勅使河原を頼ることはできないのだ」

 はい、と葛城は肯いた。

「では、他の支援者を当たりますか」

「金の使い道が使い道だからのう」

 帝都大学学長選の賄賂に使うとは言えなかった。

「とはいえ、もし使途目的を問われたら、財界人に嘘を吐くような真似はできないし……」

「となりますと、寺院に求めましょうか、たとえば鹿児島の菊地上人あたり……」

「なるほど冷泉寺は肉山だが、今は無理だろう」

 森岡に痛めつけられたばかりである。金の無心は憚ろうと栄覚は言った。

「では、村田上人か一色上人、坂東上人は……」

「奴らは金を貰うことには血眼になるが、決して差し出すことはしないだろう」

 栄覚は嘲笑するように言った。

「雲はどうでしょう。雲の自坊は相当な肉山ですし、御門主に忠誠を誓っています」

「雲はもっとも拙い。森岡に気づかれでもしたら、元も子も無くなる」

 と言った栄覚の口元が、次の瞬間不敵に緩んだ。

「そうだ。その森岡からせしめよう」

「えっ、たった今、森岡に気づかれたら元も子も無くなると仰ったばかりでは」

 葛城が驚きの眼で言う。

「そう思ったが、森岡に察せられずに奴の金を巻き上げる方法が浮かんだ」

「はあ」

「執事長、こちらへ」

 首を捻った葛城を手招きして近くに呼び寄せた栄覚が、耳元で何やら囁いた。栄覚の言葉を聞いていた葛城の顔が見る見るうちに気色の色を帯びていった。

 

 数日後の夜のことである。

 森岡がくつろいでいたロンドに神村正遠がふらりと現れた。連れはなく一人だった。

 森岡は驚愕した。なるほど、彼の知らないところで、幸苑やロンドで飲食はしていたようだが、その場合は谷川東良をはじめとして必ず随伴者がいた。森岡が知る限り、神村が一人で夜の街をうろつくことはなかった。

「先生、どうされたのですか」

「ロンドに来れば、君に会えると思ってね」

 森岡は再び目を丸くした。なるほど茜と将来を約束して以来、森岡は連日のようにロンドに顔を出していたが、そうであれば連絡をくれれば良いのだ。

「何か緊急の事態でも起こりましたか」

「いや、そうではない」

 神村がそこで言葉を切った。

「先生、なんでも仰って下さい」

 言葉を躊躇う神村を森岡が促した。

「折り入って君に頼みがあってね」

 その深刻な表情に、森岡は人払いをした。

「どういったことでしょう」

「いや、なんだ、金を融通して貰いたい」

「ああ、そのようなことですか」

 森岡は安堵した顔をすると、

「承知しました。いくらでしょう」

「それが、二億ほど」

「いつまでに用意すれば宜しいですか」

「できれば二、三日中に」

「では、明後日の午前中に、経王寺へ現金を持って上がります。それで宜しいですか」

「それは有り難いが、何に使うか聞かないのかね」

「そのような些末なことはどうでも良いことです。前にも申しげましたが、今日(こんにち)の私があるのは先生のお蔭です。私の金は先生のお金です。どうぞ、ご自由にお使い下さい」

 これは森岡の本心である。

 森岡が経王寺に寄宿していたとき、神村は家賃など一切の金銭を受け取っていない。その後、結婚してからは月に一度、自宅の御本尊に、さらにウイニットを設立してからは同じく会社の御本尊にそれぞれ読経を依頼し、五十万円ずつの布施をしていた。

「いや、済まない」

 神村が頭を下げた。

「やめて下さい、先生」

 森岡は慌てて止める仕種をした。

「実は、私の方も先生にお願いしたいことがあったのです」

 そう言うと、森岡は茜を手招きした。

「先生の本妙寺貫主就任が決まりましたら、彼女と結婚をしようと思っているのですが、また先生に仲人をお願いしたいのです」

「ほう。それは喜ばしい」

 と頬を緩めた神村だったが、

「だが、仲人は遠慮する。今度は財界人のどなたかにお願いしなさい」

 いえ、と食い下がろうとした森岡を神村が制した。

「まあ、聞きなさい。今の君は、以前の君とは違う。自ら興した会社を上場させようとしているばかりか、榊原さんや福地さん、そして世界の松尾正之助氏らと共同事業を始めるというではないか。先々のことを思えば、私よりその松尾氏の方が適任だ」

 神村は有無を言わせぬ目をしていた。

「わかりました。仲人の件は諦めます。ですが、式は今度も経王寺でお願いします」

「それも、断ろう」

「えっ」

 森岡は真っ青になった。仲人を断られた上に、結婚式の導師も拒絶されたのである。

「おいおい、そのような暗い顔をするな。私は経王寺での式を断っただけだぞ」

 神村が微笑んだ。

「私の貫主就任が決まった後であれば、本妙寺で挙式したらどうかね」

 ああ、と森岡は安堵の溜息を吐いた。

「宜しいのでしょうか」

 経王寺は神村個人所有の寺院だが、本妙寺は天真宗所有の寺院である。勝手なことが許されるのか、と訊いたのである。

「問題ない。ついでに披露宴会場にしたら良い。今度は招待客も多いだろうから、幸苑では無理だろう」

「重ね重ね恐れ入ります」

 森岡は恩師の配慮に感謝の頭を垂れた。

 神村の金策は栄覚門主の策略だった。栄覚の命を受けた葛城は、宗務院宗務次長の中原遼遠に会い、神村に二億円の借用を指示した。神村は義理人情に弱い。恩師である中原是遠の嫡男で、弟弟子でもある遼遠の願いであれば、理由も聞かず調達に奔走するであろう。

 むろん、調達先は森岡だということもわかっていた。

 森岡は神村に心酔している。彼もまた、何も聞かずに用立てるに違いない。そして、神村も森岡も返済の催促などしないだろうから、実質的に贈与されたも同じであった。

 

 首尾良く海老沼英悟を取り込んだ葛城信之は、その足で北海道へ飛び、札幌市の郊外にあるホテル・ルネッサンス札幌の寿司店で、ある男と会食していた。当代一の仏師との誉れの高い北大路満兼(みつかね)である。号を無楽斉(むらくさい)と称した。

 無楽斉は七十九歳。高齢のためか、酷く痩せている。頬は痩け、両眼は窪んでおり、一見したところではまるで髑髏である。だが、そのせいでもあるまいが、僧侶の間では、無楽斉の彫った仏像には仏が納まり易いとの高評価を得ていた。

 仏像でも水晶でも、それらを御本尊として奉る場合、僧侶が読経して仏の魂を込めるのだが、粗末な仏像だと上手く入魂できないのである。再々読経に詰まったり、一旦入魂した仏が出て行ってしまったりすることもあるのだ。

 その点、無楽斉の彫った仏像は、読経を始めるやいなや、仏自ら進んで納まるのだという。

「実は、無楽斉先生に仏像の製作をお願いしたのですが」

「どのような仏像をご所望でしょうか」

「当寺の秘仏である釈迦立像の前立仏をお願いします」

 前立仏とは、普段は公開することのない秘仏の厨子の前に身代りとして安置され、礼拝者にその尊容をしのばせる仏像のことである。お前立ちともいう。

「秘仏と言いますと、栄真大聖人の処女作と言われている仏像ですか」

「そうです」

「ほう、それはまた願ってもない申し出ですが、前立仏とはどういう仔細ですかな」

 無楽斉は怪訝そうに訊いた。

「久しく世に隠れていた瑞真寺も近年は参拝客が多くなりまして……、とはいえ、当寺の御本尊は開帳をしておりません。それを知らない参拝客は、一様に肩を落として帰られるのです。御門主はそれを気の毒に思われ、せめて御本尊を模した仏像を拝観して頂ければ、とお考えになったのです」

 葛城はさらりと言って退けた。

「なるほど、仔細はよくわかりました。そういうご趣旨でしたら喜んで受けさせて頂きます」

 有難うございます、と頭を下げた葛城はにやりと口元を緩めた。

「それで、時間はどれほど掛かりましょうか」

「最優先で取り掛かりましても、物が物だけに時間の猶予を所望したい。そうですね、来年のお盆前までには仕上げたいと思います」

「それで結構です」

 秘仏秘宝展は二年後の春である。来年の夏にまでに出来上がれば、その後年代物に見せるための細工を施しても、晩秋から年末の開帳に持ち込める算段が付く。

「失礼ながら、お礼は五千万を考えていますが、足りるでしょうか」

「五千万? それは過分に過ぎます」

 無楽斉は恐縮して答えた。

 いかに人間国宝とはいえ、依頼した釈迦立像は全長五十センチほどの仏像である。相場で言えば二千万円でも高額と言えた。もっとも、美術品というのは値段があるようでないものである。三千万円といえば三千万円であるし、一億円といえば一億円なのである。

 葛城は御本尊の御真影の写しを無楽斉に手渡して瑞真寺に戻った。

 森岡洋介は東京で懐かしい人物と会った。

 東京国祭展示場、通称「東京ビッグサイト」で開催されている、東京国際グラフィックフェアーへの招待を受け、七年ぶりの再会を約束していたのである。

 招待状を送付したのは、菱芝電気の柳下薫であった。森岡の元上司である。

 菱芝電気はコンピューター機器の製造販売と各種ソフトウェアーを製作する会社だが、近年はコンピューターグラフィックを駆使した映画やドラマの製作にも進出していた。その一環としてブースを確保し、自社作品の展示を行っていた。

 森岡は元上司の熱心な誘いを受け、忙しい合間を縫って参じたのだった。

 もちろん今後のウイニットの事業展開に参考にするための視察も兼ねていた。

 森岡が待ち合わせ場所に指定された会場内の応接室に到着したとき、柳下はすでに同伴者と談笑していた。応接室といっても、会場の一角を簡易のパーティションで間仕切ったもので、入り口側の正面はガラス張りとなっていた。

「お待たせしましたか」

 森岡は声を掛けながら中に入った。

「おう。森岡君、私たちも今着いたところだ」

 と、柳下は笑顔で応じた。

「ご無沙汰をしております。常務に昇進されたとか、おめでとうございます」

 祝意を述べた森岡に、

「いやいや、常務など柄ではないが」

 柳下は謙遜し、

「それより、君に紹介しよう」

 と同伴者の二人を引き合わせた。

 一人は菱芝電気の営業部門担当副社長の草野、もう一人は取引先企業の社長で『甲斐』と名乗り、それぞれが名刺を差し出した。

 森岡は甲斐と目が合った瞬間、

――これは……。

 と何やら胸の奥に怪しいざわめきを覚え、甲斐は甲斐で、

――はて、この面差しは誰かに似ているような。

 と記憶の襞を手繰っていた。

「貴方が噂に名高い森岡さんですか。いつかお会いしたと思っていました」

 草野が何やら思惑のある目で追従した。

「私が名高いなどと、ご冗談は止めて下さい」

 真顔で否定した森岡に、

「いいえ。この柳下常務などは、貴方のことは誉め上げることしかしません」

「副社長、そう仰いますが、私が役員になれたのは、明らかに彼の業績があってのものでしょう」

 柳下は悪びれずに言った。

「ところで、ウイニットの上場の方はどうだね」

「それが、様々な事情がありまして、少し遅れそうです」

「様々の中には、富国のことも含まれておりますか」

 草野が口を挟んだ。

「良くご存知ですね」

 森岡は感心したように言ったが、心中には疑念が渦巻いていた。

「昨今のITブームの中、関西が本拠の御社は注目の的ですからね。動向は耳に入ります」

 如才なく答えた草野が探るような眼をした。

「代わりの引き受け先は決まりましたか」

「松尾電器の松尾正之助会長に一任しておりますが、今のところ確定はしておりません」

「えっ、松尾会長?」

 草野は上ずった声を上げ、

「森岡君、君は松尾会長と懇意なのかね」

 柳下も驚きの眼差しで訊いた。

「懇意というほどではありません」

 森岡はやんわりと否定した。余計な勘繰りを避けるためである。

「会長から松尾技研さんとの提携話を持ち掛けられまして、不釣合いを理由に一旦はお断りしたのですが、どうしてもと頭を下げられたものですから、仕方なく受けたという経緯があります」

 森岡はどこまでも泰然としていた。

「おいおい、一旦断っただの、会長が頭を下げられただのと、よく平気な顔で言えるな。相手は世界の松尾会長だぞ」

 柳下は呆れ顔になった。むろん彼らは、森岡が松尾から実の孫娘のように寵愛されている山尾茜と結婚する予定であることなど知るはずもない。

「はあ、どういう巡り会わせなのか、私も当惑しているのです」

 まるで他人事のように言う森岡に、

「そうすると、松尾会長は持ち株会社設立にも絡んでおられるのですかな」

 草野が気を取り直したように訊いた。

「持ち株会社のことまでご存知とは、これは恐れ入りました」

 森岡は目を丸くして驚きを表現したが、心の中では、

――仕組まれていたのか。

 との意を強くしていた。

「しかも、持ち株会社にはあの大手食品会社である味一番も参画するそうじゃないですか」

「何やら、身上調査のようですね」

 森岡はとうとう苦笑いを浮かべ、

「福地社長は亡き妻の父、つまり私の岳父だったお方でして、その関係から参画されますが、私が経営に口出しすることは一切ありません」

 と強い口調で否定した。

「いや、立ち入ったことをお聞きし、気を悪くされたのなら謝ります。ですが、後継の第一候補と目されていた娘婿の須之内君が解任されたようで、他社(よそ)のことながら気になっていたのです」

 草野はそう弁明すると、

「福地社長の後はどなたが継がれるのでしょうな」

 とさり気なく核心に触れた。

「それが、福地社長の悩みの種でして、適任者が見つからず困っておられます」

 森岡は何食わぬ顔で嘘を吐いた。

 実は、三友物産専務の日原淳史からは正式に受諾の返事を貰っていた。

 しかも、当初の五年後ではなく、決断したからにはできるだけ速やかに任に当りたいという前向きなものだったが、その日原にどのような影響が及ぶかわからない、と配慮したものだった。

「どなたか信頼できる方がいらっしゃいましたら、ご推薦下さい」

 森岡は甲斐の目を見て言った。

 甲斐が黙ったまま、ただ会釈を返したのを受けて、

「さて、世間話はこれくらいに致しまして、折角ですから私はブースを見て回ります」

 と席を立った森岡が、一旦掴んだドアノブから手を離した。

 森岡はやおら振り返りながら、枕木山の秘事と御本尊開帳のどちらを示唆するか瞬時に判断した。

「そうそう。甲斐さん、御山はもうすっかり雪景色でしょうね」

 一瞬、面を強張らせた甲斐だったが、すぐに笑みを作り、

「先日、かなりの積雪がありました」

 と答えた。

 だが森岡の、

「それでは、穴も塞がったでしょうね」

 との問いに、顔面から笑みが消え去った。

 森岡は、確信に満ちた笑顔を覗かせ、

「ますます、寒くなるでしょうから、風邪など引かれませんよう、お身体には十分お気を付け下さい」

 と言い残して退室した。

 

「どうでしたか」

 草野が甲斐の表情を窺った。

「想像の遥か上を行く男ですな」

 甲斐は腹の底から搾り出したような声で言った。

「曰くのある問いにも、全く動揺を見せない泰然自若とした態度、眼つき、風格、気力……全てが聞きしに勝る男ですな。端倪すべからざる人物とは、まさにあの男を形容するためのものだと思いました」

「そ、それほどまで、ですか」

 草野は恐れるように訊いた。

 うむ、と肯いた甲斐は、

「いやはや、この目で確かめたのは正解でした」

 と嘆息した。

「去り際の言葉はどういうことでしょうか」

「すでに私の正体を見抜いていたのでしょうな。これもまた空恐ろしい」

 むむむ……と草野が唸った。

「では、仕組まれたことと察知していながら、敢えて飛び込んで来ましたか」

「おそらくは……」

「穴がどうのこうのと言っていましたが」

「それは、放念して下さい」

 甲斐の厳しい目付きに、

「あの三人の男は、護衛でしょうか」

 と、草野は森岡の傍らに寄り添う者たちに話を転じた。

「そうでしょうな。神王会の蜂矢とも接触があったようですから、そのあたりかもしれません」

「蜂矢? そうなりますと、ますます厄介なことになります」

 草野は苦々しげに言った。

「副社長、どういうことですか」

 柳下は当惑の声で訊いた。

「森岡の力量のほどを探ったという話だ」

「力量? いったい何のためですか」

「君は知らない方が良い」

 草野は、語気を強めて言った。

 部屋を出た森岡を、すぐさま南目と蒲生そして足立が取り囲んでいた。そして、森岡があるブースの前に立ち止まったところで、蒲生が耳元に口を近づけ、

「真ん中に座っていた体格の良い男性は誰ですか」

 と訊いた。

「甲斐という取引先の社長と紹介されたが、違うだろうな」

 森岡が吐き捨てるように答えた。

「私は、一度あの男を目にしたことがあります」

「どこでだ?」

 森岡は、周囲から怪しまれぬよう身動き一つせずに訊いた。

「監物照正氏の警護に当っていたとき、プライベートとで飲食していました。遠目でしたが、間違いありません」

 蒲生は強い口調で断言した。

 彼はまだ若く、配属されたばかりだったので、監物の近くに居て警護していたわけではなかったが、周辺警護としてチームの一員だったという。

――やはり瑞真寺の栄覚門主だったか。

 ついに姿を現した黒幕に、森岡は武者震いを禁じ得なかった。

 

 瑞真寺に戻った栄覚の許に執事長の葛城が掛け付けていた。

 森岡の人物評価を聞くためである。

「いかがでございましたか」

「とんでもない男だ」

 栄覚の口調には畏怖が感じられた。葛城は人に対して怯えるような門主を初めて見た。

「あの男は枕木山の秘事まで知っておった」

「秘事と仰いますと、例の?」

 栄覚は黙って肯くと、ふっと息を吐いた。

「この際だ。執事長にも話しておこうか」

 葛城は目を皿のようにして栄覚の口元を注視した。

「実はな、枕木山には水晶の鉱脈があるのだ」

「水晶、でございますか」 

 葛城は意外という顔をした。鉱物であれば金ではないかと推量していた。

「なあんだ、と思っているな」

 葛城の心底を見抜いた栄覚が言った。

 いえ、と恐縮した葛城に、

「水晶は馬鹿に出来ないぞ。しかも良質の大鉱脈が眠っているらしい」

「確かなのですか」

「江戸時代の中期、第十八世門主の栄日上人が戦国時代の備忘録を発見され、代々門主に申し送りとなった」

「僭越ですが、いかほどの価値があるのでしょう」

「栄日上人が残された古文書には、密かに山師に調査させたところ、最低でも二万両、場合によっては三倍の六万両の値打ちがあると記してある」

 葛城は首を捻った。

「現在ではいかほどでしょうか」

「江戸時代初期の一両は、現在の八万円から十万円に相当するようだ。だが、物価が違うから単純には比較できまい。それより、当時は一両あれば庶民の親子四人がどうにか一ヶ月間生活出来たようだ」

「当時とは家賃が随分違うでしょうし、通信光熱費など生活習慣もまるっきり異なりますから、現在に換算しますと三十万円ぐらいでしょうか」

「そのようなものかな」

「となりますと、六十億から百八十億ということになりますか」

「水晶の値打ちそのものが当時と今日では違うだろうから、そう単純ではあるまいが、その半分としても最低三十億の値打ちということになる。諸経費や税金を引いても十億程度は手に入る。私にはそれで十分だ」

「いかにも十億もあれば、御門主の野望を実現するための費用として事足ります」

「だが、森岡に尻尾を掴まれた」

「真実(まこと)のことでしょうか」

「鎌を掛けられたとでもいうのか」

「私にも秘匿されていた大事です。あの者が知る道理がありません」

「あれだ」

「あれ?」

「何と言ったかな、森岡の部下を虎鉄組が拉致監禁をしたことがあっただろう」

「確か、坂根とか言いました」

「恫喝で済ませば良かったものを、拉致監禁などしたものだから、却って森岡に疑念を抱かせたのではないかな」

「たったそれだけで、ございますか」

「あの男、そういう直感は人並み外れているようだ」

「しかし御門主。森岡が枕木山に疑念を抱いたとしても、水晶の件まで把握しているかは未知数でございます。こちらが慌てふためけば向こうの思う壺になるかもしれません」

 栄覚はしばらく沈思した。

「確かに、執事長の言う通りかもしれないのう。良し、この件は静観するとして、それより例の件はどうなっている」

「御本尊様のことでしたらご心配には及びません。すべて順調に運んでおります」

 葛城は胸を張ったが、栄覚の面には憂いがあった。

「何か、ご心配な点でもございますか」

「森岡だ」

「まさか、いかな彼でもこの件には気づいておりますまい」

「わからぬぞ。国真寺の事もあるでな」

「あれは作野貫主の吹聴が原因です。対して、こちらに情報漏れはありません」

「それはそうだが、こちらに全く動きがないわけではない」

 栄覚は、北大路無楽斉への仏像製作依頼と海老沼帝都大学名誉教授への鑑定依頼を示唆した。

「二つとも私が極秘裏に進めております。それを森岡が知るとなれば、相当な強運の持ち主、いや霊力が備わっていることになります」

 葛城は有り得ないことだと言ったが、

「そこだ、執事長。このあたりがチクリと痛んでならん」

 と、栄覚は胸のあたりを摩った。

「考え過ぎでございます。水晶鉱脈の件は虎鉄組の失点が端を発したもので、私はそのような愚行は犯しません」

 うむ、と栄覚は頷いた。

「水晶の場合は金を失うだけだが、御本尊様の件は私を含め瑞真寺の未来を失うことになる。くれぐれも慎重にな」

 栄覚は悲壮な表情で念を押した。

 その栄覚に朗報が舞い込んだ。

 葛城が貫主室から退室した直後、携帯電話が鳴った。

「なに! そ、それは本当か」

 栄覚は、らしからぬ驚愕の声を上げた。そして、それまでの憂いが嘘であったかのように表情が一変した。

――やはり私には天運がある。

 ふう、と安堵の吐息をした栄覚は、襖を開けて縁側に佇むと、感慨深げに西の空をいつまでも見続けていた。

 

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