ここからすべての伏線が回収され、次々と驚愕の真実が明らかになって行きます。
最後に……。そしてまた最後に……。またまた最後の最後に……どんでん返しがあります。
一段と寒さの厳しい師走の夜だった。
夜の世界にとって、この時期は稼ぎ時である。クリスマスというメインイベントに合わせて歓楽街一帯が華やかな飾り付けをして客を迎える。
加えて忘年会の二次会に使われることも多く、普段は足を踏み入れることのない若いサラリーマンや女性客の姿も散見される。店側も良く心得ていて、そのような客には時間制の低料金で臨機応変に対応している。
開店して間もない大阪北新地の最高級クラブロンドに珍客があった。
ロンドも一見客はお断りの看板を掲げているが、他店と同様に暴力団関係者を排除するためのもので、一般客であればたいていの場合が入店を許可する。
しかし、ドアを開けて店に入ってきた客に、支配人の氷室は思わず、
「どなたかのご紹介でしょうか」
と訝しい声を掛けてしまった。
その客が妙齢な婦人の一人客だったからである。
しかもただの女性ではない。チンチラのロングコートに身を包んだ彼女は、三十歳手前のようにも二十歳そこそこのようにも映る。
身長は百五十五センチぐらいで、現代の女性からすれば小柄な方だが、氷室の目には、その凛とした気品から他者を圧倒するほど大きく映っていた。
さしずめ夜の世界の住人であれば、ロンドにも匹敵するような最高級クラブのママの品格を備えていた。だが氷室は、そのような女性の噂は耳にしていなかったし、そもそもが擦れたところのない全くの無垢である。
仕事柄、三十年もの長きに亘り数多の女性に接し、目の肥えているはずの氷室も、いったい何者だろうかと判断しかね、訝しげな言葉を発してしまったのである。
「森岡社長さんのご紹介で…」
女性は高貴な笑みを浮かべて言った。鼻に掛かった声が甘えた感じを醸成し、少し舌足らずな口調が愛らしさを増幅した。
氷室は思わず胸をときめかせた。女性客に心が動くなど、実に久しぶりのことである。彼は、これが芝居ならば相当な女(たま)であるし、自然体ならば魔性というのはこのような女性のことをいうのだろうと思った。
「森岡様の……失礼ですが、お名前は」
氷室はまたしても訝った声を出した。女性の言葉を疑ったのではなく、彼女の声に親しげな音色を感じたからである。
――森岡社長とはどういう関係なのだろうか。
と、森岡と茜の行く末に対する不安がチラリと頭の片隅を過った。
「目加戸と申します」
「目加戸様……どなたかとお待ち合わせでしょうか」
「いえ。茜さんと仰るママさんにお目に掛かりたいのです」
「ママに」
「いらっしゃいますか」
「あいにく、今晩ママは同伴出勤の予定でございまして、二十一時近くになりますが」
「では、それまで待たせて頂いても構わないでしょうか」
もちろんです、と氷室は肯いて、女性の背後に回り、コートを脱ぐのを手伝った。コートの下は純白のワンピースだった。
氷室はチンチラのコートとは対照的な装いに目を奪われながら、彼女をVIPルームに案内した。森岡と曰くの有りそうな女性である。茜とは難しい話になる直感が働いた彼の配慮だった。
「何かお飲みになりますか」
「そうですね。では、シャンパンをお願いします」
「森岡様がお飲みになるのと同じで宜しいでしょうか」
「森岡君は何を飲んでいるのかしら」
――君だと? 年上の森岡社長を君付けにするこの女性は、いったい……。
氷室はますます訝った。
「ドンペリのゴールドです」
「あら、お高いのでしょうね」
と言った表情には、懐を懸念した様子は微塵も感じられない。
「ご心配なく。森岡様からは友人、知人の来店があった場合、私どもの判断でお飲み物をお出しするようにと言い付かっております」
これは嘘ではなかった。
氷室は、この目加戸と名乗った女性を森岡の昔の彼女ではないかと推量した。
「では、お言葉に甘えてそれを頂戴します」
わかりました、と氷室は軽く会釈し、若い黒服を呼んでその旨を指示した。
「失礼ですが、森岡様とは古いお付き合いでしょうか」
「はい。学生時代から」
「学生時代、ですか」
氷室はまたもや聞き返してしまった。中学、高校時代であれば二歳、大学であれば三歳、浪人を勘案しても最大で四、五歳しか違わない。
だが氷室は、森岡は大学生時代に亡妻と交際を始めたと耳にしていた。
森岡が亡妻と恋人関係になる前、仮に森岡が高校生三年生で、元カノと思しき目の前の彼女が中学生一年生だったとしても五歳違いである。
いずれにせよ、氷室にはまさか目の前にいる女性が三十歳を超えているとは思えなかった。
「高校時代の同級生です」
「ええ!」
とうとう氷室は眼を剥いてしまった。森岡と同級生であれば三十六歳ということになるのだ。
「あら、私の顔がそんなに珍しいですか」
「こ、これは大変失礼致しました」
氷室は慌てて詫びた。額には動揺の汗が浮かんでいる。彼が女性に対して緊張したのはクラブ花園のママ花崎園子以外では初めてだった。北新地随一の美貌の持ち主と称賛される茜の前でもこれほど緊張することはない。
――やはり森岡社長の恋人だったのだ。
その懸念が増幅した氷室は、自らが接客することにした。言うなれば、ホストクラブのホスト役ということだが、彼の脳裡にはホステスが余計なことを彼女の耳に入れないかという心配もあった。
そうして三十分後、茜が同伴出勤し、氷室の無難な接客は終わりを告げた。
黒服から連絡を受けた氷室は、女性に断ってVIPルームから退室し、速足で深紅のロングドレスを纏った茜に近づき、耳打ちした。
当然のことながら、しばらくは同伴者を接遇しなければならない茜であったが、氷室から待ち人が目加戸という女性と聞いて、同伴者に丁重な断りを入れ、VIPルームのドアを開けて中に入った。
白と赤、清純と絢爛 、対照的な二人はお互いを品定めするかのように見つめ合った。
さしもの茜も客に対する挨拶を忘れていた。
数瞬後、茜が我を取り戻したように口を開いた。
「はじめまして、ようこそおいで下さいました、目加戸瑠津様」
はい、と返事をすると、瑠津が立ち上がった。
「はじめまして、山尾茜さん。お会いできて嬉しいわ」
「私もお会いできるような気がしておりました」
「まあ、なぜでしょう」
瑠津が訝しげに訊いた。
茜は瑠津に近寄ると、
「立ち話も何ですから、座りませんか」
と微笑んだ。
「本当に」
瑠津も笑った。
「森岡君は私のことを話したのですか」
「いえ何も」
茜は首を横に振った。
「ですが、藤波先生が目加戸様のことを洋介さんの憧れの君だったと仰っていましたた」
「まあ、先生ったらそのような無責任なことを……」
「いえ。そのときの洋介さんの表情から察しますと、強ち無責任とも言えませんでした」
「あら」
瑠津は嬉しそうに口に手を当てた。
その少女のような可愛らしさに、茜は戸惑いを覚えながらも、
「ロンド(ここ)は彼からお聞きになったのですか」
と訊いた。
いいえ、と瑠津も首を横に振る。
「私も藤波先生から森岡君の恋人が北新地でロンドというお店のママさんだと聞きました」
「ということは、私たちがお会いできたのは藤波先生のお蔭なのですね」
茜が微笑むと、
「無責任なお節介ですけど」
瑠津も笑みを返した。
「ところで瑠津様、せっかくお越し頂いたのに恐縮なのですが、私は店が終わるまでゆっくりとお話しする時間がありません」
「そうでしたわね。貴女とお会いできるとしたら、お店に顔を出すしか方法が無かったものですから。でも、いい迷惑でしょうね」
「とんでもありません」
茜は首を左右に振った。
「どうでしょう、今晩時間が取れませんか。私は店を早めに切り上げますので、二十三時頃になれば自由になれますが」
そうですね、と瑠津は少し考え込むような仕種をした。
「お渡ししたい物もございますし、お待ちします」
「すみません。お詫びの印にこちらでホテルに部屋を用意します」
「いえ。遅くなってもタクシーで京都へ帰ります」
「では、洋介さんと昵懇の個人タクシーを手配しましょう」
昨今、大阪のタクシー業界にはマナーの悪い運転手がままいた。
不景気で水揚げが上がらないため、たとえば酔っぱらって客が寝てしまったときなど、わざと道順を間違え運賃の嵩上げを画したりするのだ。また、極まれだが、女性の一人客、特に美人は無体な目に遭うこともあった。世間の目を気にした被害者が告訴しないので、その実態は明らかになっていないだけである。
森岡は、神村正遠の送迎用として二人の個人タクシー運転手と親交を深めていた。
「お手数をお掛けします」
瑠津は雅な仕種で礼を言った。
「それまでは、この部屋でゆっくりおくつろぎ下さい」
「いいえ。私一人がこのような部屋を独り占めはできません。せっかくの北新地ですのでどこかで時間を潰します」
「私の方はいっこうに構いませんが、そうですね。では洋介さんと馴染みのショットバーなどいかがでしょう」
「そこは軽い食事などできますか」
ええ、と茜は怪訝な顔で肯いた。
「仕事を終えて慌ただしくこちらへ参ったものですから」
「マスターは、玄人はだしの料理上手と、北新地でも有名です」
事情を察した茜が太鼓判を押すと、支配人の氷室を呼んで、ショットバー祢玖樽(ねくたる)に案内するよう命じた。
二十三時過ぎ、茜は氷室と三浦という若い黒服を連れ立って祢玖樽に赴いた。
三浦は、森岡が護衛役として神栄会から借り受けた男で、氷室が世話をした形になっている。
目加戸瑠津は、マスターの東出とすっかり打ち解けた様子で談笑していた。東出は、二人の席をカウンターの端に設け、その隣の二席を予約席としてした。瑠津から森岡の高校時代の同級生であること、これから茜と会うことを聞いた彼の配慮である。
氷室と護衛役の三浦はカウンターの後ろのテーブル席に座った。
「お待たせしました」
茜が軽く会釈した。
「こちらこそ、お店を早引けさせてしまい、申し訳のないことです」
瑠津が詫びた。
「何をお飲みになっていますの」
「それが、マスターが森岡君のボトルを出して下さいましたの」
「それは良いわ。ついでに彼の奢りにして貰いましょう」
茜は茶目っ気に笑うと、マスターの東出も笑顔で肯いた。
瑠津はハンドバックから茶封筒を差し出した。
「さっそくですけど、これを森岡君にお渡し頂けないかしら」
「何でしょうか」
「過日、彼に依頼された調査報告書です」
「ああー、あの折の」
茜は思い当ったように言った。
「ご存知でしたか」
「何やら、瑠津さんにご相談があるようなことを言っていましたから」
「彼にとっては重要なものです」
「でしたら、瑠津さんから直接お渡しなった方が良いのではありませんか」
瑠津の顔が物憂げに沈んだ。
「貴女にお会いして考えが変わりました」
はあ、と茜は首を傾げた。
「貴女にお会いするまでは、淡い期待を寄せていたのですが、彼のお相手が貴女では勝ち目がありませんもの」
「……」
「会えば辛くなります」
瑠津は寂しげに言った。
その刹那、茜にある思いが浮かんだ。
「洋介さんは瑠津さんのお気持ちを知っているのですか」
「知らないと思います」
「今までお気持ちをぶつけたことは」
ない、と呟くように言った後、瑠津は坂根秀樹との交際に至った経緯を話した。
「彼に坂根君を紹介するよう願ったのですよ。その私がどの面を下げて彼に告白などできましょうか」
瑠津の目は今にも涙が零れそうに潤んでいた。
「いえ。一度だけそっと告白したことがあったの」
と彼女は涙を押し止め、懐かしげに話し出した。
二人が通った松江高校は大変な進学校だった。
三年次の一学期までに教科書の授業を全て終え、残りの時間は専ら予想問題集を解くことに時間を費やした。夏休みは、開始後と終了前の二週間ずつが削られ、お盆を跨る二週間余しかなく、修学旅行もなかった。
その代わりなのだろうか、文化祭は充実していて、十月最終週の金、土、日の三日間に亘り開催された。
全クラスが何某かの出し物をするのが慣習で、たいていのクラスは演劇、合唱、創作ダンス、縁日、遊興場、お化け屋敷などを定番としていたが、森岡の一年次のクラスは映画を製作して上映した。クラスメートに脚本家志望の男子生徒がいて、自主作品を製作することになったのである。
高校生が製作する映画である。必然的に青春純愛ものとなった。
高校生の恋人同士がいて、彼女の方が不治の病で死ぬというお決まりのストーリーである。
ヒロインはすぐに決まった。目加戸瑠津である。
可憐な容姿と圧倒的な存在感がある彼女は満票の支持を得た。反して、相手役の選考は難航した。クラスメートの中に、瑠津と張り合えるだけの男子生徒などいるはずもないのである。
いや、一人だけいるにはいた。他ならぬ森岡洋介である。
だが気品、清純といった言わば「陽」あるいは「純」の目加戸瑠津に対して、森岡の存在感というのは、群れを嫌う狼のような孤独を身に纏った「陰」、あるいは世の中の全てに対して斜に構えたような「負」に裏打ちされているものだった。
学級委員長として、担任である藤波の補佐を無難に熟してはいるが、休憩時間や昼休みになると忽然と姿を消し、どこで何をしているか不明という不気味な印象すら植え付けていた。
あるとき、クラスメートの斐川角学、後の天真宗僧侶雲海が森岡の後を着けたが、途中で見つかってしまった。そのときの、殺気を含んだような冷徹な視線に、彼は身の竦む思いになり、愚かだったと激しく後悔したという。
然様に好対照の二人が主役を張って上手く融合するかどうか疑問符が付いた。
結局、瑠津本人に指名させたらどうかということになったのだが、彼女は迷うことなく森岡を指名した。周囲は驚いたものの、なるほど森岡が唯一親しく言葉を交わしていたのが瑠津であり、また彼女にしてみても、坂根秀樹を紹介されるまでの過程やその後の関係からも、気心が知れているという安心感があったのだろうと推量された。
ともあれ、撮影が始まると、恋人同士という設定の二人は常に行動を共にした。
一ヶ月の撮影期間は、それこそ実際の恋人である坂根秀樹より長い時間を共有した。
さて撮影の締め括りは、宍道湖に沈む夕陽を眺めながら、洋介の胸の中で瑠津が息を引き取るという設定で、瑠津の唇に森岡が自身の唇を合わせたところでクランクアップだった。
もちろん、本当に唇を合わせたりはしない。森岡は台本に従って、ぎりぎりのところで唇を浮かせていた。
すると、事もあろうに瑠津が顔を少し押し上げるようにして唇を合わせたのである。
「私はそのとき、目を剥いて驚く彼に『貴方の方が良かった』と囁いたの」
「それで彼は」
「たぶん、彼にはその言葉の意味が理解できなかったみたい。いえ、もしかすると言葉そのものを聞き取れていなかったにかもしれないわ。私自身も生まれて初めてのキスの興奮と、後方で撮影しているクラスメートに気づかれてはいないかと冷や汗ものだったから」
「初めて」
茜は思わず訊いてしまった。もちろん個人差はあるが、一九七十年代の地方の小都市における高校一年生の男女交際では、決して珍しいことではない。
「坂根君とは手を繋いで歩いた程度だったの」
瑠津は俯き加減で言った。頬は赤らんでいる。
三十六歳にも拘らず、まるで男を知らないかのような恥じらいは、同性の茜でも胸の奥に熱いものを抱かせる。
「でも、なぜ……」
茜は昂奮を鎮めるように低い声で訊いた。
「心変わりをしたのか、ですね」
瑠津は茜の言いたいことがわかっていた。
「ええ、まあ」
茜は遠慮がちに肯いた。
「なんと言ったら良いのかなあ」
突如、瑠津はずいぶんと砕けた口調になった。恋愛話というのはそういうものなのだろう。
「坂根君は申し分がなかったのね。いえ、容姿とか学力ということではないのよ」
「はい」
と、茜は肯いた。瑠津が外見に囚われる女性でないことは察せられた。
「何と言っても性格が抜群だったわ。優しいし、思いやりがあるし、柔和だし、思慮深いし、他人に親切だし、謙虚で少しも奢ったところがないし……」
と言ったところで瑠津がはたと気づいた。
「あら、嫌だ。私ったらつい力が入っちゃって」
「よくわかります」
「えっ」
瑠津が怪訝そうな顔をした。
「坂根秀樹さんにお会いしました」
ああ、そういうことか、と瑠津は事情を悟った。森岡にとって茜は、親友に紹介し得る存在になっているということなのだ。
「彼、元気でしたか」
「お身体のことご存知でしたか」
「昨年、高校の同級生が集まった折、誰かの口の端に上りましたの。そう言えば、彼の弟さんを預かっているようですね。森岡君らしいわ」
「実は、秀樹さん本人も洋介さんの仕事を手伝っていらっしゃいます」
瑠津は瞬時にその意味を理解した。
「全く森岡君って人は……」
一時感慨に耽った瑠津は、
「先ほどの話だけど、要するに坂根君は完璧だったの。だけど、人として完全無欠過ぎて私が入り込む隙がなかった」
と話を戻した。
「……」
「私の支えが無くても彼は生きて行けるのだ、と思ったわ。その点、森岡君の危なっかしいこと」
「何かありましたか」
「今の彼からは想像もできないでしょうけど、危なっかしいというより、投げやり、行き当たりばったりという感じかしら」
茜は、現在の森岡を通して高校時代の彼を想像したが、まるっきり像が浮かんでこなかった。
「でも異様に一途で、何かを必死に求めていた」
「それはなんとなくわかります」
瑠津は軽く肯くと、クスッと思い出し笑いをした。
「どうかしました」
「彼ね、私たちのためにとんでもないことをしたのよ」
言葉とは裏腹に、瑠津は嬉しそうな表情である。
「あるときね、三年生の男子が私に交際を求めて来たの。もちろん、坂根君とのことを承知していた上でね。その男子生徒というのは、いわば番長のような存在で、身体も大きく喧嘩が強かったの」
「松江高校でも」
茜はいわゆる元ヤンキーである。その彼女にしてみれば、松江高校のような名門進学校に不良学生いることなど想像できなかった。
「茜さん。どのような進学校でも、それなりの不良はいるわ」
瑠津は知らなかったが、その男子生徒というのはただの不良ではなく、中学時代は松江市からほど近い安来市でも極め付けの悪で、警察の監視対象になっていたほどだった。
それが、である。妙な言い方だが、天は二物を与えたということなのだろう、不良でありながら勉強の方もできた。松江高校の入試成績も上位だったほどだった。 だが、当然内申書は最悪である。そこで高校側は、問題を起こせば直ちに退学処分とする旨を通達して合格としたのだった。
「ところが、坂根君から相談を受けた森岡君がその上級生に直談判したの」
「まあ」
「彼は何も言わなかったから、詳しいことはわからないけれど、その上級生は周囲に、今後一切、森岡だけには近づきたくない、と怯えた表情で漏らしていたらしいわ」
「彼が何をしたか、なんとなくわかる気がします」
茜は島根の浜浦へ帰省した折の森岡の話を思い出し、おそらく従兄の門脇修二から譲り受けたナイフで、その上級生を恫喝したのだろうと思ったが、胸に仕舞った。
「でも無鉄砲でしょう。彼は親友のためなら自分の身などお構いなしなのね」
瑠津の、さも愛おしげな表情を見ながら、
――彼は、唯一の希望の光を消されたくはなかったのだろう。それも、彼自身が灯した光なのだから……。
茜は、瑠津と坂根秀樹との交際に至った経緯を聞いてそう思った。
「そういうところは今も変わっていません」
そうらしいわね、と瑠津は微笑んだ。
「そんな森岡君って、何と言ったら良いのか、護ってあげたいという母性本能が働くのよね」
はい、と茜も同調した。
「失礼ですが、それが原因で坂根さんとは上手く行かなかったのですか」
「そうかもしれないわ。彼は私の心の変化を敏感に感じ取っていたのね」
と、瑠津は嘆息した。
「それが、彼のある決断を促した」
「決断、ですか」
「大学三年生のとき、彼が突然実家に戻る決心をしたの」
「それはプロポーズですね」
「そう」
瑠津は複雑な顔をした。
「そして、卒業後は田舎で働くって言い出したの」
「でも、それは長男だからではないのですか」
ううん、と瑠津は首を横に振った。
「しばらくは東京で暮らす考えだったわ。彼のご両親も納得済みで、田舎へはご両親の晩年に戻るつもりでいたの」
「それがなぜ」
「私の心から森岡君が消えることを待っていたんだと思うけど」
「でも消えなかったのですね」
瑠津は無言で肯くと、
「だから、彼の最後通牒だったのだと思うわ」
と悲しげに微笑んだ。
「瑠津さんは田舎暮らしがお嫌でしたの」
「いいえ。私は付き従おうと思っていましたのよ。でも……」
と言って唇を噛んだ。
「ご両親が結婚を反対なさったのですね」
ええ、と瑠津は呟いた。
「過日京都で再会したとき、森岡君はご両親のお気持ちはわからなくもない。たぶん、祖父や父が生きていた灘屋の俺でも無理だったと思うよ、と慰めてくれたけど」
坂根秀樹自身は文句の付けようのない好人物に違いないが、何せ家格が違い過ぎる。いや家格というより、生まれ育った環境が違い過ぎた。
「結局、私は両親の反対に乗っかっちゃったのね。ズルい女だわ」
瑠津はそう言って自嘲した。
「そのことを洋介さんは……」
と問い掛けて茜は後悔した。
「洋介さんには奈津美さんがいらしゃったのですね」
はい、と瑠津は虚しく頷く。
「遅かったわ。彼は大学進学と同時に消息を絶っていたし、生家の灘屋も人手に渡ってしまっていた。それでも、ようやく斐川角君から住所を聞き出したのだけど……」
瑠津が吐息を付くように言ったとき、入口のドアが荒々しく開け放たれた。