翌日、森岡洋介は相良浄光の案内で、仏師で人間国宝の北大路無楽斉の工房を訪ねた。工房は札幌市北区の西の端、手稲区と区切られている新川の辺にあった。
訪いを告げると、奥から無楽斉の弟子と思われる若い男性が応対に出て来た。男性の案内で工房に入ると、無楽斉は背を向けたまま創作に耽っていた。
声を掛けようとした相良を押し止め、森岡は壁の棚に陳列されていた彼の作品集を拝観することにした。
釈迦尊像、大日如来像、阿弥陀如来像、薬師如来像、弥勒菩薩像、不動明王像等々、立像や座像が大小で三十体ほど並べてあった。
一体一体、食い入るように見つめた森岡が観音菩薩座像の前に立ったときである。
突如、身体に異変が起こった。
他の仏像には無かった強烈な気を全身に感じるや否や、観音菩薩座像の両眼から無数の光の環が連なって飛び出(い)で、自身の方へ伸びて来たのだ。
摩訶不思議な現象に、金縛りにでもあったかのように身体が硬直し、身動きどころか声を発することもできない。
だが、森岡に不安はなかった。むしろ、心に安らぎを覚えてさえいた。
光の輪はなすがままの彼の両眼から、それぞれすーっと体内に入り込んだ。
次の瞬間、森岡は解毒されたかのように清々しい気分になった。まるでそれは、喉の渇きを潤すために給水したような自然な成り行きだった。
しばらくして無楽斉から声掛かった。
「慈観(じかん)は元気か」
慈観というのは、相良浄光の父浄然の仏師としての号である。
「お陰さまで。先生もお元気そうでなによりです」
無楽斉は七十九歳。年齢のわりに声には張りがあった。
「会わせたいというのその男か」
「日頃、私が大変お世話になっている森岡さんです」
相良の紹介を受け、
「初めまして、森岡洋介と申します。本日は時間を割いて頂き、恐縮です」
と、森岡は丁重に頭を下げた。
「それで用件はなんだ。時間が無いからさっさと済ませてくれ」
無楽斉はいかにも無愛想に言った。
「では、単刀直入にお伺いします。先生の許に、天真宗の瑞真寺から仏像製作の依頼がございましたでしょうか」
その瞬間、無楽斉の目が鋭く光った。
「それが君に何の関係がある」
「特別にはございません」
瑞真寺と敵対しているとは言えなかった。
「では、門外漢に答える必要はない」
無楽斉は語気を強めて言うと、背を向け再び創作し始めた。
「先生、森岡さんは榊原商店の後継者なのです」
無楽斉の手が止まった。
「榊原さんの親類縁者なのか」
無楽斉は、背を向けたまま訊いた。
「親戚ではありませんが、ご縁があって会社を継ぐことになりました」
ふむ、と無楽斉は沈思した。
「榊原壮太郎さんには大変お世話になった。私の仏像が広く世に出るようになったのも榊原さんのご支援があったからだ」
そこまで言って、無楽斉は振り向いた。
「依頼はあった。それで良いか」
「どのような仏像ですか」
思わず相良が口を挟んだ。
「そこまでは言えぬ、申し訳ない」
無楽斉は両手を着いて頭を下げた。
「止めて下さい」
森岡が無楽斉の手を掴んで畳から引き揚げたときである。おそらく試作品だと思われる手掛け始めたばかりの木片が目に飛び込んで来た。そして、見る見るうちに仏像の完成形へと変わっていった。
――間違いない。釈迦立像だ。
そう確信した森岡は、
「この際、榊原さんは関係ありませんし、仏師の世界には仏師の極まり事と言いますか義理立てのようなものがあるのでしょうから、依頼が有ったとわかっただけで十分です」
と言って、相良を促し辞去しようとした、そのときである。
中年女性が入って来た。
「お義父さん、私からもお願いするから森岡さんに詳しく話してくれない」
「貴方はリッチのママさん」
相良が素っ頓狂な声を上げ、
「おとうさんって、先生はママの……」
森岡も眼を丸くして訊いた。
「私は母の連れ子だったから血は繋がっていませんが」
と、佐伯知草が無楽斉に視線を送った。
「でも、どうして私がここに来ることがわかったのですか」
「それは、私が昨日教えました」
相良が恐縮そうに言った。
昨夜、リッチの後、皆でカラオケに行ったとき知草や綾音も同道していた。そのとき酔っぱらった相良から森岡の予定を聞き出したのだという。
「なぜ、そのようなことを」
「だって、助けて頂いておきながら、碌くにお礼も言ってなかったのですよ」
「礼なら、あの場で言ってもらった。それで十分だ」
「二千万以上もご迷惑を掛けたのです。そういうわけにはいきません」
「二千万とは、どういうことだ」
無楽斉が訊いた。
知草がリッチでの出来事を話した。
「それは、義娘が大変世話になりました。この義娘は親を頼りにしませんので」
と、無楽斉は頭を下げた。
「その義娘の初めての頼み事ですので、聞いてやりたいのはやまやまですが」
と言いつつ、それとこれとは別だ、と断った。
「義娘さんの件は成り行き上の事ですから気になさらないで下さい」
森岡はそう言って再び辞去しようとした。
「無駄足だったようで申し訳ありません、先輩」
相良が泣きそうな声で詫びた。
無楽斉がその言葉尻を捉えた。
「ちょっと待て、相良君。先輩とはどういうことだ。森岡さんは僧侶ではなかろう」
「え? ああ、森岡さんは松江高校の先輩なのです」
「松江だと」
無楽斉の脳裡の襞が疼いた。
「ということは、森岡さんも島根出身なのですか」
「はい。もっとも、今でこそ松江市と言っていますが、生まれ育った頃は字(あざ)の付く島根半島の小さな漁村です」
「なにっ!」
無楽斉の眼が大きく見開かれた。
「島根半島の漁村で森岡というと、もしや灘屋という旧家をご存知ないかの」
「知っているも何も、灘屋は私の生家です」
「な、なんと」
無楽斉は呆然となった。
「先生は灘屋(うち)をご存知で」
と訊いたところで、ああー、と今度は森岡が叫んだ。
「まさか、灘屋(うち)の観音様は先生が……」
そうです、と無楽斉が微笑む。
「貴方が灘屋さんのお身内だと思いも寄りませんでした。森岡さんと伺ったときは、どこかで耳にした名前だと気にはなったのですが、私の記憶には灘屋という屋号の方が強く残っていたものですから」
無楽斉が頭を下げた。
彼が気づかなかったのも無理はなかった。島根半島界隈では同姓が極めて多く、浜浦では四つの姓で村の八割の世帯を占めた。したがって、通常は姓ではなく屋号でお互いを呼び合っていたのである。
北大路無楽斉は十六歳で仏師を志し、十八歳から全国の神社仏閣を参詣して回った。目的は仏像他著名な建築物の拝観である。浜浦へは出雲大社参詣した帰りだった。たが、財布を紛失してしまい路頭に迷った。仕方なく、浜浦神社の軒下で夜露を避けたのだが、季節外れの寒波に襲われたため、風邪を拗らせてしまったのである。
「手厚い看護療養だけでなく、帰りの旅費まで用立てて下さったトラさんは、まさしく命の恩人。その子孫の貴方に恩を返さないのは人倫の道に外れています。先程のお尋ねにお答えしましょう」
無楽斉がそう言って居住まいを正したとき、
「先生、それには及びません。お礼としてすでに曾祖母が観音菩薩立像を頂いています」
と、森岡が断った。
「先輩、何を言っているのですか。せっかく先生がそう仰っておられるのに」
「もう十分だ、相良」
森岡が宥めるように言った。
「どういうことかな」
無楽斉が訊いた。
「先刻、先生の作品を拝観させて頂いたとき、子供の頃の力が呼び戻されたようです」
「何なのですか、その力というのは」
相良が怪訝そうに訊いた。
「それは後でな」
森岡は相良にそう言うと、
「先生、その代わりと言ってなんですが、一つお願いがあります」
「何なりと」
承る、と無楽斉は背を伸ばした。
「先生の作品をお譲り願いたいのですが」
「ほう。お気に召したのがありましたか」
「ええ、観音菩薩座像を」
森岡は、先刻両眼から光の環を放った仏像を指名した。
無楽斉が目を細めた。
「さすがにお目が高い。実は、あの観音座像はあらためてトラさんにお礼をと思い、製作したものなのです。灘屋さんの立像と対の座像です。ですから貴方の手に渡るのが相応しい」
後年、無楽斉は正式な仏師としての処女作を礼として灘屋に持参した。だがトラは、すでに礼は貰っていると固辞したのだという。
「では、譲って頂けるのですね」
「喜んで」
「代金はいくらでしょうか」
「それは無用です。仏像は縁のある方の手元にあるのが一番ですし、義娘を救って貰ったお礼としましょう」
と、弟子に梱包するよう命じた。
「そういうことでしたら、有り難く頂戴いたします」
頭を下げた森岡は、
「さあて、市内観光でもしてから定山渓へ行こうか」
と観音座像を受け取り、工房を出た。
レンタカーに乗り込むや否や、相良が佐伯知草越しに訊いてきた。
「子供の頃の力って何なのですか」
帰りは佐伯知草が加わったため、運転は蒲生亮太が、助手席に足立統万が座り、後部座席の森岡と相良の間に彼女が割って入っていた。
「何となくだが、人の心がわかる」
「人の心がわかるって、まるで霊能力者みたいではないですか」
「坊主のお前が驚いてどうするんや。霊力は坊主の本分やろ」
「それはそうですが、でもどうして先輩にそのような力が……」
あるのか、と訊いた。
「俺のひい祖母さんと祖母さんは信心深い人でな、それなりに霊力があったらしいから、その血を受け継いだのやろうな。だが、神村先生のように自在というわけではないで」
森岡は生まれたときから祖母のウメに育てられたため、読経を子守唄代わりに聞いていたと告げた。
「それより相良、今天真宗本山総覧は手元にあるか」
「はい、旅行のときは必ず肌身離さず持ち歩いています」
と鞄から取り出した。
「瑞真寺の御本尊を見せてくれ」
相良がページを捲った。
「これです」
と指差した仏像を確認した森岡は不敵な笑みを浮かべ、
「ふうん、なるほどな」
と一人得心したように頷いた。
「いったい、何がどうしたというのですか」
相良には訳がわからない。
「なんでもない」
と言った森岡がママの佐伯知草に顔を向けた。
「ママも有難うな」
「いえ。助けて頂いたのですから当然です。それで、金のことですが」
「返済はこの観音様で済んだ」
「そういうわけにはいきません。義父は義父、私は私です」
「どないせいと言うんや」
「あのときの言葉通りになります」
「言葉やと」
「俺の女って、言って下さったでしょう」
「ああ、あれは言葉のあややがな。本気にする奴があるか」
「いいえ。彼女にして貰います」
ママの真剣な顔つきに、森岡もまた真顔になった。
「俺には結婚を約束している女性がいるんや」
「それは問題ありません」
佐伯知草は平然としていた。
「私は奥様にして欲しいとは言っていませんよ」
「馬鹿なことを言うもんやない。ママほどの女性なら、男は選り取り見取りだろう。何も好き好んで日陰に生きることはない」
ほほほ……と知草が陽気に笑った。
「日陰だなんて、年に似合わず古臭い言葉をお使いになるのですね」
「そうや、俺は古い考え方の人間や。せやから愛人を作る気はないのや」
森岡は強い口調で言った。
「冗談ですよ。どうせなら私のようなお婆ちゃんより若い娘の方が良いでしょうからね」
知草は皮肉るように言った。
「何や、冗談かいな。ママも人が悪いな」
森岡は表情を緩めた。
「実は、父の家を訪ねた理由は森岡さんにご相談したいことがあったからなのです」
「俺に相談って、か」
「はい。昨晩、打ち明けるつもりだったのですが、あのような醜態があったもので言いそびれてしまったのです」
「気が削がれたということやな」
はい、と知草は肯いた。
「綾音ちゃんの力になって頂けないでしょうか」
「だから、それは……」
森岡は話の繋がりで愛人の件だと早合点した。
佐伯知草は再び、ほほほ、と笑った。
「誤解なさらないで下さい」
彼女は綾音の転職先を世話して欲しいのだと言った。
佐伯知草は、四年前に綾音を他店から引き抜いたのだが、そのときの条件が五年間という期限付きだった。
綾音はいずれ東京へ出て自分の店を持つのが夢なのだという。約束の期限まであと半年、綾音本人は銀座へ飛び込むつもりでいたらしい。
「森岡さんの噂を聞き、また実際にお会いしたことで大阪も選択肢に加えたようです」
「俺の噂」
森岡は懐疑的な目を向けた。
「彼女の高校時代の友人が大阪の会社に勤めているらしいのですが、給料が安いので週に二日、ラウンジでホステスのアルバイトをしているのです」
「俺がその店に顔を出したのか」
「いいえ。森岡さんが足を運ばれるような店でありません」
「なら、何でや」
「何やら、大盤振る舞いをされたそうで」
佐伯知草は揶揄するように言った。
「ああー、あの馬鹿騒ぎか」
「しかし、一介のラウンジまで噂が広がっただなんて、よほどの武勇伝だったのですね」
今度は嫌味が混じっている。
森岡は佐伯知草が経営するリッチでも羽目を外していたが、それをも上回る豪遊ぶりの噂が癪に触るのである。
「友人の話を聞いて興味を持ったところに、昨夜お見えになったのですよ」
「それで彼女は待ちかねた口ぶりだったのだな」
はい、と佐伯知草が顎を引いた。
「森岡さんのお人柄もさることながら、津川社長を黙らせた貫禄が駄目を押したようです」
「そうだとしたら、余計なことをしたのかな」
森岡は苦笑いをした。
「でも、私は助かりましたよ」
「後悔しているんやないで、人助けは俺の業のようなものやからな」
「業って、なんですの」
「それは、聞き流してくれ」
つい口を滑らせてしまった森岡は、
「それで彼女は何と」
と誤魔化した。
「森岡さんがお世話下さるのなら是非大阪へ行きたいそうです」
「世話って、さっきも言ったが彼女にする気はないで」
「わかっています。北新地随一の美形ママさんと一緒になるのでしょう」
「それも、彼女の友人からか」
「夜の世界は話が伝わるのは早いですからね」
確かに、と同調した森岡は、
「世話するだけでええなら、なんぼでも紹介するが」
「口利きだけではだめですよ。口座、それも大口になってあげなくては」
「口座ってか」
森岡は困惑気に言った。
口座とは、ホステスの個人営業の客のことである。口座の客が上客であればあるほどホステスの実入りは多くなる。
「でも、一緒になるママさんは店を引けられるのでしょう」
「その予定だが」
「ママさんに力になってい頂くのは無理なのですね」
知草は茜の後ろ盾を期待していたようだ。
「そうやな。相談ぐらいは乗れるやろうが、北新地で目を光らすという訳にはいかんな」
知草は暫し考え込んだ。
「でしたら、そのママさんの代わりに森岡さんが綾音ちゃんの後見役になってやって下さい」
「俺にそんな甲斐性はないで」
「またまた、ご冗談を……それに」
「なんや」
「そのうち、抜き差しならなくなったりして」
知草は意味ありげな笑みを零した。
「そんな関係にはならん」
森岡は動揺を押し隠すように言うと、
「そんなことより、綾音ちゃんは習い事はしてるか」
と話を逸らした。
「お茶とお花は講師の免許持ちだと聞いています」
「ほう、なかなかのものやな。それやったら、北新地でも指折りの名店のママに話をしてみよう」
森岡は北新地でも一、二を争う名店花園のオーナーママ花崎園子に相談しようと考えていた。先頃、彼女が茜を後継者にと考えていたことを知ったからである。
綾音に茜の代役が務まるかどうかは不明だが、彼女は茜に劣らずホステスとしての華と素養があると森岡が思っていたのは確かだった。
「ああ、良かった。これで綾音ちゃんとの約束を果たせます」
「せやけど、彼女はリッチのナンバー一なのやろ。店は大丈夫かいな」
「心配ですか」
「そりゃあ、縁のある店はどこも気になる」
「でしたら、月に一度……とまでは言いませんから、せめて二月に一度、北海道に来て下さい」
佐伯知草が森岡の腕に両手を絡めて頬を肩に押し当てると、甘酸っぱい香りが鼻腔に広がった。
「義理とはいえ、ママが無楽斉先生の娘とわかったからには、できるだけ売り上げに協力するとしよう」
知草の甘えるような声に、森岡はついそう言ってしまった。