その夜、森岡洋介はまんじりともせずに一夜を過ごした。
栄覚門主の目論んだ挫折感に打ちひしがれていたのではない。一時の敗北感から立ち直り、打開策を模索していたのである。
とはいえ、京都大本山本妙寺の新貫主選出の合議までわずか三日。とてものこと新たな謀略など無理な相談だった。
森岡に残された選択肢は二つ――。
すなわち座して敗北を待つのか、恥を忍んで栄覚門主に跪くか、である。
菊池龍峰に追い詰められ進退窮まったとき、当時政敵だった総務藤井清堂の懐に飛び込んだように、坂根好之が広域暴力団虎鉄組に拉致監禁されたとき、祖父洋吾郎の仕打ちに恨みを抱いているであろう唐橋大紀に救いを求めたように、此度も不倶戴天の敵である栄覚門主に頭を下げるべきかどうか、思いを巡らしていたのである。
栄覚門主と取引をするということは、取りも直さず総務清堂や景山律堂に対する背信行為である。しかも、たとえ栄覚門主に跪いても彼が取引に応ずる保証はない。
東の空が白み始めた頃、悩みに悩んだ森岡は、ついに栄覚門主と直談判に及ぶ腹を固めた。
翌日、森岡は帝都ホテル大阪に泊まった景山律堂にその旨を正直に明かした。
瞬時、茫然となった景山だったが、すぐさま平静を取り戻した。
「取引材料は、例の御本尊ですか」
いいえ、と森岡は首を横に振る。
「あれは門主の野望を挫く切り札ですから、最後の最後まで取っておきます」
「では、他にも何か弱みを握っていると……」
景山が期待の声で訊ねた。
「貴方に手数をお掛けしておきながらて黙っていました。お許し下さい」
そう言って森岡が頭を下げようとしたのを、
「止めて下さい、森岡さん」
と、景山は慌てて止めた。
「それで、どのようなことでしょうか」
「その前に、門主と立国会の勅使河原会長とは一枚岩ではないようです」
「と言いますと」
「門主は勅使河原から金銭的支援を受けていません」
「そうなのですか」
「実際に籠絡工作をした私が言うのです。間違いありません」
「わかりました。でも、それでは野望の実現のための金策はどのようにして」
森岡がにやりと微笑んだ。
「まさに、そこです。実は、枕木山には水晶の大鉱脈があると思われるのです」
「な、なんと。本当ですか」
はい、と森岡は肯いた。
「これは驚きですが、それで枕木山を探っておられたのですね」
景山は得心したように肯き、
「しかし、枕木山に目を付けられたのは」
何故か、と訊いた。
森岡は、岡崎家での小梅の身請け話の顛末を語った。
枕木山を探索していた坂根好之が虎鉄組に拉致監禁され、身代金として五億円支払ったこと。そもそも坂根が枕木山で拉致されたのは、彼の山に秘密があるのではないかと睨み、友人に調べて貰ったこと。そして、実際に栄覚門主に鎌を掛けて反応を見たことを話した。
「開いた口が塞がらないとはこのことですね」
景山は呆れたように言った。
「貴方の周囲には何かしら災いが起きますが、いつもそれを逆手にとって有意な材料を手にされる」
「偶々ですよ」
「ご謙遜を……やはり貴方は能力の上に、強運の持ち主らしい」
景山はあらためて賛辞を贈ると、
「貴方が敵でなくて良かった」
つい、本音を漏らした。
もっとも当初は敵対していたのである。景山はあらためて胆の縮む思いをしていた。
「それで、どういう条件を提示されるおつもりですか」
「枕木山の材木の伐採権を門主の息の掛かった業者に譲る代わりに、明後日の会議では神村先生を選出するよう協力を願います」
景山は首を捻った。
「憚りながら、門主には勅使河原会長はじめ、多く支援者がいますので、水晶の件は致命傷にはならないでしょう」
と門主が応じない可能性を示唆した。
「そのときは潔く諦めましょう」
森岡は即答した。
「良いのですか。神村上人は森岡にとって唯一無二のお方のはず。間違いなく取引に応ずるであろう、御本尊の件を突き付けた方が良いのではないですか」
「それでは総務さんとの約束を反故にすることになります」
厳しい顔つきで言った森岡に、景山は思わず口走った。
「それは私が何とかします」
ふっ、と森岡は笑みを零し、
「お心遣い感謝します」
と丁重に頭を下げた。
「そもそも、総務さんとの約束も守れない半端者が神村先生を法主に押し上げるなど、傲慢にもほどがあるというものです。総務さんは神村先生の向後にとって欠かせないお方です。裏切ることはできません」
「総務さんがお聞きになれば、さぞ喜ばれるでしょう」
景山は感謝の頭を垂れた。
景山から報告を受けた総務藤井清堂は、宗務院の永井宗務総長に命じ、自身の代理として森岡と面談するよう瑞真寺に申し入れさせた。
このとき、景山は師である清堂に枕木山の水晶の件を話してはいない。瑞真寺の御本尊の秘密を暴露さえすれば栄覚門主の命脈を絶つことができ、水晶の件はおのずと解決されるからである。
総務清堂にしても、窮地に立たされた森岡が、瑞真寺の御本尊の件を取引材料に使うかもしれないという懸念は抱いていた。だが、それでも申し出に尽力したのは、一色魁嶺の処分を決める会議で、森岡の願う結果に導かれなかったという負い目を感じていたからである。
瑞真寺門主の栄覚はその申し入れを了承した。
彼にすれば、今日の明日という緊急要望を拒否することもできたが、予定を変更してまで森岡と会うことにした。
理由は簡単である。総務清堂の強い要請もさることながら、一度会ってみて、ますます森岡洋介という人物に対する興味が深まっていたからである。
景山の案内で森岡は瑞真寺の境内に足を踏み入れた。
瑞真寺は室町時代初期に建立された、宗祖栄真大聖人の末弟栄相上人の血脈寺院である。したがって傍系ではあるが、宗祖の血を受け継ぐ寺院に間違いはない。
敷地は本山格を与えられた寺院としては狭かったか、総本山から離れた高尾山でも、さらに隔離された伽藍は清浄閑静このうえなく、いかにも宗祖家血脈者の威厳と高徳を忍ばせるに足る佇まいであった。
森岡は、総本山の本堂とは一味違う霊妙な空気に、身を引き締めて訪いを告げた。
景山と蒲生、足立の三人は庫裏で待機させられ、森岡一人が応接室に通された。
十五分ほど待たされた後、いよいよ栄覚門主が姿を現した。
森岡を見た栄覚は、一瞬、おやっというは顔をしたが、小さく頭を下げ、視線を落として森岡は気づかなかった。
栄覚が座したのを見計らって森岡が視線を上げた。
「やはり、門主様でしたか」
「見破られていたようだの」
二人はそう言い合った切り、凝っと相手の目を見合ったまま、口を開かなかった。
「この雪でまた穴が塞がったわい」
しばらくして栄覚の口から漏れた言葉であった。
「雪が溶けても何も無いでしょう」
森岡が柔和に返す。
「ほう。何も無いか」
「ございません」
「……そうか、無いか」
栄覚は森岡の真意を理解した。
「だが、仮に有ったとしても私は痛くも痒くもないぞ」
「伐採権を手にしております」
うっ、と栄覚は言葉に詰まった。
「やるな。どのようにして手に入れた」
「伐採権を持つ野津さんの借金の肩代わりを致しました」
「その者とは昔からの知り合いなのか」
いいえ、と首を横に振った森岡は、勅使河原公彦の奸計が瓢箪から駒を産んだと告げた。
――勅使河原め、余計なことを仕出かしおって……。
栄覚は苦虫を噛み潰す思いをぐっと押し止め、
「確かに、採掘には君の許可が必要になるが、私としては必ずしも必要なものではないでな」
「枕木山の財宝が無くても、野望は敵いますか」
栄覚は再び眼を剥いた。
「知っておるのか」
「何となく」
「何となくとは、言いおるな」
栄覚は複雑な表情で言った。
「だが、幸い私には支援者が多いでの」
「ですが、最大の支援者であるはずの勅使河原は遠ざけておられます」
くくく、と栄覚は苦笑いをした。
「何という男だ」
余裕を繕った栄覚だったが、その実は背に冷たいものが伝っていた。
「勅使河原の他にもいるのでな」
「門主様ほどのお方ですから当然でしょうが、門主様はご自身お一人の力で成し遂げたと考えておられるのではないですか」
「いかにもその通り」
栄覚はあっさりと認めた。
「だがの、あくまでも、できればであって、どうしても、ではないのだよ」
「では、交渉決裂でございますね」
森岡は腰を上げようとした。
「まあまあ、そう結論を急ぐでない」
栄覚は思わせぶりな言い方をした。
「せっかくの君の申し入れだから考えてみようと思うが、何せ合議は明日だからの。確約はできないぞ」
「結構でございます。門主様を信じ、もし結果が悪くても枕木山のことは捨て置きます」
「そのように私を信用して良いのかの」
「遠大な野望をお持ちの方が私如き虫けらのような者を欺かれるはずがございません」
「うむ。君の信頼に最大限応えるようにしよう」
栄覚は厳しい顔つきで言った。
瑞真寺の応接室を出た森岡は、庫裡で待つ景山と蒲生そして足立と合流し、さらに彼ら瑞真寺の山門を出たとこで、神栄会若頭補佐の九頭目弘毅他三名の極道者が付き従った。といっても、九頭目らは世間を憚り別の一行のように離れて護衛をしている。
森岡から栄覚門主との会話の一部始終を聞いた景山は驚きを隠さなかった。
「良く門主が応じましたね」
「私も意外でした」
森岡も正直な感想を述べた。
「本当に動くと思われますか」
栄覚は神村選出を確約してはいない。最大限努力すると言っただけである。景山は額面通りに受け止めるのは危険だと示唆した。
「結果がどうであれ、私は水晶の件は不問に付すつもりです」
「門主を信じる理由は何ですか」
「彼が大いなる野望を抱いているからです」
なっ……景山は何を言っているのだ、という眼つきをした。
栄覚門主は、まさにその野望の障害となる神村正遠を蹴落とすために画策しているのである。
不審顔の景山に向かって森岡が諭すように言った。
「景山さん。私はね、もし門主が言葉だけで済ますような人間であれば、むしろ安心できると思っているのです」
「して、その心は」
「門主は、法主の座を血脈家の世襲にしようなどという、歴史のタブーに挑戦するような革命児ですよ。そんな男が私程度の人間との約束を反故するようでは、大それた野望が成し遂げられるはずがありません」
森岡洋介の哲学は首尾一貫している。
人の上に立つような、あるいは大いなる野心を抱く者は、必ずやその思想には一本芯が通ってはずである。したがって、一旦約束したことは必ず守るという極めて単純なものであった。
「むしろ、疑心暗鬼なのは向こうでしょう。神村先生の選出に協力したものの、いざというとき伐採権を盾に妨害する可能性があるわけですから」
「なるほど、言われてみればそうですね。ということは、門主も貴方を信じたということですね」
いや、と森岡は渋い顔をした。
景山にとっては予想外の反応だった。
「門主は貴方を信じていないのに取引に応じたのですか」
「いえね。一応信じたとは思いますが、それ以外に何か切り札を握っているような気がするのです」
「どのような」
「そこまではわかりません」
森岡は首を横に振った。
「ただ、神村先生が本妙寺の貫主になっても、いっこうに困らないような別の材料を手中にしている。門主にはそのような余裕さえ感じました」
ふむ、と景山は考え込んでしまった。
「まあ、私の考え過ぎかもしれません。まずは明日の合議の成り行きを見守りましょう」
高尾山から総本山の本堂前に戻ったところで、森岡は景山と別れた。
方や瑞真寺でも、執事長の葛城信之が景山と同様の懸念を栄覚に漏らしていた。
「森岡の言うことをお信じになるのですか」
栄覚は黙ったままだった。
「調子の良いこと言って、いざとなったら約束を反故にするのではありませんか」
葛城は珍しくも語気を荒げた。
「まあ、聞きなさい。執事長の言うように、わしもそのような疑念は抱いた。だが話が進むにつれて、とてものことそのような姑息な男ではないことがわかった」
「さようですか」
葛城は不満げに言った。
「ただ者ではないとは思っていたが、どうやらそれだけではないようだ」
「と仰いますと」
「神村をはじめ久田や総務清堂、松尾正之助、はたまたあの蜂矢六代目までが肩入れしているのはなぜかわかったような気がする」
「御門主、森岡は敵ですぞ。そのようにお褒めになってどうするのですか」
葛城が咎めるように言った。
「そのことだ。あの男、敵に回すと厄介だが、味方にすればこれほど心強い者もいない」
「な、何を仰いますか」
「森岡一人が居れば、勅使河原も虎鉄組も村田や一色、坂東も必要が無い」
「そうまで仰いますか」
「考えても見よ、執事長。彼はオセロゲームのように、次々と敵を寝返らせたではないか」
「……」
葛城は反論できなかった。なるほど、総務清堂と景山律堂、宗光賢治と鬼庭徹朗も当初は敵対する側にいた人物だった。
「是非とも欲しいのう」
「しかし、あの男は神村一筋、それを味方に付けるのは……」
無理だと、葛城は言った。
「それはそうだが、神村がいなくなれば、その限りではあるまい」
「神村を害するのですか」
「馬鹿なことを。そのような愚かなことをするはずがないではないか」
栄覚は語気を荒げた。
「失言でした」
葛城は肩を窄め、
「では、いったい」
と、栄覚の顔色を窺った。
「まあ、良い。それはしばらく置いておこう」
と言った栄覚が首を傾げた。
「それよりあの男、誰かに面影が似ておる」
「初対面の折りにもそのよう仰っておられましたが…」
「何やら、懐かしい気分も湧いていた」
「懐かしい……となりますと、御門主が子供の頃のご記憶でしょうか」
「子供の頃だと」
栄覚の脳が敏感に反応した。
「ああー、叔母様だ」
と思わず叫んだ。
「叔母様と申されますと、あの?」
「その叔母、栄観(えいかん)尼様の面影が重なったのだ」
栄覚は畏怖するように呟いた。
栄観尼とは、瑞真寺の前門主栄興の末妹で、天真宗が建立した尼寺である真龍寺(しんりゅうじ)の門主をしている尼僧である。
「私は栄観尼様にお会いしたことはございませんが、はたしてそのようなことがありましょうか」
暗に、気のせいではないかと言った。
「それはそうだ。叔母様と森岡の間に縁など有るはずもない。第一、叔母様は子供を生むどころか、ご結婚されたこともない」
と言った栄覚の顔はどこか虚ろ気だった。
翌日、京都大本山本妙寺の次期貫主を選出する合議が行われた。
会合場所は京都の別格大本山法国寺だったのだが、これがまた前代未聞の波乱の幕開けとなった。
まず、相心寺貫主の一色魁嶺が、規律委員会から下された厳重戒告処分を受けて、自主的に半年間の謹慎処分を申し出たところ、宗務院から承認されたと報告し、退席してしまったのである。
これにより、九名の貫主による合議となったのだが、さらに刻限の午後二時になっても、桂国寺貫主の坂東明園が姿を現さないという不穏な事態も重なった。
合議責任者の久田帝玄は、皆の了解を得て三十分待つことにし、その間を利用して、執事長に命じ、事態の急変を森岡に伝えさせた。
一色魁嶺の退出の報を受け、それが栄覚門主の指示であると理解した森岡は、複雑な心境に陥っていた。
栄覚門主が約束を果たしてくれたことには感謝しつつも、よりによって規律委員会で救った一色魁嶺を説得するとは思ってもいなかったのである。
しかも、栄覚門主は金銭的な要求をしなかった。それはつまり、一色魁嶺の説得も金銭によるものではない可能性が高いことを示している。栄覚門主が身銭を切ってまで説得するとは思えないからである。
——あの強欲な一色魁嶺が、栄覚門主の言葉には素直に従うというのか。それほどまでに、宗祖家の血脈者という威光は大きいというのか――。
森岡は、あらためて栄覚門主の存在感の大きさを認識していた。
結局、三十分待っても坂東明園の訪山はなかった。
実はその頃、坂東は京都市内のホテルの一室で、示談交渉に臨んでいた。法国寺へ向かう途中、京都市内の国道で執事が運転する車が接触事故を起こしたのである。
相手はその風体から暴力団と思われた。
坂東明園はすぐに警察に通報しようとしたが、相手に封じられた。無理を通そうとすれば、いかなる報復を受けるとも限らない。
現に、彼らの仲間と思しき連中が、何食わぬ顔で妻と談笑する写真を見せつけられてはどうすることもできない。相手は示談に応じれば、無茶なことはしないと約束したので、ホテルの一室での交渉となったのである。
ところが、坂東が再三条件提示を求めても、世間話をするだけでいっこうに話に乗って来なかった。法外な要求や難題を押し付けるといった気配もなく、ただ雑談に興じているだけなのである。
坂東明園は大事な会合があると、即時の身の開放を求めたが、それだけは頑として受け付けず、また外との連絡は厳しく遮断した。
坂東は、ようやく彼らの目的が自身を法国寺の会合に出席させないことにあると気付いた。気が付いたが、同時にどうすることもできない現実も突き付けられていた。彼らの指示に従わなければ、己だけでなく家族の身も危ないのである。
はたして二時間後、坂東は無事開放されたが、とうとう男たちは金を一円も求めなかった。そして去り際に、兄貴分と思しき男が、自分たちは神戸神王組傘下神栄会の者であると告げた。言うまでもなく、これは坂東の行動に釘を刺したものである。
男たちが立ち去ると、坂東明園は急いで法国寺へ連絡をしたが、すでに本妙寺の新貫主として神村正遠が選出された後であった。
これは森岡洋介の謀であった。
彼は規律委員会の裁定で一色魁嶺を合議から外し、坂東明園には足止めを食らわす計算だったのである。
一色魁嶺が厳重戒告処分に終わったため、坂東明園への謀は無意味となるはずであったが、栄覚門主を信じた森岡が、当初の計画通り神栄会に実行させたものであった。