黒い聖域   作:安岡久遠

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第六巻 決意の徒 飛翔(2)

 師走とはいえ穏やかな日だった。

 森岡洋介はウイニットの役員に加え、全国から課長職以上を本社に集め、臨時拡大幹部会議を開いた。このような召集は会社創立以来初めてのことで、四十数名の参加者は一応に緊張を強いられていた。

 会議の冒頭、森岡は神村正遠に関する報告を行い、長期に亘る協力に礼を述べると共に、筧克至と宇川義実の裏切りを詳細に説明し、自身の不徳を陳謝した。

 そして、

「さて、この場に皆を集めたんは相談のためやない。俺が決めた今後の方針を伝えるためや。これから話すことは俺の命令であり、不服の者はたとえ野島でも容赦はせん。ウイニットから出て行ってもらう。そのつもりで聞いて欲しい」

 と一同を見渡した。

 すでに緊張下にあった幹部社員は恫喝にも似た森岡の言葉に、さらに蒼白となった。

「まず、ウイニットの上場後、俺は速やかに社長の座を野島に譲るつもりだったが、これを白紙に戻す」

「うっ」

「えっ」

 困惑と動揺の入り混じった溜息とも言えぬどよめきが広がった。

 森岡から野島へという既定路線が白紙に戻った。副社長の野島は、事ウイニットの事業経営に関しては、森岡がもっとも信頼を寄せる片腕のはずである。その彼が外されたことは、皆に波乱の幕開けを予感させた。

 ただ一人、森岡から事前に予告されていた東京支社長の中鉢博己だけが冷静に受け留めていた。

「その野島の処遇は一番最後に申し渡す」

 そう言われた当の野島は、緊張の中にも達観した落ち着きがあった。森岡のことである。何か思惑の有ってことだと信じていた。

「俺の最後の仕事として、松尾技研と業務提携を行う」

 今度は歓声に近いどよめきが巻き起こった。

「当面、資本提携はしないが、ソフトウェアの共同開発などを通じて、人材の交流は頻繁になるやろ。向こうに侮られんようしっかり頼むぞ」

 森岡はそう言い置くと、 

「次に、住倉」

 と名指しした。

「は、はい」

 住倉は、まさか自分の名が呼ばれるとは思ってもいなかったような顔つきである。

「お前は榊原商店の社長になってもらう」

「榊原商店?」

 住倉は怪訝な顔つきになったが無理もなかった。

 この時点で、森岡と榊原壮太郎の詳細な関係を知る者は坂根好之と南目輝、そして蒲生亮太ぐらいだったからである。

「全国の寺院を相手にした仕事や。年商はうちより多い」

「寺院ですと、どうして私が……」

 住倉は戸惑いの表情を見せた。

「寺院相手の商売となると、まずは正直、誠実が重要なんやが、何よりもまして肝心なのは榊原さんの想いを受け継ぐことなんや」

「……」

 それがどうして自分に繋がるのか、住倉にはわからない。

「住倉、それは無欲に徹するということや」

「馬鹿な、商売をしていて欲を出すな、儲けるなと」

 住倉は、当然の疑問を呈した。

 森岡は初めて榊原壮太郎との関係を幹部社員に公にした。そして、榊原が現在の商売を始めた経緯を話し、彼がいかに欲得より命を救って貰った神仏への報恩に重点を置いているかを力説した。

「正直、誠実、無欲という観点から眺めたとき、俺の周りにお前以上の者はおらん」

「そう言って頂けるのは光栄ですが、私にできるでしょうか」

「大丈夫や。五年間は榊原の爺さんの指導を仰ぐことになるがな」

 ここで森岡の言葉があらたまった。

「住倉さん。ここは一つ黙って引き受けて貰えませんか」

 菱芝電気以来の敬語を使って頭を下げたのである。住倉は森岡の二歳年上で、菱芝電気では先輩であった。

「社長、止めて下さい。わかりました。仰る通りにします」

 住倉は恐縮して頭を下げた。

「しかし、社長。住倉専務が抜けるとなりますと、管理部門は誰が見るのですか」

 野島が不安げに訊いた。

「野島副社長、住倉専務の代わりが見つかったのですよ。そうでしょう、社長」

 南目が能天気な声で訊いた。さすがに、この男は森岡の恫喝にも委縮していない。

「南目、住倉のような好漢がそうそう簡単に見つかってたまるか」

 森岡が鼻を鳴らした。

「だが、それなりには考えている」

 はい、と野島が耳を傾けた。

「まず、総務部長の荒牧を取締役に昇進させる。荒牧、お前には経理以外の庶務全般を任せる」

「あ、有難うございます」

 荒牧は震える声で言った。

「そして、経理担当専務として、富国銀行梅田支店の池端支店長を招聘する」

「えっ!」

「池端支店長?」

 経営企画室部長である坂根好之と住倉哲平が驚きの声を上げたが、二人の思いは異なる。

「池端さんは、うちの株式引き受けを断った人物です。そんな人間をうちに入れるのですか」

 と、住倉が不満顔で継いだ。

「住倉、それは誤解や。むしろ池端さんは上層部の決定に異を唱えられ、左遷の憂き目に遭われようとされている」

「それは、本当ですか」

 住倉に代わって坂根が訊き返す。富国銀行梅田支店の支店長池端勲夫は、坂根が交際している敦子の父親だが、彼は娘に何も話していなかったようだ。

「本当や。せやから、俺からお願いした。住倉、そういうことだ」

 森岡はそう言い含めると、話を進めた。

「この案件は少し先のことだが、経理にはもう一人、資産運用担当部長として石飛将夫が加わる」

「石飛って誰や?」

「初めて聞く名だ」

 多くの幹部社員が首を傾げて顔を見合わせる中、

「何であいつが……いや、どうして石飛が仲間に加わるのですか」

 南目が怒ったように訊いた。坂根と蒲生は困惑の色を浮かべている。

 無理もなかった。石飛将夫は、あわや森岡の命を絶ったかもしれない刺傷事件の加害者なのである。傷害の事件現場に居合わせた坂根には忸怩たる思いが残っていたし、蒲生は森岡の真実の告白を聞いていた一人だった。

 

 石飛将夫は、ウイニットで森岡洋介と対峙した後、しばらく大阪の西成で日雇いの仕事をしていたが、秋の彼岸に合わせて、故郷浜浦に戻った。石飛家は廃屋となっていたが親戚は残っている。それに村八分になってはいたが、当人が亡くなっているうえ、葬儀関係に関しては対象外だった。  

 もっとも、その村八分というのも石飛家の誤解で、実際はそのような古い因習はない。その事実を知った将夫は、鹿児島の冷泉寺に預けてある両親の遺骨を浜浦の墓地に納骨したいと欲し、園方寺を訪ねたのである。

 園方寺の当代住職の道仙は将夫の依頼に快く応じ、先代住職の道恵も、

「それは良いことを思いつかれましたな」

 と感慨深げに言った。

「三十年近くも経ってしまいました」

 将夫も少年時代に想いを馳せていた。

「灘屋の洋吾郎さん、洋一さんも亡くなりました。洋介さんは些末なことに拘るお方ではありません」

「何のことでしょうか」

 将夫は怪訝な顔つきで訊いた。

「はて?」

 道恵もまた訝しげに将夫を見た。

「貴方は、一家が浜浦を追われた理由をご存知ないのですかな」

「知っています」

 と、将夫は自分が実弟浩二の事故死に不審を抱き、洋介に纏わり付いたため、洋吾郎の不興を買ったと話した。

「ふむ」

 と、道恵は考え込んだ。

「そうではないのですか。事実、洋介君も認めています」

 将夫は、洋介から聞いた事故当時の状況を話した。

「なんと、そのようなことがありましたか」

 道恵ばかりでなく、道仙もまた嘆息した。

「何か不審な点がありますか」

「実はの、総領さんは十二歳のとき、弟御が亡くなった同じ笠井の磯で身を投げられておられるじゃよ」

「まさか……」

 将夫は絶句した。

「母の駆け落ち失踪に始まり、洋吾郎さんと洋一さんが相次いで世を去られたでの、悲しみは如何ばかりかと推察しておったが、まさか自殺を図られるとまでは思っておらなんだ。なるほどの、弟御の死の責任に苛まれておられたか」

 道恵は得心したように言った。

「だがの、将夫さん。そのとき、総領さんの心に巣食ったのは悪魔ではなく、仏様やもしれませんぞ」

「……」

 将夫は言葉の意味がわからなかった。

「弟御の御遺体は、一時当寺へ安置されましたが、その折事故現場を検証した捜査員たちは、口々に総領さんが良く無事だったと言っていた。もし、弟御を無理に助けようとされていれば、間違いなく二人とも溺死したということじゃった」

 道恵は、そのとき灘屋の祖霊が洋介の心に邪気を生ませ、間を取らせたのだろうと言った。

「現場を確認して、私もそのように思いました。しかし、当時の私はそれでもなお納得が行かず、また灘屋の権力も頭に入っていませんでした」

「いや、そこが違うのです」

「どこが、どう違うのですか」

「言い難い話ですが、貴方の一家が浜浦を追われた真の理由は、定治さんが灘屋の金を横領していたからなのです」

「なんと……」

 将夫は茫然自失となった。

 道恵は、止むを得ず定治の首を切った苦しい胸の内を洋吾郎から聞いていたのである。

「では、私は逆恨みをしていたのですね」

「逆恨みと申せば逆恨みでしょうが、弟御の死に関しては、至極当然のことでしょうな」

 道恵は庇うように言った。

「しかし、洋介は私に何も言いませんでした。事実を知らなかったのでしょうか」

「総領さんの性分からすれば、たとえ知っていても話されないでしょうな」

 将夫は道恵の言葉に納得したように肯くと、

「それにしても、彼もずいぶんと辛い目に遭っていたのですね」

「心に重い十字架を背負って生きておられるようです」

 そう言った道仙は、はたと気付いた。

「仏教徒の私が口にする言葉ではありませんでした」

 と苦笑いをした。

「良いお話を伺いました。お陰様で心の霧が晴れました」

 将夫は明るい顔で園方寺を後にした。

 それから十日後、身辺を整理した石飛将夫は再び森岡の前に現れ、申し出を受ける旨を伝えたのである。

 

「石飛は証券業務に精通している。ウイニットの上場準備作業に役立つし、その後のM&Aや資産運用業務にも力になってくれるやろう」

「しかし……」

「南目、もう決めたことや。本人も心を入れ替えると言うてることやし、いつまでも過去に拘っていては先に進めんやろう」

 森岡は宥めるように言った。

「兄、いや社長がそれで良ければ、これ以上私に言うことはありません」

 南目は、不服顔をしながらも最後は折れた。

「さらにウイニットの監査役として鴻上智之を登用し、併せて彼には寺院ネットワーク事業推進会社の社長に任ずる」

「鴻上智之とは誰ですか」

 野島が訊いた。

「元、富国銀行にあって将来の頭取候補と嘱望されていた男だ。事情があって今回俺と縁を結んだ」

「なるほど、優秀な元銀行マンでしたら会計監査は打って付けですが、システム開発はできるのですか」

「いや、システム開発と保守はウイニットでやる。別会社は取引寺院の開拓や商品の販売を担当する」

「そうであれば異論はありません」

 野島は納得したように言った。

 森岡は話を進めた。

「次に、中鉢」

「はい」

 名前を呼ばれた中鉢博己は、意を決した顔を向ける。過日、森岡が虎鉄組との交渉で東京を訪れた夜の話だとわかっていた。

「お前を大阪本社勤務に戻し、俺の後のウイニットを任せる」

「うおー」

 再び怒号のような呻きが充満した。

 少し間を置いて静けさが戻ったところで中鉢が答えた。

「社長、折角のお話ですが、野島副社長を差し置いて社長などできません」

「ほう」

 と、森岡の目が鋭く光る。

「冒頭に言ったやろ。俺の命に逆らうということは、ウイニットを出て行くということやな」

「うっ……」

 森岡に睨み付けられて一瞬息が止まった中鉢だったが、

「いえ、野島副社長の処遇をお伺いして、納得したらお引き受けします」

 と気丈に言った。

「そうか。なら、俺の話が終わってから返事を聞こう」

 一転、森岡は口元を綻ばせた。

 事ここに至っても、野島の処遇を気に掛ける中鉢の心根が嬉しかったのである。

「ただし、中鉢が社長の任を受けたとしても、二年間は別の仕事をしてもらう。つまり、その二年間は俺が引き続き社長をするということや」

「別の仕事とはどういったものでしょうか」

 中鉢が訊いた。

「それも後で話す」

 森岡は一旦話を切り、

「桑原、お前をシステム開発部長から常務取締役に昇進させ、中鉢の補佐を命じる」

「私が……」

 桑原は思わず席を立った。

「中鉢を支えてやってくれ」

 森岡の激励に、

「はい。ご期待に沿えるよう頑張ります」

 と深々と腰を折った。

「次に土門、お前を専務取締役に昇格させ、中鉢の後の東京を任せる」

「東京……大阪のはずでは」

 なかったのか、と土門が訊いた。

 人間国宝の仏師北大路無楽斉と面談すべく北海道を訪れた際、森岡は近いうちに大阪に来るよう土門に告げていた。

「あのときはまだ東京か大阪のどちらにするか迷っていたが、あの場では大阪と言うしかなかったんや」

「それはわかりました。ですが、いきなり専務取締役ですか」

「なんや、不満か」

 森岡が揶揄うように言う。

「とんでもありません」

 土門は恐縮顔を横に振った。

「なんといっても、東京は日本の中心や。中鉢が頑張ってくれたお陰でしっかりとした基盤ができた。今後は精力的に事業拡大を推し進める。支社とはいえ、人員も大阪並みに増強するつもりやから、しっかり頼むぞ」

「は、はい」

 土門は厳しさの中にも意欲的な表情を浮かべた。

「拡大に成功したあかつきには本社機能を持たせ、関東以北を任せようと思っている」

「それは、東北と北海道ですか」

 森岡がにやりと笑う。

「お前も北海道が気になるやろ」

 土門は北海道の小さなソフトウェア会社を経営していた。森岡と知己を得て、彼に惚れ込みウイニットの傘下に入った経緯があった。

「それは……」

 感激の声で頭を下げた土門隆三は、

――地方で小さな会社を興した俺が、今や五百名を超え、上場を目前にしている前途有望な会社の専務で東京支社長とは……しかも俺の実力次第で東日本を任せてくれるという。なんと度量の大きな男だ。なによりも業界トップクラスの松尾技研と業務提携とは恐れ入った。面白い、実に愉快だ。森岡洋介、残りの人生を賭けるに足る男だ。

 と心の中で呟いた。

「三宅、船越両名も取締役に昇格させる」

 森岡は中鉢の意向を無視したように、次々と中鉢体制を固めていく。三宅はインターネット部門、船越はゲーム開発部門のそれぞれ部長である。

「そして、坂根もや」

「え?」

 坂根は唖然として言葉が無かった。

 彼はまだ二十九歳の若さであったし、コンピューターシステムの技術者でもなく、営業に従事した経験もなかった。だが、浪速大学を優秀な成績で卒業した頭脳を持ち、大手広告代理店に勤務していたことから、事業経営に関しては将来性が非常に高い。

 森岡の想いは別として、それが周囲の評価であった。

「お前を取締役に昇格させた上で、三年ほど台湾へ行ってもらう」

「台湾、ですか」

 坂根が訝しげに訊いた。

「台湾にウイニットの子会社を設立する。詳細は後で話すが、お前には社長をやってもらう」

「私が社長だなんて、とても無理です」

「何を言うとんのや。お前は三十歳になるやろ。俺がウイニットを立ち上げたのも三十歳やったんやで」

「社長と同列に扱わないで下さい」

 坂根は抵抗したが、

『厳命である』

 との森岡の言葉には逆らえなかった。

「後は、俺に代わって他の者の昇進を発表しろ」

 森岡は野島に命じると、書類を渡した。

「長谷川システム開発部第三課長を同部長に、結城インターネット開発部課長を同部長に、風間ゲーム開発部第一課長を同部長に、兵頭営業部第一課長を同部長に、度会総務部課長を同部長にそれぞれ昇進させる。次に……」

 野島の昇進内示の発表が終わったとき、血の気を全く失った者たちがいた。インターネット開発部次長の棚橋祥梧と、主任にも拘らず出席を命じられていた萩原勉、無と宇都宮史雄である。彼らは筧からウイニット造反を持ち掛けられていた三人だった。

 彼らの胸中には、

――とうとう、この日が来たか。

 という共通の失意があった。

 ウイニットを解雇にこそならなかったものの、筧克志の誘いに乗っていたのは事実である。森岡の、裏切り者には一切容赦ない苛烈な性格からして、そのまま無罪放免というのは引っ掛かりがあった。

「さて、最も重要な案件に移る」

 森岡の決意の迸った声に、一同は再び背筋を伸ばした。

「棚橋、萩原、宇都宮の三人には、向こう五年間英国勤務をしてもらいたい」

「はあ?」

 三人の口から一様に息が洩れた。

「安心しろ、決して左遷やない。俺の話を聞いて、なお納得が行かない場合は、最初に言った通り辞めてもらっても構わんで」

 森岡はそう言うと、ブックメーカー事業について縷々説明した。

 事業のために新会社を設立するが、日本の法規により、本体を国内に置くことができないため英国に設立すること、当面は森岡自身が社長に就任するものの、日本国内に留まることを付け加えた。

「社長、野島副社長はこの事業を任されるのですね」

 住倉の得心したような発言に、皆も揃って肯いた。ブックメーカー事業が大事業であることは誰の目にも明らかだった。そのような事業は野島しか任せられないだろうというのである。

 しかし、皆の推量に反して森岡は、

「いいや」

 と首を横に振った。

「この新事業は、五年後を目途に南目部長に引き継ぐ。だが、それまでの最初の二年間、お前に英国へ行って欲しいのや」

 と、森岡は中鉢を見た。

「先ほどのお話ですね」

 中鉢は察したように言った。

「資金繰りは俺が日本にいて段取りするが、それ以外のことはすべてお前に任せる」

 森岡の言葉に、中鉢は黙って肯いた。

「新会社とウイニットとの資本関係は全くない。したがって、事業が失敗してもウイニットに影響がないようにする」

 森岡はそう言って、一同を安心させると、

「ただ、技術面での協力をお願いしたい。そこで、新会社の技術統括責任者として棚橋を借り受けたいのや」

 と、野島に顔を向けた。

「萩原と宇都宮は棚橋の両腕ですね」

 野島が確認した。

「ウイニットからは、彼らの他に十名程度出向させて欲しい」

「十名で良いのですか」

「人事募集を掛けて、とりあえず三十名ほど採用するつもりだが、中核はあくまでもウイニットの社員にしたい」

「では、私と棚橋で十名の人選をしましょう」

 と、野島が請け負った。

「棚橋、萩原、宇都宮どうする。いやなら、断っても良いんやで」

「社長、五年で良いのでしょうか」

 野島の問い掛けに、棚橋が森岡に訊き返した。

「お聞きしていますと、インターネットの普及と共に、将来は携帯電話を使った投票も広がりを見せるでしょう。ソフトの開発は止め処が無いと思いますが」

 先見性のある意見だった。

「さすがやな」

 森岡が目を細める。

「時代の流れはそうなるやろうな。しかしだ、職種にもよるが、俺は海外勤務なんて三年が限界やと思うとる。たいていの者は、当初の意気込みが消え失せ、やがて惰性が支配し勝ちになると思う。お前らはそうならないと信じてはいるが、とはいえ五年も駐在してもらうことにな、俺は負い目を感じるんや」

 森岡はそこで溜息を一つ吐いた。

「せやけどなあ。そう思ってみたものの、ソフトウエア技術レベルにおいて、うちにはお前以上の者はおらん。しかも、お前は英語が堪能ときてる。向こうにいる五年の間に、出来得る限りのソフトを開発して欲しいのや」

 と言うと、

「そこでや、中鉢。棚橋が帰国したら、役員にしてやって欲しい」

 森岡が頭を下げた。

「お気持ちはわかっているつもりです。萩原、宇都宮他十名の昇進、昇給も考慮します」

 中鉢が強い口調で請け負った。森岡の巧妙な論旨の展開に、中鉢はいつの間にか社長の任を受けた格好となっていた。

 もっとも、中鉢自身は森岡の意向を受け入れるつもりでいた。ただ、森岡に野島の厚遇の念押しをしたかっただけなのである。 

「社長……」

 棚橋は感涙に咽ぶような声を上げた。

 懲罰どころか、森岡が人生の浮沈を掛けた大事業の中核に据えてくれただけでなく、その後の出世を約束してくれるなど望外のことだったのである。

 萩原と宇都宮も潤んだ目を隠すように俯いていた。

 二人の様子を見た棚橋は、

――筧の誘惑に乗る前に、社長が気づいて下さって本当に良かった。

 と心の中でつくづくそう思っていた。

「さて待たせたが、最後に野島の案件に移る」

 森岡の凛とした声が響き渡った。

 再び、その場に緊張の波が押し寄せた。ウイニット起業成功の大功労者の処遇が言い渡されるのである。皆が息を呑んで森岡の言葉を待った。

「野島には味一番の取締役になってもらう」

「な、なんですと……」

「まさか……」

 野島の社長就任を白紙に戻した発言のときより、大きなどよめきが起こった。

 あまりに意外な申し渡しだった。

 味一番の来期売上額は、創業以来初の一兆円大台乗せの見込みで、この三十数年間増収増益の、我が国を代表する食品会社の一つなのである。いかに野島といえども、役員に据えるなど常識では考えられなかった。

「実はな」

 森岡は持ち株会社構想の全容を打ち明けた。

 今度は、うおーという津波のような大歓声が巻き起こった。

 坂根好之と南目輝は、浜浦へ帰省の帰途で聞いていたし、蒲生亮太と足立統万は森岡の傍らにいて耳に入っていたが、当然のことながら四人とも口外はしていなかった。ただ、その彼らにしても、森岡が野島を役員に送り込む腹でいたとは知る由もなかった。

「何と、驚きました。社長は、年商一兆円企業群のトップになられるのですね」

 住倉が感嘆したように言うと、

「松尾会長の個人会社も参画するということは、松尾技研との業務提携以上に、うちと松尾電器グループは密接な関係となるのですね」

 中鉢も素直に喜びの声を上げた。

「どうや、中鉢。俺の野島に対する処遇に不満があるか」

 森岡が得意げな顔を向ける。

「とんでもありません」

 中鉢は、参りましたとばかりに頭を下げた。

 だが、当の野島はその顔に不安の色を滲ませていた。

「私がいきなり味一番の取締役など、受け入れてもらえるとは思えないのですが」

 味一番は非上場とはいえ、創業五十年を迎える歴史を持つ企業である。創業時の役員も残っており、いかに元娘婿の片腕とはいえ、いきなりの異分子流入には反発が予想された。

「確かに通常であれば、お前の言う通り難しかったかもしれんが、ある事件のお蔭で、味一番の大半の役員は福地社長の意向には逆らえないのや」

 森岡は他言無用を前置きし、初めて娘婿の須之内高邦による、拉致監禁事件の顛末を打ち明けた。

「そのようなことがありましたか」

 野島が唸った。

「福地社長の解任動議には、数名の古参役員以外は皆賛成の意向だったようだからな、面倒なことはない」

「しかし、私は味一番で何をするのですか」

 当然の懸念だった。野島は菱芝電気、ウイニットと、コンピューターシステム開発しか経験がなかった。

「味一番は、将来の上場に向けて、関連企業も含めコンピューターシステムを一新する。そのシステム開発の責任者に任ずる。むろん、システム開発はウイニットが受け持つ」

「上場? 味一番は上場しないはずでは……」

 なかったのか、と野島が疑問を呈した。味一番は社内留保金だけでも一兆円を有に超えていた。上場しなくても資金繰りに困ることはなかった。

「これまで上場しなかったのは、福地社長の眼鏡に適う後継者がいなかったからや」

「それが、社長や日原さんという人材を得たので、上場も視野に入ったということですか」

 そういうことだと言った後、またしても森岡がとんでもないことを口にした。

「そこでだ。日原さんは五十八歳やから、頑張って頂いてもせいぜい十五年というところやろ。だからな、その後はお前が社長をやれ」

「わ、私が味一番の社長ですと」

 空いた口が塞がらないとのはこのことだ。

「いくらなんでも味一番の役員連中が認めるわけがありません」

「十五年もあるのだぞ。今言ったように役員の大半は福地社長には逆らえんし、古参の役員は引退しているか、すでにこの世にはいない」

 実力で地固めをしろ、と森岡は言った。

「お言葉ですが、役員たちが福地社長に逆らえないと言っても事と次第によると思います」

 その通りだ、と森岡は笑みを浮かべた。

「まず、福地社長の持ち株は俺に相続される」

「えっ! ということは上場後の筆頭株主は、いずれ社長となるのですか」

 野島が驚愕の声で訊いた。他の幹部連中も興奮の顔を隠せない。いかにかつての娘婿とはいえ、今は法律上の縁は切れているのである。

「そうや」

 と、森岡はこともなさげに答えた。

 現実には、福地正勝亡き後、森岡は味一番の筆頭株主にはなれない。味一番の株式の五十パーセントは、福地正勝がほぼ百パーセントの株式所有する味一番研究所が所有していて、正勝個人が所有する味一番の株式は二十パーセントに過ぎないのだ。

 味一番の上場時に、株式がそのような比率で公開されるか不明だが、ともかく現時点では、味一番研究所の株式は妻と正勝の四人の子供に相続される。

 通常であれば、配偶者は遺産の二分の一を相続できるので、単純に言えば正勝の妻は味一番研究所の五十パーセントの株式を相続することになる。

 むろん、遺産は株式だけでなく現金や不動産もあるし、また全遺産の分配は正勝の意志(遺言)で比率も変わるが、いずれにせよ、味一番研究所が筆頭株主であることに変わりはない。

 とはいえ、福地正勝個人が所有する株式を相続する森岡が、味一番の個人筆頭株主になることは間違いなく、よって大きな発言力を得ることも疑いようがないだろう。

 森岡は複雑な状況を重々承知していたが、この場で説明するのは不要と考えた。

「それに、もう一つ駄目を押す」

「はあ」

 野島は首を傾げた。

「取締役に就くに当たって、松尾会長と東京菱芝銀行の瀬尾会長にお前の推薦状を書いてもらった」

「推薦状?」

「昔で言えば、神君と言われた徳川家康のお墨付きみたいなものやな」

 そう言って笑った森岡に対して、野島は落胆を隠し切れなかった。

「もちろん、福地社長も容認されているのですね」

 最後に、野島が一番重要な点を確認した。

「跡継ぎにと見込まれているお孫さんはまだ十歳や。彼に引き継ぐまで、日原さんとお前に頑張って貰いたいとのことやった。むろん、俺が後見する」

 福地正勝には一男四女がいたが、唯一の男子である長男は交通事故で障害者の身となっていた。

 四人姉妹のうち、四女の奈津美が森岡の亡妻である。

 次女早苗の夫の須之内高邦は福地に造反して会社を追われ、早苗とも離婚していた。

 残る長女と三女の夫は二人とも学者肌の研究者だったので、経営能力には疑問符が付いた。

 福地正勝は孫が一人前になるまでの間を森岡に託したかったが、起業に成功した森岡には無理な相談だった。

 そこで、森岡は持ち株会社構想を計画し、味一番の実務を三友物産の日原淳史に依頼した。だが日原の後、孫が経営者として一人前になるまでには相当な時間が必要である。

 そこで森岡が、それならばと腹心の野島真一に白羽の矢を立て、福地に相談したという経緯だった。

 言うまでもなく、森岡が野島の後ろ盾になることが必須条件だった。 

「では、本当にシステム開発が終わってもウイニットには戻れないのですね」

「当り前やがな。その頃ウイニットは中鉢が仕切っている。お前の帰る場所などない」

「しかし、システム開発が終われば味一番などあまりに畑違いでしょう」

 尚も逡巡する野島に向かって、

「何を言うとるんや。お前は大学院まで行って何を学んだんや。コンピューターシステム開発の方が畑違いだったんやないか」

 と、森岡は言ったものである。

 あっ、と野島が口を半開きにした。

 野島の京洛大学での専攻は化学だった。大学、学部そして修士課程までもが福地正勝の後輩でもあった。

 さて、と森岡が足立統万に目配せをした。

 統万は部屋を出て行くと、しばらくして三人の男性を連れて戻って来た。

「皆、今俺が言った新しい仲間や」

 森岡は池端律夫、石飛将夫、鴻上智之を紹介した。

「それにしても、えらいことになりそうやなあ」

 住倉が他人事のように呟いた。

「ええか、よう聞いてくれ。上場を契機にウイニット(うち)は、いや俺たちは大きな飛翔のときを迎えることになる。皆も人生を賭けるつもりで協力して欲しい」

 森岡はあらためて決意の程を示した。

 

 

 

 

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