黒い聖域   作:安岡久遠

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第六巻 決意の徒 仕手(2)

 石飛将夫は一行から一人離れ、一足早く帰阪の途に着いた。森岡の指示にしたがって情報収集するためである。

 森岡にはもう一人会いたい人物がいた。森岡は坂根、蒲生、足立と宗光の四人を連れて、米子市と松江市の間にある過疎の村に立ち寄った。

「社長、あの家ですか」

 坂根は何とも言えぬ表情で訊いた。

「そうや、あれや」

「表現はおかしいですが、聞きしに勝るボロ家ですね」

 そう言って唸った坂根の横で、

「まさか、あのお方ですか」

 統万が驚いたように訊いた。

 森岡は、おっという顔をした。

「さすがに、境港に住んでいただけあって、統万は知っているらしいな」

「知っているというほどではありませんが、噂は耳にしていました」

「どういうことですか」

 宗光が首を傾げる。

「賢一郎、あの家にもの凄い霊能力者がおられるのだ」

「霊能力者?」

 戸惑いの声を出したのは蒲生だった。

「蒲生、元警察官のお前には信じられんかもしれんな」

「いえ。非科学的なものを全否定するつもりはありませんが」

「あまりにみすぼらしいか」

「イメージが一致しません」

 蒲生は正直な印象を述べた。道端に立つ四人の眼前には、四方を畑に囲まれ、ポツンと建っている家があった。バラック小屋に毛の生えたような粗末な建屋で、今にも継ぎ接ぎだらけの衣服を身に纏った住人が姿を見せそうな佇まいだった。

 周囲の道路は、畦道を少し広くした程度の道幅しかなく、車が通れなかったので、ずいぶんと離れた場所に駐車し徒歩でやって来ていた。

「さあ、叱られる覚悟で行ってみるか」

 森岡がそう呟いて歩き始めた。後に続いた四人には、その言葉の意味がわからなかった。

 森岡は古びた玄関の戸を開け、

「ご免下さい」

 と声を掛けた。

「あー、やっぱり来たかい」

 一畳ほどの土間の先、黄ばんだ障子紙の向こうから声が返って来た。娘の光子の声だった。娘といっても五十歳の坂は超えているはずである。

「お母さん、洋ちゃんが来たよ」

 光子は奥の部屋にいるであろう母の糸に声を掛けると、障子を半分だけ開けた。

「久しぶりです。お婆さんはお元気ですか」

 森岡が頭を下げた。四人もそれに倣った。

「何年振りかいね」

「大阪へ行く前に参りましたので、十六年振りでしょうか」

「そんなになるかいね」

 光子は感慨深げに言い、

「汚いところだけど、まあ上がりなさい」

 と障子を全開した。

 四人は口々に、失礼しますと言って式台に上がり、中へ入った。

 四畳半の中央に小さな炬燵が置いてあった。五人は肩を寄せ合うように炬燵に入った。

 しばらくして、隣の部屋から糸が姿を現した。十六年前と然して変わらぬ矍鑠とした姿だった。

 森岡が初めて本宮糸(もとみやいと)と出会ったのは十五歳のときだった。高校進学を控え、祖母のウメに連れられて来たのである。

 森岡は、身近に信心深い祖母がいたこともあってか、神仏に対する抵抗感がなかった。多感な思春期にあっても、祖母に同行し、世間に名高い糸の許を訪れることに躊躇いは無かった。

 ウメは高校進学の相談と同時に、森岡の精神状態の鑑定も依頼していた。親友の坂根秀樹のお蔭で病は影を潜めていたが、いつまた再発するとも限らないと心配してのことだったのだが、そのとき糸はいずれ解決するとしか言わなかった。

 当時森岡は、糸は八十歳ぐらいだと思っていた。それくらい老けて見えていた。さすれば、今は百歳を超えていることになるのだが、目の前にいる糸は二十年前とほとんど変わっていなかった。森岡は、おそらく現在が八十歳前後で、当時は六十歳ぐらいだったのだろうと推察した。

「お婆さん、ご無沙汰していました」

「うん、うん。洋ちゃんも元気だったかい」

 糸は相好を崩して訊いた。

「なんとか、元気でやっています」

「そうか、それは良かったの。一昨年の初冬に受けた傷は痛まんかの」

「え?」

 坂根は唖然となった。

 今夏、浜浦へ帰郷した折、灘屋の親族は誰もそのことを知らなかった。森岡が黙っていたのだから当然である。然るにこの老婆はなぜ知っているのか。

 森岡がにやりと笑った。

「さすがに、見抜いておられたのですね」

「洋ちゃんはすでにおらの手か離れているから、救済の祈祷はできんかったがの」

「そうなのですか。私はてっきりお婆さんが神さんにお祈りして下さったものと思っていました」

 いいや、と糸は首を横に振る。

「前も言ったように、洋ちゃんは神村上人に引き渡しているからの。そげなことはできん」

――では、いったい誰が?

 洋介は凶刃に倒れて生死の境を彷徨っていたとき、少年の頃、二度まで命を救われた霊妙な女性から、もう一人救いの手を差し伸べている方がいると告げられていた。

 不審顔の洋介を他所に、

「だがの、神さんに別の用件でお祈りしとったら、急に洋ちゃんの守護霊様が現れての、お前さんが危ないと告げらたけん、命をお救い下さいと頼んでおいたわい。洋ちゃんの守護霊様だけんの、おらの神さんとの契約違反にはならん」

 糸は、くゎくゎくゎと笑った。

 なるほど、もう一人のお方とは守護霊様だったか、と洋介は思った。

 洋介の守護霊は、月光地主大明神といって正一位という最高位の神様だとウメから聞かされていた。有り得ないことではない。

 

 二十数年前、初めて本宮糸を訪れたとき、森岡はそのまま信者となった。

 いや、信者というのは誤解を生じるかもしれない。糸は新興宗教の教祖ではない。若い頃、夫を亡くし、また幼い娘を抱えて自らも死の病に罹ってしまった。娘の将来を憂えた糸は、母の代から信心していた神棚に一心不乱にお祈りをしたという。

――命を助けて頂きましたら、生涯精進を重ね、世のため人のために尽くします。

 と懇願した。

 その祈りが天に通じたのか、糸は奇跡的に命を取り留めた。そこで彼女は、神様との約束通り、慎ましい生活を送りながら、多くの相談者の力になっているのである。

 森岡もその相談者の一人ということである。

 しかし、森岡が神村と縁を結んだとき、

『洋ちゃんはもうおらの手から離れたよ。今後は神村上人に相談しなさい』

 と、糸から言い渡されたのだった。

 神村が大変な高僧だと糸が知っていたことも理由の一つだが、糸の話によると、糸が信心する神様の能力は三千人までというのがもう一つの理由だった。

 本宮糸は島根、鳥取に跨るこの地域を中心に、大変な数の相談者を抱える有名人だったが、その許容人数が三千人ということらしい。

 したがって、数を満たした場合、新規の相談を受けるには、古い相談者あるいは手放しても良い状況になった者を切るしかないのである。森岡は神村という頼れる人物と知り合った。糸にすれば、安心して手離すことのできる相談者というわけであった。

 ただ不確かなことがあった。三千人という数は糸の能力ではなく神様の能力である。そうであれば、その神様は糸一人の信心なのか、他にも信心している者がいるかいないかでは、糸が受け持つ相談者の数は変わるだが、森岡はそこまで問い質してはいなかった。

 それはともかく、糸の話ではその神様は刹那に地球を十周するほどの速さで空を飛び回っているのだという。そうして天空から護るべき三千人の動向をつぶさに観察していて、たとえば横断歩道を歩いていて交通事故に遭いそうな相談者が居れば、すっと降りてきてひょいと横にどかせて死亡を重傷にするのだという。

 高校時代にその話を聞いていた森岡は、奈津美を失ったとき、ほんの束の間だったが、もし自分が糸の相談者のままで、奈津美を糸の神様の相談者にしていれば、彼女は死なずに済んだのではないかと後悔したことがあった。

 しかしすぐに、神村と出会えたからこそ糸は自身を手放したのであり、奈津美とも出会うことができたのだと思い直していた。

「ずいぶんとご活躍のようだね」

 コーヒーを運んで来た光子が意を含んだ口調で言った。

「本意ではありませんが」

 とだけ森岡は答えた。

 糸の前では、大風呂敷も謙遜も通用しないと思っているのだ。

「お上人さんの手助けまでは良かったが、なんとも奇妙なことになったわい」

 糸は声には棘があった。暴力団をはじめとする裏社会との関係を憂えているのである。尚、お上人さんとは、むろん神村正遠のことである。

「成り行き上、仕方なく」

 森岡は弁解がましく言った。

――やはり凄い。何もかも見透かされている。

 森岡は、久々にその神通力に触れ、感動すら覚えた。 

 本宮糸は神村正遠とは少し違っていた。

 神村の神通力も度々目の当たりにしていたが、彼は決して森岡のことについては語らなかった。おそらく神村は、未来については端から見ようとはしなかったのであろう。

 その点、糸は森岡の未来について、問われたことは何事でも答えてくれた。森岡が松江高校に進学したのも糸による「神様のお告げ」があったからである。

 森岡の中学時代の成績では、松江高校の進学は無理とされていた。島根県下全域から秀才が集まる松江高校である。森岡の通っていた中学校では、毎年成績上位者五名から八名が受験し、全員合格していた。島根半島の片田舎の中学校である。中学浪人を出すことなど言語道断で、進路指導の教員らはまず間違いなく合格する生徒しかしか受験させなかった。

 森岡の順位は十数番だった。十番以内ですら滅多に入ったことがない。担当教諭は、当然如く松江高校より一つランクが下の高校への進学を薦めた。だが、森岡は頑として松江高校への進学を希望した。彼は中学浪人も覚悟していたのである。

 自らの祈祷では合格と出ていたが、何せ可愛い孫の進学である。念には念を入れる意味で、祖母のウメは人伝に聞いていた本宮糸を頼った。

 糸の神様のご託宣は「合格する」というものだった。それを受けて、意を強くしたウメが三者面談のとき、「孫の好きなようにさせて下さい」と主張したものだから、学校側も渋々ながら承諾したのである。

 森岡は合格するどころか、同中学から受験した十名のうち、特進クラスに合格した坂根秀樹に次ぐ好成績で合格し、学級委員長を務めることになったのだった。

 もっとも何事も答えてはくれたが、相談者の求めるものを導き出していたわけではない。

 あくまでも神様のお告げであるから、たとえば「しばらく待て」と言われれば、相談者はそれ以上を問えなかった。

「それで、今日は何の用かい」

「はあ」

 森岡は身を固めて口籠もった。坂根と蒲生は、我が目を疑った。このように縮こまる森岡を初めて見たのだ。神村への畏敬の念とは様子が違っていた。

「実は、お勧めの株を教えて頂きたくやって来ました」

「なんだと」

 糸の声色が変わった。

「何のためだ」

「し、仕手戦に挑もうと思っています」

 森岡が怯むように言った瞬間、糸の面が鬼の形相になった

「この、大馬鹿者が!」

 障子が震えるほどの怒声が響いた。およそ八十歳過ぎの老婆のそれではなかった。

「わしの神さんを何だと思っているか! 神さんのお告げは金儲けのためではないぞ」

「も、申し訳ありません」

 森岡は平身低頭して詫びた。

「そんな用なら、顔も見たくない、すぐ帰れ!」

 糸は捨て台詞を吐くと、隣の部屋に引き籠もってしまった。神棚のある部屋である。すぐに読経の声が聞こえてきた。どうやら、神様に森岡の不敬を詫びているらしい。

「どげしただ。洋ちゃんが金に執着するとは思えないがの」

 光子は訝しげに訊いた。

「どうしても、確実に儲かる銘柄が知りたかったものですから」

「事情が有りそうだの」

 はい、と肯いた森岡は、

「でも、私が間違っていました」

 森岡は光子にも頭を下げた。

「お婆さんを怒らせてしまいましたので、今日はこれで失礼します」

 光子は、申し訳なさそうな顔をして、

「せっかく十数年振りに来たのに、すまなかったね」

 と玄関先まで見送った。

 

「やはり駄目だったか」

 畑の畦道を歩きながら森岡が呟いた。

 道幅は狭く、蒲生が先頭を歩き、坂根、森岡と続き、彼の後ろに統万、宗光の順で従っていた。

「でも、社長が話しておられた通りのお方でしたね」

 坂根はどこかほっとしたような口調だった。

「あれだけお元気なら、まだまだ大丈夫やろ」

 森岡も怒声を浴びたことなど忘れたかのように応じた。

 そのとき、後方から声が掛かった。

「洋ちゃん、ちょっと待って」

 光子が息を切らして走って来た。

 統万と宗光が、畑に踏み入って道を空けた。

「ほれ、お母さんからだよ」

 そう言って光子はメモのようなものを森岡の手に握らせた。

「これは」

 森岡は首を傾げながら受け受け取った。

「ああ言ってもね。お母さんはずっと洋ちゃんのことを気に掛けておっただよ」

 森岡はメモを開いてみた。

『近畿製薬』

 と記してあった。

 森岡は、株式売買システムが弾き出した売り銘柄の中に、この近畿製薬が名を連ねていたと承知していた。

「ただね、洋ちゃん。値上がりするのかそれとも値下がりするのか、お母さんにもわからんのよ」

「……」

 仔細が飲み込めない森岡に、

「今朝、神さんがいつもと違って何も言われんと銘柄だけを告げられたんだと。だから、お母さんも手を出しておらんのよ」

「そういうことですか」

 と飲み込んだ森岡に、光子は言葉を続けた。

「お母さんはね、洋ちゃんが来ることはわかっていたらしいけど、まさか用件が株のことだとは思っていなかったらしいの。でも、洋ちゃんが株の話を持ち出したので、ああそういうことか、と神さんのご託宣に合点がいったらしいわ」

 光子は言い終えると、優しい笑み零して肯いた。

 森岡は胸が熱くなった。

「わかりました。後はこちらで調べます。お婆さんには宜しくお伝え下さい」

 森岡は溢れ出る涙を隠すかのように深々と頭を下げた。

 

 その後、柿沢康吉からギャルソンの資産運用として三十億円を任され、台湾の林海偉とは、天礼銘茶グループが運用する投資資金の委託契約で合意した。こちらの委託金は三百億円である。

 天礼銘茶の総帥林海偉は、森岡の依頼に対して一千億円を提示したが、森岡の方がこれを断った。仕手戦において、多額の資金が有れば有るほど有利なのは言わずもがなである。ましてや、相手は勅使河原公彦である。林海偉の申し出は、喉から手が出るほど有り難いものだった。

 だがブックメーカー事業を介在して、台湾と中国との水面下の外交関係に首を突っ込みつつある現在、これ以上林海偉に付け込まれないためには、三百億円が限度だと森岡は考えていたのである。

 一方、林海偉にすれば、仮に三百億円を失っても、少しも惜しいとは思っていなかった。世界的大企業の天礼銘茶の総資産は十兆円もあり、そのうち現金性の資産は二兆円を超える。

 その四分の一に当たる五千億円を世界中の株式市場、債券市場、為替相場、原油などの商品先物相場などで運用している。世界に冠たる華僑の情報網をもって、年六パーセント以上の運用利回りを達成していた。つまり、三百億円は一年分の運用利益に過ぎないのだ。

 林海偉は、闇賭博からブックメーカー事業への資金流入は、最大で三十パーセントの三千億円、最低でも十パーセントの一千億円程度と見込んでいた。仮に中間の二千億円だとすれば、広告代理店への分配金は年間百億円になる。

 むろん全額を自由に出来るわけではない。諸経費もあるし、利益は郭銘傑と二分しなければならない。自身の手にはせいぜい年に二十億円程度であろう。三百億円の損失を回収するには、単純計算で十五年という時間が掛かる。

 それでも、林海偉は安いものだと考えていた。単なる額面の三百億円とブックメーカー事業による収益金とは、裏社会及び民衆の人心掌握という点において値打ちの次元が全く異なるからである。たとえ回収に十五年も掛かろうともである。

 一方で、真鍋高志と奥埜清喜には、仔細は打ち明けたものの金銭の助力は願わなかった。二人とも、まだ会社経理の決裁権は有していないし、稟議に掛けても事が事だけに難航することが予想されたからである。

 それでも、森岡が二人に打ち明けたのは、金銭以外の協力を当てにしてのことだった。

 結局、目標の五百億円には届かなかったが、四百三十億円という額は、森岡にとって満足のゆくものだった。

 

 仕手戦の資金の目途が付き、ほっと一息吐いたある日のことである。

 奥埜徳太郎が、ふいに森岡洋介を訪ねて来た。

 徳太郎と茜がチンピラに絡まれているところを、森岡が救ったことがきっかけで交誼が始まっていた。ウイニットが入っているビルも奥埜家の所有であり、近所に本社のある徳太郎は、何かにつけて前触れもなしに顔を出していた。

 奥埜家は代々の豪農だったが、東京オリンピックに合わせた新幹線開業の際、所有する土地の一部が新大阪駅周辺整備区域に該当したため、それを機に売却した資金を元手にして不動産経営にも手を出すことになった。

 現在(いま)では新大阪界隈だけでなく、大阪で言えば梅田や難波にも、他都道府県で言えば東京、横浜、名古屋、京都といった大都市に多数の商業ビル群を所有する大資産家である。

「洋介君、君はわしを蔑ろにする気か」

 徳太郎はいきなり睨み付けた。

「な、何を仰っているのか……」

 資産数千億年を有する男の眼光にさすがの森岡も一瞬怯んだ。 

「心当たりはないか」

「ありません」

「胸に手を当てて、篤と考えてみよ」

 森岡はしばらく沈思したが、やがて、

「私の気づかないところで会長をご不快にさせたのであれば謝ります」

 と頭を下げた。

 ふん、と徳太郎は鼻であしらった。

「勅使河原に仕手戦を挑むそうじゃの」

「な、なぜそれを」

「知っているのか、というのか」

「はい」

「それぐらいの情報網は持ち合わせておるわい」

 と、徳太郎は嘯いた後、

「と偉そうに言ったが、実は茜ママから聞いた」

 と一転して苦笑いを浮かべた。

「茜が」

「君は松尾会長から百億を借り受けたそうだの」

「はい」

「此度で二度目ということらしいが、一度目の金は茜への贈与代わりというではないか」

 確かに、松尾正之助からブックメーカー事業資金として百億円を借り受けるとき『この金は茜からのものだと思え』と言われていた。

「そういう経緯があったからの、松尾会長は、さらに百億貸し付けたことを茜ママにそっと漏らされたのだ。ブックメーカー事業に続き、またしても巨額資金を借り受けたことを不安に思った茜ママが、わしに相談に来たというのが種明かしじゃ」

――俺の知らないところで茜が……。

 森岡は思わずにやけてしまいそうになるのを堪えた。

「そこでな、調べてみようと、まずは君に世話になっておる清喜に鎌を掛けてみたら、あっさりと口を割ったということじゃ」

「なるほど」

「洋介君、孫を責めんでくれよ」

 徳太郎が頭を下げた。そこには可愛い孫を庇う祖父としての愛情が溢れていた。

 森岡は、真鍋高志と奥埜清喜には厳しく他言無用を願っていた。したがって、清喜も自ら徳太郎に相談することはしなかったらしいが、何せ徳太郎の「老練な鎌掛け」である。清喜を翻弄することなど朝飯前であろうから、森岡にしても清喜を責める気にはならなかった。

「わしは、そないに頼りにならんか」

 徳太郎は覗き込むようにして訊いた。

「いえ、決してそのようなことは」

 ない、と森岡は必死に弁明する。

「ならば、なぜ相談に来ない」

「それは……」

 森岡には返答のしようがなかった。

「そりゃあ、わしには松尾会長のような政治力はありゃせんし、榊原さんや福地社長に比べたら君との付き合いは短いがの」

 徳太郎は慨嘆した。

「松尾会長はともかく、榊原さんや福地社長のことまでご存じなのですか」

「茜から聞いておる」

「彼女が……」

 森岡は訝しげな声を発した。

「何を不思議な顔をしておる。君は知らないようだが、松尾会長とは違い、彼女は本当にわしの孫娘になるところだったのじゃぞ」

「……」

 森岡は頭を巡らした。

「清喜さんの嫁に?」

 うむ、と徳太郎は肯く。

「既のところで君に横取りされてしまった。お蔭で大魚を逃した気分じゃ」

 徳太郎は恨みがましい口調で言うと、

「冗談じゃよ。清喜の嫁にと願ったのは本当だが、茜には端から相手にされてはおらなんだ」

 と恐縮する森岡に笑顔を向けた。

「だがの、それこそ松尾会長ではないが、わしも彼女の後見人を自負しておるし、彼女もわしを頼りにしてくれておる」

「はい」

 森岡はとりあえず相槌を打った。

 徳太郎はロンドにとって最上級の客には違いないだろうが、二人の関係がそれほど親密なものだったとは思いも寄らないことだった。

「君のことなど筒抜けじゃ」

 と言って徳太郎は笑った。

「はあ」

 森岡は複雑な顔をした。

「案ずるな、茜は賢い女じゃ。いかにわしだろうと、話して良いことと悪いことぐらいの分別はある」

「そのようなことは、微塵も心配しておりません」

 森岡はきっぱりと言い切った。

「それで良い」

 と言った徳太郎の表情が一変した。 

「君に五十億をくれてやる」

 それはあまりに唐突だった。

「や、やる?」

「花岡組、柳楽組と、君にはずいぶんと世話になった。エトワールと西中島のビル建設だけでは、礼として不足だと思っていた」

 森岡は、花岡組が嫌がらせをしていた奥埜家が所有する店舗を買い取り、解決に導いていた。また、柳楽組が所有していた地下鉄西中島駅前の土地の売買交渉を纏め上げ、新築ビルの共同建築主となっていた。

「とはいえ、一応借用書を取るし、利息も貰う。でないと、贈与税は高いからの」

「もちろんです」

 貸付けと聞いて、むしろ森岡はほっとした。エトワールと西中島のビル建設の礼としては、五十億円は法外過ぎた。

 だが、

「有るとき払いの催促無しじゃ。本当に余裕が出来たときに返せば良い」

 裏を返せば、返済できなければ踏み倒しても良い、と言っていた。

「しかし……」

 と躊躇する森岡の目に、徳太郎の鋭い視線が突き刺さった。

「実は、一つ君に相談があるのじゃ」

「どのような」

 森岡は、警戒の声で訊いた。五十億円の相談である。容易なことではないと推察された。

「東京の銀座などで手広くテナントビルを構えている『丸正(まるせい)不動産』が倒産の危機に陥り、ビルを売却したがっておる。奥埜不動産(うち)が買い取りたいのだが、なにせ伝手が無い。そこで君に間に入ってもらいたいのじゃ」

「何を仰っているのですか、奥埜家が伝手が無いのに、私などにあるはずがないでしょう。しかも、大阪ならまだしも東京の銀座など……」

 とてものこと無理だ、と森岡は首を左右に振った。

「いいや」

 徳太郎は、意味ありげな笑みを浮かべた。

「丸正に委託されて債務整理をしているのが、宗光賢治の息の掛かった人物なのだ」

 都市銀行はもちろん、商工中金など企業向け金融機関への返済交渉は纏まり、残るは街金などややこしい債権者が残った。そこで、丸正が宗光賢治を頼ったという構図だった。

 森岡は頭を巡らし、

「――これは清喜さんからですね」

 と訊いた。

 そうだ、と肯いた徳太郎は、

「これは咎められることはないぞ」

「承知しております」

 森岡は苦笑いしながら言った。

 榊原壮太郎と福地正勝の二人は、奥埜清喜や真鍋高志には紹介していなかったが、付き人をしている宗光賢治の息子賢一郎は引き合わせていた。その折森岡は、「さる人物の子息」と紹介した。目鼻の利く者であれば、そこから宗光賢治に辿り着くのは簡単であろう。

 森岡は真顔になった。 

「私に宗光氏と話を付けよ、と」

 うむ、と徳太郎は肯いた。

「金が掛かりますが」

 徳太郎は、わかっているという顔をした。

「そこでじゃ、先ほど五十億をやると言ったが、その金を充てて欲しい」

 つまり、宗光賢治との交渉次第で森岡の受け取る金額が決まるというのである。

「しかし、五十億を捨てても元が取れますか」

 森岡はその銀座の物件というのが気になった。

「君だから話そうか」

 徳太郎の目が商売人のそれになった。

「丸正は相当窮地に追い込まれておるでな、通常の売買であれば六百億といったところだが、半値近くの三百五十億ほどで手に入る」

 丸正が銀座に所有するビルは二十五棟もあったが、此度その大部分を売却するという。丸正は、銀座の他に赤坂や六本木にもグループ会社が数十棟のビルを所有していた。連鎖倒産を回避するためには、銀座のビル群の早期売却が必須なのだという。ために、足元を見ることができるのだと徳太郎は言った。

「五十億は十四パーセント強じゃからの。口利き料としては高額過ぎるが、二百五十億も安く手に入る上に銀座のビル群は、買ったその日からある程度の収益が見込まれるでの。やり様によっては、すぐに元は取れるという算段じゃ」

 徳太郎は、にやりと辣腕経営者の笑みを零した。

 五十億円のうち、約四十億円が森岡の懐に入る計算になった。当然のことながら宗光の息の掛かった債務整理屋は、売買成立時に丸正から手数料を貰うことになる。したがって森岡は、宗光賢治への口利き料として三パーセントの十億円余さえ用意すれば良いという計算になるのである。

 

 その日の夜、森岡は奥埜清喜の呼び出しに応じ、西中島の小料理屋へと足を運んだ。小料理屋といっても、その店はカウンター席とテーブル席の他に、間仕切りした小部屋がいくつかあった。

 店の者に案内されて部屋に入った森岡は驚いた。奥埜清喜と共に、真鍋高志の姿があったのである。

 森岡が着座するや否や、二人は座布団を横に退けて、いきなり畳に頭を擦り付けた。

「森岡さん、申し訳ありません」

 奥埜清喜が吐くような声で言った。

「いったい、どうしたというのです」

 森岡には訳がわからなかった。

「貴方との約束を破ってしまいました」

「ああ、そのことですか」

 徳太郎のことだと察した森岡は、

「まあ、頭を上げて下さい。それでは話も出来ません」

 と優しい声で促した。

「お祖父様に鎌を掛けられたそうですね」

 森岡は顔を上げた清喜に笑い掛けた。

「鎌というより恫喝に近かったですが、まんまと罠に嵌ってしまいました」

 清喜はばつの悪そうな顔をした。

「あのお祖父様なら仕方がありませんよ」

 森岡は同情の声で言うと、

「何と言って鎌を掛けられたのですか」

「森岡君が松尾会長から百億円という大金を借りたことは、茜ママから聞いて承知している。何に使うかも聞いたが、詳細を話せと言われました」

 と言って、清喜が慌てて弁明を足した。

「いえ、私は貴方との約束を守り、口を閉ざしていました。ですが、それを見た祖父が、『黙っているならそれでも良い。だが、万が一森岡君が窮地に陥ってもわしは知らん顔をするが、それでも良いのだな』と恫喝したのです」

「なるほど」

「私も、勅使河原が相手の仕手戦となれば、さすがの貴方も苦戦すると思い、その折には祖父に助勢を依頼するつもりでいましたので、祖父から見限られるような言葉を聞いてやむなく……」

 奥埜清喜はいま一度、頭を下げた。

「そこまで……」

 森岡は奥埜清喜の厚情に胸が熱くなった。

「もう、この話は蓋をしましょう」

「本当に」

「ええ、お蔭様で貴方のお祖父さんから多大な助勢を賜ることができました。感謝の頭を下げなければならないのは私の方です」

「しかし、その裏で何やら面倒な仕事を託されたのではないですか」

「まあ、何とかなるでしょう」

 森岡は楽天的な口調で言うと、視線を真鍋に向けた。

「でも、なぜ真鍋さんまで頭を下げられるのですか」

「それは、私一人で森岡さんに詫びるのは怖かったものですから、真鍋さんに無理をお願いしたのです」

「この私が、怖い?」

「口の軽い男とは絶縁する、と言われるが怖かったのです。もし、そのような次第になったとき、真鍋さんに 弁護して頂こうと……」

 奥埜清喜がそう言ったとき、真鍋高志が、

「あらためまして、森岡さん、申し訳ありません」

 と詫びた。

「真鍋さんが何度も頭を下げることではないですよ」

「いえ、実は清喜君から相談を受けた後、それならばと私も父に相談し、三十億の融資を引き出しました」

「ああ、そういうことですか……」

 しばらく唖然としていた森岡だったが、敷いていた座布団を外し、正座して頭を下げた。

「お二人に感謝します」

「止めて下さい」

 奥埜清喜が叫んだ。

「私たちの付き合いはまだ始まったばかりです。おそらく向こう半世紀にも及ぶことでしょう。貴方と知り合えて、私がどれほど心強く思っていることか」

「この先、どれだけ貴方に助けられることか、想像に難くありません」

 奥埜清喜の言葉に、真鍋高志が肯きながら付け加えた。

「古代中国の三国志で言えば、さしずめ貴方が劉玄徳、真鍋さんが関雲長、私が張翼徳と言ったところでしょうか。もっとも、私は張飛のように役には立たないでしょうが……」

 奥埜清喜が頭を掻きながら言った。

「いやいや、森岡さんの人徳と頭脳であれば、劉玄徳に諸葛孔明を足したようなものでしょう」

 真鍋はそう言った後、

「お手を上げて下さい」

 と促したが、森岡は頭を上げなかった。いや、上げられなかった。二人の友情に涙が溢れそうだったのである。

 俯いたままの森岡は、この二人であれば菊池龍峰のような裏切りはない、と確信していた。 

 こうして、当初の目的であった五百億円の運用資金に目途が付いた森岡は、神村の本妙寺晋山式を終えた後、徐々に仕込みに入る予定でいた。

 

 

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