黒い聖域   作:安岡久遠

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第六巻 決意の徒 周到(1)

 森岡洋介一行より一足先に大阪に戻った石飛将夫は、数日後の夜、梅田の高級料亭幸苑にある男を招待した。

 三十歳手前、長身で中肉中背、目元が涼しく鼻筋の通った美男は、丸種証券株式部の井筒孝之(いづつたかゆき)である。

 かつて石飛が勤めていた丸種証券は、社員数が二百三十名ほどの中堅証券会社で、関西を本拠としていた。石飛にとって井筒は、四年前に懲戒解雇されるまで部下だった男である。井筒に仕事のイロハを教えたのも石飛であり、解雇の際に愚痴を聞いていた井筒は、石飛が顧客の金を着服した経緯も知っていた。

 石飛は幸苑でも最上級の部屋を用意した。むろん、森岡の指図である。

「これは……」

 井筒孝之は言葉を失った。

 料理もコースではなく、板長のお任せとした。これもまた、森岡が女将の村雨初枝に話を通していた。

幸苑は大阪でも指折りの高級料亭である。関西政財界のお歴々も足を運ぶ老舗の名店である。そこの最上級の部屋、しかも板長のお任せ料理となれば、目の玉が飛び出るような高額料金となる。

 だが、井筒が驚いた理由は他にあった。

 ほんの十年ほど前のバブル絶頂期には、銀行、証券といった金融機関は異常な株高で活況を呈していた。数千万円のボーナスを手にした証券マンが、マスコミ間で話題になったりもした。

 井筒自身はバブルの恩恵に預かっていないが、先輩諸氏から数多の零れ話を聞いていた。それなりの交際費を使える主任の職にあった石飛からも、高級料亭での宴会や北新地のクラブをはしごした話を聞いていた。だがその石飛にしても、幸苑は役員クラスの上司と同伴でないと敷居が跨げないと口にしていた。

 実は井筒も、幸苑には一度だけだが、顧客である中小企業の社長に連れられて来たことがあった。したがって、いまさら厚遇の接待にことさら驚くことはない。井筒が目を疑ったのは、接待主が石飛将夫だということである。

 丸種証券を懲戒解雇された後、西成で日雇い労働をしているという噂を耳にしていた。噂の真偽はともかく、彼がこのような料亭に足を運べるとは信じられないのである。

 いや、金だけの問題であれば奇跡は起こるかもしれない。競馬で大穴を当てたとか、宝くじが当ったとか、そういう幸運は誰の身にも起こり得る。

 だが、石飛の言を待つまでもなく、この幸苑は「一見お断り」を標榜している店だと承知していた。極道世界の伝説の大親分、神王組三代目の田原政道でさえ入店を断られたという噂を、二十八歳の若造でも耳にするほど幸苑は高名な料亭なのである。丸種証券時代に利用していたというだけでは入店できないはずだった。

 石飛将夫は、如何にしてその幸苑から入店を許されたのだろうか――。

 井筒孝之の疑念はそのことなのである。

「幸苑を使えることが不思議か」

 石飛もそのことは見抜いていた。

 図星を指された井筒は、

「いや、その、まあ……」

 としどろもどろになった。

「君の疑念はわかる。俺自身も、我が身の浮沈の激しさに戸惑っているからな」

 石飛は自嘲の笑いを浮かべた。 

「主任の身に何が起こったのですか」

「主任は止してくれ」

「では、先輩と呼びます」

 とあらためた井筒の両眼が鈍く光った。

「ところで、今日は私に何の用ですか」

 石飛は酌をしながら、

「難しい話は次にしないか。今夜は互いに久闊を叙して飲もうや」

 と言った。

「うーん」

 井筒は満たされたグラスに口を付けず、そのままテーブルに置いた。

「そのように硬く考えるな。君に迷惑の掛かるような話しではないから」

 石飛は気分を和らげるように言うと、鞄から封筒を取り出した。

「これは車代だ」

「車代」

 井筒は差し出された封筒の厚みを見て訝しげに言った。百万円だと思われた。

「心配するな、汚い金ではない。君も何かと物入りだろう」

 石飛は含みのある言葉を吐いた。

 森岡は、勅使川原公彦が立国会の資産の一部を株式で運用しているとの確証を得ていた。立国会の元中国地区の幹部だった南目昌義からの情報である。昌義はさらに、旧知の立国会員から、資金の三分の二は複数の大証券会社で分散投資、残りの三分の一を丸種証券ら関西の中小証券会社を通じて仕手株に手を出している事実を聞き出していた。

 勅使川原が個人所有する宗教法人勅志会の内情までは掴むことができなかったが、おそらく同様の運用方法だと推測された。

 関西の中小証券会社は、古くから仕手筋が良く利用していた。というのも、いわゆる「天下の台所」と呼ばれた時代から、米相場を操ったのは関西商人だったという風土や、そもそも創業者自身が一廉の相場師だった者が多く、気概というか気心が通ずるのである。

 そこで森岡は、探偵の伊能剛史に丸種証券の社員の身上調査を依頼した。簡単に言えば、金に困っている者を洗い出し、籠絡しようというのである。

 その結果、候補に浮上したのが井筒孝之だった。

 

 井筒の人生は、常に貧乏との二人三脚だった。幼い頃、両親が離婚したため、母の手一つで育てられた。絵に描いたような貧困生活の始まりである。もっとも、井筒本人は慣れっこになったようで、少々の生活苦には動じない精神が養われたと前向きに捉えている。

 アルバイトをしながら、大学の二部つまりは夜間授業を受けて、丸種証券に入社した。営業成績も優秀で、この不況下でもリストラの憂き目に遭うことはない立場だった。

 だが井筒は現在、金を切望していた。

 彼には結婚を約束した女性がいたのだが、その彼女というのが京都で二百年の歴史を誇る老舗の呉服屋の娘だったのである。

 当主の社長が丸種証券の顧客であり、井筒も担当補佐として呉服屋へ通っているうち、娘と知り合い、交際に発展したという経緯である。

 二人は結婚に向けて準備を始めているのだが、費用の分担という問題に直面していた。裕福な新婦側は、式や新居の費用は心配要らないと申し出たが、井筒は自身の力で賄いたいと思っていた。婿に入るのではなく、あくまでも嫁に貰う側だというプライドがあったのである。

 とはいえ、井筒には方策がなかった。入社五、六年では退職金の前借などできる相談ではないし、証券不況の中、破格のボーナスなど期待できない。唯一の可能性としては、それこそ巨額の資金を運用してくれる得意先を獲得することだった。

 数十、数百億円単位で頻繁に売買を繰り返し、年間売買手数料が五億円を超えるようなことがあれば、多額のボーナスも期待できた。しかし、そのような幸運などそうそう舞い降りるものではない。 

 井筒は忸怩たる思いで時を過ごしていたのである。

 伊能剛史の報告を受けた森岡は、迷うことなく石飛将夫に井筒孝之の懐柔を命じた。

 

「先輩の目的は何ですか」

 井筒は封筒の上に手を置き、突き返した。

「本題はまたにしようと思ったが、仕方がないな」

 石飛は真顔になった。

「情報が欲しい」

 その瞬間、井筒の面を不安の色が覆った。

「情報とはどのような」

「心配するな。インサイダーといった犯罪行為ではない」

 インサイダー情報ではないと聞いて、井筒の表情が幾分和らいだ。

「では、いったいどのような」

「端的に訊こう。立国会や勅志会の金を扱っているだろう」

「……」

 井筒は返答を躊躇した。丸種証券にとっては最上級の顧客だったのである。

「調べは付いているんや」

「ではなぜ」

 訊くのか、という顔をした。

「確証が欲しいのや」

 石飛はもう一度封筒を押し出した。

「返事がし辛いのやったら、首を振ってくれ。どうだ」

 井筒はなおも逡巡していたが、やがて観念したように首を縦に振った。

「いくらぐらいだ。百か」

 単位は億である。

 井筒は横に振った。

「では二百?」

 また横に振った。

「三百か?」

 石飛の声が上ずった。

「いえ」

 と、井筒が言った。語調に反対だとの意が含まれていた。

「ああ、五十ぐらいか」

 井筒は首を縦に振った。

「五十ということは、丸種が本星ではないのやな」

 井筒はまた首を縦に振った。

「いあや、ありがとう」

 石飛はここで話を打ち切った。まずは皮切りである。程好いところで引くのが上策だった。

「どうだ、この後時間はあるか」

「はい。家に帰っても誰もいませんし……」

「誰もいない? ということは、お袋さんはまた入院しているのか」

 石飛は井筒の母親が病弱だということを知っていた。

「はい」

 井筒はやるせないように頷く。 

「それで、具合はどうなんだ」

「お陰さまで快方へ向かってはいますが……」

 井筒は語尾を濁した。少額の生命保険にしか加入していなかったので、医療費がかさんでいた。

「お前も何かと大変やろ。今後も手助けするで」

「……」

 井筒が警戒の目を向ける。

「誤解するな。情報とは関係なくや」

「先輩はその……」

 井筒の語調が疑念を訴えていた。石飛もそれは承知していた。

「詳しいことはまだ言えないが、金主を見つけたんや」

「丸種の顧客ですか」

 石飛はにやりと首を横に振った。

「いずれ、君にも引き合わせるつもりだ」

「その金主というのは、勅使川原氏の相場に提灯をつけるつもりなのですか」

 提灯をつけるとは、有力な大手筋に付和雷同して売買することで、鯨に吸着するコバンザメみたいなものである。

――そんな姑息なことじゃない。

 と、石飛は口から出そうになったが、

「まあ、そんなところだ。だから、これからも便宜を図ってくれれば、それ相応に謝礼はする」

 そう言って、石飛は封筒を仕舞えと目で訴えた。  

 

 幸苑の後、石飛は井筒をロンドに誘った。

 井筒はまたも目を剥いた。ロンドは北新地でも指折りの高級店である。三十歳手前の若いママは、とてつもない美貌の持ち主との噂は耳にしていたが、実際に自分の目で確かめたことはない。長らく続く株価低迷で、証券会社はどこも青息吐息である。

「いらっしゃいませ、石飛様」

 ママらしき美女が挨拶した。井筒の目にはずいぶんと親しげに映った。石飛はこのクラブでも常連なのだろうと推測した。

 むろん、これも森岡の計略である。石飛は、ロンドには森岡のお供で二度訪れただけである。

「当店のママの山尾茜と申します」

「丸種証券の井筒孝之です」

 緊張の声で言った井筒を、

「彼は丸種のエースだよ」

 と、石飛が持ち上げた。

「まあ、それは素晴らしいですわ」

 茜はことさら目を輝かせた。

「いや、それは……」

 井筒は戸惑いと照れの入り混じった顔をした。

「わあ、凄い。仕事がお出来になるのですね」

「石飛さんが仰るなら間違いないわね」

 席に着いたホステスたちが口々に煽てた。

 これもまた森岡の謀である。

 案の定、井筒は頬を紅潮させた。言うまでもなく、ロンドのホステスたちは粒揃いである。それも並みの美女ではない。皆、アイドルか女優の卵といってもおかしくないほどの美形である。遊び慣れていない者であれば、気分が高揚しても無理はない。

 井筒が育った環境から、森岡は飾った世界を見せることが効果的だと考えた。純朴な青年に対して、あまり筋の良いやり口ではないが、森岡は心を鬼にしていた。

「ママ、ワインにしようかな」

 石飛が茜にサインを送るように言った。

「いつもので宜しいでしょうか」

 茜も取って付けたように訊いたが、上気した井筒は何の違和感も抱かなかった。

 茜の指示で黒服が持って来たのは、ロマネ・コンティだった。一本が百万円もする最高級酒である。

「これは……」

 思わず井筒の口からは溜息が漏れた。

 彼にとっては夢のような時間が流れた。これまで華美、絢爛、飽食といった言葉と無縁の人生を送って来た。お盆と正月が一緒に来たという程度のものではなかった。少なからず心を浮つかせた井筒だったが、片隅に冷静な部分も残していた。

 石飛が席を立った隙に、

「いつもこうなのですか」

 と、茜に訊いた。

 彼女はたおやかな笑みを浮かべ、

「はい」

 と肯いた。頭に森岡の姿を浮かべての返答である。

「石飛さんはどなたと一緒に来られるのですか」

「ウイニットの森岡様ですが」

「森岡……」

 井筒は目を丸くして茜を見た。証券マンであれば森岡洋介の名を知らない者はいなかった。ITベンチャー企業が東京に集中する中で、数少ない関西が本拠の企業なのである。

「どうして」

 と訊こうとして井筒は言葉を切った。この際、理由などどうでも良いことだった。森岡であれば確かな金主である。それがわかっただけで十分だった。

 だが、

「森岡様の幼馴染のお兄様だそうですよ」

 茜が自ら話した。

――なるほど……。

 井筒は得心した顔つきになった。同郷であれば、過去の不祥事など不問に付してもおかしくはなかった。

「井筒様は、石飛様の後輩でいらっしゃったのでしょう」

「部下でした」

「それは良いですね」

 茜の言い様には含みがあったが、井筒は悪意を感じなかった。

 

「先輩の金主って森岡という人ですか」

 席に戻った石飛に、井筒は待ち兼ねたように訊いた。

「誰から聞いた」

「ママさんです」

「ママも口が軽いなあ……」

 と、石飛は口を尖らせたが、これも芝居である。

「私がしつこく訊いたものですから」

 井筒は茜を庇った。

「先輩は森岡さんと同郷だそうですね」

「同郷いうても俺の一家は、俺が中学一年のときに故郷を出ているから、それほど親交があったわけではないが、俺と森岡社長との間には曰く言い難い因縁があってな、今は世話になっているのや」

「因縁と言いますと」

「それは、今は言えんが、森岡社長が金主なのはその通りや」

「先刻、森岡社長は提灯買いをされる、と言われましたね」

「まあな」

「丸種を使って貰えるのですか」

 森岡であれば、多額の投資をするかもしれないと皮算用をしての問いだった。

「それは俺にもわからん」

 石飛は素っ気無く言った。

「先輩、何とか森岡社長に丸種(うち)を使ってもらえるよう話をしてもらえませんか」

「ついでに担当者を俺にしてくれ、ってか」

 石飛は井筒の心中を覗き込むように言った。

「ま、まあ、できればそうして貰えれば……」

 井筒は気まずそうに目を逸らした。

「社長には話をしてみるが、あまり期待はするなよ」

 石飛は可能性が低いことを示唆して話を打ち切った。

 それから一時間ほど昔話をした後、井筒は店を出た。

 井筒の姿が消えると、石飛はVIPルームに入った。そこには森岡、蒲生、足立と宗光の四人がいた。

 普段、森岡がこの部屋を利用することはない。ロンドは名立たる企業のお歴々も通う店である。自分が使用してしまうと、彼らの足が遠のくのではとの森岡の配慮である。しかし今宵は、井筒と石飛の様子を窺うため、VIPルームに身を潜めていたのだった。

 森岡は、ホステスたちにしばらくの退席を願った。

「どうだった」

「脈はあります」

 石飛は、少し高揚した顔つきで井筒とのやり取りを話すと、

「もう一押しだな」

 聞き終えた森岡が腕組みをした。

「何か良い策がありますか」

 と、石飛が遠慮がちに訊いた。

 しばらく沈思していた森岡は、

「京都へ行ってみるか」 

 と呟いた。

 

 翌日の夜――。

 森岡洋介の姿が京都祇園のクラブ菊乃にあった。森岡の初めての女性の片桐瞳がオーナーママの高級クラブである。

 元々は、桂国寺貫主の坂東明園を籠絡するために、森岡が一億円を出資してオープンさせた店だった。しかし、柿沢康弘の片桐瞳に対する卑劣な蛮行の慰謝料として取り立てた五億円の中から、瞳がその一億円を返済したため、今や名実共に彼女がオーナーの店であった。

「あら、ずいぶんとお見限りだったこと」

 瞳はいきなり嫌味を言ったが、目は微笑んでいた。

「何やかやと忙しくてな」

「神村先生の件が決着したので、京都には用がないというのね」

「そういう訳やない。京都どころか、大阪ですら落ち着いておられんのや」

 全国を飛び回っていると、森岡が弁解すると、

「それじゃあ、茜さんも寂しいでしょう」

 瞳がからかうように言った。彼女は森岡が茜と結婚することを知っていた。

「いや、彼女は彼女で色々あるからな」

「お店を引かれるのでしょう」

「そうや。それで店を誰に任すか悩んでいるところや」

 茜は、森岡と所帯を持つのを機に、水商売から足を洗うつもりでいた。ロンドはちいママに任せようと考えていたが、当人が器ではないと辞退したため、代わりの人選に悩んでいたのである。

「結婚するのも、案外楽じゃないのね」

 瞳は同情の色を滲ませて言う。

「それで、今日はどういった用件なの」

「なんや、ようわかるなあ」

「洋介が、ただ酒を飲むために京都くんだりまで足を運ぶはずがないでしょう」

「それなら話は早い」

 森岡は苦笑いをしながら、

「鈴川という呉服屋を知っているか」

 と訊いた。

 瞳の目に怒りが宿った。

「馬鹿にしないでよね。鈴川って、京都でも名の通ったお店なのよ」

「それは悪かった」

 と、森岡は片手拝みをする。

「じゃあ、お姉ちゃんも着物を買ったことがあるのか」

「芸者のときに二、三度あったかな。今はほとんど洋服だから無沙汰しているけど……」

「そうか。でも、お姉ちゃんは着物も似合うけどな」

「あら、じゃあ一枚買ってくれない」

 瞳は甘える仕種をした。彼女は四億円という大金を手にしている。店の経営も順調である。だが、夜の世界に生きている女は、いや女という動物は男からの贈り物を期待する生き物なのだ。

「良いよ、買おう」

「嬉しい。でも良いのかしら、茜さんは大丈夫なの」

「茜はこんなことで悋気するような女じゃない」 

「それはそうね。いちいち焼餅なんて焼いていたら、貴方とは一緒になれないものね」

 瞳は自分自身が納得するように言った。

「その代わり、ちょっと頼みがあるんや」

「やっぱり」

 そう言って口を尖らした瞳に、森岡は顔を近づけた。

 

 一週間後、石飛将夫は井筒孝之からの連絡を受け、幸苑に席を設けた。その動揺した声から、彼の身に何か降り掛かったようだった。

「先輩。前の件ですが、森岡社長さんに話して頂けましたか」

 井筒の声には切迫性が感じられた。

「話しはしたが……」

 と、石飛は語尾を濁して不首尾を臭わせた。

「駄目でしたか」

 井筒は落胆の色を露にした。

「どうかしたんか」

 石飛は気遣うように訊いたが、むろん芝居である。森岡の仕掛けた罠に嵌まり、焦っているのが手に取るようにわかっていた。

「実は、困ったことになりました」

 と、井筒は深刻な顔で、婚約者の父親から言われたことを話した。

 それに寄ると、昔馴染みの祇園のクラブのママが、着物の反物を買い求めにやって来たのだが、その折聞き捨てにできないことを言ったのだという。

「何と言ったんや」

「婚姻の祝いを述べた後、私が新居となるマンションを物色している、と店の客から聞いたと言ったらしいのです」

「ん? 別におかしいことはないやろ。結婚するんやろ」

「ええ、でもまだ新居をどうするかは決めていないのです。それを寄りによって、五千万もする高級マンションを買うだなんて、私にはとうてい無理なのです」

「だったら、その話はデマだと言えば良いじゃないか」

「それができないのです」

「わからんなあ」

「元々、彼女の両親は結婚に掛かる諸費用の一切を持つ、と言ってくれていたのです。もし、私には買えないなどと言ったら、それこそ話が蒸し返されてしまい、今度こそ断れなくなります」

 石飛は呆れ顔になった。

「君もおかしな男やな。費用を出さないと言っているのではのうて、全額出すと言っているのやろう。出して貰えばええやないかか」

 彼女の両親は、井筒孝之が苦学したことを知っていて、むしろ甘やかされて育っていないと好意的に捉えていたのである。

「私のプライドが許さないのです」

「彼女の両親は、憐れんでいるのではないと思うがな」

「それはわかっています。でも、婿に入るのではありません。あくまでも私は嫁として彼女を貰うのですから……」

「それで、そのママさんとやらの話を認めたんやな」

「仕方なく」

 適当なマンションを物色中だと言ったのだという。

「全額、お前が出すんやな」

「いえ、先方の、折半しようというご厚意は受けることにしました」

「頭金にもよるが、半分というと二千数百万円か。銀行でローンを組んだらどうや」

「ローンは組めません」

「なんでや。丸種やったら問題ないやろ」

 丸種証券は、大阪証券取引所の一部上場会社だった。

「保証人がいないのです」

 井筒は唇を噛んだ。両親は彼が子供のとき離婚していた。親戚とも縁遠く頼れる者がいないというのだ。

「彼女の親では嫌なんやな」

「半額を出して頂き、残りのローンの保証人にまでなって貰ったのでは、結局おんぶにだっこになってしまいます」

「お前も難儀な男やな。折半の提案を受け入れたのなら、全額でもあまり変わらんがな」

 石飛は苦笑いをすると、

「それで、どうするつもりや」

 と、井筒を覗き込んだ。

 井筒は喉の渇きを潤すかのようにグラスを一気に飲み干した。

「私の保証人をお願いしたいのですが」

「俺にか」

「はい」

「それは無理な相談や。俺はまだ定職に就いておらん」

 石飛は即座に断った。

「そうでしたね……」

 そう言った井筒だったが、表情に落胆の色はなかった。

「先輩、先輩は森岡社長に信頼されているのですよね」

 井筒が念を押すように訊く。

「まあ、株式投資を一手に任されているから、ある程度はな」

 石飛は自信有り気な顔を向ける。

「でしたら、森岡社長さんに助けて貰えるよう頼んで頂けませんか」

「しかし、お前を担当にして丸種で株を売買したところで、二千数百万の高額ボーナスを手にできるほど手数料は稼げんやろ」

「ですから、その……」

 井筒は目を伏せた。

「何や。この際や言うてみい」

「森岡社長さんに保証人になって頂けないかと」

 井筒は顔を真っ赤にして俯いた。

 うーん、と石飛は唸った。

「いくらなんでも、見ず知らずの他人に保証人は頼めんやろ」

「それはそうですね」

 井筒は、今度は明らかに肩を落とした。端から森岡が本命だったのだ。

 だが、と石飛が語調を変えた。

「事の次第を打ち明けて頼んだら、保証人ではなく金を貸して貰えるかもしれん」

「え」

「森岡社長は人助けがライフワークのような人だからな」

「本当に……」

 井筒の顔が明るくなったが、それも束の間だった。

「でも、保証人がいません」

「それは大丈夫や。俺が保証人になったろ」

「先輩が……?」

 先刻、銀行ローンの保証人にはなれないと言ったはずである。

「森岡社長に信頼されているというのは嘘やないし、今は定職に就いていないが、いずれ社長の会社に入る予定なんや」

「では、ではそのようにお願いして頂けませんか。もう他に頼る人がいないのです」

 今にも泣き出しそうな井筒に、石飛は心に痛みを覚えた。彼もまた中学時代に父を失い、苦労する母親の背を散々見ていた。同じような境遇に育った井筒を騙すようなことはしなくなかったが、ただ最終的には井筒にとっても悪い話ではない、と自分自身に言い聞かせていた。

「じゃあ、お前から直接頼んでみろ」

「はあ?」

 井筒は、瞬時言葉の意味がわからなかった。

「社長は近くにいらっしゃる」

「……」

「お呼びするから、待っていろ」

 石飛はそう言い残し、部屋を出て行った。

 

 井筒孝之は大きな動悸を繰り返していた。まさか、森岡当人と会うことになるとは思いもしない展開だった。

 五分後、石飛が森岡を連れて戻って来た。蒲生亮太、足立統万と宗光賢一郎も一緒である。

「私が森岡です。大まかな話は石飛から聞きました」

 森岡は鷹揚に笑いながら、井筒に酌をした。手にしたグラスが震えていた。

「は、初めまして、井筒孝之と申します」

 井筒は緊張の声で自己紹介し、森岡のグラスにビールを注いだ。

「良いでしょう。二千五百万をお貸ししましょう」

 森岡はあっさり言った。

「……」

 井筒は拍子抜けしたような顔をした。

「ただし、条件があります」

 森岡の眼つきが鋭くなった。

「一働きして頂きたい」

「情報をお渡しするのですね」

「うん? どういうことですか」

 森岡は怪訝な顔をした。

「森岡さんは提灯買いをされるのではないのですか」

 井筒は過日の石飛との会話を思い出していた。

――ああ、なるほどそう言う話になっているのか。

 森岡は仔細を飲み込むと、

「いや、それも考えましたが、止めました」

 と如才なく答えた。

「では、私は何を」

「こちらの情報をある人物に流して頂きたい」

 井筒は少し考え込んだ後、

「立国会ですね」

 と勘良く言った。

「そうです」

「しかし……」

 井筒は困惑した顔つきになった。

「ご心配なく、不正な情報を流せとは言いませんから」

「では、どのような」

「私の動向を向こうに伝えて欲しいのです。たとえば、私が手掛ける銘柄とか……」

「はあ……?」

 井筒は間の抜けた声を出した。

 通常の株式売買では、安い値で買い、高い値で売って値鞘を稼ぐのが常道である。逆もあるが、その場合は信用取引になるので、素人には手が出し辛い。いずれにせよ、効率良く値鞘を稼ぐには、なるべく仕込み作業を察知されないように注意を払うのが肝要なのだが、それをわざわざ知らしめるとは愚行にも程があるというものだ。

「まあ、それ以上は追々ということで、今日は大いにやりましょう」

 森岡は井筒に酌をしながら、話しに蓋をするように言った。

 すると、井筒が急にそわそわし始めた。

「どうかしたんか」

 石飛が声を掛けると、

「あのう、森岡さんにもう一つお願いがあるのですが」

 井筒は伏せ目勝ちに言った。

「何ですか」

 森岡はどこまでも柔和である。

「実は……実は……」

 井筒は度も言い掛けて口籠もった。

「おいおい、自分から言い出しておいて、それはないやろう」

 石飛が急かすと、ようやく井筒は腹を決めた顔つきになった。

「森岡さんに私の結婚式で出席して頂けないかと……」

 そう言うと、井筒は流れ出る冷たい汗を拭いた。

「いきなり何を言うとるんや」

 石飛が怒ったように言った。それはそうだろう、初対面の相手を自身の結婚式に招待するなど常軌を逸している。

 蒲生、足立、宗光の三人もまた思わず失笑を漏らす中で、ただ一人、当の森岡だけが井筒の心底を見抜いていた。

「お前ら、井筒さんに失礼やぞ」

 柔らかな口調だったが、三人は顔色を無くした。森岡は、善良な人間を小ばかにするような態度が大嫌いなのである。

「承知しました。でも、私一人で良いのですか」

「はあ、ですが他には知り合いがいませんので」

 と肩を落とした井筒に、森岡が微笑む。 

「貴方がその気にさえなれば、味一番の福地社長もどうにかなります」

 と言ったところで、はたと気づいた。

「そうそう、法国寺の久田貫主にも声を掛けられますよ」

 森岡は、マンションの購入費用に拘る井筒であれば、結婚披露宴の招待客の社会的地位にも拘りを持っていると看破したのである。何と言っても、新婦側は京都の老舗呉服屋の令嬢である。経済人はもちろんだが、宗教人や茶道や華道といった文化人とも知己があるに違いない。

「ま、まさか……」

 井筒はあまりの大物の名の連続に、信じられないという顔をした。

「嘘ではありません。近々社長は、福地社長と共同事業を始められますし、久田貫主様とは昵懇の仲です」

 蒲生の説明にも、

「本当に?」

 井筒は未だ目を丸くしていた。

 森岡が重い口調に変えた。

「ただし、貴方が私たちの同志なることが条件です」

「同志……とは」

「心を一にして人生の目標に向かう、ことですかね」

「人生の目標、ですか」

 井筒が当惑の顔になった。

「そう難しく考えることはありません。一緒に仕事をし、酒を飲み、遊ぶ。そして困ったときは助け合う。ただそれだけのことです」

「皆さんはそうしていらっしゃるのですか」

「そうですね。私たちは皆、家族のようなものですね」

 足立統万の言葉に石飛、蒲生、宗光の三人が大きく肯く。

「私に丸種を辞めて、森岡さんの許で働けと」

「そこまでは申しません。当面は丸種に居て貰います。その後はゆっくりと相談するということでどうですか」

 そう言った森岡の横で、石飛が険しい表情を浮かべていた。

「実はな、井筒。前に話した森岡社長との因縁だが、俺はある理由から社長を殺そうと、ナイフで刺したことがあるんや」

「……」

 思いも寄らぬ話に、井筒の脳は混乱した。当然のことながら、初耳の宗光賢一郎も驚愕の顔だったが、

「ほんま、危ないところだったなあ」

 当の森岡は他人事のように腹を擦っている。

「ある理由とは」

 井筒は恐る恐る聞いた。

「それは、この場では言えんな」

 と明言を避けた石飛は、

「ともかく、理由がどうであれ、森岡社長は俺の蛮行を許して下さったばかりか、こうして仲間として迎え入れて下さる心の広い人やで」

 と、神妙に言った。

 井筒は懸命に思案した。証券業界は不況の真っ只中だった。バブル崩壊後、日経平均は右肩下がりを続け、最近少し持ち直しているが、これとて継続的なものか怪しいものである。

 その点、IT業界はインターネット技術の開花により、時代の華として勢いのある業界である。今後も明るい展望に満ち満ちている。

 今現在、株式市場に賑わいが戻り、日経平均が持ち直しているのも、IT業界の上場ラッシュが起因である。少々、バブルの感も否めないが、社会的要請からしてIT業界の未来は保証されている。しかも、森岡はウイニットに留まらず、新たな事業展開にも乗り出している。

――人生を掛けるのは今かもしれない。

 井筒の心に熱いものが迸った。

「私も仲間に入れて頂けるのですか」

「貴方さえ良ければ……」

 井筒は意を決したような面構えになり、座布団を横に置いて居住まいを正した。

「決めました。宜しくお願いします」

 決然とした口調で言って頭を下げた。

「ありがとう」

 森岡も軽く頭を下げて謝意を表すと、

「そうなると、二千五百万にもう五百万を加えて三千万を支度金として差し上げます」

 事もなさげに言った。

「そ、それはあまりにも……」

 井筒は尻込みをした。

「聞くとことに寄りますと、お母様が入院中とか、何かとお金も掛かるでしょう」

「しかし……」

「統万ではありませんが、家族は助け合うのが当たり前です」

――家族か、本当に家族に加えて貰えるのだな……。

 井筒は胸が熱くなった。

 長い年月、彼には母しかいなかった。その母も近年は病気がちで、経済的にも精神的にも頼ることができなかった。むろん、結婚すれば家族は増えるが、とはいえ眼前の森岡ほど頼りになる男はそうそういるものではない。

「井筒、折角の社長のご好意や、有り難く貰っておけ」

 石飛が言うと、

「大丈夫、その分扱き使われて元を取らされますよ」

 足立が冗談を言って笑った。

「統万の言うように、貴方には重要な役回りをして貰わなければなりません。三千万はその報酬の前渡し金だとお考え下さい」

 と、森岡が微笑んだ。

 

 

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