黒い聖域   作:安岡久遠

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第六巻 決意の徒 失踪(1)

 故人の断っての希望により、神村正遠の葬儀は鎌倉の長厳寺で密葬として行われた。

 宗教上の師の一人、久田帝玄の自坊である。

 だが神村は、天真宗開祖栄真大聖人の生まれ変わりと評されたほどの人物である。最終的な参列者は、僧侶を中心に三百名余を数えた。

 引導師は長厳寺の久田帝玄権大僧正が務め、脇導師には目黒大本山澄福寺の芦名泰山権大僧正と八王子大本山興妙寺の立花玄成権大僧正が就いた。

 異例だったのは、在野僧侶の葬儀にも拘わらず総本山現法主栄薩大僧正の名代として、総務藤井清堂権大僧正が参列しただけでなく、宗務総長の永井大幹権大僧正が脇導師の一人に加わったことである。

 民間人としては、日本経済界のトップリーダーである松尾電気会長松尾正之助、日本経済連盟会長で京洛セラミック会長の飯盛和彦、日本銀行会会長で東京菱芝銀行会長の瀬尾宗一郎らが参列した。

 さらに異色なところでは、日本右翼の首魁宗光賢治や他宗派ということで僧衣を脱ぎ、羽織袴を身に纏った日本仏教界の至宝・高野山金剛峰寺の先代座主堀部真快大阿闍梨が高齢を押して姿を見せていた。

 森岡洋介は野島真一他ウィニットの幹部数名を引き連れ、葬儀の準備から加わった。坂根好之と南目輝もそれぞれ帰国し、参加していた。

 その際、森岡は時折笑みを浮かべるなど、傍目には衝撃から立ち直っているかのように見えた。

 神村の遺骨は三つに分骨され、一つは葬儀の行われた長厳寺に、もう一つは自坊経王寺に、そして最後の一つは総本山の真興寺に納骨された。荒行を十二度満行し、明治以来の傑物と評された高僧とはいえ、在野の者が真興寺の納骨堂に入るのは極めて異例のことであった。

 鎌倉から戻った森岡は日々の業務を卒なく熟してはいたが、彼を良く知る者たちの目には、どこか覇気が失せているように見えた。蝉の抜け殻というほどではないが、森岡の喪失感は尋常なものではないことが覗えた。

 先妻奈津美と胎児を同時に失ったときのように、痛飲したり理不尽に当たり散らすなりして悲しみを外に発散することが無い分だけ、却って森岡の心を蝕んで行っているように思えてならなかった。

 ちょうど、八歳のとき母と別れ、十歳で祖父を、十一歳で父を失った悲しみにじっと耐えていた頃を再現するかのようにである。

 そして、ついに事件は起こった。

 葬儀から三日後、森岡が、

『しばらく一人になりたい。心配するな』

 という留守番伝言を茜のマンションの固定電話に残し、失踪してしまったのである。前夜、森岡のマンションに泊まった茜が、自宅マンションには夕方に帰ることを計算してのことだった。

 その日、森岡は普段通りに出社し、寡黙なまでに仕事に精を出していた。

 ところが昼食を済ませた直後だった。

『腹の調子が悪い』

 といってトイレに入ったのだが、十五分経っても戻って来なかった。不審に思った蒲生亮太がトイレの中を探したが、すでに森岡の姿は無かった。不吉な予感が奔った蒲生は直ちに野島に報告し、手分けして社内外を探し回ったがどこにも姿はなかった。

 ここにきて森岡が失踪したことが明らかになった。

 さっそく幹部社員総出で、関係者に連絡したり、森岡が立ち寄りそうな場所に足を運んだりしたが、全て空振りに終わった。

 

 森岡の失踪とその原因となった神村正遠の死は様々な人々の関心を呼び、不安と懸念の波紋を増幅させていった。

 翌日の早朝、ウィニットの幹部が集まった会議室には不穏な空気が立ち込めていた。

「昨日は黙っていたが、蒲生君は何をしていたんや」

 南目がいきなり詰った。彼は森岡の状態を見極めてから英国へ向けて出国する予定でいた。

「すみません」

 蒲生はただひたすら詫びた。

「賢一郎もやで」

 南目の矛先は宗光にも及んだ。

「……」

 宗光は黙って頭を下げた。

「南目、蒲生を責めるのは筋が違うぞ。ましてや賢一郎はまだ新参だ」

「しかし副社長、兄貴の心が不安定なのはわかっていたはず。だから、一時も目を離さないようにとお互いが確認していたではないですか」

 蒲生と宗光を庇った野島にも異を唱えた。

 森岡の身を案じた野島らは、決して森岡を一人きりにしないようにしていた。昼間は蒲生と足立と宗光が、夜は茜が戻るまで坂根と南目も加わって森岡から一時も目を離さないようにしていたのである。

 だが警護役の蒲生と宗光は、下痢だと言った森岡の言葉を信用し、一瞬その場を離れる気遣いをしてしまったのだ。

「社長の行動から察すれば、計画的であったことが明白だ。社長がその気になれば誰が欺かれずに済むと思う」

 森岡は人の心を読む天才である。その彼が本気になれば、騙されない者などいないと言った野島の考えは当を得ていたが、それでも南目は納得がいかない表情を崩さなかった。

「輝さん、私も今は責任追及より、善後策を立てるのが先決だと思います」

 坂根もまた野島に同調した。

「とはいうものの、社長が行きそうな場所はすべて連絡したんやろ」

「浜浦へはもちろん、総本山をはじめ親交のある全国寺院にも手分けして連絡しましたが、今のところ立ち寄った形跡はないようです」

 住倉の落胆の声に、坂根が答えた。

「ホテルや旅館はどうや」

 住倉が重ねて訊いた。

「東京と大阪の帝都ホテル、京都のお茶屋等々一度でも宿泊した場所に問い合わせましたが立ち寄っておられないようです」

「偽名を使っているということはないか」

「住倉専務、向こうが社長の顔を忘れるはずがないでしょう」

 住倉はすでにウイニットの専務取締役から退いていたが、坂根は言わば身内の集まりだったので、そう呼んだ。

「そりゃあ、そうやな。ではいったいどこへ……」

「社長のことだから、俺らの全く知らないところに行かれたのだと思う」

 野島が不安げな顔を覗かせた。

「しかし、副社長。社長が初めての場所に行かれるでしょうか」

「坂根、お前には見当が付くのか」

「そういうわけではありませんが、もし社長が心の傷を癒したいと思っておられるのであれば、全く知らない土地ということは有り得ないのではないでしょうか」

 坂根の意見はもっともであった。

「しかし……」

 南目が途中で言い澱んだ。

「なんや、南目」

 住倉が怒ったように催促する。

「兄貴が自殺する気やったら、場所は関係ないんと違いますか」

「……」

 その言葉に、一瞬にして場が凍り付いた。誰もが心の内に抱えていた懸念だったが、口にするのが恐ろしく封印していたのである。

「いや、それはない」

 やや間があって、野島が強い口調で否定した。

「社長は心の弱い人ではないと信じている。茜さんへの心配するな、との留守電は帰って来られる裏返しやと思う」

 昨日の夕方、野島は山尾茜から連絡を受け、留守番電話の内容を聞いていた。

「じゃあ、兄貴は何をしていると……」

 思うのか、と南目が訊いた。

「心の整理や。向後の生きる目的を探しておられるのやと思う」

「それやったらええが」

「万が一、自殺場所を探しておられるのなら、間違いなく生まれ故郷の浜浦か、神村先生との思い出が詰まった経王寺以外には考えられない」

 なるほど、と皆が一斉に肯いた。

「門脇修二さんには、内密に重々注意を払ってもらえるよう頼んである」

「私も父に目を配るよう連絡しました」

 言葉を続けた野島に足立統万も付け加えた。

「では警察への届け出はどうしましょうか」

 坂根が訊いた。

「それは止めておこう。これ以上騒ぎを大きくしたくない。榊原さんや福地さんにも、もう少し子細が明らかになるまで黙っていよう」

 野島が答え、

「待つしかないのか」

 と、住倉が嘆息した。

「兄貴が刺されたときを思い出すな」

 南目がぽつりと零した。

 皆が一昨年の冬の凶刃を思い出した。

「生死の境を彷徨っておられたあのときに比べれば、今回はまだましや。社長は必ず戻って来られる。それまで、俺らで会社を守ろう」

 野島が自らにも言い聞かせるように皆を鼓舞した。

 それから二日が経ったが、森岡の消息は杳として知れなかった。

 我が国最大の広域指定暴力団・神戸神王組傘下神栄会の寺島龍司会長と若頭の峰松重一もまた、森岡の安否を気遣っていた男たちである。

 寺島は神王組組長の座を事実上神栄会の世襲に、峰松は自身がその座にと、それぞれ野心を抱いていたが、そのためにも森岡は必要不可欠の人物だった。

 森岡が失踪したとき、彼の影護衛役を担う神栄会若頭補佐九頭目弘毅の姿はなかった。一年以上に亘る付き合いの中で、両者には信頼関係が醸成されていた。森岡は出勤と帰宅、また社外へ出るときには必ず、前もって九頭目に連絡を入れていたのである。

 その森岡から連絡が途絶えたのを不審に思った九頭目が野島を問い詰め、森岡の失踪を知った。野島と九頭目は高校時代の親友である。

「森岡はんの所在はわかったか」

「九頭目からは何も連絡がないとの報告が上がっています」

 峰松が諦め顔で首を横に振った。

「私が迂闊でした。それまで外出時は森岡はんが律儀に連絡してくれてはったから、つい油断してしまいました」

「それほどまでに神村先生を思慕していたとは……誤算だったな」

 寺島も苦い顔で言った。

「まさか、このまま世間からフェードアウトということはありませんか」

 表舞台から退場するのではないか、という懸念を示唆した。

「馬鹿言え、あってはならんことや」

「しかし、戻って来てもブックメーカー事業は大丈夫でしょうか」

 うーん、と寺島は腕組みをした。

「頓挫することはないと思うが、これまでのような過剰な期待はできないやもしれんな」

「では、いっそのこと関与を強めますか」

「それは自殺行為やぞ」

「……」

「未だ蜂矢の親父の信頼は一片たりとも揺らいではおらん」

「はっ」

 峰松は畏まった。

「それにだ、ひょっとしたら罠かもしれんぞ」

「罠?」

「周囲を油断させているとも考えられる」

「まさか、我々を嵌めるというのですか」

 ふふふ……と寺島は鼻で笑った。

「わしらなんぞ眼中にもないだろうよ」

「では誰を」

「神村先生の政敵だった者たちだ」

「何のためですか」

「神村先生の死には不審な点がある」

「まさか、政敵だった誰かが神村先生を暗殺したと」

 峰松は驚きの声で言った。聖域とされる宗教界で、極道世界紛いの事が罷り通っているというのか。

「暗殺というのは適当でないが、五十七歳はあまりに早過ぎないか」

「お言葉を返すようですが、死因は肝臓癌と聞いています。そうであれば年齢は関係無いかと」

「それはそうだが、たとえ癌だとしても発症してから死までが短過ぎる」

 現代医療の進歩は目覚ましい。完治は無理でも延命ならばやりようがあったはずだ、と寺島は言った。

 それはまさに、常在戦場、つまり常に死と隣り合わせにいる極道者の直感であった。

「……」

 峰松は困惑した。彼もまた極道の中の極道である。およそ殺しの手口に関して、彼に匹敵するほど精通している者はベテラン刑事ぐらいだろう。しかし、神村がいかにして命を縮められたのか見当が付かなかった。

「薬物ですか」

 峰松が弾き出した答えだった。

「それはない。神村先生は瞑想中に亡くなられたと聞いている。それ以前に毒を盛られたとすれば、本人はもちろん周囲も気付くはずだ」

「それはそうでした」

 峰松も浅慮だと思い直した。

「では、どのように」

「そのあたりを燻り出すための失踪だとも考えられないか」

「なるほど」

「あれほどの男だからな、死んだ振りをして相手の出方を見る計略なのかもしれん。俺たちもうっかり強権発動などしてみろ、藪蛇になる可能性がある」

「では」

 峰松が目顔で指示を仰いだ。

「ブックメーカー事業に致命的な支障が出ない限り、しばらく様子を見ることにした方が正解だな」

 峰松は黙って肯いた。

 

 森岡の故郷浜浦の園方寺では道恵、道仙父子もまた彼の身を案じていた。南目輝が門脇修二に森岡の失踪を知らせた。なんと言っても、浜浦は森岡の生まれ故郷である。立ち寄る可能性が最も高い。

 特に、菩提寺の園方寺は逼塞するには格好の場所だと考えられた。

 もちろんのこと、この父子にはどうすることもできなかった。

「神村上人の存在は大き過ぎたようですね」

「出会いの経緯が経緯だけにな」

「心の穴は埋まりましょうか」

「難しいのう」

 道恵は嘆息した。

「何といっても五十七歳という急逝だっただけに、総領さんのとっては青天の霹靂じゃっただろうからの」

「自殺ということは」

 道仙が武家社会における殉死を示唆した。森岡の神村に対する敬愛振りを鑑みてのことである。

「それは無いと信じているが、心の回復には時間が掛かるだろうし、元の総領さんに戻ることは難しいかもしれんのう」

「成す術はありませんか」

 しばらく間が空いた。

「なくもないが……」

 道恵の歯切れは悪かった。

「どのような」

「母親に期待するしかないか」

 おお……と道仙が両手を打った。

「今考えれば、良いタイミングで和解されていたものです」

「道仙や、小夜子さんのことではないぞ」

「えっ、親父さんはたった今、母親だと言われたではないですか」

「小夜子さんは実の母ではないのだ」

「な、なんですと!」

 道仙は目を剥いた。

 跡継ぎに恵まれなかった洋吾郎は、その苦悩を道恵にも相談をしていた。祈願など仏の慈悲に頼ることが始まりだったのだが、ついには他に子供を頼る決意をしたことを告白していたのである。

「洋吾郎さんはの、わしと会う度に、灘屋の跡継ぎのためとはいえ、小夜子にはすまないことをしたと肩を落としておられた。だからの、小夜子さんに不倫の噂があっても、とてものこと責める気にはならないと彼女を擁護されていたのだ」

「なるほど、それで一時、洋吾郎さんと小夜子さんの関係が疑われたのですね」

「わしは真相を知っていたがの、総領さんの出生の秘密の方が大事と堅く口止めされていたのじゃ」

「そうでしたか」

 腑に落ちたように肯いた道仙は、 

「では、本当の母親は誰なのですか」

 と核心を問うた。

 道恵は、虚しく首を横に振った。

「それは誰にもわからないのじゃ」

「そのようなことが」

「岡山最上稲荷の奥の院が深く関わっていたようだが、御先代が亡くなられた今では、生んだ当人一人ということになる」

「しかし、それでは総領さんの今の状況を知らないのでは……」

 そうなのじゃが、と道恵は同調したが、

「わしはの、道仙。実の母親はただ者ではないと思うのじゃ」

「と言われますと」

「お前には黙っていたが……」

 と、道恵は森岡から聞いたという逸話を話した。

 幼馴染の石飛浩二が海に溺れたとき、助けようとした森岡に見知らぬ女性が声を掛けたこと、十二歳のとき笠井の磯に入水自殺を試みたとき、助けてくれた釣り人が、少し離れたところにいたので人が海に落ちたことはわからなかったが、女性の声で助けを求められたと証言していたことである。

「まさか、そのようなことが」

「その釣り人によると、瞬時女性の姿を見ただけで、次の瞬間には跡形もなく姿が消えていたらしい」

「霊ということですか」

「証言を信じれば、そういうことになる」

「親父さんは生みの母の生霊だというのですね」

「わからん」

 道恵は首を横に振った。

「だが、生霊であれば今の総領さんを救えるかもしれないと思ったのだ」

「何だか無力感を覚えます」

「いかにも、いかにも」

 二人は力なく吐息を漏らした。

 

 天真宗総本山真興寺の総務室では、藤井清堂と腹心の景山律堂が俄かの怪しい雲行きに困惑していた。

 景山律堂には、坂根好之が連絡を入れた。

 景山に、総本山周辺、特に面高屋や岡崎家を秘密裏に探って貰うためである。

 瑞真寺に情報が漏れるのを恐れてのことだった。

 日本仏教会主催の「日本仏教秘仏秘宝展」開催を前にして、瑞真寺がアリバイ作りのために行う居開帳まで二ヶ月を切っていた。この機会を失えば、栄覚門主の野望を阻止する有効な手段は潰える。

「神村上人を失った上に森岡君まで失っては、瑞真寺の野望に歯止めを掛ける者がいなくなってしまう」

「お言葉ですが、我々はすでに御本尊のすり替え計画を把握しております」

「はて、そうかな」

「と仰いますと」

「すり替え計画の証拠は、すべて森岡君が握っているのだぞ。偽物だという証拠を出せと門主が白を切ったらどうなる。肝心の御本尊様は森岡君の手に有るのだ。まさか、証拠もなしに事の顛末を突き付けるわけにもいくまい」

「しかし、そうすれば国真寺だけでなく必ずや瑞真寺にも咎めが及びます」

 景山は、肉を切らせて骨を断つまで、と言った。

「それは無理じゃな」

 清堂は首を横に振った。

「門主は何食わぬ顔で御本尊の紛失を認め、自らは与り知らぬこと、と歴代貫主の責任に転嫁するだろうな」

「無罪放免になると」

 うむ、と清堂は肯いた。

「無傷とはいかないだろうが、果たして致命傷になるかどうか」

「では、いっそのこと開帳させてはどうでしょう。その後、森岡さんが戻って来られたのを見計らって本物を突き付ければ、瑞真寺は言い逃れができません」

 景山は意気込んで言ったが、清堂は冷たい眼差しを返した。

「お前ともあろう者が、それでは瑞真寺だけでなく、我が天真宗の汚点となるではないか」

 清堂の叱責に景山の顔から血の気が失せた。

「そ、そうでございました」

 明らかに焦りが生んだ失言だった。

「我々は、門主を打倒する唯一無二の手段を失うことになるのかのう」

 清堂が宙を仰いだ。

「少なくとも、森岡さんからすり替え計画の全容を聞き出しておくべきでした」

「いいや、彼は誰にも話さなかったであろうよ」

「森岡さんの側近は知っているのでは……」

 清堂は眉を顰めた。

「今日はどうしたのだ、お前らしくもない。森岡君の側近を務める者が彼の指示なしに話すはずがなかろう」

「そうでした」

「あと一ヶ月待って森岡君が戻らなければ、諦めるか見切り発車するか決断せねばなるまいな」

 肩を落とした景山に、清堂は腹を括った物言いをした。

 

 一方で真言宗の聖地、高野山奥の院では、先の座主堀部真快大阿闍梨と最後の愛弟子三枝善快が神村の死を悼んでいた。

「我が国仏教界の大いなる損失じゃのう」

 真快は慨嘆した。

「御上は薄々お気づきなっておられたのでは……」

 善快は、だからこそ自分への奥義伝承を急いだのではないかと推察していた。

「身体の異変には気づいていたが、まさかこれほどあっさりと逝ってしまうとは思ってもおらなんだわい」

「上人はお幾つでしたか」

「五十七歳じゃ。わしの晩年の二十年を上人に譲ってもなお早過ぎるわい」

「なんということを仰いますか」

「神村上人の偉大さはそなたにはわかるまい。やがて拙僧を超えて行くべき傑物であった」

「それほどまでに」

「こうなってしまったからには、善快や、そなた一層精進してくれや」

 はは、と平伏した善快が恐る恐る訊いた。

「密教奥義伝承が途絶えてしまいますが」

「うむ。困ったことになった」

 真快は眉を顰めたが、語調は暗くなかった。

「まさか、御上に願うことはできません」

「この年では自殺行為じゃからの」

 堀部真快は九十歳になっていた。とてもではないが、奥義を伝承する体力など有るはずもなかった。

「伝承できるものならば、命は惜しまぬがな」

「何を仰いますか」

 善快はとんでもないという顔をした。

「善快や。わしは迷っているのだよ」

「まさか、本気で御上が伝承を」

 そうではない、と真快が首を横に振った。

「実は、神村上人の他にもう一人奥義を伝承している者がおる」

「ま、真ですか」

 うむ、と真快が肯く。

「栄興上人が伝承していたことは知っていた」

「では、そのお方にお願いすれば良いかと」

「それが、そう簡単には行かぬのじゃよ」

 はて、と善快は首を捻った。

 堀部真快ほどの高僧の手に余る理由というのが思い付かないのである。

 他宗派の僧侶ということであれば、神村もその前の伝承者栄興も天真宗の僧侶である。密教奥義を唐から持ち帰った空海上人の流れを汲む堀部真快大阿闍梨が誠意をもって依頼すれば、何人たりとも断れるはずがない。

 真快が唐突に言った。

「女人なのじゃよ」

「に、尼僧だと……」

 善快は腰を抜かさんばかりに驚いた。

 空海上人以来、尼僧が奥義伝承者となった事例は一度もなかった。理由は、高野山は明治三十七年まで、七里四方を女人禁制としていたからである。他宗派とて大差はなかったことから、尼僧が奥義を伝承することなど有り得ないことだった。

 明治時代に女人禁制が解かれたとはいえ、一朝一夕に男尊女卑の偏見が正されるわけもなく、また優れた尼僧が輩出される土壌も環境もなかったのである。

 尚、高齢となった空海上人の母が、現在の香川県善通寺市から息子が開いた高野山を一目みようとやって来ても、入山することができなかったため、麓にある高野山の庶務を司る寺務所に滞在することになった。その母に一目会いたいと、空海上人は月に九度も二十数キロメートルにも及ぶ参道を下って訪ねたことから、このあたりを「九度山」というようになった。

 そう、この九度山こそ関ヶ原の戦いに敗れた真田昌幸、信繁(のちの幸村)父子が配流された場所でもある。

「尼僧に偏見などないが、とはいえこの御仁は少し勝手が違うのでな」

「どなたか、お聞きしても宜しいでしょうか」

「栄興上人の妹御じゃよ」

「妹……なぜ栄興上人はよりによって妹様などに」

 伝承したのかと訊いた。

「善快や、わしが戸惑っているのはまさにそこなのだ」

 真快は、栄興の真意を量りかねていた。

「妹御は聞きしに勝る霊力の持ち主だそうじゃが、それだけでは密教奥義を伝承する資格はない。まさか栄興上人が身贔屓したとは思わぬが、一度会ってから決断しても遅くはないと思うが、どうじゃ」

「御上の御心のままに従います」

 善快は畏まって頭を下げた。

 

 そしてもう一ヶ所、静岡高尾山の瑞真寺でも当代門主の栄覚と執事長の葛城信之が神村の死と森岡の失踪を語っていた。

 坂根たちが懸念した森岡洋介の失踪は、立国会の広範な情報網に引っ掛かっていたのである。

 表情の冴えない栄覚に葛城が声を掛けた。

「過日、御門主様が仰っていたのはこのことだったのですね」

 葛城は神村の本妙寺晋山式当日、東京センチュリーホテルの一室行われた秘密の会合に栄覚の供で出席していた。

 うむ、と栄覚が神妙に頷く。

「雲からの、連絡があった」

「なるほど、それで神村上人が本妙寺の貫主に就いても脅威ではないと仰ったのですね」

 腑に落ちたように言った葛城が栄覚を覗き込むようにした。

「では、何をそのように憂えておられるのですか」

 眼前から神村が去って、後顧の憂いは無くなったはずではと葛城は言った。

「あ奴の出方が気になる」

「あ奴とは……森岡でしょうか」

「そうだ」

「噂では、傷心のあまり失踪したそうです」

「それが妙に気になるのだ」

「……何か良からぬことでも企んでいると」

 そうではない、と栄覚は首を横に振った。

「あ奴の心に火が点くことが心配なのだ」

 ああ、と葛城は思い出した顔つきなった。

「あの一同が介した場で、『その後の人生目的次第……』と仰ったその後とは神村上人の死だったのですね」

「神村の死に直面し、この世に無常を感じた森岡が仏道に目覚めてもおかしくはない」

「この失踪はそのための布石だと……」

「そうでなければ良いがな」

 栄覚は虚ろな目をして言った。

 

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