黒い聖域   作:安岡久遠

62 / 68
第六巻 決意の徒 失踪(2)

 渦中の森岡洋介は、周到な失踪計画を立てていたわけではなかった。そうであれば、たとえば茜が風呂に入ったときなど、隙を見て外出することは可能であった。彼がそうしなかったのは、彼女が自責の念に苛まれると想像したからである。

 当然、同じ理由で蒲生亮太と宗光賢一郎の二人を欺くつもりもなかった。下腹部が張っていたのは事実で、お腹を壊したと思っていたが、実際はガスが溜まっていただけだった。

 トイレから出て二人の姿がないとわかったとき、咄嗟に一人になりたいという欲求が沸き起こり、抑え切れなくなった。そこで、非常階段から下の階に行き、そこからエレベーターで一階まで降りたのだった。

 エレベータの中で幹部社員と鉢合わせになったら諦めるつもりでいたが、幸いと言うべきか、ウイニットの女性社員三名が乗っていただけだった。

 極少数の幹部連中以外は此度の深い事情、つまり森岡の心情を知るはずもなかった。案の定、女性社員たちは森岡の姿を認めても緊張の面持ちで軽く会釈しただけだった。

 ウイニットはJR新大阪駅前にある。

 ビルを出た森岡は迷うことなく新大阪駅に向かった。

 だが、切符売り場で足が止まった。何処に行けば良いか、決めかねたのである。

 多宝塔の建設地を求めて神村正遠と共に足を運んだ地が頭の中に浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

 北から札幌、小樽、仙台、新潟、名古屋、福井、鳥取、島根、高知、福岡、宮崎、鹿児島……思えば書生時代からよく一緒に旅をしたものだと、懐かしさに胸が熱くなったが、どの地も心に響かなかった。

 森岡はとりあえず西に向かうことにして、岡山までの新幹線の切符を買った。岡山で伯備線に乗り換えれば、米子あるいは松江に辿り着き、故郷の浜浦に帰るのにも時間が掛からない。

 しばらくの間、園方寺の離れで逼塞しても良いか、とも考えていた。

 岡山駅で新幹線を降り、伯備線への乗り換えのコンコースを歩いているときだった。

 ふと脳裡に、神村の、

――当てにはならないが、もしかしたら最上稲荷の奥の院ならば、何か手掛かりになるものが残っているかもしれない。

 という言葉が過った。

 その最上稲荷は近場にある。彼の足は自然とそちらに向いた。

 

 森岡はまず、最上稲荷の本堂で祈祷を受けた。

 祈祷料は三十万円である。彼は、常に新札で百万円と古札で二百万円を所持している。最上稲荷にとっても、個人で三十万円の祈祷料というのは滅多にあるものではなかった。驚いた受付の若い僧侶は、奥から執事長を連れて戻って来た。

 森岡は願目を『ウイニットの事業繁栄』とした。

 ウイニットなるものを問うた執事長に対し、森岡はIT企業だと説明した。それを聞いて、ようやく森岡が気鋭の社長であることを知った執事長は自ら祈祷を行った。

 祈願を終えた森岡は、タクシーを呼んで奥の院へと向かった。奥の院は龍王山の山頂にあった。

 森岡は奥の院の、とある子院でも祈祷を願った。こちらの祈祷料は百万円である。当然、応対に出た若い僧侶は驚愕して住職を呼んできた。

 森岡はしばしの逗留を願い出た。百万円には宿泊料も含まれていたのである。

 住職は十分な応対ができないと恐縮した。立派な宿坊施設は無かったが、むろん信者の五人や十人を宿泊することぐらいはできる。だが、百万円という祈祷料が住職に負い目のような感情を抱かせたのである。

 森岡は本堂で寝泊まりできればこれ以上のことはないと申し添えた。季節は初秋である。通常の夜具で十分間に合った。

 住職は再び驚いた。本堂で寝泊まりするということは、生活時間を寺院の決まりに合わせるということである。寺院によって異なるが、この子院では早朝五時に起床し、清掃の後、朝の勤行となった。

 朝食は七時から八時の間であるから、参詣客はそれまでに起床すれば良いのだが、本堂での寝泊まりとなれば、僧侶たちと同様に五時起床となるのである。

 さらに住職を困惑させたのは、森岡が掃除も手伝い、朝夕の勤行にも加わりたいと申し出たことだった。規模はわからないが、仮にも社長の肩書を持つ人物である。しかも人生を悟るにはあまりに若い。

 森岡が大学の四年間、大阪のとある寺院で書生修行をした経験があることを告げ、初心に帰るための訪山であることを明かすと、住職はようやく得心した。

 住職の案内で本堂に足を踏み入れたときである。森岡を得も言われぬ空気が包み込んだ。

――ああー、懐かしい。

 そう思った瞬間、森岡の脳裡に、広い場所で祖母をはじめ大勢の人に囲まれている光景が蘇った。

 広い場所とはこの本堂だった。大人も子供もいて、順番に自分を抱き上げては何かを言って笑っている。自分はおそらく二歳か三歳だろう。

――そうか、生まれたとき以外にも俺はここへ来ていたのか。

  森岡は、それこそ魂の故郷にいるような心地になった。

 

  それから三日目の夕食のときである。

  森岡は住職と食事を共にすることになった。通常は敬虔な信者しかこのような接遇は受けないが、やはり百万円という祈祷料と四年間の書生修行、そして何より宣言通りの生活態度が住職の心に留まったのだと思われた。

「森岡さんの会社は、上場を目前にした前途有望な会社らしいですな」

 住職は赤ら顔で言った。すでに、晩酌としてビールを数缶飲んでいた。

「良くご存知ですね」

「副住職の息子がインターネットというもので調べてくれました」

「インターネットで」

 森岡は思わず口元を緩めた。

 時代はインターネットが急速な広がりを見せていた頃とはいえ、それは企業や一般個人においては若者が中心だっただけに、もっとも抵抗感があると思われた地方の一寺院が取り入れている事実を知って、寺院ネットワーク事業の成功に確信を抱いたのである。

 住職の態度があらたまった。

「ところで、一つお聞きして良いですかな」

「何でしょう」

「森岡さんが書生をしていたのはどのような寺院ですかな」

「大阪の経王寺という小さなお寺です」

「また、どうして書生などを」

 森岡は一瞬身構えた。住職の目に特段の思惑はなく、ただ素直な興味を抱いたに過ぎないとわかったが、心の傷に触れたのは事実だった。

「宿世でしょうか」

 宿世とは前世の縁ということである。

「宿世……」

「師は、魂の泉が同じだと仰っておられました」

「ほう。魂が同泉のう」

 住職は感心顔で言うと、

「住職のお名前は何と申されるかな」

 と訊いた。

「神村正遠猊下です」

 森岡は、天真宗においては法主、総本山の総務、別格大本山法国寺の貫主の三人しか許されない「猊下」という尊称を用いた。そこに彼の無念さが如実に現れていた。

「なに、神村上人ですと」

 住職の盃を持った手が止まった。

「ご存知でしたか」

「他宗とはいえ、上人のご高名はこの地にも届いています。上人はお元気ですか」

 森岡は何とも悲しげな顔をした。

「先頃お亡くなりになりました」

「なんと、お亡くなりに? まさか、まだお若かったはず」

 住職は信じられないという口ぶりで言った。

「五十七歳でした」

 森岡は唇を噛んだ。その溢れ出る無念さに、

「なんとも痛ましいことですな」

 と、住職は同情の声を掛けるのが精一杯だった。

「いずれ総本山の法主の座に就かれるお方でした」

「いかにも、そうでありましたでしょうな」

 他宗の住職が天真宗の詳細な昇進制度を知るはずもない。住職は、ただ森岡を慰めようと賛同したのである。

 また、葬儀に際して僧侶を中心に約三百名の参列があったとはいえ、密葬の形を取ったので、テレビや新聞などのマスコミで大々的に報道されることは無かった。

「先程、宿世と申されましたが、何か曰くでもございますか」

「いえ、取り立ててこれというものはございません。ただ、師との絆の深さにそう言ったまでです」

 森岡は神村との深い縁を胸に仕舞い、

「むしろ、こちらの方が曾祖母の代からご縁がございます」

 と話を逸らすように言った。 

「なんですと、曾祖母様の代から当寺と……? 森岡……」

 と記憶を巡らせた住職の顔つきが一変した。

「もしや、その曾祖母様の名はトラさんと言われるのではありませんか」

「そうです。曾祖母は森岡トラという名です」

「なんと、森岡様とお聞きしても頭に浮かびませんでした。申し訳ない」

 ほろ酔いもどこかに消し飛んだ様子の住職は居住まいを正して詫びた。この奥の院においても、森岡というより屋号の灘屋で通っていたのである。

「頭をお上げ下さい。曾祖母は曾祖母、私は私ですから」

「いいえ。当寺はトラさんにはひとかたならぬ御恩を賜っております。ウメさんしかりです。私どもは今でも北の方角に足を向けて寝ることはできません」

「御住職様、大袈裟過ぎます」

 住職は大仰に手を振った。

「とんでもない。トラさんは総社から島根の生家に戻られる際、今の値打に換算すれば一億円という多額の寄進をして下さいました」

 住職はそこで一旦言葉を切ると、失礼と言って部屋から出て行った。そして副住職である息子を連れ立って戻って来た。

「お前も聞いていなさい」

 そう言って、住職が話を続けた。

「最上稲荷の歴史はご存知でしょうか」

「詳しくは存じません」

「明治に起こった廃仏毀釈のことは」

「それくらいの事でしたら、歴史の授業で」

 習った、と森岡は言った。

「神道の形を取りましたので、最上稲荷をはじめ子院もなんとか難を逃れましたが、疲弊はすさまじいものだったと祖父から聞いておりました」

 住職の父親が生まれたばかりで、曾祖父が住職、祖父が副住職を務めていた時代だったという。

「恥ずかしながら、当院は托鉢とトラさんの布施で糊口を凌いでいたというのが実情だったそうです。その上に多額の寄進です。私たち一家の救いの神ならぬ、救いの仏様と言っても過言ではありません」

 住職が頭を下げると、副住職もそれに倣った。

「どうぞ、もうお止め下さい。先程からお尻がムズムズして落ち着きません」

 森岡は苦笑いをしながら二人に酌をすると、居住まいを正した。

「さて、御住職。実は、当寺に訪山しましたのはある理由が有ってのことなのです」

「もしや、出生のことですかな」

 住職は察していたような口ぶりで言った。

「おわかりでしたか」

「いつの日にか、貴方が当寺を訪ねられることがあれば、そういう理由だと思っておりました」

「では何かご存知でしょうか」

 住職はすまなさそうに首を横に振った。

「残念ですが、私は何も知りません。と申しますのも、当時私は京都のとある寺院で修行をしておりましたので、経緯は何も知らされていないのです」

「そうですか」

 森岡は落胆の色を隠せなかった。

「ただ、お役に立つかどうかはわかりませんが、父から手紙を預かっています」

「私宛ですか」

 はい、と住職は肯いた。

「少しお待ち下さい」

 住職は再び応接間を出ると、密封された封書を携えて戻って来た。

「これです」

 住職は封書を差し出すと、

「臨終の際、父が私を枕元に呼び、将来島根半島の灘屋の森岡洋介さんが訪ねて来られ、その折、ご自身の出生の秘密を問われたならば、これを渡すようにと言い付かりました」

 と付言した。

 失礼します、と言って森岡は封を開け、手紙を取り出して読み始めた。

 灘屋の後継問題については、神村から聞いた話と祖母ウメの手紙に記されていた内容と違いはなかったが、記述が実母の身上に及んだとき、森岡の両手が震え始め、つれて蒼白となった。

「どうかされましたか」

 住職は心配げに声を掛けたが、半ば放心状態の森岡の耳には届かなかった。

――ま、まさか、瑞真寺……。

 森岡は心の中で呻いた。

 衝撃の真実だった。なんと、生みの母は栄観尼という瑞真寺の縁者だというのである。

 先々代の瑞真寺門主と古い付き合いのあった当寺の先代住職は、その女性が幼少期より、他と違う能力が備わっていることを聞いていた。彼女が異能に悩み、苦しみ、そして孤独を味わってきたことを知っていた。

 彼女の家族は、まるで腫物を触るかのように見守るしかなかったという。

 その異能とは尋常ならざる霊力であった。彼女は人の心を読み、未来を見通す予知能力の持ち主だったのである。

 子供の頃、邪心のない彼女はその一端を披歴していた。

 だがその度に、周りから奇人、変人扱いをされて仲間外れになり、いじめの対象にもなった。年頃になると、その類まれな美貌から言い寄る男性に事欠かなかったが、交際してもすぐに上手く行かなくなった。失恋という感情が生まれる前に相手が気味悪がって逃げ去るのである。

 相手にして見れば当然だったかもしれない。

 何しろ、会った途端、

『映画よりお芝居にしましょう』

 とか、

『フランス料理より、和食の方が好き』

 などと、つい相手の男性が問う前に答えてしまうのである。彼女に悪気はないのだが、心を丸裸にされる男性にしてみれば溜まったものではない。

 そういう次第で、男性経験どころか真面な恋愛経験すらないまま、平凡な人生は送れないと悟ったその女性は、仏門に帰依する決心をしたのだという。そして、父の紹介で最上稲荷の奥の院に逗留していたのである。

 森岡は、灘屋と奈良岡家との関係を知ったときより、遥かに動揺していた。

「何か悪い知らせでも」

 青ざめている森岡に、住職がもう一度声を掛けた。

「いや、なんでもありません。あまりにも思い掛けないことが記されていたものですから」

「差支えなければ、どなたでございましたか教え願えませんか」

「母は天真宗の瑞真寺と縁があるとありました」

「ほう、瑞真寺ですか。なるほど、なるほど」

 住職はさもありなんというような顔で何度も肯いた。

「親父さんには何か心当たりでもあるのですか」

 森岡より先に副住職が訊いた。

「父と先代栄興門主の御尊父の栄端(えいたん)上人は、叡山で共に苦学した刎頚の友だったのです」

 叡山とは比叡山延暦寺の指している。

「叡山で」

「宗派こそ違えど、叡山は広く門戸を開けています。思春期を叡山で勉学に勤しまれたお二人の友情は殊の外深いものだったようで、お互いに静岡と岡山を訪ね合っておられました。そのご縁から瑞真寺の縁者というお方に話が回ったのでしょう」

 森岡の問いに住職が答えた。

「ところで、その縁者の名前などはわかりませんか」

「栄観尼と言われる尼僧だそうです」

「栄観尼……」

 住職の声が震えていた。

「どうかされましたか」

「栄観尼様と仰る尼僧は、栄興前門主の末妹です」

「な、なんと……」

 森岡も言葉が出なかった。

――し、信じられない。実の母は栄覚門主の叔母……。ということは、俺と門主は従兄弟同士……。

「栄観尼様は、端倪すべからざる霊力の持ち主だと耳にしていました」

「……霊力」

 森岡は神村の最後の言葉を思い出していた。

「叡山の大阿闍梨様も及ばないほどとか」

「それほどまでですか」

 神村は森岡に潜む霊力は母方、つまり栄観尼から受け継いだものだとも示唆していた。

「ですが、そのせいで幼少期から化け物扱いをされ、心に深い傷を負われたと聞いています」

「今はどこにおられるでしょう」

 森岡は敬語を使った。実の母と知っても実感が湧くはずがない。

「伊豆の真龍寺という尼寺の住職をされておられるはずです」

「伊豆……」

「我が国の尼寺の総本山的な地位にある名刹だと聞いています」

 言うまでもなく、尼寺も各宗派に所属しているが、比叡山や高野山が日本仏教の聖地とされるように、横の繋がりが深い尼寺の間では一目置かれているのだ、と住職は付け加えた。

「写真の一枚でもありませんか」

「残念ながら、私が預かったのはその封書だけです」

 住職は虚しく首を横に振った。

「拙僧が想像しますに、心に深く傷を負っておられたようですから、被写体になるのを避けておられたのではないかと」

「十分に考えられることです」

 森岡もそうだろうと思いながら、手紙を封書に戻そうとしたときだった。何かに引っ掛かって上手く入らない。

 もしや、と期待を込めた目で封書の中を覗くと、写真らしきものが入っていた。

「あっ」

 森岡は自身と思われる赤子を抱いた女性に再び驚愕した。まさに、自身の命を三度まで救ってくれたあの霊だったのである。二十一歳で出産したのであれば、現在は五十八歳のはずだが、目にした霊はこの写真のように若い姿だった。

 森岡は、神村が言ったように、霊の姿は自身が母に抱かれたときに、脳に刻み込んだ姿なのだと悟った。 

「栄観尼様のお写真ですか」

 住職が訊いた。

 おそらく、と言って住職に写真を見せた。

「母としての慈愛に満ち溢れていますな」

 まさしく観音菩薩のような笑みを浮かべていた。

「しかし、貴方のご生母があの栄観尼様とは……」

「私も何やら狸にでも化かされているような気分です」

 森岡にしてみれば、自身が恩師神村の仇敵だった栄覚門主の従兄弟だと知っての感想だったが、住職にはわかるはずもない。

 ただ、栄観尼と森岡洋介が実の母子だと知って、

「トラさんとウメさんの信心深さが、栄観尼様を引き合わせたのでしょうな」

 と嘆息を繰り返すばかりだった。

 

 それから二日後の夜、山尾茜のマンションを目加戸瑠津が訪れていた。

 森岡の失踪から五日、茜は心労のあまり倒れてしまったと耳にしたからである。

 森岡の失踪は、坂根好之から藤波芳隆に伝えられ、彼から瑠津に知らされた。茜の心情を心配した瑠津がロンドを訪ねたところ、昨日から体調を崩し、店を休んでいることを聞かされたのだった。

「大丈夫なの」

 瑠津は、出迎えた茜の辛そうな顔を見て気づかった。

「ええ、瑠津さんこそわざわざすみません」

「あの馬鹿、身体を壊すほど心配している人がいるっていうのに、いったいどこで何をしているのかしら」

「彼は心の空洞を埋める何かを探しているのです」

 茜は森岡の心が神村で占められていたのを知っている。

 神村の夢を我が夢とし、ひたすらその実現に邁進して来ていた。図らずもブックメーカー事業と出会い、初めて己のための野心を抱いた森岡だったが、その占める範囲は太平洋における小島程度のものである。

「彼にとって神村先生がかけがえのない存在だったというのはわかるけど、貴女という人がいるのに」

 瑠津は憎々しげに詰った。

「瑠津さんがそう怒らなくても」

「貴女だって身体を壊すほど心配しているじゃないの」

 瑠津は咎めるように言った。

「瑠津さんは勘違いをされています。私は洋介さんのことは少しも心配していません。これまで馬車馬のように働いてきたから、ちょうど良い休息時間だと思っているくらいです」

 瑠津は呆れ顔になった。

「こんなときに強がりを言ってどうするの」

「本心です」

「じゃあ、どうして身体を壊すほど心配するのよ」

「これは……」

 何か言おうとした茜が吐き気をもよおした。瑠津は茜の背中を擦りながら、

「ほら、言わないこっちゃない」

「昨日からずっと吐き気が酷くて」

 茜の声には喜色が含まれていた。

 あっ、と瑠津が大きく目を見開いた。

「まさか、お目出度なの」

 はい、と茜が顔を赤らめた。

「本当に? 本当に妊娠したのね」

「昨日、病院へ行って看てもらいました」

「昨日? じゃあ、あいつは貴女の妊娠は知らないわけね」

 はい、と肯いた茜がクスッと笑った。

「実は、昨日ある人に教えてもらうまでは私自身も気づいていなかったのです」

「なによ、それ」

 瑠津は呆れた顔をした。

「ちょっと体調を崩しただけかと思っていたのです」

 実際、月のものが遅れることはこれまでもしばしばあったし、つわりも酷くなく妊娠も六週目に入ったばかりだと言った。

「本人も気が付かないのに、教えたある人ってどういうことなの」

「昨日の昼前、突然洋介さんの実のお母様がお見えになったのです」

「実のお母さまですって」

 瑠津は思わず驚嘆の声を上げた。

「洋介さんから事情を聞いていたので、お会いした瞬間、彼のお母様だとわかりました」

 茜は、今生最後の面談の折、洋介が神村正遠から聞いたという経緯を瑠津に話した。栄観尼が尋常ならざる霊感の持ち主で、これまで洋介の命を三度まで救ったことを詳らかにし、併せて以前瑠津が言った洋介の『自分は祖父洋吾郎と母小夜子の不義の末にできた子ではないか』との推量を否定した。

「それは本当に、本当に良かったわ」

 瑠津は心から安堵したように言った。

「でも話を聞いてみると、彼の生みの母親って人が貴女の妊娠を指摘したことも肯けるわね」

「私もまさしく彼のお母様らしいと思いましたわ。お陰様で、却って妊娠を意識したためか、つわりが酷いような気がします」

 茜はそう言って苦笑いした。

 ああーそれにしても、といきなり瑠津が恨めしように嘆いた。

「どうされました」

「なんという間の悪さなのかしら」

 茜は、ふっと笑った。

「きっと彼は旅先でこのことを知りますよ」

 栄観尼は何も言わなかったが、茜は彼女が森岡と会うような気がしていた。

「戻って来ると」

「はい。慌てて」

 茜は、そのときの森岡の顔を想像したのか、もう一度クスッと笑った。

「そうね。新しい命を授かったのですもの、きっと立ち直って戻るわね」

 瑠津はそう言うと、

「そうとわかれば、出来る限り私がお世話するわ」

 勝手に張り切って見せた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。