黒い聖域   作:安岡久遠

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第六巻 決意の徒 共謀(1)

 その日の早朝、森岡洋介は最上稲荷の子院の本堂で瞑想をしていた。彼は出生の秘密を知った翌日から手紙に同封されていた写真を、組んだ両手の中に入れて瞑想に挑んでいた。

 森岡にはある期待があった。

 瞑想は、天真宗においても修行法の一つなので、神村の所作を垣間見ていた森岡も修行方法自体は知っていた。しかし、何せ見様見真似の付け焼刃である。そうそう簡単に無我の境地に入れるはずもなく、三回目のこの日も諦め掛けていた。

 その矢先のことだった。

 森岡が背に涼気を感じたかと思う間もなく、

「洋介」

 と女性の声が掛かった。

 振り返ると、小柄ながら得も言われぬ黄金のオーラを纏った女性が微笑んでいた。

 生母だと確信した森岡は、

「お母さん」

 と叫んだ。

 女性が畳の上を滑るように近づいてきた。彼女は僧衣ではなく和服姿で、夜会巻きのような髪型だった。剃髪しているはずだからカツラなのだろう。

 間近に見た生母は、実に若々しい姿だった。

 森岡を三度まで救った生霊に比べれば年を重ねた面相だが、還暦間近とは到底思えない、三十歳代の若々しさといっても過言ではない。

「どうして、お母さんがここに……」

 栄観尼はふふふ…、と笑みを零す。わからないことは何も無い、と言いたげな顔である。

「それより、私が母だと知りましたか」

「こちらに参りまして、ようやく」

「真実を知っても私を母だと言ってくれるのですか」

「もちろんです。私が貴女から生まれたのは変えようもない事実です」

「ですが、生まれてすぐに貴方を捨てました」

「そのような些末なこと、今となってはどうでも良いことです」

 森岡の顔には優しい笑みを浮かんでいる。

 栄観尼が森岡の前に座った。

 すかさず森岡が母の手を取った。

「何もかも知りました。お母さんこそ辛かったのではないですか」

「それが私の宿命ですからね」

 森岡の労りの言葉に、母は悟りの表情で答えた。

「それより、自分を助けてくれた生霊が母だと知って私を待っていたのですか」

「他に頼る術がないものですから」

 正直に苦悩を漏らした森岡は、生母とはいえ、初対面でこうまで素直になれる自分自身に驚いていた。

「ずいぶんと悩んでいるようですね」

「唯一無二の師を失いました」

「知っていますよ。神村上人ですね」

「はい」

 森岡には、なぜ知っているのかというような疑問すら浮かんでこない。

「まだ、お若いのに痛ましいことですが……」

 と哀悼の念を示した後、がらりと口調が変わった。

「貴方、神村上人から何を学んできたのかしら」

「え」

 森岡は戸惑いの目を向ける。

「貴方の無様な様子が、偉大な神村上人の名を貶めているということに気づかないの」

 神村ほどの高僧から薫陶を受けた者にしては情けない姿だと叱責した。

 だが、森岡には反論する気力さえない。

「しかし、生きる目的を見失ってしまいました」

「そうですか」

 嘆息した栄観尼の形相が変わった。

「しっかりしなさい!」

 と一喝した。

「神村上人の無念を晴らすことなく、尻尾を巻いて逃げ出すのですか」

――無念……やはりそうか、無縁ではなく無念だったのだ。

 森岡は最後の面談の際、神村が去り際に言おうとしてた言葉だと確信を得た。

「いま、無念と仰いましたか」

 森岡はその真意を聞けると期待した。

 だが、栄観尼の口から思いも寄らぬ言葉が発せられた。

「神村上人は天寿を全うされたとお思いですか」

「な、なんですと! それはどういう意味ですか」

「ご自分で篤とお考えなさい」

――先生は誰かに殺されたのか?

 森岡の胸中を思わぬ疑念が席巻する。

「まさか、瑞真寺が手を下したと」

「何もわかっていませんね」

 栄観尼は呆れ顔になった。

「卑しくも、瑞真寺は宗祖家所縁の寺院です。当代はいろいろ問題のある人物ですが、人殺しまでは致しませんよ」

「確かに、失言でした」

 森岡は生母に詫びた。彼自身も心の奥底では、栄覚門主の宗門に対する良心を信じていたし、なによりも栄覚門主は自身の従兄であり、目前の母の甥でもあるのだ。

 森岡は、安易に血縁者を疑った自分を恥じた。

「では、いったい誰が」

「栄覚門主への助力を隠れ蓑にして、神村上人の命を縮めた奸物がいます」

「それは誰ですか」

 森岡は重ねて訊いたが、

「それが貴方の神村上人への供養です」

 と、栄観尼は首を横に振った。

――供養? 俺にその奸物を見つけ出し、鉄槌を加えよということか……。

 森岡は、身体中の血液が滾るのを感じていた。皮肉なことに、向後の生きる目的ができたと思った。

「それより、新しい命が芽吹いていますよ」

「それはいったい何のこと……」

 そう訊ねようして、森岡は、はたと気づいた。

――新しい命……まさか茜が妊娠?

 栄観尼は黙って微笑んだ。 

 喜色を隠しきれない森岡は、その後三十分ほど実母と話を弾ませ、後日の再会を約束し、住職に辞去の挨拶を終えると、飛ぶようにして奥の院を後にした。

 喜びに踊る背を見送った栄観尼の表情は、極めて険しいものだった。

――鼓舞はしたものの、神村上人の死の真実を知ったあの子は塗炭の苦しみを味わうことになる。でも、これも貴方の宿命なのですよ。洋介、必ずやその生き地獄から這い上がって来なさい。

 と心の中で呟いた。

 

 森岡が岡山の最上稲荷から大阪に戻った直後だった。

 静岡の天真宗総本山瑞真寺当代門主の栄覚は意外な人物の訪いを受けていた。

 執事長の葛城からその名を聞いたとき、あまりのことに、一瞬耳を疑ったほどであった。

 執事の案内で貫主室に入ってきたのは、小柄だが他を圧倒する存在感のある女性だった。

「これはこれは、叔母様」

 栄覚は下座に移り、平伏した。

 瑞真寺の前貫主栄興の実妹栄観尼が訪ねて来たのである。栄覚にとっては叔母に当たる。

 実年齢は六十歳に近いはずだが、顔や僧衣の袖から垣間見える腕の色艶、肌の張りからすれば三十代といっても過言ではない。

 江戸時代、和歌山にある熊野神社の霊験を知らしめるため、全国を渡り歩いた熊野比丘尼(くまのびくに)の中には、少女のような老尼僧がいたと伝わっているが、まさに栄観尼は加齢を忘れたかのように瑞々しい肢体をしていた。

 栄観尼は、天真宗が建立した尼寺である真龍寺の一門主に過ぎなかったが、その法力によって今や天真宗のみならず、日本の全尼寺と親交を深めていた。

 言わば宗派を超えた尼寺の総本山的な位置を占めるに至っているのである。

 叔母とはいえ、栄覚に一層慇懃な振る舞いをさせる理由の一つがその威光である。

「何やらご活躍のようで」

 栄観尼が微笑を浮かべた。

 ごくり、と栄覚は生唾を飲み込んだ。息を吞むほどの壮絶な美しさである。江戸時代で言えば、美姫三千人とも言われた大奥においてさえ、将軍の寵愛を独占したであろうほどの輝きであった。まさに傾国の美女、つまりその存在が国を傾けてしまうほどの美女というのは、叔母のような女性のことを言うのだろうと栄覚は思った。

「活躍と申されますと」

「惚けてはいけないわ。私の耳に入らないことは何もないのよ」

「い、いや恍けるなどとんでもないことです」

 栄覚は蛇に睨まれた蛙のように萎縮した。栄覚ほどの高僧がこうまで怯える理由は、叔母という姻戚関係や尼僧としてその総帥的な立場いるというだけではなかった。

 栄観尼は生まれながら異能を持ち合わせていた。心眼というべきか、予知能力というべきか、ともかく相手の心理を読み当て、未来を見通す神通力を備えていた。

 その能力はそれこそ荒行を重ねた高僧の法力の比ではなく、だからこそ栄観尼の父栄端は、もし彼女が男子であったならば、宗祖栄真大聖人にも匹敵する宗教人になったであろうと悔しがった。

「貴方、神村上人がお亡くなりになって邪魔者がいなくなったと安堵しているわね」

「いえ、決してそのような」

 と言い掛けて、栄覚は留まった。

「正直に言えばそうです」

 心眼のある叔母に嘘は吐けなかった。嘘を吐けば、どのような報復を受けるとも限らないのだ。

 父栄興から、栄観尼はその気になれば呪詛にも長けていると聞いていた。

 呪詛とは、神仏や悪霊に祈願して相手に災いが及ぶようにすることである。したがって一切衆生の救済が目的である仏教に呪術の法はない。

 僅かに仏教より早く伝播していた道教の中にその法があったが、やがて道教の禁止に伴い、その道術の要素を取り入れて生まれた日本独自の陰陽道の中に受け継がれることになる。

 簡単な例を挙げれば、たとえば年配者の中には、子供の頃に親から『夜に口笛を吹くと蛇、または鬼が出る』と忠告された記憶が残っているのではないだろうか。迷信と言えばそれまでであるが、実はこの口笛こそが呪術の方法なのである。

 口をつぼめて息を吹く、または声を出すことを「嘯(うそ)」と言い、文献には口笛を吹くことを「嘯(うそぶ)く」ともある。

 嘘言は、古くは「オソ」言い、その原義は『神または精霊ないし霊魂に関する前代人の経験』に求められるとして、口笛は『神または精霊もしくは霊魂を呼ぶ印』とある。

 このことから、この嘯に長けることによって悪霊を巧みに操り、特定の人間に災いを及ぼすことができるのである。

 だが栄観尼は、天真宗それも宗祖栄真大聖人の実弟栄相の血を受け継ぐ紛れもない仏教徒である。その彼女が異端ともいう呪術の法を会得するはずがない。おそらく彼女の霊力は、相手の精神の中に入り込み、錯乱させる力を有しているのであろう。

「ですが、貴方の野望は難しいわよ」

「何のことでしょうか」

 栄覚は必死に惚けた。

「私にわからないと思いですか」

 その咎めるような口調に、

「も、申し訳ございません」

 栄覚は観念したように詫びると、気力を振り絞った。

「久田帝玄や総務清堂はすでに老齢、神村さえいなくなれば、私の行く手を拒む者はおりません」

 ほほほ……と栄観尼が笑った。とうてい還暦間近とは思えない妖艶さだが、その視線は心臓を狙いすました剣先のように鋭かった。

「一人、お忘れのようね」

「だ、誰のことを仰っておられるのか」

 栄覚は、親に叱られる子供のように眼を逸らした。

「私に嘘は通じないと、まだわからないのかしら」

 顔を戻すと栄観尼が睨み付けていた。

 栄覚は思わず身震いした。

「しかし、あの者は宗教人ですらありません」

「その宗教人でもない森岡洋介がすでに貴方の命運を握っていることにも気づいていないとは、愚かにも程が有りますよ」

 なっ、と栄覚が力んだ。

「叔母様は、私を愚弄するためにおいでになられたのですか」

 と不満を露にした。

「反対です。貴方を助けに来たのです」

「助けに、ですと」

「はい」

「叔母様にも見えないことがあるのですね」

 栄観尼のすまし顔に、栄覚は少し溜飲を下げたような気分になった。

「枕木山のことでしたら、すでに森岡とは手打ちをしております」

 はあ、と栄観尼が嘆息した。

「甘いわね。あの男が、そう簡単に最大の攻撃材料を手放すはずがないでしょう」

「他に何か握っているとでも」

 栄覚は探るように訊いた。

 森岡にとっての最優先命題は、神村正遠の本妙寺貫主就任だったはずである。したがって、そのためには枕木山の秘事という、唯一最後のカードを切ったのだと栄覚は思っていた。

 だが、栄観尼の言葉には信憑性が滲んでいる。

「貴方は、日本仏教秘仏秘宝展に出展するため、御本尊の贋作で開帳するそうね」

――な、なぜそれを……。

 知っているのかと言おうとして、栄覚は押し黙った。やはり栄観尼は何もかもお見通しなのである。

「今度ばかりは見逃して下さいませんか」

「私が見逃しても、見逃してくれない者がいますよ」

 栄覚の面から血の気が失せた。誰を指しているのかわかったのである。

「……まさか、森岡洋介ですか」

「彼が手ぐすねして待っているところへ、開帳でもしようものなら、それこそ飛んで火に居る夏の虫、ってところかしら」

 栄覚は思わず顔を歪めた。

「と申されましても、いまさら拒否すれば、宗務院からどのような咎めを受けるとも限りません」

「貴方の野望に支障、いや支障どころではなく命運を断たれますね」

「前門の虎、後門の狼です」

 と、栄覚は力なく項垂れた。

「だから、私があれほど、父と兄に進言したものを……」

「叔母様が祖父と父に……何と?」

「お二人がご健在の間に、御本尊問題を解決されますように、と」

「叔母様は、当寺の秘事をご存知だったのですか」

「当たり前です。厨子の前に立っても、何の霊気も感じなかったのですからねえ」

「さ、さすがです」

 栄覚は弱々しい声で呻いた。

「後顧に憂いを残しますよ、とあれほど申し上げたのに……」

「それは私のことでしょうか」

「貴方の幼い頃を知っていますからね」

 将来、邪念を抱くのを懸念していたと栄寛尼は言った。

「……」

 栄覚には返す言葉が見つからなかった。

 しばらく間があって、その彼の耳に思いも寄らぬ言葉が届いた。

「森岡洋介に頭を下げなさい」

「何を言われるのですか」

 栄覚は怒ったように言った。

「あの男は私を目の敵にしているのですよ」

「あの子に私の名を告げなさい」

「あの子?」

 栄覚は、森岡洋介からあの子と変わった言葉尻を捉えた。

 一転、栄観尼の表情が観音菩薩のように柔和になった。

「森岡洋介は私の息子です」

「ひぇ」

 と小さく悲鳴を上げたきり、栄覚の全身が固まった。何か悪い夢でも見ているかのように両眼が激しく泳いだ。

 暫し放心していた栄覚だったが、気を取り直すように訊いた。

「お、叔母様はご結婚されたことがないはずでは」

「結婚しなくても子供は産めることよ」

「未婚の母……相手は、相手はいったいどこの誰ですか」

「あら貴方、あの子の生家をご存知ないの」

「知っておりますよ。島根の灘屋とかいう元網元でしょう」

 栄覚は捨て台詞のように言った。畏くも栄観尼は、宗粗栄真大聖人の末弟栄相の血を引く末裔である。いかに分限者とはいえ、所詮は網元、つまり漁師に過ぎない男の子を孕るとは思えなかった。灘屋は、ただ森岡洋介を養育したに過ぎないのだろうと栄覚は思ったのである。

 だが、栄観尼は身動ぎもせず見詰めている。

「ですが、叔母様は成人されてほどなく真龍寺に入られたはずですし、第一私は赤子の姿を一度も見ておりません」

「それはそうでしょう。私自身も自分が生んだ子を碌に抱いてはいないのですから」

「そ、そのような」

 栄覚にはわけがわからない。

「赤子は生まれてすぐに灘屋に引き取られました」

「叔母様はそれをお許しなったのですか」

「最初の約束でしたからね」

 栄観尼は事もなさげに言った。

「では、叔母様は何のために子供をお産みになったのですか」

 栄覚の疑問はもっともである。

「さあさあ、なぜかしらね」

 栄観尼はまるで他人事のように答えた。

「相手の男性に愛情があったとも思えません」

 栄覚は苛立ちを隠さず言った。

「貴方のような凡僧には、とうていわからない仏界の真理ですよ」

 これ以上ない侮辱の言葉だった。仮にも栄覚は、荒行を六度満行した高僧であり、何より亜流ではあるが、彼もまた紛れもなく宗祖栄真大聖人の血脈者なのだ。

 だが、栄覚はこの屈辱に甘んじなければならなかった。目の前の肉親に怒りを覚えながらも軽率な反論は控えなければならなかった。それほど、栄観尼の霊力は恐ろしいものだったのである。

 栄覚は反論の論旨を変えた。

「しかし、叔母様、いかに森岡が、いや洋介君がその気になっても、総務清堂が納得するはずがありません。いえ、日本仏教会事務局が承服しないでしょう」

「まだわからないとは、それでも私の甥ですか」

「……」

 栄覚は栄観尼の詰るような言葉の意味がわからない。

「そもそも、その事務局に出展要請をさせるよう仕向けたのはあの子なのですよ」

 栄観尼は子供を諭すように言った。

「な、なんと言われます」

 栄覚の頭は混乱を極めていた。瑞真寺の秘中の秘事を嗅ぎ付けていることもさることながら、どうして森岡が日本仏教会事務局に圧力を掛けることができたのか、そのことである。

「清堂上人もあの子の言には耳を傾けるはずです」

「総務がそう簡単に私の野望を砕く材料を手放すとは思えませんが」

「では、試してみたらいかが」

 栄観尼は自信に溢れた顔をしている。 

「条件は」

「さあ、それはあの子次第でしょう」

「……」

「命まで取るとは言わないでしょう。野望を一時封印し、修行に邁進しなさい」

「それは……」

 栄覚は首を横に振った。

「二度と野心を抱けぬほど完膚なきまでに叩きのめされるのを望みますか」

 極めて冷徹な声だった。

 だがその裏に、しばらく臥薪嘗胆せよ、との含みがあると察した栄覚は、悔しさに唇を噛みしめながらも、

「わかりました」

 と頭を下げた。

「それで良いことよ」

 満足げに言った栄観尼の言葉があらたまった。

「さて、この際ですから全てを打ち明けておきましょう」

「あらたまって、何でしょうか」

「あの子は私の血と共に霊力も受け継いでいます」

「まさか、そのような」

 栄覚は断末魔のような声を上げた。

「幼い頃、悲劇の連鎖によって封印されてしまい、長い間眠っていましたが、先頃ようやく目覚めたようです」

「……」

 もはや栄覚は、崩れ落ちそうになるその身を留めておくのが精一杯だった。

 打ち拉がれる栄覚に、栄観尼は無慈悲な追い討ちを掛けた。

「いずれ密教奥義も伝承されることでしょう」

 だが栄覚は、むしろその言葉に気力を得た。

「ば、馬鹿な。奥義は神村上人の死によって途絶えたはず」

 その声には侮りの色が滲んでいた。

「……」

 栄観尼は何も答えなかった。

 栄覚は重ねて否定した。

「高野山の堀部真快大阿闍梨は、秘蔵弟子である三枝善快僧に伝承を望まれましたが、その前に神村上人が亡くなったはずです」

「やはりその程度ですか」

 栄観尼は憐れむように言った。

「神村上人の前の伝承者は誰ですか」

「そこまで馬鹿にしないで下さい。我が父栄興……」

 と言い掛けて、再び栄覚の面からサァーと血の気が引いた。

「お、叔母様が」

「神村上人の行く末を案じて兄に頼みました」

 栄観尼は今日のあることをすべて見通していたのだと言った。

「いつの間に」

 それでも栄覚は疑わしげな眼で栄観尼を見た。密教奥義伝承灌頂は通常であれば数年掛かる難業の儀式である。栄覚は、父栄興が荒行と神村に奥義を伝授した一年足らずの他に、瑞真寺を長期間離れた記憶がなかった。

「私を誰だとお思いか」

「……まさか、あのときに」

 その言葉に十年前、父栄興が初心に戻っての修行研鑽のため、半年余り全国を托鉢して歩く、と高尾山を下りたことを思い出した。

「僅か半年で」

 と言い掛けて、栄覚は首を振った。

「いや叔母様ならば……」

 栄覚の面に初秋の夕日が物憂げに映し出されていた。

 栄覚は爪の先ほどに残った気力を振り絞る。

「叔母様の能力は認めましょう。しかしながら、洋介君はすでに三十八歳、直ちに宗門に帰依したとしても、経を諳んじるようになるだけでも何年掛かりますか」

 と当然の疑問を口にした。

「貴方は何も……」

 栄観尼が言い掛けたのを栄覚が押し止めた。

「叔母様の仰りたいことはわかります。叔母様の血を受け継いでいるのですから類い稀な能力の持ち主でしょう。いや、叔母様を持ち出さなくても、私自身が苦杯を嘗めさせられましたからよく存じて居ります。しかしながら、こと仏門においては些か事情が異なるかと思います」

「なるほど、もっともな意見だと思います」

 栄観尼は肯いたが、

「ですが、あの子は宗門に帰依していないとはいえ、すでに一通りの経は諳んじてますよ」  

「まさか……」

 栄覚は疑念の眼差しを向けた。

「神村上人の書生時代には、教義の手ほどきは受けていないと聞き及んでいます」

 森岡は大学の四年間、神村の自坊経王寺で書生修行をしたが、それは思想、哲学に限られていた。

「書生時代ではありません。あの子は生まれたときから、子守唄代わりに祖母のウメさんの読経を聞いていたのです」

「その程度で……」

 栄覚は侮るように言った。

 いいえ、と栄観尼は首を横に振った。

「ウメさんは大変に信心深いお方でね、晩年には仏教の主だった経典に目を通されていたそうな。あの子は生まれたときからその読経を毎朝夕、傍らで聞いていたのですよ。それに私自身もお腹の中に居た十月十日、時間さえがあれば聞かせていましたから、脳に刻み込まれているでしょう」

 うう……と栄覚が呻く。

「門前の小僧、習わぬ経を読む、ということですか」

「第一、あの子には……」

「叔母様の血が流れている」

 栄覚が言葉の続きを奪った。

「本気になれば、その辺りの坊主どもより真面な経を上げられるでしょうね」

「読経のことはわかりました。ですが、密教奥義伝承者ともなれば、天真宗においては、最低でも七度の荒行を満行しなくては……」

 栄覚は必至に抗弁した。

 だが栄観尼は、あははは……と一笑に付した。

「一定回数の荒行を満行しなくても密教奥義は伝承されることよ」

「……」

 何を言っているのだと、きょとんとする栄覚に、

「事実、この私も荒行は二度しかしていません」

「しかし、叔母様は特別……」

 貴方は……と今度は栄覚が言い終える前に栄観尼が言葉を重ねた。

「何か根本的な勘違いをされていませんか」

「はあ?」

「荒行は、あくまでも仏道の真理に近づくため、あるいは悟りの境地に達するための一つの手段に過ぎないのですよ」

「では、叔母様の血を引いている洋介君も荒行を重ねる必要ないと……」

 栄覚は唇を噛んだ。

 その栄覚に栄観尼は、さらに駄目を押した。 

「最後にもう一つ言っておきましょう」

「この上、まだ何かあるのですか」

 栄覚は完全に開き直っていた。そうでもしなければ、発狂しそうなほどに追い込まれていたのである。

「貴方は、まだあの子の父親が灘屋の者であることを信じていないようですね」

「当然でしょう。叔母様が漁師などという身分違いの子をお産みになるはずがございません」

「ならば、灘屋がどこに繋がっているかお教えしましょうか」

「灘屋の繋がり先ですと」

「灘屋は奈良岡家と同じ祖先ですよ」

「えっ、奈良岡? あの奈良岡家、ですか」

 半信半疑で訊いた栄覚に、栄観尼は黙って頷いた。

「と、ということは、堀部真快大阿闍梨とも血縁ということですか」  

「そういうことになりますね」

「まさか、そのような」

「江戸末期、松江藩の国家老奈良岡真広の子が灘屋を継いだのです」

「叔母様はそのことをご存知で灘屋の者と契りを交わされた」

 と言って栄観尼に顔を戻した。

 そうではない、と栄観尼の目が言っていた。

「もしや、彼が、森岡洋介がこの世に産まれ出ることを見通してですか」

「あの子の身体には、私つまりご宗祖様の系譜と奈良岡家の系譜の血が流れています。これがどういうことかおわかりですか」

 栄覚の全身が震えた。

――まさか、叔母様も禁断の野望を……。

 と言おうとして栄覚は口を噤んだ。

「さて、用は済みましたから、私はこれで」

 と席を立った栄観尼を、

「最後に一つだけお聞かせ下さい」

 と、栄覚が押し留めた。

「何かしら」

「もし、この先私と洋介君が再び争うようになったとき、叔母様はどちらに味方されますか」

「瑞真寺の門主にしては愚問ですこと」

 栄観尼は取り合わない素振りをした。

「そこを是非とも」

 栄覚は頭を畳に擦り付けるようにして懇願した。

「息子と甥、どちらの血が濃いのかしら」

 栄覚は絶望に顔を歪めた。

「……なんて、世俗的なことは言わないわ」

 栄観尼がケラケラと口に手を当てて笑った。

「そうしますと」

「能力次第かしら」

「能力、それならば私も」

 と意気込んだ栄覚に、栄観尼が再び冷酷な視線を浴びせた。

「今、言ったでしょう。世俗的なことは言わない、と」

「……」

「地位とか名誉や権力、ましてや経済力ではないことよ」

「では、いったい」

「いかに魂が磨かれているか、観させてもらうわ」

「魂でございますか」

 栄覚は納得のいかない顔をした。

「ところで、魂はどのようにして磨かれとお思いになられますか」

「それは艱難辛苦に耐えることによってでございましょう」

「貴方はそのような艱難辛苦に遭われましたかな」

「それは」

 と、言葉に詰まった栄覚は、

「洋介君とて同様にございましょう」

「あの子は自らの出生に悩み、苦しみ、精神の病に罹って海に身投げまでしています。また身籠った妻を交通事故で失い、さらに今、神村上人の死に耐え、また一つ古い魂の殻を脱ごうと必死にもがいています」

 栄覚は、捨て台詞を吐いては立ち去ってゆく栄観尼の後姿を、ただ悄然として見送るしかなかった。

 

 門主室を出た栄観尼は、廊下の中ほどで立ち止まって振り返り、

――少し、薬が利き過ぎたかしら。

 と呟き、ふふふ……と笑った。

――早く目覚められよ、御門主。愚かにも、私があの子のために法主の座を望んでいるとお思いになるとは……このままでは、所詮貴方は天真宗の枠の中でしか生きられなくなるのですよ。

 門主室に残された栄覚は、断崖絶壁の淵に立たされている己を初めて自覚した。だが、この栄観尼の訪いによって植え付けられた絶体絶命の絶望感こそが、宗粗栄真大聖人の血脈者として、真に目覚めるきっかけとなるのだが、それはまだ数年後のことである。

 

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