大阪に戻った森岡洋介は、岡山県最上稲荷・奥の院での生母栄観尼の言葉を思い返していた。
恩師神村正遠は、誰にどのような方法で命を縮められたのか、ということなのだが、まさしく雲を掴むような話でもある。
榊原壮太郎や伊能剛史に調査を依頼するにしても、ある程度の目星は必要だった。栄覚門主に助力する裏での画策であれば、思い浮かぶのは立国会の勅使河原公彦、菊池龍峰、そして筧克至ということになったが、菊池と筧は神村本人に近づいてはいない。
となると、最も疑わしいのは勅使河原公彦だった。立国会は天真宗最大の檀信徒会である。森岡の目の届かないところで、勅使河原の命を受けて神村正遠に接触した者がいないとも限らなかった。
しかし、栄覚門主から一定の距離を置かれている勅使河原が、つまり栄覚門主から依頼を受けていないはずの彼が、葬り去りたいほど神村を敵視する理由に行き着かない。
――もしかして母は、自分を鼓舞するために嘘を吐いたのではないだろうか。だからこそ裏切り者の名を、言わなかったのではなく言えなかった……。
森岡はそう思い始めていた。
そのような森岡の元に、栄覚門主から是非にも会いたい旨の連絡が入った。
栄観尼の助言に従ったのである。
森岡は帝都ホテル大阪で会うことにした。一色魁嶺の規律委員会での敗北の後、急遽の面談を受け入れてくれた栄覚への返礼という意味もあった。
森岡は、栄覚が従兄弟だと知って初めての対面に、何とも表現のしようがない奇妙な心持ちだった。
栄覚は森岡の前でいきなり膝を折って床に着けた。
「何をされるのですか」
驚いた森岡は、近寄って腕を取って立ち上がらせようとしたが、
「御本尊の件、ご慈悲を頂きたい」
栄覚はそのまま土下座した。
「どうぞ頭をお上げ下さい。それでは話ができません」
と、森岡は栄覚をソファーに座らせた。
「私が知っているとご存知でしたか」
「貴方が日本仏教会の事務局を動かしたことも」
「これは参った」
と、森岡は頭を掻きながら苦笑いした。
「堅く秘匿していましたが、さすがの情報網をお持ちですね。立国会ですか」
「いいえ」
栄覚が戸惑いの色を見せた。
「言い難ければ結構ですが」
「叔母の栄観尼様に何もかも伺いました」
「母に」
「貴方も栄観尼様が実母だと知っておられましたか」
「つい先日ですが、私たちが従兄弟同士だったとは驚きました」
森岡は複雑な心境を吐露した。
「考えてみれば、何とも因果な出会いでしたが、私もまさか貴方が従弟だとは思ってもいませんでした」
栄覚も同調した。
「御本尊の件、承知しました」
「信用して下さるので」
「あの母が絡んでいるのです。逆らえば身の破滅です」
森岡は自嘲交じりの声で言った。
「いかにも」
「御本尊の件は、私の方で対処しますが、その代わり……」
「わかっています。私はしばらくタイかスリランカにでも渡り、修行をやり直そうと思っています」
栄覚は目を逸らさずに決意を述べた。
総本山真興寺の総務室に入った景山律堂は、総務清堂の苦り切った顔を目の当たりにして思わずその場に立ち止まった。
「どうかされましたか」
景山は恐る恐る訊いた。
「千載一遇の好機を逸したようじゃ」
清堂は吐き出すように言った。
「……」
景山には見当が付いていたが、口を閉じていた。
「瑞真寺の開帳の件じゃよ」
「何か、ございましたか」
うむ、と清堂は虚しく首を縦に振った。
「日本仏教秘仏秘宝展の主催事務局が瑞真寺の出展要請を取り消したのじゃ」
「やはり、そうきましたか」
「やはりだと、君は何か知っていたのか」
清堂の語気が自然と強まる。
「森岡さんが、事務局に働き掛けられたのでしょう」
「森岡君が? またどうしてじゃ」
清堂は訝しげな声で訊いた。
秘仏秘宝展の事務局に手を回したのは、誰あろう森岡自身である。それを取り消させる理由がわからなかった。
「彼は我々を裏切ったのか」
「ご安心下さい。そうではありません」
「どういうことじゃ」
「栄観尼様が仲立ちをされたそうです」
「栄観尼様だと」
清堂の声が上ずった。
「ご存知でしたか」
「無論じゃ。ご幼少の頃から特異な才能の持ち主であられた」
清堂は敬語を使った。
「と申されますと」
「予知能力などは、まるで未来から見て来たように言い当てられると言われていたが、わしにもその心眼に背筋が凍った経験がある」
清堂は遠い記憶を辿った。
彼が立国大学を卒業し、華の坊に戻って間もなくの頃だった。宗務院の宗務次長だった父の代理で瑞真寺を訪れたときのことである。
庭先に背を向けて佇む幼女がいた。その子が近寄る清堂の気配を感じて振り向いたときである。
清堂は、金縛りにあったように身が硬直した。金色の布を纏ったかのように光輝くその姿は、まさしく観世音菩薩そのものだった。
少女は乾いた声で清堂に訊いた。
「それほどまでになりたいですか」
「……」
清堂には何のことかわからなかった。
「滝の坊に後れを取ってますからね」
その言葉を聞いて、清堂はようやく己の秘めた野心を見抜かれていることに気が付いた。
「精進されれば、その望みは叶うでしょう」
「貴女様のお名前は……」
年端も行かぬ幼女に、清堂は思わず敬語で名を問うたが、彼女は無表情で踵を返し、庫裡へと戻って行った。
「その幼女が栄端門主の末娘だと知ったのは、華の坊に戻ってからだったが、ともかくこの世に生きるものとは思えなかった」
「それほどまでに」
「まさしく、あのお方こそ正真正銘、御宗祖様の生まれ変わりだ。だが、惜しむらくは男であられたらのう」
清堂に女性差別など全くないが、宗教界の現状からすれば、尼僧の活躍の場は限られていた。
さて、と清堂が話を戻した。
「栄覚門主が叔母である栄観尼様に頼るのはわかるが、なぜ森岡君がそれを受けたのだ。まさか彼も栄観尼様の霊力に感服したというのか」
「いいえ、そうではありません。実は、栄観尼様は森岡さんの生みの母親なのだそうです」
「な、なんだと!」
さしもの清堂も、らしからぬ驚愕の声を上げた。
景山は、森岡から打ち明けられた出生秘話を告げた。
「なんという奇縁か。あの栄観尼様が森岡君のご生母とは」
清堂がしきりに唸る。
「しかし、森岡さんの能力を考えれば納得できます」
「そうだのう」
と、得心した清堂であったが、すぐに顔を歪めた。
「となると、栄覚門主の野望を止めることはできなくなったか」
「その件に関しましては、森岡さんからご安心下さるようにとの伝言を申し付かっています」
「安心しろ、とな」
「はい」
清堂は暫し黙想した。そして、
「こうなった以上は、最後まで彼を信じ切るしかないか」
と呟いた。
岡山の最上稲荷から帰阪して半月後、森岡は経王寺に於いて執り行われた神村正胤の晋山式に出席した。
神村正遠には実子が無かったため、経王寺は甥の正胤が継いでいた。その正式なお披露目の儀式である。
正胤は二十八歳。さすがは、天真宗において大金字塔を打ち立てた神村正遠の甥だけのことはあって、すでに百日荒行を三度成満した前途有為な青年僧侶である。
森岡は、神村の遺言によって経王寺の護山会会長に就任していた。
先代、つまり神村正遠の代からの会員である榊原壮太郎と福地正勝もそのまま入会していた。
「顔色は良さそうじゃの」
「思ったより元気そうで何よりだ」
榊原と福地が森岡の元気な姿を見て安堵の声を掛けた。二人は、失踪事件は知らなかったが、神村の死去以来、目を覆うばかりの森岡の憔悴ぶりに、とてものこと慰めの言葉など見つかるはずもなく、森岡からの連絡を待っていたというのが真相だった。
「お二人には、ずいぶんとご心配をお掛けしていたようですね。でも、もう大丈夫です」
明るい声でそう言って森岡はそれよりも……と辺りを見回した。
「どうかしたかの」
榊原が訊いた。
「この場所に居るべき人間が見当たりませんね」
森岡は訝しげに答えた。
彼はこの儀式に神村沙紀の姿がないことに違和感を覚えていた。沙紀の消息は知らなかったが、彼女は先代の妻である。当然のことながら、後継者の晴れ舞台を祝う義理があった。
儀式の後の祝宴のとき、森岡はそれとなく正胤に訊ねてみた。
すると、神村の葬儀以降、全く疎遠になっているという返事が返って来た。そして、あまりに意外な言葉も聞くことになった。
正胤は、詳しい事情は知らないと前置きしてから、沙紀を雲瑞寺で見掛けたというのである。それも一度ならず三度、四度である。正胤は神村正遠の父の代から続く雲瑞寺との親交を引き継いでいた。したがって、宗務の手伝いで何度も雲瑞寺を訪れていたのだ。
――ま、まさか……。
森岡の顔が蒼白となった。
谷川東良は神村の朋友であったから、沙紀が向後のことを相談しても不思議ではなかったが、森岡の胸の奥底にある疑念が生まれた。
それは最上稲荷の奥の院での生母栄観尼が吐いた、
『先生を死に追いやった真の敵がいる』
という助言と繋がったものだった。
――もしかして、奸物とは谷川東良ではないのか。
この疑念が森岡の胸に纏わり付いて離れなくなった。
それは、元々彼の潜在意識の中に封印されていたものが、顕在化したものだった。
自宅に戻った森岡は、本妙寺の件で久々に再会したときからの谷川東良の言動を思い起こしていた。すると、東良が裏切り者だったと想定すれば、その折々に蓄積されていったわだかまりがたちまち雲散霧消していった。
―――谷川東良は、何故疎遠だった神村先生の前に、突如姿を現したのか。
てっきり神村を支援することで、己の出世にも繋がると踏んで馳せ参じたと思っていたが、その逆ではなかったか。
―――谷川東良は、坂東明園の詳細な情報を持っていなかった。
端から情報を掴む努力をしていなかったか、あるいは情報そのものを隠匿していたのではないだろうか。坂東の行動は誰の目にも明らかで、彼が京都のクラブ・ダーリンの片桐瞳に執着していたことなど容易にわかったはずである。
―――法国寺の黒岩上人の勇退を進言するように、総務藤井清堂に働き掛けたのは谷川東良ではなかったか。
東良は、しきりに情勢を逆転された岐阜県法厳寺の久保上人が泣き付いたと力説していたが、榊原壮太郎の情報で、そうではないことが判明し、真実は不明のままだった。あのとき、違和感を覚えた東良の饒舌さは、疑いの目を逸らすためだったのではないか。
本妙寺の新貫主に神村が優勢となり、思いを遂げられないと諦めかけたところに、法国寺の黒岩貫主が病に倒れた。谷川東良はこれ幸いとばかりに、総務清堂から黒岩貫主の勇退を持ち掛けるよう藤井清慶に進言し、併せて清慶の法国寺貫主就任のシナリオを吹き込んだと考えられないか。
―――そもそも東良は、御前様の法国寺の貫主就任に乗り気ではなかった。
東良が目黒澄福寺の芦名泰山、京都傳法寺の大河内法悦への裏工作に終始消極的だったのは、久田帝玄の覚えが悪いからと思っていたが、そうではなかったのかもしれない……。
あっ! 森岡の背に強烈な悪寒が奔った。
――雲瑞寺、瑞真寺……瑞……。
森岡は、ぎゅっと唇を噛み締めた。
――くもみずでら……読み名が隠れ蓑になっていたのか。
同じ「瑞」の文字のある、総本山の瑞の坊は瑞真寺と曰くがあった。ということは谷川東良も瑞真寺と縁があるのではないか。
森岡が谷川東良と知己を得たのは、神村の自坊である経王寺に寄宿していたときである。
そのとき神村からは、
『くもみずでらの谷川東良上人』
としか紹介されなかったし、谷川東良から名刺も受け取っていなかった。宗教上の弟子ではなかったから、当然といえば当然である。
ただ一度だけ、神村に随行して雲瑞寺を訪れたとき、「金光山雲瑞寺」という本堂の扁額を目にしていた。それが頭の片隅に残っていて妙な引っ掛かりを覚えさせていたのだろう。
森岡の推量は続く。
大本山本妙寺山際前貫主への圧力が功を奏し、後継者が確定しないまま彼が逝去した折に、栄覚門主は東良を籠絡したのではないか。自分を調べ上げていた栄覚である。神村先生の父の代から親交のあった雲瑞寺や谷川東良の身辺も調査したに違いない。幼少の頃からの二人の関係性から、東良が神村に含むところがあるのを知った栄覚が巧みに仲間に引き入れた。
本妙寺工作は東良に任せていたが、事が別格大本山法国寺に移ったのを機に、栄覚自ら指揮に乗り出した。その手始めとして、栄覚は谷川東良を通じ、藤井清慶を操った。久田帝玄上人を擁立すると見越してのことであろう。御前様が起てば、かねてからの法主の座を巡る総本山と在野寺院の確執を利用できる。御前様と総務清堂と争わせるように仕向けて、両者の力を削ぎ且つ溝を深める。
秘事である御前様の醜聞を清慶に注進し、マスコミへのリークと規律委員会に掛けるよう知恵を付けたのも、栄覚門主から指示を受けた東良だったに違いない。
何よりも、御前様が規律委員会に掛けられたとき、永井宗務総長の査問があることを黙っていた。規律委員会の仕組みをあれだけ詳しく述べた東良が、事前に査問が行われることを知らないはずがない。それを黙秘していたのは、加えて執拗に自重を促したのは、自分の動きを封じるためだったのだろう。
仕上げとして、先生を一敗地に塗れさせ、栄覚門主自身の法主への道を拡げる。
東良は助力の見返りとして、法国寺執事長の座を藤井清慶に求めたのだろう。彼は大本山や本山の貫主になれる資格を有していない。したがって、同じ執事長止まりなら、法国寺執事長の座はこの上ないものである。何しろ、執事長の最高峰でもあるその座には、並みの本山の貫主よりも、権力と名誉が与えられるのだから……。
森岡には、谷川東良が栄覚門主の野望に乗じて、神村に歯向かった理由もおぼろげながらわかっていた。生前、神村から沙紀との結婚に至るまでの経緯を詳細に聞いていたからである。
十三年前、谷川東良はとあるクラブのホステスに一目惚れし、結婚を前提にした交際を望んだが女性は頑なに拒んだ。そして諦めの付かない東良に向かって、自身が在日朝鮮人であることを告白し、『由緒ある名門寺院の嫁には相応しくない、必ずやご両親が反対されるでしょう』と予言した。
東良の父親はすでに亡くなっていたが、女性の言う通り、母親と兄の東顕は強硬に反対した。谷川家の自坊雲瑞寺は室町時代から続く名門寺院であり、外国人女性を受け入れるわけにはいかなかったのである。
これもまた一種の純血思想である。
東良は兄の東顕から、家門を取るか女性を取るかの決断を迫られ、後ろ髪を引かれる思いで女性と一緒になることを諦めた。
その後、東良の誘いで北新地の高級クラブ・ピアジェへ出向いた神村は、沙紀と出会い、彼女を見初めることになるのだが、実は沙紀も在日朝鮮人だった。
神村家は谷川家のような名門家系ではなかったが、やはり谷川家と同じ理由で父の反対にあった。そこで谷川東良の悲恋を知っていた神村は、彼の挫折を教訓に一計を案じた。知人を通じて、沙紀を伊勢神宮の外宮であった上正(かみしょう)家に一旦養女として入れ、そこから神村家に迎えようとしたのである。
士農工商の身分制度があった江戸時代、武家が町人の娘を嫁に迎えるとき、一旦別の武家の養女に入ったのを真似たのである。
神村の父は、それをも反対することはしなかった。
確かに、沙紀の美貌は目を見張るものだった。
男好きする顔立ちのう上に、彼女の仕種や表情の一つ一つは、男を惑わす魔性のような魅力を放っていた。神村はそこに惹かれたのであろうが、母の失踪の影響なのか、女性に対して母性と貞操観念を求める森岡洋介には敬遠の対象となった。
森岡は師の妻とはいえ、沙紀には嫌悪感すら抱き、それが一時経王寺へ足が遠のく原因ともなり、また茜との婚儀のとき、媒酌人として神村夫妻を強く望まなかった理由でもあった。
むろんのこと、真っ先に依頼したが、神村に断られた際、あっさりと引き下がった。神村から松尾正之助の名が出たとはいえ、以前の森岡では考えられないことだった。
――もしや……。
森岡の脳裡で二人の女性が重なった。
――谷川東良が愛した女性というのは沙紀ではないだろうか。ホステスだったということ、在日朝鮮人であることも共通している。先生亡き後、かつての恋慕の情が再燃したと考えれば辻褄が合う。
こうして森岡は、確信に満ちた推量を終えた。
――それにしても、なぜ気づかなかったのか。義兄弟の様に親しかった菊池龍峰の裏切りが露見したとき、谷川東良も一旦疑って見るべきだったのに……。
森岡は苦渋に顔を歪めた。
「洋介さん、とても怖い顔をしてどうしたの」
知らぬ間に、そばに来ていた茜の言葉で森岡は我を取り戻した。
「俺、そんなに怖い顔をしていたか」
「はい。とても」
「そういえば、ゴンちゃんがそっちに行ったやろ」
「ええ。私が連れてきた柴犬(ワン)ちゃんなのに、すっかり洋介さんに懐いて、片時もそばを離れないゴンちゃんが、すごすごと私のところにやって来たので、不思議に思い様子を見に来たの」
茜は不安げな眼差しを洋介に向けた。
「俺な。今、めっちゃ醜いことを考えていたんや」
「醜いこと」
ああ、と洋介は苦笑いした。
「想像しただけで俺の魂まで腐ってしまいそうな醜いことや。なあ、茜。よく人が怒鳴ったり、悪態をついたりすると、口から毒気が出るって言うけど、考えただけでも全身の毛穴からそういった物質が出るのかもしれんな。せやから、ゴンが俺から離れて行ったんやわ」
「貴方のことが大好きなゴンちゃんが逃げ出すほどの醜いことって何なの」
「谷川さんと沙紀さんが出来ているかもしれない」
「え?」
茜は、まさかという顔をした。
「沙紀さんは、雲瑞寺に通っているらしいのや」
森岡は、神村と沙紀の馴れ初めと、推量した谷川東良と彼女の関係を話した。
「そういうことですか。でも、洋介さんの推量が当たっていたとしても仕方がないんじゃないの。同じ女性として、谷川さんから求婚があったことを、先生に打ち明けられなかった気持ちはわからなくもないわ」
茜は同情するように言った。
「いや、それはもうええのや。男女の情愛はそれぞれやから、立ち入られんこともあるやろ。結局、沙紀さんは先生より東良の方を愛していたのかもしれんしな」
「ええ」
「そうやのうて、東良のことを最初から疑ってみたんや。するとな、その折々胸に妙な引っ掛かりをみせていた一つ一つが、見事に腑に落ちるんや」
茜はまさか、という顔をした。
「谷川さんは、神村先生を裏切っていたというの」
「そうだと考えると辻褄が合うことばっかりや」
あ、と森岡は悔し気に唇を噛んだ。
「そう言えば、幸苑の女将にも、東良には心を許すなと忠告されていたのに……」
「幸苑の女将さんまでも……。でも、谷川さんが何故……」
神村を裏切ったのか、と茜は訊いた。
「それは、俺にもはっきりとはわからんが、前に菊池が御前様を恫喝していたことを話したやろ。そのときに御前様が仰っていたのやが、菊池は先生に嫉妬していたんや。それと同じかどうかわからんが、谷川が先生におもしろくない感情を抱いていても不思議ではないんと違うかな」
洋介は、そこで一瞬考え込んだ。
「きっとそれは憎悪だな」
「谷川さんが神村先生を憎んでいた?」
茜は首を傾げた。ロンドで見た谷川東良からは想像できなかった。
「せや、憎悪や。あくまでも俺の推測やけどな。何時だったか、ロンドで話に出たことがあったように、先生と東良は父親同士が兄弟弟子で、しかも寺院も近かったこともあり、本人らも小さいときから交わることが多かったんや」
「そういえば、神村先生が初めてロンドへ来られたときに、そういう話をされたわね」
茜は、神村と初めて会った夜を思い起こしていた。
「両者を比較すると、寺院としては谷川家の方が遥かに名門やし、父親同士の僧階を比べても東良の父親の方が何階級も上や。せやけど、本人同士はどうやったやろうなあ。先生は、子供の頃から天童と呼ばれるほど才気煥発なお方やで。東良もそれなりに優秀やったらしいが、先生に及ぶことはまず有り得ないやろ。
東良本人は辛かったと思うで、おそらく幼少の頃から、何かにつけ先生と比較されたんと違うかな。それは、総本山の妙顕中学へ進学したとき、先生のいらっしゃる滝の坊を避けるかにように他の宿坊に入ったことでもわかる。その後は、言うまでもないやろ。宗門内の先生の評価は明治以来の逸材。方や東良は、荒行に入ったのはたった一度きり。僧位僧階と実績は、天と地ほどの開きができてしまった。
名門家系に生まれた宿命で過度の期待を掛けられ、しかも物心の付く頃から、近しいところにいた先生に比較され続ける人生なんて、耐えられんかったんと違うかなあ。いや、己の人生を呪ったとしてもおかしくはない」
そうか……と森岡は心の中で呟いた。彼は、書生の頃に感じていた谷川東良の屈託の正体をようやく突き止めたような気がしていた。
「そこから、神村先生に対する憎しみが生まれたというのね」
「せや。その上に女のことや。これが、東良の心を折る決定打になったのと違うかな。『僧侶としてだけではなく、ただの男としても先生に勝てんのか』ってな」
「沙紀さんね」
「東良は家を捨てられなかったのに、先生は捨てる覚悟を示された」
「そうかなあ。神村先生には失礼だけど、自坊の寺格が違うのだから仕方がないと思うわ」
茜の考えはもっともだった。
だが森岡は、
「それが違うのや。東顕上人は、東良の覚悟の程を確かめようと思われたんやないかな。厳しい選択を迫られたのもそのためだと思う。東良もその意図を後になって悟った。だから、即座に覚悟を見せられた先生に敗北感を味わったのだと思うよ」
とやんわりと否定した。
「洋介さんの言いたいことはわかるけど、だからといって宗教に携わる人にそこまでできるものかしら」
茜は、未だ納得の行かない顔をしていた。
「茜、それが逆のことも多いんや。御前様が俺にこう仰ったことがある。『宗教人やから、しかもなまじ才能があったり、名門の家系に生まれたりした者に限って、嫉妬とか憎悪は増幅される』とな」
「それで、自分が味わった挫折を先生に味合わせたかったというのね」
「そういうことやな。でもな、それはもちろん許せんことやが、人として、気持ちは理解できんこともない。せやけど」
「どうしたの」
「い、いや、止めとく。これはもっと醜くておぞましいことやし、まだ取りとめもないことやから裏を取らんと話はできん」
森岡は唇を固く結んだ。
彼は神村の死に関して、東良と沙紀の二人により重大な疑惑を抱いていたが、それ以上話すことを止めた。
谷川東良と神村沙紀に不審を抱いた森岡は、かつて京都山科の霊園地を巡る神栄会との売買交渉の際に知己を得た大阪府警の佐古刑事に、関西循環器病院の医師から神村正遠の病状の推移について情報を得るよう依頼する。
守秘義務のある医師が第三者の森岡に黙秘することを計算の上で、現職刑事に聞き取り調査を依頼したのだった。
数日後、森岡は佐古刑事から調査結果の報告を受けた。
それによると、最初の診察は昨年の十一月で、大本山本妙寺新貫主選出の会議を前にして体調に異変を感じた神村が、念のため人間ドッグに入ったときだったという。そのとき、肝臓癌であることが判明し、医師はとりあえず沙紀にのみ告知し、本人に知らせるかどうかは彼女の判断に任せたというのだ。
診察した医師の話によれば、比較的発見が早かったこともあり、治療に専念さえすれば完治の見込みが十分あると告げていたので、当然彼女は本人に告知するものだと思っていた。
それから約七ヶ月後の今年六月、体調を崩した神村が一人で再来院した。おそらく、本妙寺晋山式を無事に終え、それまでの緊張から解放されて、気力体力が劇的に劣化したのであろう。
その際、本人が告知を希望したので、疑念を抱きながらも病名を告げたということであった。診察した医師は、初診のとき直ちに治療を受けるよう沙紀に進言したが、その後来院がないので、てっきり他の病院で治療を受けているものとばかり思っていた。
ところが、本人を再診察してみて、全く治療を受けていないどころか、養生さえもしていないことを知り、自殺行為とも取れるその所業に驚いたということだった。
だが、医師の不審はそれだけではなかった。肝臓癌と告知された後も、神村自身が治療に専念しなかったのである。
――先生はご自身が肝臓癌であることを知っておられた。それなのに何故、治療を拒むという自殺行為を選択されたのだろうか。
森岡は頭を悩ませた。あれほど苦労して就いた大本山本妙寺貫主の座である。たとえ、完治の見込みがないとわかり衝撃を受けたとしても、神村ほどの精神修養をした人間が自らそれを縮めるような自暴自棄に陥るものなのだろうか。
森岡が知る神村は、断じてそのような心の弱い人間ではなかった。
――肝臓癌の告知の他に、神村を絶望の淵に追い込んだ何かがある。何かが……。
漠然としていた疑念が徐々に形付けられて行ったとき、森岡は身の毛もよだつある仮説に辿り着いた。
神村正遠が生存中のあるときから、谷川東良と神村沙紀が不倫関係を結んでいたとしたら、という仮説である。
沙紀は、神村本人が知る前に肝臓癌であることを知っていた。にもかかわらず、治療を進めた形跡が見当たらない。仮に沙紀が東良に相談したとき、二人が共謀して神村の命を縮めんと欲したとしたら……。実におぞましい事であるが、考えられなくもない。
神村は、功労者である東良を新執事長に抜擢した。神村の後継貫主となる資格のない東良にはとりあえず執事長を務めさせ、本妙寺の後継は先を見てゆっくりと決めようというものだった。
二人は晋山式に向けて相談する機会が多かったに違いない。東良は、神村が肝臓癌であることを知りながら、素知らぬ顔で会う度に、いや以前にも増して頻繁に神村を酒宴に誘っていたと推察される。
その時期は、森岡が会社の仕事に没頭していた頃と重なっている。
しかも谷川東良は、その頃から飲食のツケを回さなくなっている。それも北新地のロンドだけではない、本妙寺での宗務のためにと、わざわざ用意した祇園のクラブ菊乃にも二人は顔を出した形跡がない。きっと、情報が伝わるのを警戒して避けたのだ。
ああ、そうだったのか……と森岡の脳裡をもう一つの連想が奔る。
――栄覚門主は、谷川東良から先生の身体の異変をいち早く耳にしていたのだろう。
そう考えれば、懲罰委員会後の一色魁嶺の行動も得心がいった。栄覚にとって本妙寺貫主の神村は敵ではない。法国寺貫主の神村も恐れる存在ではない。法主の座を競うときの神村が邪魔だったのだから……。
森岡は瑞真寺で面会した折の、栄覚門主の泰然自若とした振る舞いを思い出し、十年後にさえ神村が生きていなければ、本妙寺の貫主の座などくれてやるという、敵に塩を送る余裕すら窺わせた彼のやり様に得心した。
さて病院へ行き、妻の沙紀が半年も前に、自分の病を知っていた事実を知ったとき、彼女の不自然な言動に気が付いた。
――もしや先生は、自分が肝臓癌であると知ったことを隠し、その後の沙紀の言動を探られたのではないか。そして、沙紀と東良との不倫関係も、また東良も全て承知している事実も知ってしまわれた。
愛妻と朋友――。
共に信じていた二人に、同時に裏切られたとしたら……しかも彼らは、共謀して自分の命を縮めようと画策している。そのときの神村の心境はいかばかりであったろうか。いかに神村といえども、現実を虚しく思い、自暴自棄になっても不思議ではない。
神村は己が出来得る精一杯の抗議として、就任して僅か四ヶ月にも拘らず、東良を罷免したのであろう。
最後の面会のとき、去り際に神村が投げ掛けたのは、やはり「無念」だったのだ。そしてその思いは、早過ぎる死に対してではなく、この裏切りに対してのものだった……。
そのように考えれば、最上稲荷での実母栄観尼の叱咤とも一致する。
森岡の顔面が沈痛に彩られた。
いや、そうではない……と森岡は頭を何度も振った。
――先生は自暴自棄ではなく、ただ流れのままに身を委ねられただけなのかもしれない。先生にとってこの世はあくまでも仮の世。輪廻転生を繰り返し、いずれは天界におわす、栄真大聖人の許へ召されることを願っておられた。そのような先生にすれば、彼らの行動もまた、天命として受け入れられたのではないだろうか。
森岡はそのように考えたかった。そうでなければ、あまりにも神村の心が痛ましかった。
森岡は自身の仮説が正しいかどうか、検証することはしなかった。裏付けを取らなくとも確信に満ちていたからであり、何よりも神村が第一義的に求めるものは、決してその様な些末なことではないと考え直したからである。
その代わり、怒りを静かに心の奥深く沈めて行った。マントル内で沸々と煮えたぎるマグマのように、欲すればいつでも噴火する準備をして……いつの日にか、必ずや二人に天誅を加えるとの決意を固めて……。