黒い聖域   作:安岡久遠

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いよいよ、最終章です。

思えば、最初は原稿用紙700枚の予定でした。
それが、おそらく5倍以上になっているのではないでしょうか。
もちろん、長編であれば良いというのではありませんが、我ながら良くここまで書き続けられたと達成感に浸っています。

それも応援して下さった皆様のおかげだと感謝しています。

とくに紅野生成様には多大な応援をして頂きました。
この場を借りて厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。



第六巻 決意の徒 終章・立命

 お盆から二ヶ月後、小夜子と安住寿美子の家族は森岡洋介の提案を受け入れ、彼の用意した大阪箕面のマンションに引っ越して来ていた。

 茜と小夜子、寿美子の両名は日頃から頻繁に行き来し、週末には二家が森岡のマンションで夕食を共にした。そうして、森岡と小夜子は空白となった長い歳月を埋め始めていた。

 また安住慎也は、ウイニットの経理課係長として池端勲夫の指導下にあった。

 

 実に平穏な日々を送っていた、そのような折のことである。

 ソファーに座って愛娘の愛夢をあやしていた洋介の横に茜が腰を下ろした。

「ねえ、洋介さん。私、谷川さんのことで、ちょっと気になる話を耳にしたの」

 茜が躊躇いがちに声を掛けた。

「谷川? それはまた、因縁の名前が出てきたな」

 洋介は何事だろうと首を捻った。

「いまさら、洋介さんに話すのもどうかとは思ったけど、後で洋介さんの耳に入ったとき、私が知っていながら教えなかったと怒られるのは嫌だから、今話そうと思うの、良いかしら」

「なんや、前置きが大そうやな、いったい何を聞いたというんや」

「洋介さん、真奈美ちゃんって覚えている」

「真奈美? ああ、覚えているよ。茜が、ロンドのちいママにと口説いているホステス(こ)やろ。確か、ピアジェだったかな」

 そう、と茜が頷く。

 茜はロンドの権利の半分を知人に譲り、現場での接客からは退いていたが、共同経営者としてロンドの運営には携わっていた。

「折を見て、ピアジェのママにお願いに上がろうと思っていたの」

「その彼女がどうかしたのか」

「真奈美ちゃんとは、私がロンドに出なくなってもたまに連絡を取り合っていたの。その彼女が、遅くなったけど出産祝いもしたいし、相談にも乗って欲しいと、今日久しぶりに訪ねて来たのね」

「それで」

「そのとき、彼女が嫌な話をしたのよ」

「嫌な話って」

「ピアジェにね、沙紀さんがやって来たらしいの」

「沙紀って、神村先生の、か」

 はい、と茜が顔を歪める。

「そのとき、沙紀さんと谷川さんが一緒に暮らしているような話を聞いたって言うのよ」

 茜は洋介の顔色を窺うように言ったが、

「やはり、そうなったか」

 と、洋介は気にもならない様子で応じた。

「先生が亡くなられて一年余りか。ちょっと早過ぎる感じはするけど、薄々わかっていたいたことやからな」

「私もね、洋介さんから話を聞いたとき、先生を亡くして寂しい思いをしていらっしゃった奥様が、先生の友人だった谷川さんを頼っても不思議ではないと思っていたんだけど、本当に一緒になったかと思うと、複雑だわ」

「気分が悪くなるから、その話はもう止めよう。それより、肝心の相談っていうのは何んやったん」

「それが、それも沙紀さんのことだったの」

「真奈美ちゃんが、か?」

 今さら、北新地のホステスと沙紀との間にどういう関係があるのだろうかと、洋介は訝った。

「それが、沙紀さんがピアジェに来店したのはスカウトだったのよ」

「スカウト?」

 どうにも洋介には話が見えない。

「沙紀さんが北新地で『瑞紀(みずき)』というクラブを開店するので、真奈美ちゃんにちいママ待遇で来てくれないかということらしいの」

 沙紀は真奈美の連絡先を知らなかったので、客としてピアジェに顔を出し、閉店後に移籍を持ち掛けたのだという。

「みずき?」

「雲瑞寺の『瑞』と沙紀さんの『紀』を合わせて、瑞紀じゃないのかしら」

「ほう。神村先生の遺産を元手に、仲のええことやな」

 語調には皮肉の響きがあった。洋介は神村のために数億円を費やしていた。神村の遺産は、彼の資産だと言っても間違いではないのである。

「それが違うらしいの」

「違う」

 洋介は訝しい声を上げる。

「沙紀さんは誰かの援助を受けるらしいわ」

「援助となると、当然東良だよな」

「そうね」

 と、茜は頷く。

「話の様子から推測すると、大半を援助して貰うらしいのよ」

「大半だと。すると何か、先生は遺産を彼女に残されなかったということか」

 いくら神村正遠が慎ましやかな私生活を送っていたとしても、億に近い現金は残していたはずである。

 洋介は本妙寺での最後の面談を思い出していた。神村は、美咲こずえの実母の遺品を、妻の沙紀にではなく茜に贈ったのである。

 図らずも、かつて森岡が推量した谷川東良と沙紀の共謀説を裏付ける材料となった。

「大半って、いくらだ」

「そこまではわからないわよ。でも、それなりの高級クラブらしいから、権利を買取るとなると内装やら備品やら運転資金など、何だかんだで開店には二億円は必要ね」

「二億か」

 洋介が暫し思考した。

「仮に沙紀さんが法定相続分だけを相続したとして、それがいくらだったのかはわからんが、東良はまだ副住職のはずやから、そないに金を使えるとは思えんがな」

「実権は兄の東顕上人が握っておられるのよね」

「そうや、金の差配は東顕上人が…」

 と言い掛けた洋介の脳裡に、ふいに二年前のある光景が浮かんだ。

――ま、まさか……あの人が……そういうことだったのか……?

 洋介は苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「なあ、茜。ピアジェのママと話ができんかな」

「どうかな。頼んではみるけど、谷川さんが上客だったら、難しいかもしれないわよ」

 茜は前もって断りを入れた。高級店になればなるほど、客に関してママの口は堅くなるというのは周知の事実である。

 

 後日、森岡は茜の口利きでピアジェのママの村垣裕子と会った。場所は人目を避けて帝都ホテル大阪の一室だった。 

 村垣裕子は五十歳絡みといったところか。少し太めの身体をしているが、さすがに北新地の高級クラブのママである。貫録と色気を兼ね備えていた。

 彼女は葵(あおい)という若いホステスを同道させていた。

 部屋に入って来た二人は表情が強張っていた。

「忙しいところを申し訳ありません」

 その様子に森岡が柔和な顔でに労った。

「とんでもございません。茜ママの口添えですし、今を時めく森岡社長様から会いたいと言われて断る馬鹿はおりません」

 森岡は持ち株会社の設立と社長就任の記者会見を行っていた。この様子はテレビ各局で全国放送されたため、三十八歳の彼は若き成功者として、羨望と憧憬の的になっていた。

「失礼ですが、ママさんとは前にお会いしていませんか」

「覚えていて下さいましたか」

「記憶が正しければ、茜の誕生祝いのときですね」

 はい、と村垣裕子は微笑んだ。

「私もロマネ・コンティを持参しました」

 森岡は三年前、茜と知り合った直後、彼女の誕生日に馬鹿騒ぎを起こしていた。ロマネ・コンティやルイ十三世といった高級酒が足らなかったため、知人の店から借り受けたことがあった。

「馬鹿な野郎だとお思いになったでしょう」

「とんでもございません」

 ママの村垣裕子は大袈裟に手を振った。

「あのときも、たいした青年社長が現れたものだと感心しておりましたが、まさかこのように大出世なさるとは」

 村垣裕子は感心しきりで言った。

 女性からそうまじまじと見つめられると、森岡は弱い。

「前置きはこれくらいにして、そろそろ本題に入りましょう」

 森岡は照れ隠しをするように話を替えた。

「私に聞きたいことがあるということですが……」

「茜からお聞きになりませんでしたか」

「茜ママからは、谷川さんに関することで聞きたいことがあるとだけでした。それで何をお知りになりたいので」

 森岡は一呼吸置いた。

「神村沙紀、旧姓青江沙紀が北新地に出す店のスポンサーをご存じないでしょうか」

「……」

 村垣裕子は黙って森岡を見詰めた。

 先に腹を割れ、という催促だと森岡は理解した。

「私は谷川東顕上人だと推測しています」

 彼の脳裡を掠めたのは、二年前ロンドに於いて久田帝玄の法国寺貫主就任祝勝会を催した折の、茜を見る東顕の好色な眼差しだった。

「間違いないと思います」

 村垣裕子は即答した。

――やはり、そうだったか。俺はとんだ勘違いをしていた。

 森岡は心の中で舌打ちをした。

「二人の詳しい関係をご存知ありませんか」

 裕子の口元が緩んだ。

「そういうお話だと思いまして、彼女を連れて来たのです」

「彼女を?」

 葵と紹介された女性は三十歳過ぎであろうか、取り立てて美形というわけではないが、そこはかとない安らぎを感じさせる女性である。

「葵ちゃんは、一時期谷川東顕上人の愛人だったのです」

「愛人……」

 森岡は当惑した。堅物の彼も多少は免疫が付いていたが、それでも面と向かわれると座り心地が悪い。

「私は十五年前、谷川東顕上人が沙紀さんを愛人にしたことしか知りません。その後の事は葵ちゃんの方が……」

 知っている、と村垣裕子は葵を促した。

 彼女の言葉を受けて葵が口を開いた。

 谷川東顕が沙紀を愛人にしてから二年後、そうとも知らずに東良もまた沙紀に惚れてしまい、結婚を願い出たのだと言った。

「沙紀が在日朝鮮人ということで破談になったのですね」

 名門寺院の嫁には相応しくないと東良の母と兄の東顕が強硬に反対したということになっていた。

「それが違うらしいのです」

「違う……何が」

「沙紀さんは在日朝鮮人でなく歴とした日本人です」

「本当ですか」

 森岡が驚きの声を上げる。

「破談にするため、東顕上人と沙紀さんが口裏を合わせたのです」

「なんと、そこまで東顕は沙紀に執着していたのですね」

「はい。でも、神村上人のときは同じ手が通用しませんでした」

 神村が、沙紀を一旦旧知だった伊勢神宮の外宮の神官職を務める上正家の養女に入れるという一計を案じたため、神村の父には反対する名分が無くなったのである。

「それに沙紀さん自身が東良上人のときとは違い、ずいぶんと乗り気だったのです」

「それはまたなぜ」

「一つは神村先生の名声です」

「なるほど」

 確かに、神村の名声は谷川東良とは比較にならない。夜の世界で生きてきた沙紀が、表のステータスを感じたとしても無理はない。

「他には」

「最大の目的は金銭です」

「金銭」

「沙紀さんは非常に強欲だと言っていました」

 東顕が寝物語でよく話したのだという。

 青江沙紀は在日朝鮮人ではなかったが、北陸の貧しい家の生まれだった。とにかくその日の暮らしにも困るほどで、少女時代の沙紀は、深夜に他人の畑の作物を盗んで空腹を満たしていたという。

 中学を卒業して大阪の町工場の事務員となったが一年で辞めた。その後、職を転々とし、二十歳のとき大阪十三(じゅうそう)の場末のスナックに務めた。

 夜の世界が天職だったようで、二十二歳のとき北新地のクラブから勧誘され、二十五歳のとき高級クラブ・ピアジェに移ったのである。

 三年後の二十八歳のとき、谷川東顕の愛人になり、神村と結婚したのは三十二歳のときである。神村は四十六歳、十二度目の荒行を成満した年の秋だった。

 ともかく、少女時代のトラウマなのか、沙紀の金銭欲は尋常ではなかった。

 葵は接客のときに、少しでも金を渋ったりすれば、たちまち誰かに乗り換えられてしまうだろうという東顕の愚痴を何度も聞いた、と言った。

 葵の話に、森岡は首を傾げた。

「それは解せないな。憚りながら神村先生の経王寺は檀家もいない典型的な貧乏寺だった。名声より金銭の方が重要目的なら東良と結婚した方が確実だと思うが」

 森岡は、なぜ沙紀が東良との縁談を避けたかわからなかった。

 葵は淡々と言った。

「仮に東良上人が後を継いでも、金が自由に使えるようになるまで最低でも十年は掛かるでしょう」

 名門寺院である雲瑞寺は、先代の遺言で東顕の後は弟の東良が継ぐことになっていた。

「言われてみれば……しかし、金に関しては先生も似たり寄ったりのはずだから、東顕の愛人のままの方が良かったんじゃないかな」

 ステータスという点では、神村には及ばないものの、谷川東顕もそれなりの高僧であるし、何といっても雲瑞寺は室町初期から続く名門寺院である。

「沙紀さんも当初はそう思っていたようです」

「それが、なぜ気が変わったのかな」

「神村上人がATMを所有していらっしゃると知ったからです」

「ATM……」

 思いを巡らした森岡は、

「上手いこと言うな」

 と自嘲した。

 神村のためであれば、無条件で金を提供していた自身のことだとわかったのである。

「誤解しないで下さい。これは沙紀さんが東顕上人に言った言葉ですから」

 葵は慌てて弁解した。

「わかっています」

 と、森岡は優しい笑みを零す。

 沙紀が神村と知り合ったとき、森岡はまだ二十六歳だったが、このときすでに二十億円以上の資産を手中にしていた。時代はバブルの絶頂期で、森岡は株式相場などで儲けた金を神村のために惜しまず使っていた。

 神村は大阪の経王寺の他に、地元鳥取県をはじめとして全国四ヶ所に個人名義の単立寺院を所有し、いすれも総本山滝の坊の弟弟子に任せていたが、それらは全て森岡が購ったものだった。

――俺は沙紀に嫌悪感を抱いていた。それに感づいた沙紀が、仏事以外の金は思っていたほど当てにならないと悟り、東顕と寄りを戻す気になったとしても不思議ではない。

 そう推量した森岡が遠慮がちに口を開いた。

「大変失礼なことをお聞きしますが」

「どうぞ、ご遠慮なく」

 葵は覚悟していたかのように微笑む。

「葵さんが、その、東顕の愛人だった期間はどれくらいでしょうか」

「約四年です」

 葵は即座に答えた。

「その間に、東顕と沙紀が密会をしたという事実はありませんか」

「確証はありませんが、時折会っていたと思います」

 森岡は間違いないだろうと思った。女の勘は鋭いと承知している。その後、神村の病気が契機となり、本格的に元の鞘に収まったということなのだろう。

「言い難いことをよく話して下さいました」

 森岡は頭を下げると隣室から宗光賢一郎を呼んだ。

 宗光から茶封筒を二つ受け取り、ママと葵の前に置いた。

「これは今日のお礼です」

 封筒の厚さから三百万円だと推察された。

「こんなには」

「とんでもない」

 二人は揃って遠慮した。

「これには口止め料も入っています。今回の事は決して他に漏らさないで頂きたい」

「それはもう。商売柄、口の軽いのは命取りになりますから」

 秘匿するとママが言い、葵も神妙に肯いた。

「では、お納め下さい。それと、ママへの謝礼としてもう一つ。たまにですが、今後はピアジェにも顔を出しましょう」

「本当ですか」

「ただし、万が一店で東顕と鉢合わせをしても、私は何もなかったように接しますので、お二人も合わせて下さい」

「それは、ご懸念には及びません」

 村垣裕子が眉を顰めた。

「何かありましたか」

「沙紀さんが店を出すのですから、いまさらピアジェ(うち)などに顔を出さないでしょうし、それどころかうちの女の子を何人も引き抜きましたから、ばつが悪いでしょうよ」

 村垣裕子は憎々しげに言った。義理を通した真奈美が彼女に報告したため、事が露見したのだという。

「ホステス不足に悩んでいるのですか」

「最近は良い女の子がなかなかいませんので」

「そういうことでしたら、私の知人がホステスの派遣事業をしていますから相談に乗らせましょうか」

 児玉桜子は、東京でホステスの派遣事業に乗り出していた。事業は至極順調で関西に手を拡げたばかりだった。

「それは助かります。何といっても、森岡社長さんは北新地のママたちの間で評判ですから」

「まだ、あの馬鹿騒ぎの噂が消えていないのですか」

 森岡は当惑顔を隠せない。

「そうではありません。もちろん、あの豪遊話も時折口の端に上りますが、他にも心当たりがございましょう」

「馬鹿騒ぎではないとすると、はて何のことやら……」

 森岡は首を傾げた。

「花園の綾音ちいママを紹介したのは森岡社長さんとか」

「ああ、そのことですか。あれは茜が園子ママに引き合わせたのですよ」

「でも、すすきので彼女を見つけたのは社長さんでしょう」

「それは、まあそうですが…」

 森岡は歯切れの悪い返事をした。

 森岡は佐伯知草との約束を守り、事前に綾音を茜に引き合わせて、彼女から花崎園子に紹介して貰った。花崎園子は一目で綾音を大いに気に入り、入店二ヶ月後にはちいママに昇格させていた。

「園子ママは、これで茜の後釜が見つかったと、それはもう上機嫌ですのよ」

 花崎園子は、クラブ花園を茜に継いで欲しいと願っていたが、森岡との婚姻で夢を絶たれてしまっていた。

 人間国宝の仏師北大路無楽斉と面談すべく北海道に渡った際、森岡は札幌すすきののクラブリッチで綾音と出会い、ホステスとしての能力の高さに感心した。

 そして、リッチのママの佐伯知草から綾音が東京か大阪のクラブで働く希望を抱いていると聞いた森岡は、綾音であれば茜の代わりが務まるのではないか、と茜を通じて園子への橋渡しをしたのだった。

「森岡社長さんが推薦されるお方なら安心して相談が出来ます」

 村垣裕子は信頼の目を向けて言った。

「そうですねえ、もし契約が纏まるようでしたら、ピアジェを会社の接待用の店に加えましょう」

「えっ、本当に」

 村垣裕子の顔がぱあっと明るくなった。

 森岡は会社を特定しなかった。持ち株会社なのか、ウイニットなのか、あるいは味一番も含まれるのか。しかし、この際そのようなことは問題ではなかった。森岡のお大尽ぶりは有名である。そのお裾分けに預かっただけでも相当な実入りとなることが期待できた。

「葵さんへのお礼としては、今後何か困ったことが有ったら遠慮なく相談して下さい。できる限り力になりましょう」

「それは……」

「ただし、私との色恋というのだけは勘弁願います」

 森岡は照れたように言った。

「もちろんです。そんなことをしたら、茜ママに殺されてしまいます」

 葵も屈託のない笑顔で応じた。

 

 西中島南方の新社屋に戻った森岡は、さっそく伊能剛史を部屋に呼んだ。大阪にも事務所を開いた伊能は、東京事務所を部下に任せ大阪に赴任していた。伊能も含めた大阪事務所のメンバー四名全員が森岡専従で、不足のときは東京から応援部隊が投入される。

 森岡は谷川東顕の身辺調査と、神村が本妙寺の貫主に選出された以降、京都の夜を誰と過ごしていたかを調査依頼した。神村の病気を知って酒宴に誘ったのは、東良ではなく東顕だと睨んでの裏付け調査である

 しかして、森岡の推察通り、神村を酒宴に誘っていたのは東顕であった。

 裏切者が谷川東顕であれば、かつて総本山の控えの間から流れた芦名泰山の風聞も彼の策謀だったと理解できる。

 身辺調査の報告から、かつて森岡が東顕に抱いていた、なぜ宗門での出世を目指さないのかという疑問も氷解した。

 実は、東顕は先代の妾の子供だったのである。

 誤解を恐れずに言えば、戦前から戦中、戦後の一時期までのいわゆる妾というのは、現在の愛人とは少々事情が違う。当時は食糧事情も悪く、特に戦争未亡人の生活は困窮を極めていた。

 したがって、比較的裕福な者が妾として生活の面倒をみることは救済の意味もあったのである。むろん、人倫の道に外れていることは否めないが、それでもその大半が色欲を満たすことが目的の現在とは意味合いを異にすると思う。

 ともかく、東顕は十三歳までは外で育った。

 だが、正妻との間に子供が生まれなかったため、先代は終戦を機に雲瑞寺の跡継ぎとして受け入れ、得度させた。

 ところが、養子縁組をした途端、本妻が身籠るというのはよくある話で、雲瑞寺もそうだった。

 名門とか名家、旧家の長男に嫁ぐと、周囲からの熱い期待もあってか、どうしても精神的に追い込まれてしまう。本人も極度の責任感からホルモンか何かのバランスが崩れ、妊娠し難い体質になってしまうのであろう。さしずめ、灘屋に嫁いだ小夜子もそうであった。

 ところが養子を得て要らぬ緊張感から解き放たれると、心身ともにリラックスした状態に戻り、子宝に恵まれるということなのだろう。先代夫婦も同様であったらしく、諦めていた本妻との間に男子が生まれた。

 それが東良である。

 しかし檀家の手前もあって、いまさら東顕を還俗させるわけにもいかなかった。また、終戦直後の混乱した時代である。医療や食糧事情も不透明であったから、無事に成人するかどうかも定かではない。諸事情を勘案した雲瑞寺の先代は、東良の成長を待って判断するつもりでいた。

 

 ここに一つの誤算が生じた。

 東顕が殊の外優秀だったのである。

 二十三歳で最初の百日荒行を成満すると、さらに三年後、六年後と立て続けに三度の荒行を達成してしまった。東良は十四歳になっていたが、とてものこと東顕を雲瑞寺から追い出すことなどできなくなった。ちなみに、二十三歳での達成は菊池龍峰に破られるまで天山修行堂の最年少記録だった。

 しかし、東顕を後継者とすることには、本妻が猛烈に反対した。自身が生んだ東良を差し置いて、外で産ませた子など言語道断だったのである。

 板挟みになった先代住職は知恵を絞った。

 そして出した答えが、東良を後継者とする旨の一筆を条件に、一旦東顕を住職に就かせることだった。

 東顕はその条件を飲んだが、約束を守るつもりは毛頭無かった。むろん、弁護士を介在した正式文書であるから、正面切って反故にするわけにはいかない。そこで自身の栄達を諦め、雲瑞寺の宗務に専念したのである。

 もし東顕が、大本山や本山の貫主に就任すれば、自坊雲瑞寺の宗務は東良に任せなければならなくなる。自身の長男はまだ学生であり、東顕の代わりは務まらなかった。

 東良が宗務実績を積むことは、何としても避けなければならない。東顕が六度の荒行を成満していながら、個人の名誉となる貫主の座を目指さなかった真の理由だった。その代わりとして、関西寺院会の会長という政治の道を選んだのである。

 一方で先代も、東顕の一筆と自身の遺言書以外にも手を打っていた。

 言わずと知れた神村正遠である。

 先代が亡くなる前年には、若くして荒行を八回成満し『天真宗にその人有り』と名を轟かせていた神村に東良の後見を依頼し、息子の行く末を託したのである。

 東顕は焦った。神村が宗門内で出世を重ね、その結果東良の立場が堅固になれば、遺言に従って後継の座を渡さなければならなくなる。

 神村が天真宗の要職に就くことを阻止しようとした理由だった。

 

――東顕は雲瑞寺と法国寺執事長の座、そして沙紀の一挙両得ならぬ、三得を狙って先生の命を縮めたということか。

 洋介は腸の煮え返る思いに身を震わせていた。 

「また考え事ですか」

 茜が愛夢をあやしながら、森岡に近付いて来た。

 柴犬のゴンが、護衛とばかりに茜の足元に付き従っている。

「愛夢を抱かせてくれ」

 洋介が両手を差し出したが、

「駄目よ、いま洋介さんの口からは醜悪な息が漏れているもの」

 と、茜は愛夢を遠ざけるようにした。

「醜悪……」

 洋介がゴンに向かって、はーと息を吹き掛けようとすると、彼は露骨に嫌そうな顔をしたが、その場を立ち去ろうとはしなかった。

「以前は逃げたのにな。ゴンは愛夢を妹と思っているみたいやな」

 苦笑いをした洋介が、

「宜しく頼むぞ、ゴン」

 と笑顔で頭を撫でてやると、ゴンは嬉しそうに目を細め、はち切れんばかりに尻尾を振った。 

「何を考えていたの」 

「谷川兄弟のことや」

「まだ何かあったの」

「以前、俺が東良上人を非難したことがあったやろ」

「嫉妬とか、憎悪とかの件ね」

「そのことやが、俺の誤解やった。東良上人が抱いていると思っていた先生への感情は東顕の方やったわ」

「まあ、そうだったの」

 驚きを隠せない茜だったが、

「でも、間違いないの」

 と念を押した。

 洋介は類稀な洞察力の持ち主である。その彼が一旦は東良を疑ったのである。

「ああ、間違いない。東良上人を疑う原因となった彼の言動だが、実は栄覚門主の依頼を渋々受けていたんや。だから、本妙寺のときも法国寺のときも積極的でなかったんやな。それに、相手が栄覚門主となれば、いかに神村先生といえども敗色は濃厚やからな。悪足掻きすればするほど先生の傷が深くなると思っていたんやろ」

 醜聞によって久田帝玄の進退が規律委員会に掛けられたとき、洋介の行動に箍を嵌めようとしたのは、神村が被るであろう痛手を和らげるためだったのだろう、と洋介は理解した。

「でも、どうして東良上人は門主様の依頼を受けたの」

 神村への屈託がないのであれば、拒否するはずでは、と茜は訊いた。

「それはな……」

 洋介が真相を話し出した。

 

 

 洋介は伊能剛史の報告を受けた後、栄覚門主と連絡を取り、谷川兄弟との関わりを確認していた。

 森岡は栄真大聖人の処女作である釈迦尊像を瑞真寺に返還していた。

 この春に行われた居開帳で関係者にお披露目され、年末までの予定で開催中の「日本仏教秘仏秘宝展」にも出展されている。よって、人間国宝の北大路無楽斉に製作依頼した模倣仏は、前立仏として常時拝観できることになった。

 栄覚門主は森岡との約束を守るため、年明け早々にも修行のためタイへ旅立つ予定になっている。

 さて栄覚門主の話に寄ると、東良は栄覚の再三の依頼を断っていた。東良が十五歳も離れた腹違いの兄東顕より、年が近く一緒に遊んでくれた神村を実の兄とも慕っていたのは真実で、沙紀のことも神村であれば仕方がない、と気持ちの整理を付けていたらしい。

 森岡が学生時代に感じていた東良の屈託は、神村に対してではなく異母兄の東顕に対してのそれだったのだ。

 ただ、谷川東良には栄覚に借りがあった。

 タイでの遊学中、パスポートや所持金の盗難に遭い、帰国がままならない状態から救い出してくれたのが、同じく修行に訪れていた栄覚門主だったのである。

 そのとき栄覚は、東良の生家が瑞真寺と縁のあった雲瑞寺だということも知ったのである。

 栄覚から何度も頭を下げられた東良は、やむなく神村の情報を提供するだけという条件で承諾したというのが真実だった。

 対して、東顕は自ら協力を申し出ていた。東良の行動から栄覚門主と繋がっていると知った東顕は自身の栄達のため近づいていたのである。

 貫主の道を諦めていた東顕だったが、ここにきて事態は好転していた。東良の最大の庇護者だった実母、つまり東顕にとっての義母が逝去したのである。

 東良は東顕の一筆と先代の遺言書を所有しているが、檀家の支持を得ることができさえすれば、それを無力化できると東顕は考えた。

 事実、榊原壮太郎の調査で、檀家総代や幹部たちは東顕の意向に賛同していると判明した。

 雲瑞寺の後継者の座を自身の長男に譲る算段が立てば、遅まきながらも次は自身の栄達というわけである。そこで東顕は、別格大本山法国寺の執事長の座と引き換えに、栄覚門主に協力を申し出たという経緯だった。

 この背景に、雲瑞寺の先祖が室町時代の瑞真寺建立に奔走した協力者の一人だったという宿縁があったことは言うまでもない。

 ただ栄覚は、話の最後に謎の言葉を吐いた。谷川東顕は、表向き栄覚の指示に従っているように見せてはいたが、別の第三者の意志も汲んでいたようだと言うのである。

 別の第三者とは誰なのか?

 栄覚以外に神村に含む者がいたというのであろうか。

 だが、それ以上のことは栄覚にもわからないということであった。

 

 ふふふ……と洋介は弱々しい笑みを浮かべた。

「どうかしたの」

「三年前の初夏、俺たちが初めて会った日のことを憶えているか」

「もちろんよ。奥埜会長と私がチンピラに絡まれているところを洋介さんと坂根さんが助けてくれたんだもの」

「実はな、その車中で坂根が、社長は神村先生のこととなるとまるで人が変わってしまいますね、と言ったんや。俺は苦笑いをするしかなかったのやが、確かに坂根の言う通りやった」

「目に霞が掛かりますか」

 うむ、と洋介は肯いた。

「谷川兄弟のことは心の片隅に引っ掛かっていたんだと思う。だが、神村家と谷川家が先代からの昵懇の仲という事実が邪魔をしていた」

 茜は洋介の横に座った。

「それで、雲瑞寺はどうなるのですか」

「東良上人は、また雲隠れしたらしい。つくづく政争に嫌気が差したんだろうな。いや、もしかしたら東顕と沙紀の仲を知ったのかもしれんな」

「まさか」

「経王寺の正胤上人が、雲瑞寺で沙紀の姿を何度も見たということや。二人も十分注意を払っていただろうが、偶然目にすることだって有り得る。もし、それがきっかけで過去の真相も知ったら……」

「過去って」

「東良上人が沙紀を見初めたとき、すでに東顕と沙紀は愛人関係にあったんや」

「酷いことを……」

 茜は手に口を当てて呻いた。東顕の忠告は、東良の沙紀への想いを断ち切る策略だったと悟ったのである。

「でもな、茜。言葉は悪いが、兄のお下がりだったわけだから、破談になって良かったのかもしれんぞ」

「……」

「後で事実を知ったらもっと酷いとは思わんか」

「それもそうだけど……」

 それとも……と洋介が切ない顔をした

「東良上人はこの世の無常の極みに耐えられず、旅に出たのかもな」

「無常の極み?」

「先生が東良上人の執事長の職を解かれたとき、ご自身の余命を告白されたのかもしれんし、告白されんでも、先生の急変ぶりに真実を理解したとも考えられるやろ」

「神村先生ほどの偉大なお方でも、運命には抗しえないってことね」

「うん」

 洋介は東良の心境を、神村の葬儀後に失踪した自身に照らし合わせていた。

 茜は複雑な表情を浮かべながら、

「じゃあ、雲瑞寺は東顕上人の息子さんの手に渡るのね」

 と訊いた。

「いや、そうはさせん。東良上人が継いでくれればそれが一番やが、そうでなくても、どんな手を使ってでも東顕の思い通りにはさせん」

 洋介は厳しい顔つきで言った。

「そうでもしなければ先生の霊は浮かばれん」

 茜は黙って肯いた。

「なあ、茜。いまさらながら、つくづく思い知らされるのは、この世は人の縁というものが大きいということなあ」

「人の縁、かあ」

「多かれ少なかれ、人は誰でも挫折や苦難に見舞われるやろ。自分一人で立ち直れんときもある。そういったときに、手を差し伸べてくれる人が傍に居るか居らんかで、その後の人生が大きく変わるということや。そう言う意味では、いつか坂根や茜の言ったように、俺は運が良いのかもしれん」

 洋介は感慨深げな顔で言う。

「本当にそうかもね。洋介さんはあれだけ悲しく、辛い目にあったのに、このような現在(いま)があるのは、傍に信心深かったお祖母様がおられたことや、神村先生に出会えたからですものね」

 茜もしみじみと答えた。

「茜だってそうやで」

「私?」

「花園の園子ママに見出してもらったやろ」

 そうね、と茜が大きく頷く。

「園子ママのお陰で、こうして洋介さんと一緒になれたのですものね」

 茜は、そっと洋介の肩に首をもたれた。

「それに比べて、菊池龍峰や谷川東顕はなんと愚かな人生やろうか……。菊池は名門とはいえ地方寺院に養子に出され、東顕は妾の子として生まれ育った。共に才能がありながら、不条理な境遇に屈辱感を抱いていたことはわかる。わかるが、周りに人が居なかったのかなあ。あるいは居てもそれに気づかなかったのか……いずれにしても、二人共荒行を六回も成満した一廉の仏教徒でありながら餓鬼、畜生の世界に自ら転落してしまった。これ以上の皮肉なことがあるやろか」

「虚しいわね」

 茜が嘆息した。

「ああ、虚しい。実に虚しいことやが、よくよく考えてみると、結局俺かてなんにも見えてはいなかったんやな。小賢しい策ばかりを弄して、肝心なことは何一つわかっていなかった。その挙句に、一番大切な先生の命を奪われてしまった」

 洋介は虚ろな目で深く嘆息すると、自問自答した。

 神村への助力を口実に、極道者や詐欺師など、闇社会の人間たちとも積極的に関わった。幾度もの荒行を達成した高僧を俗物と蔑み、卑劣な罠に掛けたりもした。後悔はしていないが、手段を選ばぬやり口は徳も品格もあったものではなかった。

――はたして己の所業は、天の許すところであっただろうか。いや天より、神村先生はどのような想いで俺を見ていらっしゃったのだろうか。

 洋介はソファーから腰を上げ、窓を開けて空を見上げた。

 西の空は茜色に染まり、反射した光は彼の顔もまた赤く染めた。

 

 茜は愛夢をソファーに横たえると、洋介の傍に寄って来て、手を握った。

「ねえ、洋介さん」

「なんや」

「今更だけど、洋介さんに謝らなければならないことがあるの」

 茜はあらたまった物言いをした。

「謝るって、何を」

「いつか洋介さんが凶刃に倒れたときね、私に看病を依頼したのは、実は神村先生だったの」

「なんやて!」

 洋介は驚きの眼で茜を見つめた。

「野島やなかったんか」

「先生からのご依頼で身支度をしているとき、野島さんからも電話があったの」

「何で、先生が知っておられたんや」

「坂根さんから、お聞きになったらしいわ」

「坂根が? そんなことはないやろ。坂根は、先生には黙っていたと言ったで」

「坂根さんの話では、事が法国寺に移ってまもなく、神村先生から極秘に呼び出され、『森岡君には内緒で、彼の行動を報告して欲しい』と言われたのだそうよ。先生のことになると、洋介さんは見境がなくなるし、身の危険も厭わないでしょう。先生はそのあたりを案じられ、『窮地に陥ったときは必ず』と、坂根さんに厳命されたらしいわ」

「そうだったのか………」

 洋介は言葉に詰まった。.

「坂根さんを怒らないでね。彼自身も、いざというとき神村先生を頼れるということが、どれほど心強かったことかしれないわ」

「わかっている」

 頷いた洋介に、茜は絞り出すように言葉を紡ぐ。

「だから、洋介さんが神栄会に拘束されたとき榊原さんに連絡されたのも、宝物の件で八方塞になったとき、総務さんに相談するよう私に知恵を授けて下さったのも、そして洋介さんの過去が週刊誌に掲載されたとき、大物政治家に相談されたのも、最後に坂根さんが虎鉄組に拉致監禁されたとき、宗光さんに連絡なさったのも全て、全て神村先生だったの」

「そうだったのか」

 洋介は瞠目した。

 かつて霊園地買収を巡って神栄会に拘束されたときの、 榊原壮太郎からの電話は偶然でも何でもなく、茜の総務清堂と面会せよとの説得が自信に溢れていたのも、確たる拠り所があったからなのだ。 

 出版社が態度を急変させたのは、神村がさる元首相経験者に仲裁の労を願ったからであった。その元首相の在任中、内閣官房長官を務めたのが監物照正であった。

 さすがの監物も、己を引き立ててくれた恩人の仲裁には折れざるを得なかったというのが真相であった。

 奈良岡真篤の孫弟子に当たる宗光賢治が、後継者と目されていた神村からも教示を受けていたことは、仕手戦の後始末を依頼したとき宗光本人から聞いて知っていた。だた、誰が神村に知らせたかは不明のままだった。唐橋大紀との面会のために東京へ出発した後、茜が神村に連絡したと聞いて森岡は得心した。

「神村先生はね。何もかもご存知だったの。何もかもご存知で、知らぬ振りをされ、洋介さんには黙っているようにと、私と坂根さんに頭を下げられたの。洋介さんを深く想う先生の気持ちに、私も坂根さん感動したわ。だから、ずっと隠しておくつもりだったけど、先生が亡くなられて一年も経ったのだから、そろそろ話しても良いかなって思ったの」

 茜の目から大粒の涙が零れた。

「お、俺は孫悟空やったんやなあ」

 洋介の声も震えていた。

――もしや先生は、途中で真の敵が瑞真寺であると気が付かれたのではないか。

 そう考えると、神村の自分に対する配慮も、優柔不断とも取れる師らしからぬ迷いも納得できた。

「最後にもう一つ……」

 と言って、茜が言い淀んだ。

 涙を拭ったその表情は酷く深刻なものだった。

「なんや、そないな顔をして。今更、何を聞いても驚かんわ」

 と、洋介は優しく催促する。

「本当は墓場まで持って行こうと思っていたんだけど」

 茜はそれでも躊躇していた。

「茜がそれほどまでに思い詰めるとは、よほどのことらしいな。なら、逆に俺に言った方が楽になるんやないか」

 洋介は、秘密を共有しようと言った。

「私が楽になる分、洋介さんには辛いことよ」

「俺たちの間に隠し事はしないと約束したやろう。それに、そこまで言って止めたら気色が悪いがな」

 洋介は苦笑いしてもう一度催促した。

 茜は意を決した顔つきで、ふうっと大きな息を吐いた。

「さっき、神村先生のこととなると、目に霞が掛かって何も見えなくなると言ったわね」

「ああ、きっと想い入れが強過ぎて、感情が理性の邪魔するんやろうな」

 はい、と茜は肯いた。

「あのね、先生が亡くなられたのは誰のせいでもないの」

「ど、どういうことや」

 洋介は激しく動揺した。

「谷川東顕と沙紀の共謀やないというのか」

「たぶん、二人の悪だくみはあったと思うわ」

「それなら……」

 と抗弁しようとした洋介を茜が制した。

「先生がその気にさえなられれば、肝臓癌の治療を受けられたはずよ」

「……」

 なるほど茜の言は的を射ていた。洋介自身も、かつて谷川東良と沙紀の共謀と誤解したときも、仮に朋友と愛妻の裏切りといえど、自暴自棄になるほど師の心が弱いとは思っていなかった。天命に従われたのだろうという己の推測も、いわば希望的観測に過ぎなかった。

「じゃあ、先生はなぜ亡くなられたのだ」

「実は、今も言った洋介さんが凶刃に倒れて生死の境を彷徨っていた三日間だけど、神村先生は貴方のために昼夜を問わず水行をなさっていらっしゃったの」

「なっ」

 洋介は茫然となった。

 彼が石飛将夫の凶刃に遭ったのは、十一月下旬とはいえ、寒波が襲来したときだった。むろん神村は、荒行の際に極寒の中で水行を行っているが、それは一回当たり数十分という制限付きのものである。

「貴方が命を取り留めたと知らされたとき、先生は崩れるようにその場に倒れられ、それから一ヶ月間床に臥せられていたの」

「そういうことだったのか……」

 もはや洋介には言葉が見つからない。退院後の面談で、谷川東良から神村の体調が思わしくないことを聞かされたが、まさか自分が原因だとは思いも寄らないことだった。

 そして、洋介はようやく真相を理解した。

 生母栄観尼の生霊が言った、もう一方の、というのが神村だったということを……。

 恩師の深い情愛に、洋介はただ項垂れるしかなかった。

 洋介の心情を重々察しながらも、茜が言葉を続ける。

「先生はね、そのときある願掛けをなさったの」

「願掛け……」

「何だか、わかる」

 洋介は首を捻った。

「洋介さんの助命と引き換えに、先生はある条件を神仏に誓われたの」

「条件って」

「言って良いの」

 それは恫喝するような口調だった。

 洋介は刃を胸に当てられたかのように、身体が震え出した。

 茜は何かとてつもないことを言い出そうとしているのではないか。それはきっと、己の心臓を深く抉り、瞬時に息の根を止めてしまうほどの残酷な言葉……洋介は本能的にそう推測した。

 洋介はごくりと唾を呑んで肯いた。

「しぇ、し、せ、ん……」

 唇が小刻みに震えて、真面な発音ができない。

 茜は二、三度深呼吸をすると、口を大きく開いたり、窄めたりした。

「神村先生は……先生はご自身の寿命の残り時間を全て洋介さんに与えて欲しいと、神仏に願掛けなさったの」

「な……」

 その瞬間、洋介は糸の切れた操り人形のように、がくんと膝から落ちた。

 横倒れになりそうな洋介を茜が抱き抱える。

「大丈夫……」

 洋介は何も答えなかった。顔面は蒼白で、陸に上げられた魚のように、ただ口をパクパクとさせるばかりだった。瞳孔は開いたままで、慟哭の気配すら無い。

「しっかり、洋介さん。しっかり……」

 茜は必死に洋介の背中を擦って生気を蘇らせようとした。だが、まるで臨終を迎えたかのように微動だにしない。

 愛犬のゴンが寄って来て、必死に洋介の顔を嘗め回すがやはり反応がない。

 早まってしまったのか……と茜は後悔の念に顔を歪めた。

――神村先生、お義母様、どうかお助け下さい。

 茜は心の中で両手を合わせ必死に祈った。

 そのときだった。

 茜は、ふと近くに栄観尼の気配を感じた。

 自身の妊娠を告げにやって来たときと同じお香の匂いがしたのである。

『我が孫の手を触れさせなさい』

 と、栄観尼の声が聞こえたような気がした。

――やはりお義母様がそばにいらっしゃる。

 心強くなった茜は愛夢を抱き抱えると、紅葉のような小さな手を取り、洋介の頬を撫でた。

 そのとき奇跡が起こった。

 生まれてまだ四か月の愛夢がはっきりと、

『パパ、パパ』

 と呼んだのである。

 愛娘の声に、洋介の瞼が微かに震えた。凍結していた血液が溶けて循環し始めたかのように、顔に赤みが戻って来た。

「この事実はね、栄観尼様が教えて下さったの」

 すぐさま茜は、栄観尼の名を吹き込んだ。

「う、ううう……」

 栄観尼という言葉には神通力があるのだろうか、生母の名を聞いた洋介の目が薄く開いた。

「母に会ったのか」

 と消えるような声で訊いた。

 岡山の最上稲荷での対面の後、洋介自身は再会を果たしていたが、茜は紹介していなかった。二人の結婚式及び披露宴にも、小夜子の出席は仰いだものの、世間一般に秘していた栄観尼は招待しなかった。

「……はい」

 茜はゆっくりと肯いた。

――洋介さんの命を三度まで救って下さったお義母様にまた救われた。

 傍らにいるであろう栄観尼の生霊に頭を下げながら、

「最上稲荷で洋介さんと会う前に、私を訪ねて来られたの」

「それで、母はお前の妊娠を知っておられたのか」

 洋介は、最上稲荷で栄観尼から茜の懐妊を告げられたと言った。

「いいえ、逆よ。私の妊娠を教えに来られたの」

 茜はそう言いながら愛夢を洋介に預けようとした。

「あの母なら有り得るな」

 身体を起こして愛夢を受け取った洋介は、そのまま茜の右胸に蹲ると、右手でもう一方の乳房をせわしなく弄り始めた。茜は、童に戻ったかのような洋介の所作をなすがままに受け入れた。

 やがて茜がおもむろに口を開く。

「そのときね、神村先生の死の真相も告げられたの。いずれ機を見て洋介さんに告げるようにと……」

 再び、時間が止まったかのように深閑となった。

 洋介の身体が、何者かに畏怖するかのように激しく震える。

 茜は、洋介の心の葛藤がわかっていた。わかっていて、いつ彼が血を吐くような言葉を口にするか待っていた。

 その間、愛夢が鼓舞するかのように、ピシャピシャと洋介の頭を何度も叩いた。

 洋介は顔を埋めたまま呻いた。

「お、俺は取り返しのつかないことを……ロンドで、あの馬鹿騒ぎさえ起こさなければ……」

 洋介は、なぜ肝臓癌だとわかっていながら神村が治療を拒否したのか、その理由にようやく突き当たっていた。

 神村は自身の肝臓癌発症を知ったとき、それが森岡助命嘆願に対する神仏からの代償要求だと悟ったのだ。そうであれば、延命治療を受けることはできない。受ければ、神仏への誓いを反故にすることになるからだ。仏教徒の神村にとって、それは自殺行為に等しかった。

 ロンドでの愚行が石飛将夫の凶行を引き起こし、結果として恩師神村の命を奪ったのである。

 さらに言えば、その石飛将夫の凶行も、元を糺せば森岡が八歳の折、将夫の実弟浩二の溺死を黙視してしまったことに遠因があったのだ。

「……俺が、俺が先生を殺してしまった」

 強く嚙んだ唇から鮮血が滲んだ。

「そうじゃないわ。洋介さんは神村先生の寿命を生きて行くことになっただけよ」

 茜が間髪入れずに叫ぶように言う。

「俺が先生の寿命を」

 洋介は顔を上げ、驚いた眼で茜を見た。

 そこには、それこそ観音菩薩のような慈愛に満ちたの笑みがあった。

「神村先生の夢を、使命を、魂を繋ぐこと、それが洋介さんのこの世での宿命なの」

 茜は、母が子を諭すかのように言った。それはまるで、生母栄観尼が乗り移っているかのような口調だった。

「俺の宿命……」

 と呟いたとき、

『森岡君、無念だ』

 突如、洋介の耳に神村の声が届いた。

――先、先生……。

 今、はっきりと聞き取れた。神村が最後の最後に言い残したかった言葉は「無念」だったということを……。

「あっ!」

 森岡の目が大きく見開いた。

 彼は、ふと本妙寺での最後の日、自分の未来を問うたのに対して、神村が言い掛けて止めた言葉がわかった気がした。

――形見分けの僧衣には、そういう意味があったのか。先生の本当の夢は……そうだとすると、無念というのは自身の短い寿命に対してではなく、俺に向けてのものだったのだ。

 神村の無念とは、自分を宗教人として育てられなかったことにある、と洋介は悟ったのである。

 洋介は愛夢を抱いたまま立ち上がり、茜もそれに続いた。

 洋介が茜の肩をそっと抱くと、彼女はその手を握った。

 二人は無言のまま、西の空を見詰めた。

 やがて、夕映えの照り輝く中で洋介が訊ねた。

「茜、身辺が落ち着いたら、坊さんになってもええかな」

 茜は黙って空を見つめたまま、握った手に力を込めた。

 洋介に抱かれた愛夢が、ヒャーヒャーと奇声を上げながら、拍手をするかのように何度も何度も両手を打っている。

「愛夢があの母の能力を受け継いでいたら、この先俺らには手が付けられんようになるかもな」

 茜は何も言わず、ふっと笑みを零すと手を離した。

 そして奥の部屋に行き、封書を手にして戻って来た。

「洋介さん、これ」

「なんや」

「神村先生が洋介さんに宛てた遺書よ」

「な、なんやて」

 その驚きの声には、どうして今まで渡してくれなかったのか、という不満の色が混じっていた。

「先生が私に託されたとき、洋介さんが仏門に入る決心を固めたときに手渡すようにと厳命されたの」

 茜は神村の指示に従ったのだと言った。

「……仕方がないな」

 神村の意志であれば納得せざるを得ない。

 森岡は愛夢を茜に手渡すと、封を開けて読んだ。

 読みながら森岡は大きく息を吐き、何度も頷く。

 ――なるほど、そうだったのか……。

 読み終えた森岡は、一言そう呟いた。

「何がそうだったの」

「ずっと抱いていた、ある疑念がようやく晴れた」

「ある疑念?」

「神村先生が、なぜ本妙寺の貫主の座を望まれたのか、ということや」

「何を言っているの」

 茜は訝し気な顔をした。洋介はそのために必死になっていたはずである。それを、いまさら疑念があったと言われても納得のしようがなかった。

「俺はな、先生は本妙寺の貫主の座など眼中にないと思っていた」

 洋介はそう言いながら遺書を茜に渡した。

「私が読んでも良いの」

「もちろんや」

 洋介は強く顎を引く。

 遺書には、神村が総本山の法主を目指していたとあった。

 森岡には意外だった。彼自身は密かに神村を総本山の法主にと願っていたが、本人は必ずしもそれを欲していないと思っていたからだ。

 命を張ってまでその座に押し上げようとしていた森岡であるが、その彼にしても、法主はともかく、神村がなぜ本妙寺の貫主の座を欲したのか、という答えを見つけられずにいた。

 すでに百日荒行を十二度成満し、明治以来の傑物とも、宗祖栄真大聖人の生まれ変わりとも評されていた神村である。清廉無欲な神村であれば、いまさら己の名声や栄達を欲するはずがない。

 その師が、本妙寺の貫主の座を目指したことに違和感を抱いていたのだった。密教奥義伝承者という、仏教徒として最高の栄誉を手にしていたことも知り、その思いはますます増幅した。

 たしかに、高野山の堀部真快大阿闍梨も、密教奥義伝承者にして日本仏教会の前会長並びに高野山金剛峯寺の先の座主という幾つもの頂点を極めているが、彼と神村では立場が違った。 

 もし神村が、天真宗総本山の名門宿坊である滝の坊か華の坊の長男として生まれていたのであれば、堀部真快大阿闍梨と同じ人生を送ったことであろう。本人が望む望まないに拘わらず、周囲から担がれる可能性が高いからだ。

 しかしながら、神村は在野寺院の生まれである。

 天真宗において、在野の僧侶が総本山の法主に駆け上がることは並大抵の道のりではない。森岡は、神村であればそのために費やされるであろう多大な時間と労力を後人の育成に向けるはず、と信じていた。さしずめ、天山修行堂の正導師こそ神村の天職だと思っていた。

 だが神村は、本妙寺の貫主の座どころか、本気で法主の座を目指していた。

 遺書にはその決意と、決意に至るある事実が記してあった。

 久田帝玄からの再三に亘る天山修行堂の後継要請を断り続けたのもそれが真の理由であった。

 実は、天真宗にはもう一つ不可侵の「黒い聖域」が存在し、その闇は日本宗教界の大きな暗部と密接に繋がっていたのである。

 神村はある信念の下に、その闇の打破を誓っていたのだった。

 よし、と森岡は力強く拳を握った。

――先生の遺志を継いで、まずは総本山に乗り込んでやる。

 そう誓った彼の眦には漲る闘志が宿っていた。

 

                            黒い聖域・第一部完 

 

 

 

 

 

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