AQUA ~その水と出遭いの惑星で~   作:ノナノナ

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Notturno2 朧翆望楼、湖の霞に浮かぶ小亭で

 

 水路は公園を経由して広い湖に出る。

 蘇杭でも屈指の観光名所、西湖だ。周囲一五キロ、背後になだらかな山が控え、湖を分ける堤や小島が浮かび、湖の周辺には西湖十景と謳われた名所旧跡が多い。もともとはマンホームの杭州にあった景勝地である。

 「右手に見えてまいりました石造りの橋は、西湖十景の一つ『断橋残雪』の断僑と白堤です。」

 なだらかな曲線を持ち、石造りの中央に半円形の水路が空いている。橋には幾人かの観光客が、のんびりと西湖の風景を楽しみながら散歩している。

 「白蛇伝の舞台にもなった場所で、雪が積もると南側だけ日に当たって雪が溶け、まるで橋が途切れているかのような光景になるためにこの名が付きました。ここ蘇杭は赤道に近いため本来なら雪は降らないのですが、火星の寒冷な気候を利用して年に数日間は雪が降ります。降雪日はネットで開示されておりますので、断橋残雪をご覧になりたい方は、是非その時期に御再訪ください」

 滑らかな調子で、櫂を漕ぎながら観光案内する愛紗。

 「赤道直下なのに雪が降るってどうなのよ。それを思うとAQUAって本当に人工的な星なのよね」

 茜華がぼんやりと感慨に耽る。

 「気候制御ユニットが無ければ、火星は平均気温マイナス四三℃ですよ。雪ぐらい降るのが本来。でも手動だから降雪量までは調節できないのよね。いきなりのドカ雪だったり」

 茜華の呟きにアウンが返す。

 「去年は断橋残雪どころか雪かきだったもんね」

 「それらをひっくるめてAQUAって訳よ、先人達の努力に感謝」

 グッとこぶしを握って愛紗がポーズをとる。

 「何、その強引なまとめかた」

 

 舟は白堤沿いに平湖秋月のお月見スポットを回り、西湖の南岸まで続く長い堤防「蘇堤」へと進む。蘇提は詩人として有名な蘇東坡が築いたといわれ、春には蘇堤春暁と讃えられる柳や桜が美しいところだ。いまは風にそよぐ木々の緑が美しい。

 やがて三艘は堤の内側にある外湖のひとつ岳湖に入り、水草が茂った一角に差し掛かった。曲院風荷と呼ばれる蓮池だ。

 この時期、一面に色とりどりの蓮の花が咲き、甘い香りが漂っている。その数百種類以上。

 蓮池に小亭が建っている。

 浮島の様な亭に船を寄せて三人は降りた。まさに蓮の中に立っているようだ。

 彼女達には舟の上で楽器を奏することは許されていない。

 「ねえ、弾詩の練習にはもってこいの場所でしょ」

 普段なら観光客の姿がある場所だが、大海嘯に持って行かれて人の姿はない。それに昨夜までの雨に洗われて、蓮の花が生き生きしている。

 「閑古鳥もいいものですね」

 「これだけの華が、全部私たちの雅樂(うた)を聞くために咲いてくれているみたい…」

 「こら茜華、その恥ずかしいセリフは何」

 『恥ずかしいセリフ禁止』は、ネオ・ヴェツィアだけではないようだ。

 三人は小亭のベンチに腰掛けて、それぞれ楽器を構えた。

 愛紗は古琴。

 アウンはダンバウという一弦琴。

 茜華は二胡だ。

 三者で構える楽器は異なるが、共通するのは膝上に置くタイプで音程を決めるフレット(柱)がない。ダンバウは台に置いて演奏するのが普通だが、アウンのものは胴を脚で挟めるようになっている。

 フレットが無いという事は、音程を取るのは難しいがグリッサンドが自由だという事。つまり唱うように演奏できる。

 弾詩は、もとは弾詞と呼ばれ演者が楽器に合わせて物語を講ずる蘇州の芸能だった。弾詞の歴史は古くマルコポーロの時代にまで遡る。琵琶や三弦を用い,二~三人で演じられていたものを、ひとり船上で楽器を演奏しながら詩や散文を詠ずる形式に、ここAQUAで昇華された。言葉を伴わず、音楽だけで詩や散文を表現する場合もあり、高い技量と古典への深い知識が必要とされる。AQUA生まれの古典芸術で演者も弾詩と呼ばれ、シレーヌたちの到達点でもある。

 一五歳の彼女らにそんな技量も造詣も無い。そこで、まずは楽器の練習という訳だ。

 まずアウンの一弦琴の独白から始まる。

 呟くように調べが流れる。

 そこに愛紗の古琴が加わり、独唱を下支えする。

 二人の掛け合いの上に、茜華の二胡が詠いだす。

 曲は朧翆望楼、雨煙に霞む西湖を謳ったものだ。それぞれが全く違う旋律を奏でながら、呼吸を合わせて一つの調べを形作っている。それはオペラで三様の朗唱が混ざり合い、調和し、詠唱となっていくのに似ている。

 アウンが湖畔の水気を詠い、

 愛紗が亭や水面に落ちる水滴を、

 茜華が霞む眺望を謡う。

 その上に、蓮の甘い香りが被さっていく。

 その、咽せ返るような空気。

 「ああっ、もうダメ!」

 愛紗が叫んで演奏を中断した。

 「これ以上は酔っちゃう」

 本当に酒に酔ったような赤い顔。

 「そうですね、これ以上はギブです」

 「私も」

 手を止めたアウンも茜華も、すっかりのぼせた顔をしていた。

 蒸した雨期明け前の気候と、蓮の香りに当てられたのだ。それと朧翆望楼の曲想が重なった。

 「それにしても、弾詩はひとりで演奏するものでしょう? なんで曖鈴さんは合奏での練習を勧めるんだろう」

 「私のところのアムリタさんもそうです」

 「うちのアニタ師傅も、弾詩修業はまず合奏からって言ってるわ」

 曖鈴もアムリタもアニタも、蘇杭を代表する弾詩シレーヌだ。それぞれ茜華、アウン、愛紗の師匠(師傅)でもある。

 「次に続く言葉が、古典を学ぶには呼吸が大事って」

 「そりゃ、弾詩に古典の造詣が必須なのはわかるけど、古典と呼吸ってねえ??」

 「どちらにしても、古典は大難問です。」

 「むんぎゃあー、古典って聞いただけで、漢字の大軍が頭ん中に攻めて来るわー」

と、愛紗は頭を掻きむしる。現代っ子の三人にとって故事や漢詩は超古代文明に近い。

 そのとき、ざあと湖面を薙ぎ、風が三人の頬を撫でた。

 火照った顔が醒まされ心地よい。

 ふと見上げた空に、雲が割れ、日差しが差し込む。

 「あ、空開けだ」

 茜華が言う。

 日差しはみるみる西湖に広がり、湖面がキラキラと輝き始める。

 雨期明けの日照りが熱い。

 蘇杭の、暑い盛夏の始まりだ。

 

 

 


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