予定されていた時刻より早目に到着しそうだなと携帯のディスプレイに目を落としながら気付いた恭子は歩くペースを少し落とし、洋榎も同様逸る気持ちを抑え歩幅を狭める。しかし指定されていた場所は既に目と鼻の先であり、この調子では一番乗りだなと考えていた恭子だったが、料亭の門前に人影を捉え目を凝らす。口元から上がる煙に、まさか赤木が人通りが少ないとはいえまだ明るいこの路地で白昼堂々煙草を吹かしているのではないかと勘繰るが、その予想は直ぐに外れたと理解する。
「……井川さん」
「ああ、恭子ちゃん。どうやら早すぎたかな」
「おん、誰やこの人」
「うーん……」
どう説明したものかと低く唸り頭を悩ませたが、そんな様子に気付いたひろゆきからフォローが入る。
「今朝恭子ちゃんと知り合った井川ひろゆきだよ。ちょっと赤木さんに用があってね、お呼ばれしたんだよ」
「しげるの?そうなんか?恭子」
「ええ、まあ立ち話もなんですし、入りましょか」
三人肩を並べ、門を潜った先には和風に染められた料亭の入口があり、歩みを進めながら恭子は受付に説明すれば入れるのかと思案中だったが、その問題は直ぐに解消された。
「来たか」
入口で出迎えたのは煙草を吹かしながら壁に寄りかかっていた原田であり、その姿を認めたひろゆきと原田は同時に目を丸くする。
「……ひろか」
「原田さん……じゃあやっぱり」
「……おい、お前らは案内された場所に行ってな、ワイはこの男と話がある」
「井川さん?」
「あ、ああ。ごめんね、少し話してくるよ」
原田に促され、料亭の奥へと駆けて行ったひろの背中を見ながら、恭子は段々とパズルのピースが嵌って行く感覚に浸っていた。やはり赤木が言っていたひろとは、あの男の事なのだろう。では、ひろの言う赤木しげるは何なのだろうか。
「なーんや恭子、何難しい顔しとんねん」
「……え、あ。何でもあらへんよ。とりあえずいこか」
考えても埒が明かない、どうせこれが終わったら問い詰めてやるつもりだ。今は余計な思考は捨て目の前の試合に集中しようと大きく息を吸い深呼吸する。
「にしても、カタギには見えんかったであの人」
「んー……まあ、この試合の仕切りやってくれてはる人やから、悪い人ではないで」
「そっか。ウチは麻雀出来たら何でもええんやけどなー」
深く詮索してこない洋榎に内心感謝しつつ、仲居の女性に案内された部屋の襖を開け用意されていた座布団へ腰を降ろすと一息吐く。ポケットから取り出した携帯のディスプレイを確認すると、まだ時間がある事を知り目の前のテーブルへと両肘を突き顔を突っ伏す。洋榎は初めて入る料亭にテンションが上がり、部屋中を歩き回り飾られている掛け軸や壺を繁々と見つめ物色し始める。
「はぇー、ホンモンの料亭やでぇ。映画でしか見た事無かったわー」
こんな所でも平常心を保っている洋榎のメンタルの強さを羨ましがりながら、携帯を食い入る様に見つめその時間を待つ。その時、廊下から木の板が軋む音が鳴り響いて来る事に気付き、その複数の足音はやがて部屋の前で止まった。恐らく赤木とその連れて来た誰かだろう。次の瞬間には襖が開き、一目散に部屋へ飛び込んで来たのは自分には見慣れた人物であった。それは洋榎も同じであり、目を丸くしながらだらしなく口を開き切っている。
「どーもー!三箇牧高校二年生荒川憩ですーぅ!今日は……ってあれ、洋榎さんに末原さんやん」
「って、憩やんけ!ちょい待って、まさか自分用事って――」
「んー、ああ、そうやね。此処に誘われとったから」
「何ちゅう偶然やねん……」
「まあまあ、今日はよろしくね」
そんな事を知ってか知らずか、後から入って来た赤木は恭子の対面へと歩み寄り腰を落とすと、テーブルの上に置かれていた灰皿を手繰り寄せポケットから煙草を取り出し火を点ける。
「ちょいしげる!憩の事誘ったんなら言わんかいな!」
「ん?ああ、知り合いだったか」
「煙草の事には突っ込まんのやな……」
悪びれず笑う赤木に洋榎はやれやれと溜息を吐くと、壁に寄りかかる様に腰を落とし体重を背に預ける。
「にしても、何処で出会ったんや?憩としげるは」
「んー。インハイ近いから練習が早めに切り上げられたんやぁ。打ち足りなかったから雀荘で打ってたら赤木君と同席して」
「ほーん。それでスカウトされたんか」
「そうやねー。まさかぶっ飛ばされるとは思わんかったけど」
「って、飛ばされたんかい自分ッ!?」
「南場までは頑張ったんやけどね。それで話聞いてみたらなんか面白そうな事やる言うから」
「ククク……腕は確かだ」
「アンタに言われんでも知っとるわ!」
(にしても……憩が飛ばされたんかいな……)
一度手を合わせた事がある洋榎には俄かに信じ難かったが、それも試合が始まれば分かる事だとそれ以上の詮索はしなかった。一方の恭子は最後の一人が知り合いであった事に少し肩の荷が下りたなと安堵の溜息を漏らす。
その頃、別室ではひろゆきと原田は互いに真剣な眼差しを交わしつつ、煙草を吹かしながら赤木の事についての話を進めていた。
「本当なんですか?それ」
「まあ……十中八九間違いないやろ……。やが、それも今日で確信に出来る」
「……今日、麻雀するんですよね?」
「ああ、赤木の口から十巡交代制のあの麻雀の話が出た……覚えとるやろ、お前も」
「忘れる訳ありませんよ。にしても、その麻雀を知ってるって事は……」
「もうじき始まる。ルールの説明はワイがする予定やったが、ひろ。おどれに任せるわ」
「僕がですか?」
「若いモンの集まりにワイが出るのも無粋や。ならお前みたいな一般人が適任やろ。ルールなら覚えとるな?と言ってもあの時みたいに八人を四人に絞る闘いとはちゃう、少しルールを加えよう」
「それは構いませんが……そのまま、試合を見せて貰っても?」
「……せやな。立会人が必要な勝負やないが……見極めろや。あれが本物の赤木かどうか」
「……はい」
世間話や麻雀の話に花を咲かせていた洋榎と憩の傍らで、恭子は両腕に突っ込んだ顔を少し上げ既に五本目の煙草を吹かしている赤木を見つめ続けていた。
「……赤木君」
「ん?」
「…………」
何者なんです、そう出かかった口を紡いだ恭子は、立ち上がると、少し料亭内を散歩でもして来ようと立ち上がり、踵を返す。それと同時に開いた襖に、恭子はぎょっと肩を震わせる。その部屋へと入って来たひろゆきは声を掛けるべきだったねと謝りながら襖を閉める。何より目に留まるのはテーブルの奥で煙草を吹かしている少年。風体が似ていると感じたが、それ以上にあの独特な佇まい、そして雰囲気。どれをとってもあの赤木しげる本人であり、それは何十年経とうが忘れる筈の無いものであった。
「………………」
「井川さん?」
「あ、ああ。ごめん。準備が整ったみたいだから、部屋に向かおうか」
「あ、井川さん。あの子なんですけど――」
恭子が言いたい事を察したひろゆきは、それは試合が終わってからにしようと自らの口へ人差し指を当てると、案内するよと襖を開け、恭子や洋榎を部屋から出る様に促す。
「そこの廊下の突き当たりにある部屋だから」
「はい。……井川さんはどうしはるんですか?」
「あの人に今日の説明を頼まれてね。後から向かうよ」
洋榎に背中を押された恭子は慌てて廊下を歩き始め、そんな洋榎へくっつく様に憩は部屋を出る。そして重い腰を上げた赤木は灰皿に煙草を押し付けるとポケットへと手を突っ込み、ひろゆきの前を通り過ぎる。一瞬の間だったが、合わさった目にひろゆきは強い懐かしさを覚えていた。一方の当人は自分の事を覚えているのかとその場で立ち尽くし、背中を見つめていたが、足を止めた赤木に体を強張らせる。
「元気そうじゃねえか、ひろ」
「赤木さんッ!」
「まあ……話は後でだな」
そのまま憩の背中を追って行く赤木にそれ以上呼び止める事は出来ず、思わず伸ばした手を握り締めると、床を軋ませながらその廊下を歩み始めた。
その舞台へと役者が出揃ったのはほぼ同時であっただろう。恭子を先頭に開けた襖の先に広がっていたのは、同じく襖を開け部屋の中を見渡していた少女達の姿だった。
「…………」
まるで中心に置かれている麻雀卓によって線が引かれたかの様に、此方側と向こう側の少女達は互いに睨み合い、その姿を認め合う。その間はどれ程だっただろうか、何時の間にか恭子と肩を並べていた赤木は部屋の中心へと歩み寄ると、雀卓の前で腰を降ろし立膝を突く。膝に乗せた腕から見据えた視線の先には忘れもしない、自分がこの世界であった初めての人間の姿があった。
「ククク……何突っ立ってんだ」
「久しぶり」
照を筆頭に続々と部屋へと入って来た面子に、恭子は頭が痛いと右手で額を抑えながら赤木の横へと腰を降ろす。
少なくとも、この場に日本で最も麻雀が強い高校生の上から三人が居る。その事実だけで眩暈がしそうだ。昨年のインターハイ個人戦、王者は言わずもがな照だが、その次に結果を残したのは自分の後ろで暢気に笑ってる荒川憩。そして対面に居る臨海女子の辻垣内智葉。隣に居る小さな少女は世界ジュニアでも活躍している臨海女子大将のネリー・ヴィルサラーゼ。照にしがみついている弱気そうな少女は、昨年のインターハイ最多獲得点数記録者天江衣を倒した宮永咲、その実力と今垣間見える間柄から間違い無く姉妹だろう。あの王者とその妹、そして臨海女子の巨頭が出て来たのだ、この試合にどれ程勝ちたいのかがひしひしと伝わって来る。
「なんや、マジに勝ちに来とる面子やん」
「みたいやね」
「いやー、知っている人がいっぱいやねー!」
同じ感想を抱いていた智葉は、先程の控室での会話を思い出しつつ、ふてぶてしい態度で膝を突いている白髪の少年を睨み付ける。
「えっと……お姉ちゃんの妹の……宮永咲です」
「辻垣内智葉だ。こっちはネリー・ヴィルサラーゼ。よろしく」
「辻垣内さんと……ネリーちゃん?」
「智葉で構わない」
「ネリーで良いよ」
「はい、よろしくお願いします。智葉さん、ネリーちゃん」
「にしても……」
何食わぬ顔で出されたお茶を啜っている照の向かいへと腰掛けた智葉は、照があそこまで必死になっていた事情を尋ねる。まさか連絡先が分からないと言う理由だけで学校に乗り込んで来るとは夢にも思わず、そして何を言い出すかと思えばチームを組んで欲しいと言い始める。流石の智葉も訳が分からず、反応に困っているといきなり土下座までし始めたのだ。勘違いされてしまいそうな非常に不味い絵面だった為、照を引き連れ廊下へと引っ張り出し事情を尋ねたが、本人はただ倒すべき相手が居るとしか答えない。
現王者の照が言うとある種の嫌味にも聞こえるが、本当の意味で勝ちたい相手が居る様であった。
「それで、誰なんだ?それは。無論プロだろうから名前位は知っていると思うが――」
「いや、高校一年生の男の子」
「…………」
「大星淡と、弘世菫と、私の三人で挑んだけど負けた」
「……本当か?」
白糸台が誇るその三人が同卓しても勝てなかった、その台詞を聞いた智葉は次第にその少年への興味が沸き始めていた。
「うん」
「名前は」
「赤木しげる」
「赤木しげる……」
男子の部には詳しく無い智葉だったが、その三人を纏めて相手に出来る程の実力を持った者なら名前位は聞く筈だ。しかし、その名は智葉の記憶にどうにも引っかかってはくれない。
「それで、そのリベンジを果たす為に私を頼って来たと」
「そう」
最初はドッキリか何かと思っていた、そもそも団体戦に出場する者同士、インターハイ前の対外試合は禁じられている。しかし、蓋を開けてみればその根底を覆すような案内状が送られて来た。どんな裏ワザを使ったのだろうか、いかに王者とはいえこんな我儘が通る筈は無い。つまり何か裏の力が働いたと言う訳だ。こんな胡散臭い試合への案内状に記されていたのは自分の名ともう一人、ネリーの名だった。
「それで、何でネリーに頼って来たの?」
「貴方の牌譜を見た。必ず力になってくれると思ったから」
「ふーん……まあいいや。暴れて良いみたいだし、好きにやらせて貰うよ」
照はこの二人を結果だけで選んだ訳では無かった。二人共、特にネリーの麻雀には顕著に表れているが、ある事が出来る選手だった。それはこの場に於いては最も大事な事だと照は考え、何としてでも二人をチームへと引き入れたかった。
あの男に勝つ為なら幾ら土下座しても良い、地だって這える。絶対勝つと咲にだって約束した。
「……時間みたい」
「うん、えっと、頑張ります……ので宜しくお願いします」
「ああ、此方こそ」
「よろしくー」
成程、と赤木が連れて来た面子を見て照は納得する。向こうも勝ちに来ているだろう、特にあの少女、荒川憩を見た照はその横でその姿を認めた智葉と同じ感想を抱いていた。昨年の決勝卓、一年生ながら高学年に囲まれた卓で終始笑顔だった少女、そしてその少女と肩を並べている愛宕洋榎。風の噂で聞いた事がある、千里山に荒川憩と愛宕洋榎が居れば白糸台と良い勝負が出来る。そんなタラレバ話は勝負事の世界を見守る観客にとっては好物の話題だろう。しかし、照には聞き流す事が出来る筈も無く、この場でそれが只の妄想だと言う事を証明してやろうと誰にも悟られず拳を握る。
一同が揃った所で部屋へと入って来たひろゆきは、睨み合いを続けている少女達にどう切り出したらいいものかと考えたが、咳払いをし注目を集める。
「えっと……僕の事は気にしなくていい、只の付き人だと思ってくれ。この場が表立った場では無い事は皆薄々気付いてると思う」
「だろうな。しかしまあ、随分大掛かりだな」
「そうだね。だけど皆は気にせず麻雀を打ってくれれば良い。と言っても、今からするのは普通のルールとは掛け離れたもの」
ひろゆきはかつて自分がその場で闘っていた後姿を思い出しつつ、言葉を並べて行く。
「大きく三つ、先ず卓に入った者は十巡を終えると後ろの者と交代する。これは純粋に十巡と言う意味だから、例えば鳴きで手番が飛ばされたのならその巡目はカウントしない。それと最初に二人ずつ別れてペアを組んで貰う、その二人で協力しながら進める事になるね」
智葉は二人のペアが四つ卓を囲んでいる光景を頭に思い浮かべる。
「つまり、純粋にツモ切った回数で良いって事だな。途中でペアを変えるのは?」
「半荘を区切りとしてペアを変える事は認めるよ、それは自由さ。それと二つ目、満貫縛り……と言っても本来の満貫縛りでは無く、満貫未満で和了ってもただ場が回るだけで点数にはならない」
満貫縛り、つまり子なら8000点、親なら12000点の手を作らなければ和了れないと言うルールである。この場合は点数にならないだけで和了る事は出来ると言ったルールである。
「最後に勝ちが積もらない。つまり満貫で和了っても得られる点数は無く、ただ相手の点数が減るだけ。この三つ、点数が尽きた者から脱落して行き、これをどちらかのチームが二人同卓出来なくなるまで行う」
「半荘を繰り返すのか?」
「うん。例えば、二人対二人残ったなら、後は誰かが飛ぶまで。二人対三人で三人の内二人を同時に飛ばしたのなら、もう席に二人着く事が出来なくなりそちらの負けになる」
詳しいルールを付け足しておこうと言い、残り三人になった際の回り方や留意点を伝え、質問はと面々に問う。
それが麻雀の根底を覆す様なルールであったなら、頭を整理しなければならないが、ある種そのルールはシンプル。その三つのルールが頭に入った瞬間、各々の思考はそのルールに対しての考察で埋め尽くされ始める。その中で成程、と智葉は深く頷く。十巡交代制は未知の領域だが、満貫未満は場が流れるそのルール。此方は相手の手を読み、自分の手がどうなるかをいち早く見抜く力が必要になるだろう。相手の手が大物手なら無論場を直ぐに流すべきだ。しかし、自分の手にも大物手が入った場合、その手を押すか退くかを判断しなければならない。この領域を最も得意とするのは間違い無くネリーの麻雀だろう。機を待てる人間、奇しくもそれはかつて赤木が咲に言った事と同じであった。
「クク……誰もが全局ああ出来る訳じゃねえよ。皆機を待ってる」
「機?」
「ああ、その機を待ち続けられる人間……そうだな。お前は其処から目指してみろ」
照はそれが麻雀に於いて必要不可欠、そして武器になる事を知っていた。故にネリーは何としてもこの場に加えたかった。そして勝ちが積もらない、それはどれだけ和了っても安全圏に逃げるなど出来なくなると言う事だ。持っている25000点の重みが通常の麻雀とは桁違いに跳ね上がる。皆ガードが固くなるだろう。そんな中機を待ち続け、その刹那の間を射抜ける人間がこの麻雀を制す。
智葉は知らずの内に武者震いしているのを感じた、そこにあるのはギリギリまで煮詰められ濃密になった時間。そして午後六時、柱時計の鐘の音と共にその試合の開始が告げられた。