赤木が中を曲げた事を確認した淡は、手牌をパタッと後方に伏せ目を細める。嗚呼、こんな屈辱を受けたのは何時振りか。運気、流れを初っ端から全て掻き集め、大物手のダブリーを仕掛けて行き、終わってみれば三人の向聴数はしっかり五向聴以上であった。それに加えその大物手をキッチリ和了る事が出来た。
いや違う、和了らされた。
赤木が和了らなかった理由は分からない。まさか菫を飛ばして終わらせると言う宣言なのだろうか、どちらにせよ。
「気に入らないッ!」
淡はツモって来た牌を一瞬確認すると、手牌に入れる事無くその場に叩き付ける。
「リーチッ!」
リー棒と共に。
「へえ」
中々太い運だな、と感心した赤木だったが、本当に曲げてよかったのかと嘲笑気味に溜息を吐く。赤木を睨み付けた淡だったが、その人を嘲笑うかの様な笑いに対し、最初は怒りが沸いて来たが、徐々に一抹の不安を覚える様になってきた。自分の手はダブリーだがノミ手だ、二萬の嵌張待ち。しかし、淡の手には七筒の暗刻がある。ならば、赤木が和了りさえしなければこの局は淡の勝ちで揺るがない。
赤木が、和了りさえしなければ。
「……………」
サイコロの目は七、つまり最後の壁が丸残りしている事になる。其処へ辿り着くまでは、鳴きが入らなかったら最短で六巡。五巡目にカンを入れ、かつ最後の山で赤木から直撃を取ってやると鼻を鳴らす淡。それに鳴きが入ろうが関係無い、そうやって自分は何時もカンドラを乗せ、対戦相手を絶望させて来た。
配牌を開いた照は、ほんの少し目を見開き驚いた。同時に菫も同じリアクションを取る。出来面子が既に二つ、二三四の萬子と二三四の索子。東の頭、先程の配牌とは雲泥の差である。この時点でこの場は淡の支配下から外れた事になる。淡と同卓すれば、配牌の向聴数は毎度五向聴まで落ちる。荒唐無稽な話だが、それが事実に加え本人でさえもそれを疑っていない。しかし、赤木はいとも容易く曲げた、しかもダブリーで。つまり此処は赤木の場、赤木が支配する場と言う事になる。
(赤木君の場………)
赤木の場、ふざけるな、そんな嫌な話があるか。
照からしてみれば、赤木の場となっている時点でこんな三色へ向かえと言っている出来面子ですら怪しく見えてくる。まさか三色へ向かうと其処で溢れる牌を赤木に打ち取られるのではないだろうか、と勘繰ってしまう程に。
そうなれば話にならない、手が進まないからだ。あれも当たるこれも当たると思考を縛っていけば聴牌など夢のまた夢。
しかし、麻雀とは面白い。必ずしも真っ直ぐ進む事が最善手とは限らないからだ。時には一歩引いてみる事も必要になる。そう、リーチが出来るからと言って、リーチを仕掛けるのが最善手と言わない様に。それはダブリーにも言えるのかと、照は淡の曲げた中を見ながら漠然と考えていた。
早い内に赤木の本質を知っておきたい。能力は、基本的な打ち筋はと。照は和了る事が不可能と見た東一局は見に回っていた。今までだってずっとそうして来た。インハイ予選では同卓する全員の本質、打ち筋、手の内まで、まるで鏡に映ったかの様に易々と見えた。
照魔鏡、何時からだろうか、それを認識する様になったのは。最初は朧げだったその鏡だったが、次第に鏡が形を成して行き、高校に入る頃には対戦相手を映す鏡が本当に其処にあるかのように思える様になってきた。
照魔鏡とは妖怪、悪魔の正体や妖術を照らし出してあばくとされている鏡らしい。自分の名前が照なのだ、良く合っている名前だと思う。
ならば、あの男の悪魔染みた麻雀も暴き出せるのでは、と対局前は考えていた。
しかし、今はどうだろうか、まるで卓上は靄がかかったかの様に薄暗く、淡と菫は辛うじて認識する事が出来るが、対面の赤木は鏡に全く映っていなかった。まるで霧が濃くかかった山頂で、向かいの山を凝視している様なもの。どんなに目を凝らしても見える筈が無い。だからあの三副露も非常に不気味であった、何時もならブラフか本手か、手に取る様に分かると言うのに。見えないと言うだけでこれ程疲れるのかと、照は東二局で既に疲弊気味な事を自覚し、普通の高校生相手に役満縛りで麻雀する方がまだ楽だなと自嘲気味に息を吐いた。
ツモって来た牌は三萬、ドラが三萬な事を考えるとこれはいよいよ三色かと考える。しかし、まだこの手の行く末を見極めるのは早すぎると、浮いていた自風の西を切り出す。
次いで菫のツモ、人和は存在しないが、ダブリー一発など当てられては堪ったものでは無い、自分の持ち点は9000点、下手をすれば飛んでしまう。第一ツモは六筒、とりあえず考えてみようと手の中へと入れる。先程と違い菫の手は軽く、かつ打点を秘めている。白の暗刻、そして一枚の發に加え、一通の種、萬子の一二三四六八九。
自分の特技は狙い撃ち、照や淡の様に派手な力では無いが、相手の手を読み切りその溢れそうな牌を討ち取る。自分はこのスタイルを貫いて来た、かつ過信せず通用しないと見れば普通に和了る。
今、この場で狙い撃てるのはリーチをかけていない照だけであろう。一言で簡単に言ったが、それがどれ程至難でかつ、茨の道かは想像するに難くない。
二軒ダブリーを掻い潜りながら、照の手を完璧に読み切り、かつ自分の手を照の余り牌に合わせ切る。かと言って攻めなければ、自分のこの点数は南場を迎える事無く儚く消えてしまうだろう。
(行くも地獄、行かぬも地獄か……)
自分は競技者だ。行かぬまま地獄へ堕ちて行く等あってはならない。しかし、進む地獄の第一歩は六筒、八筒、四索のどれかを切り出す事。
狙い撃つ以前に手を育てて聴牌に向かわなければ狙い撃ちもクソも無い。この手を完成、かつ討ち取る事が出来たのなら、一通、混一、役牌、ドラ一。跳満の手を成就させる事になる。
しかし、切れるのか、この三枚が。
その様子を傍から見ていた赤木は、此処がこの女生徒の分水嶺だなと感じていた。最初は照との一騎打ちになると思っていた赤木だが、中々どうして、同卓した二人も照とはまではいかないがそれに近しい物を持っている。ならば、赤木は試練を用意する。越えなければ前に進めない壁を。
その為にはあえて辛く苦しい茨の道を歩む必要がある。それはまるで水の張った洗面器に顔をつけ続けている様なもの、苦しさに顔を上げてしまったものから脱落していく。それを言えば、淡は少し危ない。流れを読まずにただ手にダブリーが入っていたと言う理由で曲げたのだろう。つまりそれは思考を捨てたと言う事になる、自分から考える事を放棄したのだと。
そして菫は行くのかと、その手から放たれる牌に赤木は注目する。
ダブリーなんて読めはしない、ならば突っ張るべきだ。何処か思考放棄の様にも思えるが、赤木はこれも立派な判断だと考えている。突っ張るのも、相手の待ちを完全に読み切った上で打牌する事も、どちらも立派なものが付き纏っている。
それは揺れない心、突っ張ると決めたならそれを通す。待ちを読み切ったと思ったならそれ以外の牌を全て通す。ならば、菫は踏み出さなくてはならない、地雷原へと足を。
「っ…………」
菫は先程から下唇を噛み、その鉛の様に重い四索を切り出せずにいた。
楽になりたい、どうせ二軒リーチだ、今の自分が追いつける筈は無い。この白の暗刻を落としていこう。
(それが出来ればどれ程楽になれるか)
此処で突っ張って飛んだらどうする、たった二局で無様に終わってしまう。
(…………ッ!)
空気が重い、菫はお茶を濁す様に溜息を吐きながら窓の外に目をやる。白の暗刻落とし、百人がそれを見たら何人賛同するだろうか。点数を削られた自分の手には大物手の気配、しかし親と子の二軒ダブリー。ならば仕方が無いのではないか。
(言い訳をするな)
頭の中で行くか引くかの思考がグルグルと渦巻き、それはやがて鬩ぎ合い葛藤になっていく。
ふと思えば、何処か自分は何時も逃げていたのではないか。団体戦で先鋒に居座る照が点数を鬼神の様に稼いで来る。自分達はそれを守りつつ丁寧に捌いていく。
もし点数が必要になっても、大将の淡が荒稼ぎをする、自分はただその二人に甘んじているだけなのではないか。
何時の間にか、そう考える様になっていた。自分に照や淡の様な大層な力は無い、あるのは地味な特技、狙い撃ち。ならば仕方が無いのではないか、この二人は牌に愛されている。自分とは違う領域に居るのだ、そんな二人と肩を並べられる筈が無い。もし突っ張ってそんな三人の勝負に水を差すのは如何なものだろうか。
ならばと菫は白に手を伸ばす。
「クク……これじゃあ誰の為に麻雀打ってるかわからねえな」
「…………」
自分の為だ。
と答えられる筈も無い。今まさに、三人の勝負の邪魔はすまいと白に手を伸ばしていたからだ。だが仕方無いだろう、競技者としては無論トップを取りたい、しかし――。
「……………」
今すべきなのは、白糸台高校麻雀部部長としての打牌か。それとも、一選手としての打牌か。
本当の強者と相対した時、その人間の本当の本質が見えて来ると言うが、自分はどうだろうか。
此処で白を切るのが、自分の麻雀なのか。
(違う……)
此処で照や淡の顔色を覗って、自分の手を投げるのが二人の為になるか。
(違う…!)
此処で決めるのは、一通、混一、役牌、ドラ一の跳満。
なら、この手は白を切るのか。
(違うッ!)
自分は白糸台高校麻雀部部長以前に、麻雀選手の弘世菫だ。
なら歯を食いしばれ、逃げるな。勝負を邪魔してしまう等という言い訳に感けて勝負を投げるな。
菫は歯を食いしばり、その鉛の様に重い四索を手に掴むと、場へと叩き付けた。
選んだのは修羅の道。赤木はその魂を振り絞り切り出した四索を満足そうに見つめると、ツモ山に手を伸ばす。
(残念だが、この局、俺の目は無くなったな)
赤木は九筒をツモ切ると、右端にある一枚の白を見つめた後、その手を伏せた。