「なるほど。師匠はこの方――、背後霊殿に碁を打たせていたというわけですか」
「……はい」
「ボディランゲージでしか意思疎通ができないから、私にどう囲碁を教えるべきか悩んでいた、と」
「はい、その通りです……」
うつむいてすっかり縮こまっているシド。心はすでに裁かれる罪人モードである。
これまでの事情を洗いざらい吐き、あとは来るべき糾弾の瞬間に備えるつもりであった。
「師匠」
ビクリとシドの肩が跳ねる。
眼前のシオンはさぞや怒っているだろうと顔を上げるが――、その表情はいつもどおりだった。
「ですが、そのような状況下でどうして私を弟子として受け入れてくださったのですか?」
どころか、なんだか期待した様子でシドのことを見つめている。
眼の前にいる少女のことがわからなくなりつつも、シドは素直に答えた。
「最初に会ったとき、オーラが見えるっていっただろ? それが背後霊のことを指してるんだとおもったんだ。で、この背後霊を成仏させるためのヒントが得られないかな、って……」
「ああ……、なるほど。そういうことだったのか……。円転滑脱でいたつもりが、とんだ気随気儘となっていたと……。やはりあそこで日和ってしまったのは痛恨……」
「?」
むつかしい顔でぶつぶつとつぶやき始めたシオンに、怪訝な視線を送るシド。
視線に気づいたのか、シオンは慌てた様子で声を張り上げた。
「と、ところで! 背後霊殿との意思疎通についてなのですが」
「ああ」
「あいうえお表を用意して、それを指差してもらって会話すればよろしいので……は……?」
ポカーンと口を開いて固まるシドに、シオンはおそるおそるといった様子で問いかけてくる。
「ど……、どうかしましたか?」
「シオン」
「は、はい」
「お前は天才か」
***
早速ネットでDLした50音表+数字表をプリントアウトすると、居間の座卓の上に広げた。
シオンと肩を寄せ合い、背後霊が指差す文字を追っていく。
姓はキクチ、名はコゴロウ、年齢は21ということだった。職業は軍人。階級は少尉……ということらしいが、軍隊に縁遠い現代っ子のシドにはその辺よくわからない。
「シオン、この名前に心当たりあるか?」
「ない、ですね」
「俺もだ」
或いは親戚筋にいたのかもしれないが、現状では赤の他人という認識で問題ないだろう。
「……ま、この人の素性についてはこれで置いておこう」
「よろしいのですか?」
「? ああ……」
シオンの質問の意味がわからなかったが、すぐにシドを気遣ったのだと理解する。
ふつうに考えれば、得体の知れない背後霊がいる状況など不気味でしょうがないだろう。もっと根掘り葉掘り訊いて情報を引き出すべきでは? そういっているのだ。その質問はごもっともだし、実際それで悩んできたことも事実。やはり聡明な少女だとおもう。
しかし――、シドは視線をそっと右肩へ向ける。釣られてそちらを見るシオン。
「俺はかまわないさ。それに、当の本人はすぐにでもシオンに碁を教えたくてしょうがないみたいだしな」
座卓の横に置かれた碁盤を前にして、まるで子どものように瞳を輝かせているキクチ。囲碁を打つ時はいつだってこんな顔をしているのだ。これだから完全に不気味な存在だと思い切れない。そんなシドの気持ちが理解できたのだろう。シオンは納得したようにうなずくと、すぐに居住まいを正す。碁盤の前に移動すると、膝を折って正座した。シドもまたそれに倣い、対面の席に正座する。これまでとは性質の異なる、凛と引き締まった表情のシオンがいた。棋士としての顔。
ピンと張り詰めた空気の中で、シオンはすっと頭を下げた。
「――よろしくおねがいします」
***
勝負は2日に渡って続いた。
ぼんやりと盤面を読めるようになったつもりのシドであったが、それすらとんだ驕りであったと自覚するには充分で。
もはやシドには理解できない領域の打ち合いの果て――、先に頭を下げたのはキクチだった。
『負けました』
そんな声が聞こえた気がした。
けれど表情はどこまでも穏やかで、うれしそうで、そのままスゥっとキクチの姿が透けていく。
シドにほほ笑みながら会釈して、完全にその姿は消えていった。
「ありがとうございました」
シオンは一礼した。
上げた顔はキクチに負けず劣らずの、やり遂げた人間特有の穏やかさに満ちている。
「……あの、シオン?」
「なんでしょうか」
「これって、どういうことなんだ?」
「?」
首をかしげるシオンに、シドは言葉が足りなかったといいなおす。
「あー……、なんでキクチさんが消えていったのか、その理由がシオンにはわかるのか?」
ハッキリいって状況がさっぱりわからなかった。
まずこの一局はあくまで互いの力量をあらためて計るためのものだと考えていたのだ。
それがまさかキクチの成仏につながるなど夢にもおもっていなかった。
「推測でよろしければ」
「たのむ」
「しからば……」
シオンはこほんと咳払いをすると、滔々と語り始めた。
「私が見たかぎり、あの方の立ちふるまいはプロ棋士のそれではありませんでした。囲碁はあくまで趣味でやっていたのだと思います。けれど、その打ち筋はあきらかに勉強している。それも相当に。おそらくプロにあこがれてはいたものの、生まれ育った環境が許さなかったのでしょう。そんな彼が求めていたのは――」
一泊置いて、シオンは続ける。
「――好敵手。さすがに身の回りに囲碁を打てる人くらいはいたでしょう。しかし在野にあの方と互角にやりあえるほどの相手がいたとはおもえません。たった一度でもいいから全力で打ちたい。そんな想いがあの方をこの世に現界させた……、というのが私の推測です」
推測といいながらも、シオンの言葉にはたしかな自信が感じられた。
そして気のせいだろうか、実感と、どこか羨望が篭められているように聞こえたのは。
「……そうか。しかしキクチさんがいなくなった以上、シオンに囲碁を教えられる人はいなくなっちまったな。これで師弟関係はおしまい、ってことになるのか」
シドにとっては望んだ状況。けれどシオンにとってはあまりにも割に合わない話だろう。結局最後までキクチに囲碁を教えてもらうことは叶わず、下積みという名目でタダ働きさせられて終わったのだ。改めてシドの良心がズキズキと痛み始める。
囲碁は教えられないが、せめてなにか彼女にしてやれることはないだろうか。「俺になにかやってほしいことはあるか?」と提案しかけたところで、シオンが静かに口を開いた。
「ええ、そうですね。こうなれば私もいい加減に覚悟を決めるべきなのでしょう」
「覚悟……?」
なにやら決意に満ちた瞳のシオン。やおら碁盤を脇にどかすと、その場からすこしだけうしろに下がり、三つ指をついて頭を下げた。あれ、なんかデジャヴ――
「改めてこれからもよろしくお願いします――、旦那様」
ピシリとシドの時間が止まった。
ゆっくりシオンが頭を上げると同時に、ようやく時が動き出す。
「ちょ、ちょちょちょちょちょっとまってくれないか? いったいなにがどうして師匠から旦那様になるんだ? え? え?」
「そもそも初めてこの店を訪れたあの日、私はあなたに告白しに来たのです」
「はぁ!?」
素っ頓狂な声を上げるシド。
「じゃ、じゃあ囲碁の師匠になってくれってのはなんだったんだ?」
「とっさに口から飛び出しました。もちろん棋士として自分より格上だと尊敬はしていましたが、あくまでも倒すべき相手としてです」
瞳の奥でメラメラと燃える闘志の炎に断じてウソはない。これだけで囲碁の師匠がいなかったという理由がよくわかってしまった。シオンにとって囲碁とは純然たる勝負の場なのだ。己の才覚と実力だけで挑むことに価値を見出している。武芸一辺倒の血は形を変えて続いていた。
「ようするに、いざ告白の瞬間になって日和ってしまったのですよ。我ながらなさけない……。けれど見方を変えれば好機でもありました」
「……というと?」
「師弟関係を結びさえすれば、いずれにせよ誰はばかることなく逢瀬を重ねられるではありませんか!」
「ああそう……」
シドはなんだかどっと疲れた気分だった。どうにも眼の前の少女はなかなかの食わせ物だったらしい。いや、だからといって己も決して偉そうなことをいえる立場にないが。
「ですが私のその場しのぎの言葉のせいで、旦那様に無用な期待を持たせてしまったことは痛恨の極みでした。申し訳ございません」
「それについては……うん、俺も師弟関係を利用しようとしたわけで。お互い様ってことでいいんじゃないかな。かな? かな?」
頭を下げるシオンを制すると、シドは半ば気まずさをごまかすように問いかける。
「……なんで俺に告白しようとおもったんだ? チャットしてただけで、なにか惚れられるようなことをした覚えがないんだが」
「合縁奇縁。恋に理屈を求めるのは野暮かとおもいますが――。強いていうならば、まさにそのチャットがキッカケです」
「それこそ特別なことを書いた記憶はないぞ。毎日テキトーにダベってただけだろ?」
「気兼ねなく会話ができて、それが心地良く感じられる。これ以上に人生の伴侶として必要な素養がありますか?」
「そういうもんなのか……。で、さっきから伴侶だとか旦那様だとかいってるけど、それはまさか本気じゃ……ないよな?」
「もちろん本気です。この東堂シオン、半端な気持ちで殿方に求愛することはありません!」
くわっ! と目を見開いて断言するシオン。あまりの男らしさに目眩がしてきた。
「それに」
「そ、それに?」
「東堂家の女には、裸を見せた相手は殺すか愛すしかないという家訓があるのです」
「なにそれこわい!」
どうなってんだよやべーな東堂家! ……というか待てよ?
「……あの日バスタオル巻いてこなかったのは確信犯だったのか!」
「はい。あわよくばあのまま一気に決着をつけるつもりだったのですが、結果はあの通り……。重ね重ねなさけない。私もまだまだ修行が足りません。ですが収穫もありました。無防備に寝ていた私に手を出さなかった、その紳士さ……すばらしい! まあ正直にいえば手を出してもらったほうがよかったんですが。それでもすばらしい! あらためて惚れ直しました!」
まったく悪びれないシオンの様子におののくシド。ここまで来ればいやが上にも気がついてしまう。己がトンでもない相手を引き当ててしまったことに。
この娘は本気だ。本気で、シドを人生の墓場に引きずり込む気だ。
「ま、まだ中学生だろ? そんな簡単に将来の相手を決めていいのか?」
「戦国の世であれば、10代前半で婚姻を結ぶなど珍しいことではありません!」
「うん……、ぶっちゃけその返答はなんとなく想定してたわ。あと今は21世紀だからな?!」
「それならそれであと2年ほど待てばよろしいだけです! というわけであらかじめ婚姻届を書いておきましょう! ここに用意してありますので、さあ一筆!」
「絶対に書かねえよ!」
「ところで、私の胸を揉みましたよね?」
「ばっか、あれは不可抗力であって」
「ほう、あてずっぽうでしたが、そうですか、そうだったのですか」
にやりと笑うシオンに、シドはあっと口を押さえる。しかし後の祭りだ。
状況は圧倒的に不利。ふたりきりの密室、意識がない少女の胸を揉んだ――。事案発生。ギルティである。これを種に強請って、婚姻届に一筆書かせる気か? シドの警戒心がマックスレベルに跳ね上がった。シドとは対照的に、シオンは楽しそうに話を続ける。
「なに、簡単な推理ですよ。裸の私を抱き上げれば、必然的に片手が私の肩のあたりにくるでしょう。そのときに胸を触ってしまったのなら、それは不可抗力だと自分に"言い訳"することが出来る……。いえ、べつにそれで旦那様を責める気は毛頭ありません。むしろ、そう……、胸を揉まれたことにホッとしているのです」
予想外の言葉、シドは眉をひそめる。
「……どういうことだ?」
「そうですね、端的にいわせていただけば……」
そっと胸元に手を添え、ほほえむシオン。身構えるシドだったが、次なる言葉であっさりぐらついた。
「あなたがお望みであれば、いくらでも婚前交渉に応じるつもりだということです」
婚前交渉、それってつまり――。なんだかんだでガン見していたシオンの裸が生々しく脳裏によみがえる。ハリのある肌。ほどよく膨らんだ胸。引き締まりつつ女性的な柔らかみのある肢体。
「旦那様からちゃんと女として見られていることがわかって、心の底から安堵しました。あ、もちろんまだ生娘ですのでご安心を。まだまだ成長途中の未熟な身体で満足できないかもしれませんが……、それはそれで青い果実を堪能できてお得だとおもいますよ?」
揺れる。揺れる。頭の中がシェイクされる。
なにをいってるんだこいつは。だがしかし一理あるのではないか。いやねーよ。
シオンはいうまでもなく極上の美少女である。それにこんなことをいわれて揺れぬわけがない。
「どうです旦那様。悪い話ではないとおもいませんか?」
気がつけば傍らにシオン。葛藤のあまり動けないシドの右手を取ると、それを自らの左胸に押し当てた。やわらかい感触。ゴクリと、シドが生唾を飲み込む。シオンは年齢不相応な艶然とした笑みを浮かべ、いう。
「こんどは"言い訳"なんか必要ありませんよ。なにもかも、あなたのお好きなように――」
流れるようにシドの胸元へしなだれかかるシオン。甘い匂いが鼻孔をくすぐり、頭の中が真っ白になっていく。シドの両手はシオンの両肩をつかみ、正面から向き合った。潤んだ瞳が近づいていくる、いや、シドが近づいているのだ。瞳が閉じられ、いよいよ唇と唇とが重なり合い――
「――ッ!」
かけた瞬間、シドの脳裏にひとりの少女の姿がよぎった。シオンの身体を自分から引き離すと、内なる欲望に反逆するかの如く、全力で啖呵を切った。
「ぐ、ぐぐ……! 俺を舐めるなよシオン! 七つの大罪を統べる偉大なる大悪魔の眷属たる俺が、そんなチャチな色仕掛けに引っかかるか!」
まさかここでシドが踏みとどまるとはおもっていなかったらしく、初めて動揺の表情を見せるシオン。だがどうにか表情を引き締め、負けじと声を張り上げる。
「むむ……、さすがに一筋縄ではいきませんか……。しかしそれでこそ私の旦那様! 絶対にあきらめませんよ!」
それから一昼夜にわたって押し問答はつづいた。
日が昇り、陽光が室内を照らしはじめたところで、シドは枯れかけた声を絞り出す。
「よし……、よし……、わかった……。これからも朝食作りは続けていい。そこが俺の妥協点だ」
「休日にお泊りは」
「ダメに決まってんだろっ……!」
「ふむ……。これ以上はムリ……、しかたありませんね。妥協しましょう」
「ああ、そうしてくれ……。俺はもう限界だ……」
いきなり現れた背後霊に対する不安でいっぱいいっぱいだったシド。ようやく解放されたと気が緩んだ直後、真面目だとおもっていた少女がまさかの大変貌。立て続けに起こった突発的事態に、シドの精神はすでにボロボロであった。そしてトドメの問答。もはや精魂尽き果てた。
力尽き、店のテーブルに突っ伏すシド。どうして2階の居間にいたのに1階の店部分に移動しているのか――。それすらいまのシドにはわからない。が、どうでもよかった。
「これだけ疲弊した状態でもたいした譲歩を得られないとは……。さすがの胆力といったところか……。なにより婚前交渉が通じなかったのにはおどろいた……。しっかりとした貞操観念を持っていることはよろこばしいことだが……、個人的には残念至極……。まあ、だからといって私の身体に欲情しなかったわけでなし、それを知れただけでも収穫としておこう……。いまのところほかに女っ気はないようだし、時間さえかければ……」
テーブルの向こうでブツブツ呟く少女の言葉も、いまのシドには空気の振動でしかない。
にしてもすごいことを口走ってる。なんだかんだでシオンの体力も限界だったようだ。
「そういえば、先ほど口走っていた"悪魔の眷属"とは一体どういうことだったのだろうか……? 悪魔といえばアロマゲドンの……。いや、まさかな。まさか……」
***
すっかり日焼けしたあろまは、久々の椏隈野商店へ向かって歩いていた。
隣には同じく帰省から戻ってきたみかんもいっしょだ。
人っ子一人いない灼熱地獄のような炎天下の中、あろまは不意に声を張り上げた。
「すぅ……我は悪魔なり! 汝らを呪ってやるぞ! ……どうだみかんよ。一週間ぶりにやってみたが、ちゃんといつものキャラにもどっておるか?」
「きっとだいじょうぶなの!」
「うむ、ならばよし! さすがに両親や祖父母らの前でキャラを作り続けるわけにもいかぬからな……。素のキャラでアイドルをやっているシオンらが、この時ばかりはうらやましい……っと、店に着いたか」
店の前。肩に下げたポーチからハンカチを取り出すと、あろまは汗を拭う。汗臭いのはこの際しょうがないとしても、汗まみれの顔を少年に見られたくないという乙女心だ。
「ほれ、みかんの汗もぬぐってやる。眼をつむれ」
「はーいなのー」
そういってハンカチで拭ってやるが、あろまにくらべるとほとんど汗をかいていない。あいかわらずの健康優良児っぷりだ。
さて、いよいよシドと再会だ。帰省ともろもろの事情でおよそ2週間ぶりだ。妙にドキドキしてきた心臓を落ち着けるために深呼吸すると、右手で髪の毛を軽く整えた。いざ行かん。
引き戸を開けると、エアコンの冷たい空気が流れ込んで来た。おもわずだらしなく緩みそうになる表情を引き締め、あろまは声を張り上げる。
「デービデビデビー! 悪魔が地獄の底より舞いもどってきたぞ!」
「ジェルジェルー! 天使もやってきたなのー!」
「くくく、ひとりさびしく店番をしていた汝のために、たくさんのみやげ話を用意してきてやった……ぞ?」
何故かぐったりと突っ伏しているシドの姿があった。
それもいつものレジにではなく、テーブル席にいるというのがよりミステリアスだ。
あわてて駆け寄るあろま。横に立ってシドの肩を揺する。
「ど、どうしたのだシドよ! なにがあった!?」
のっそりと顔を上げるシド。あろまが来たことにようやく気づいたという様子だった。
「……あろまか、ひさしぶりだな」
「う、うむ。ひさしぶりだな我が眷属よ。それで、一体なにがあったのだ?」
「なにが……」
途端、遠い目をするシド。それだけでよほどのことが起きたのだと察することができた。
「シドよ、我から訊いておいてなんだが、汝が話したくなければ……」
「いや、話すよ。でもその前に……」
グイッと右手を引かれ、ぽすんとなにかに受け止められた。
「あー! いいなー、なのー!」
みかんの声が遠い。
遅れて、あろまはシドに抱きしめられたことに気がついた。瞬間的に顔が真っ赤になる。
「ふえ!? え? え、え? ななななななにをやっておりゅのだ!?」
「ああ……、あろまは本当に癒されるなあ……。かわいくてやわらかくて温かくて……、うん、癒される」
なにやらシドはいっているが、あろまはそれどころではなかった。たくましい腕にがっしり抱きしめられ、やかましいほど高鳴っている心臓。初めて間近で嗅いだシドの体臭に、くらくらする頭。このままではよくわからないがマズイと、削られつつある理性を総動員して口を開く。
「し、シドよ、我としてはこのようなこういもやぶさかではないというか、むしろばっちこいというか……。し、しかしだな!? 物事にはこう順序というものが……」
「お前がいなかったら、今ごろあいつの色仕掛けに負けて人生の墓場へゴーだったよ……」
「……む?」
"あいつ"? "色仕掛け"? 聞き捨てならない言葉が飛び出したような気がした。
急速に冷えていくあろまの思考。冴え渡る乙女の勘。
なにか、よくわからないが、自分にとって非常に不本意な事態が起きたのではないか。
「一体なにがあったのだ?」
いまはとにかく情報を集めるべきだ。途端、冷静になったあろまの様子に気づくことなく、シドは心底疲れ果てた声で応じる。
「昨日まで背後霊がいてさあ……」
「ま、まだいうか!? もうその手はくわんぞ!」
「いやいやそれがマジでな……。で、囲碁の弟子を取ることになったんだが、それがどういうわけか実は俺の嫁になるための偽装で……」
「ほんとうにどういうわけだ!?」
ぎょっとするあろま。どうツッコめばいいのかわからない。これ、シドは単に錯乱しているだけなのではないか? しかし乙女の勘は未だに警告を発している。どうしたものか、逡巡する。
「わるいなあろま、あの時はからかってさ……。もう背後霊は勘弁だ……。いなくなったとおもったら特大の爆弾を残していきやがって……。いや俺も悪いんだけどさあ……」
ひとまず――、この様子ではまともに話を訊き出すのはムリだろう。ただひとつハッキリしているのは、シドが相当に弱っているということだ。
ならばこのような状況で悪魔が取る行動はただひとつ。
「シドよ……、汝はつかれておるのだ。今日はもう店をたたんで休もう、な?」
両手をシドの背中に回し、自分でもおどろくほどやさしい声色でそういった。
そう、悪魔なら弱みにはつけこむものだ。決して弱ってるシドを支えたいなんていう献身的な気持ちからの行動ではないし。ましてやシドを自分から抱きしめるための方便などではない。
あろまには何がどうしてこうなったのかさっぱりわからない。
しかしシドの言葉を信じるのなら――、苦手な背後霊にいまだけはちょっぴり感謝だった。
〆