壱
着古した着物に、使いつぶした柳行李を手に立ち尽くす夢野久作は、異国の薄暗い路地裏をねめつけている。久作に気が付いたらしく、表通りの明かりが差す場所に寝ていた丸々太った鼠が慌ててどこかへ逃げていく。
鼠が逃げ込んでいった暗闇に次第に眼が慣れると、裏路地の奥まった場所の様子が久作にも見えてきはじめる。赤煉瓦の建物で区切られたその裏路地に、一人の男を三人の女が囲んでいた。蹲り体をブルブル震わしている男を、ケバケバしい化粧やら装具品でみっともなく着飾り、丸々と醜く肥え太った性根の女たちが足で小突く。凄まじい屈辱に男は襲われているだろう。顔を赤くし、唇はギリギリ噛みしめられている。だというのに、ただ黙ってスーツの内ポケットからしっかりした作りの財布を取り出す。一切の抵抗をしない。屈辱に身を震わすだけで言われるがままだ。
女たちがこれまた汚い笑い声をあげ、財布を奪い取った。
「バカバカしい」
煙管を取り出し、久作は口にくわえる。最前の行いに、ズキズキ痛む米神を無視しズンズン路地裏を突き進む。
「そこらへんでやめておけ」
女たちが振り返る。久作を見て眉をしかめだす。項垂れていた男が顔をあげる。その表情が僅かに明るいものへと変わった。
「ナニ、アンタ。もしかして私たちに口答えするつもり」
「オホホホホホ……。だとしたらバカね。このご時世、女に逆らうなんて。授業料替わりよ、財布を置いてどこへでも行ってしまいなさい」
黙って久作が財布を取り出す。女たちは嗤いだし、後ろにいる男は力なく頭を垂れた。そのまま財布を久作は地面に放り投げる。女たちはポカンと口を開いたが、すぐにその口を引き締め苛立った声で問いただす。
「……どういうつもりかしら……」
鼻で久作は嗤う。女たちを相手になぞしていなかった。
「畜生の魂しか持たぬキサマらなぞ、四つん這いがお似合いだ」
顔を真っ赤に染め上げた女が殴り掛かるが、久作は空いている手で防ぐと、そのまま関節を極めてしまう。甲高い悲鳴が女の口からあげられる。男の財布が女の手から零れ落ちる。
痛みで喚く女とアタフタ動揺し始めた女たちに久作は告げる。
「サッサとドコかへいっちまえ。キサマらのような奴らを見ていると胸がムカムカしてしょうがない」
女を突き飛ばすと、ヒステリックに喚き散らす。しかし久作が一歩近づくと、背を向け女どもは慌てて逃げていく。あんまりにも無様な姿に、久作は嗤うことすらできなかった。
「あ、ありがとうございます」
声のした方を見れば、男が立ち上がっていた。男は肉付きの良い、タクマシイ若者だ。スポーツに励んだであろう、筋骨隆々とした体格だ。体格もそうだが、暗闇でも分かるほど服装もかなり立派なものだ。女たちのせいで小奇麗なスーツはしわくちゃになってしまっているが、それでも仕立ての良い高級品であるのが見て取れる。それに地面に落ちた財布もよくよく見れば、有名な高級ブランド品だ。
ネクタイを直し笑みを浮かべ握手を求める男であるが、久作は手を交わすことなく、それどころか先程よりも一層強く睨みつけて返す。
「キサマもキサマだ、……ソンナ立派な身体をしているというのに、情けない。一発、発倒してしまえば良かったのだ。しないからああいう手合いがツケアガル。先に一発強烈なのを喰らわせれば、対外男も女も関係なくしおらしくなるものだ」
久作の怒鳴り声が反響し、路地裏に消え入る。怒りをあらわにする旧宅に対し、男は疲れ果てた顔をして、力なくつぶやく。
「ISが出てから、そんな強い男は消え果ててしまいましたよ」
「フン……。……そんなていたらくだから、なめられるのだ。ISといえど高々機械だろう。キサマらはただ、社会だ世間だと口頭につけ言い訳しているにすぎん……」
スッカリ腹を立てた久作は、男に背を向ける。それ以上話をする価値が男にあると思わなかったからだ。イライラした足取りで、路地裏を抜け出す。
路地を抜けると左隣には、モノスゴイ歴史を語る苔生した尖塔のある聖マリーエン教会だった。ハンザ同盟の名残である燈台の明かりに照らされ、ステンドグラスがキラキラ輝く。青い光が光を孕んだ聖母の腫れぼったい頬を伝い落ちる。
「せっかく黄泉返った教えも、男のものだからいまの女には通用せんか」
ハラリハラリと青い泪を落とす。それ以上聖母を見ることができなくなり、久作は背をそむけた。歩き出す、あてどなく、ロストックの街を。
弐
気だるい精神的な疲れが、久作の肩に重苦しくのしかかる。ロストックの街についてそうそう、いやなものを見てしまい、とにかく休みたく木賃宿でもいいから宿を探し始める。交通の要所である街だ。宿の一軒や二軒すぐに見つかるだろうと高をくくっていたが、それがどうしてなかなか見つからない。
運がないと空を仰ぎ仰ぎ狭い曲がり角を曲がろうとすると、ナニかが腹にぶつかった。
「スマナイ、大丈夫か」
ナニかは軍服を着た少女だった。尻餅をついてしまっている。倒れている彼女に、久作は手を差し出す。
しかし手を指し延ばしている間にも、その服装と背格好から疑問を抱く。なぜ、少女が軍服なぞ来ているのかと。
そんな疑問を他所に、少女が顔をあげる。アドケナイ顔が、街燈の灯りに照らされその
その容姿に内心感心を覚えていた久作であるが、次第に眉を顰めてしまう。なかなか久作の手を彼女は取らないからだ。とはいえ別に久作は怒っているわけでもない。彼女を一目見ればそんな必要はなかった。
彼女は震えていた。
彼女のあんまりな様子に久作が不審を覚えると、どこからか荒々しい靴音が響く。すると彼女の震えがよけい大きくなる。久作が耳を
ドンドン音が近づいてくる。薄暗闇から現れたのは、男の五人組だった。服装からして軍人だ。それぞれ先程の若い男と比べられないほど鍛えられた体つきをしている。
軍人の顔を見て、久作は彼女との間に割り込む。
横並びに軍人が立ち止まる。五人の中から、一人が前に出てくる。
「ソコの東洋人」
軍人は久作でなく、彼女へ視線を向けていた。その目つきに、久作はいやなものを感じ取る。冷淡で、人を人と思わないような目を軍人どもはしている。甚振ることを楽しむ、
「ナニかね、吾輩に用でも」
「ソイツを渡してもらおう。ソイツはスパイでね」
居丈高に男は告げる。後ろにいる軍人どもも嘲りを含んだ表情をしており、久作の胸に不快感が沸き立つ。嘘をついている。そう直感した。
「ほう、間諜ね」
横目に彼女の様子を窺い見れば、奥歯をかみしめ、泪をポトポト落としている。服を握り込んだ手に泪がしみ込む。だというのに、嗚咽ひとつ漏らさない。なんとイジラシイ。久作はそう思った。
自身の咎ではない、それどころかマッタクの冤罪であろうはずなのに、彼女はただただそれを受け入れた。それも見ず知らずの久作の安全のために。これに奮い立たなければ、それは男ではないだろう。否、人間ですらない。
久作の肩に軍人が手を置こうとする。その手を払いのけ、久作は目の前に立つ軍人どもを睨みつけた。
「……いい加減黙れ、……この
低い
「なんだと、キサマッ」
ズンズン久作へ近寄る男。胸元あたりにのばされた手をかいくぐり、男の胸ぐらを久作は片手でつかみ上げる。
目を白黒させ、必死に拳を振りほどこうとする男。しかし久作の力があんまりにも強すぎるためか、自身の胸元程度しかない東洋人の指一本外すことができやしない。
両手で抵抗した男だが、唐突に久作へ殴り掛かる。拳をほどくのを諦めたようだ。殴り掛かった拳を、行李を地面に落とし自由になった手でつかむと、そのまま反転し後ろで阿呆面を晒している軍人ども目掛けて久作は投げ飛ばす。ゲルマンの屈強な男が、宙を舞う。久作以外、全員が驚いて飛ばされた男を目で追う。空中で暴れた男は横向きになり他の軍人どもを巻き込む。
抑え込むことができず、軍人どもは地面に倒れ込む。ヨロヨロ力なく立ち上がる。そのザマすらも久作の腹にくる。
「エエッ、悔しいっ。こんな
歯を剥き出しにし久作は
か弱い女子を追いかけ回すクダラナサ。高潔な精神から自己犠牲の覚悟を決めた女と違い、裏路地の男のような情けなさをあたり一帯に振り撒き振り撒きする軍人ども。もはや天井知らずに膨れ上がった久作の怒りは、いまにも蒸気弁たる理性を根本から粉砕し、すべてを蒸し殺さんとその小さな体で凝縮していく。
キリキリと吊り上る眦。吐きだす息はどこまでも
「その暴言を聴かなかったことにしてやる、早くソイツを渡せ」
「フザケルナよ……。九州男児たる吾輩が、帝国男児たる吾輩が、夢野久作である吾輩が、キサマらのような、弱虫でイクジナシに屈するとでも思うか……」
声を発するたびに、久作の魂は奮い立つ。いよいよ怒りは限界を迎えた。
青白く顔を染め上げた軍人の一人が、場に耐えきれなくなったのか飛びだす。その手には
「やめろっ」
切羽詰まった声が上がる。それは彼女の口から飛び出たものだ。久作へ必死に手を伸ばしている。
「
力なく漏れた声とともに、その手は力なく垂れ下がる。絶望がその顔を彩り、後悔の泪が頬を伝う。
だが落ちゆく手は力強く握られた。
「えっ……」
彼女が顔をあげれば、久作がのばした手を握り返している。その胸には傷ひとつない。
動揺したのか、彼女は瞳を震わす。その視線がある一点で止まる。視線の先には、寸鉄を握りしめた軍人がいた。
ニンマリとした笑みをこぼし、街燈へ寸鉄を軍人は突き刺す。時折キリキリ捻じり、より深くねじ込もうとする。虚ろな瞳で楽しそうに街燈を見つめている。
「イヒヒヒ……」
誰もが動けない中、久作は異様な様子の軍人の足を刈る。バランスを崩され、受け身を取ることもなく後頭部から投げ落とされ、白目を剥き出しに泡を吹いて軍人は気を失う。
久作が動く。軍人がはじけたように後ろに下がる。ニンマリ嗤うと、彼女と行李を掴み久作は走り出す。一人を抱えているとは到底思えない速度で。「追え、追うんだ」いまさらながら、軍人たちの怒声が街角に響く。
参
街を疾走するいくつもの影がある。久作と軍人どもだ。
まっすぐな街道を走る久作の背を、俵に担いだ彼女が叩く。
「放せっ、私を囮に逃げろっ」
背を叩く力があんまりにも弱く、久作はさらにしっかりと彼女を抱えた。
「いまさらソンナことできるものか」
その言葉に火がついたように暴れる彼女。だがそれでも久作は走り続ける。
後ろから追っ手の気配が近づく。
「ヒッ……」
肩で暴れる彼女の体がこわばる。振り返ることもなく、すぐ真後ろに軍人が近づいているのが久作にも分かる。一瞬迷ったが、すぐに決断を下す。
「天子様、お許しくだされ。これも天道のため……」
その場で反転し、遠心力をタップリ乗せた行李で真後ろの軍人をタタキツケル。鼻っ柱が圧し折れた感触が手に伝わる。そのまま勢いを殺すことなく、もう一回転して野球のサイドスローのように行李を投げてしまう。
唐突な反撃に気を取られていたのか、もう一人の軍人に行李が直撃する。バタリと軍人が仏倒しになる。口から白い泡を吹いて気絶している。息がピタリと合ってしまったらしく、泡を吹くほど気を失ったようだ。
「ザマアみやがれっ」
再び久作は走り出す。その後ろから、残った軍人の罵倒が次々に投げかけられる。
「アハアハアハハハ……。いくら吾輩とて、そんな早口を聞き取れるものか。ワメイタところで屁の河童だ」
とはいえ久作も厳しいものがあった。汗は滝のように流れ、まっ白な息を機関車のごとく吐き出している。このままでは遠からず捕まるだろう。すぐに嗤いは引っ込み、真剣な顔で走り続ける。
道の先に三叉路が見えてくる。残った力を振り絞り走る。追いかけてきた軍人も再び近づいている。
右の道は大通り、左の道は裏路地。
迷うことなく久作が身を投げるように跳びだす。軍人もすぐに跳び込む。
左の道へ迷うことなく進んでいく軍人を、右に曲がって立ち止まった久作が眺める。
そうして軍人たちが完全に曲がり切ると、彼女を降ろす。ようやく降ろされた彼女は、久作の顔を呆然と見ている。腰を引かし、数度口を開こうとしては閉じる。つばを飲み込みながら、掠れた声で尋ねた。
「おまえはナニモノだ……」
問いにすぐ答えることはせず、煙管を取り出し久作は一服吸う。紫煙が鼻をくすぐり、神経過敏となった昂ぶりを鎮めていく。ようやく達成感と心地よい疲れが襲い掛かってくる。それをひとしきり楽しみ、答える。
「ナアニ、ただの異能者さ」
久作らしい文章を目指しましたが、めっさ難しいです。いや、マイナーとはいえさすが乱歩に絶賛された方です(処女作は結構厳しい評価でしたが)。でもやってて楽しいという。