成層圏、高度約三万メートル。
対流圏界面を流れるジェット気流はこのすぐ下だ。大気層が厚い青の姉妹では、対流圏が青い姉では一万五千メートル、青い妹では二万メートルまである。二つの違いは惑星の大きさによるもので、妹の方が姉より重力が軽い。(決してグリューエルがヒルデより重いという意味ではない)
ここから、赤道付近で生じているブリューワー・ドブソン循環に乗って、成層圏上部へと移動する。螺旋軌道を描きながら、より大きな上昇気流『姉妹の息吹』を待っている。
高度七万メートル。
成層圏界面が近い。この上は中間圏に入り気圧は地表の一〇〇〇分の一程度。だが気温は意外にも高く0℃前後だ。これは成層圏にあるオゾン層が紫外線を吸収しているからで、空気密度が低いために温度が上昇しているのだ。
ために成層圏では冷たい空気が下に溜まり暖かい空気が上を覆っているため安定している。しかし高層大気を共有し合う連星では事情が違ってくる。星どうしの昼と夜の温度差から循環が起き、大きな対流が発生するのだ。非常に薄い空気だが、それでも移動時に五〇ヘクトパスカルぐらいの気圧差が生じる。
その風を待っている。
ブリューワー・ドブソン循環は、赤道域で上昇し南北に分かれて子午線域で下降する。風は上昇を緩めて頂点に達しようとしている。このままいけば循環流は下降に向かってしまう。空気もかなり薄くなっており、ディンギーも揚力を維持するのが難しくなっている。
あと5千メートル、いや一千メートル、五〇〇メートルだけでも……。少しでも高度を稼ごうと、ブリューワー・ドブソン循環の中心で、中間圏との境界まで吹き上げている上昇気流を摑もうと循環流の真ん中に肉薄する。
やがて、空が暗くなり出した。
日の光が無くなり、天頂に青い姉の夜の側が被さって来る。南中時に起きる日食だ。
ディンギーの風切り音が止んだ。
無風の中で滑空するディンギーの群れ。
すっと、エレベーターが落ちるように高度が下がった。
――来る――
下から空気の塊がやって来る。
それは、周囲との密度の違いに陽炎のように揺らめいて見えた。
高度一万メートルから対流圏の一部を剝ぎ取り、成層圏を巻き込んで、中間圏と熱圏を突っ切る、風。
日食で急激に冷やされた大気が、冷たい空気が下に下がり暖かい空気の塊りが上に押し上げられる。気圧の上がった青い妹の大気が夜で冷えて気圧の下がった青い姉に向かって吹き昇る。
――それは、宇宙に吹く風。
これがあるために、セレニティーは他の星系と比べて手軽に宇宙へ到達できた。燃料をバカ食いする噴進式ロケットや軌道エレベーターを使わずに、いわば帆掛け船で宇宙空間に飛び出すことが出来たからだ。それには複数に渡る大気圏突入と滑空を可能とする軽くて強靭な鋼材が必要だったが、既に恒星間航行の段階まで進んでいたセレニティーの技術では難しいものではなかった。だが姉妹の息吹を利用するには数多の犠牲を必要とした。工学技術と操船の技は、また別のものだからである。けれども、最初の世代間宇宙船クイーン・セレンディピティが青の姉妹に到達してから、他の星々へ植民に乗り出すまでそれほど時間は掛からなかった。
一斉にディンギーは宇宙へと向かう。
チューブ状の星間ハイウェイだ。
だが、そのハイウェイは細い。距離は六五〇〇〇キロにも達するのに直径は五〇キロに未たない。青い姉と青い妹は繭状の大気圏で包まれている。しかしそのほとんどが熱圏でで、芯に当たる部分に薄い皮膜のような中間圏があり、一日に二回、そのが細いダクトを大量の大気が行き来するのだ。
当然、猛烈な奔流となる。大赤斑の風とまでは言わないが、ジェット気流並みの風が吹く。しかも逆流する流れもあり、のたうっている。
ディンギーは青い妹の大気圏を出たところで木の葉のように舞った。この段階で三分の二が脱落した。
「なによ、これっ! まともに操縦できないじゃないっ!!」
選手たちは歯を食いしばりながら、翻弄されるディンギーを立て直そうと必死だった。
アイもヒルデもフェイも、操縦桿とペダルを調節しながら翼を操る。だが、風圧に押されて思うように動かない。
チアキは何とか風を読もうと、計器と目視で流れを追いつつ姿勢を維持していた。
「これって、ハーベック・オダ彗星よりキツイ!」
茉莉香は無限博士のラボに乗り込んだ時のことを思い出していた。あの時も乱流に弁天丸は苦労したのだ。だがあの嵐の中を、梨理香は小型艇で見事に乗り付けていた。
のたうつ流れの中で、所々に渦を巻いている場所もある。
次々と棄権していく中、流れをつかんだのはフェイだった。
滅茶苦茶に見える暴風の中に確実に本流を掴み、ディンギーを乗せている。あえて流れに逆らわず、右に左に揺れながら滑る。
それは、荒海を行く名うての船乗りのようだった。
嵐の中でみるみるチアキを追い抜く。
「あの子、あんなに上手かったっけ?」
選抜の時も目を見張ったが、これほどとは思っていなかった。
『さっすが海の子。眠れる獅子は爪を隠すってねぇ!』
「それを言うなら能ある鷹よ。ホント、変な慣用句作らない。」
感心する茉莉香にチアキが正す。
レースの様子は、大会式典会場にも衛星中継されていた。
大型スクリーンに、多元カットで必死な様子の操縦席が映っている。
やがてディンギーは、青の姉妹の中間点に差し掛かった。
「ここは、ローレライと呼ばれた難所なのです。沢山の船が航路開拓のために遭難しました。そこにはセイレーンという魔物が棲んでおり、船乗りを宙に沈めたとか」
スクリーンに映るみんなの必死な形相に、グリューエルは心配そうに言った。
「セイレーン?」
リーゼが聞き直す。
「そう、美しい歌声で男たちを惑わしたといわれています」
不安げに見守る二人。
連星大気層が最も細くなる地点。もう幅は一〇キロもない。その向こうは、宇宙空間。
すると、空気のチューブが青白く光り出した。
チューブの周りを燐光を放つ帯がたなびいている。
――オーロラだ――
普通は極地で観測されるものだが、引き伸ばされた電離層に太陽風のプラズマが当たり発光しているのだ。ただし極地で見られるようなカーテン状ではなく、チューブに巻き付く帯のように展開している。
ヒューィ、ヒューィ、ヒューィ
口笛のような、女性の歌声のような音が聞こえる。
ピュチパチと何かが爆ぜるようなものも混じっている。
姉妹の磁力線を竪琴に電磁波が奏でるホイスラー波と磁気嵐の放電音だ。
「これがセイレーン。初めて聴いた。」
ヒルデは頭上から聞こえて来る音に聞き入った。青い妹育ちの彼女でも、初めて聴く天上の音楽だったのだ。もう移動に姉妹の息吹を使う事もない今では、耳にすることは滅多にない。それに、目近で見るオーロラは、地上で見られるものより何倍も壮大だった。去年見た風凪星のものよりも――。
藍、紅、碧、橙…。
様々な色彩の幻のような帯。
淡い光を放ちながら、姉妹の息吹に纏わり流れる。
風凪星の選手たちも、光の乱舞に目を見張った。目を奪われた選手の数人が、操舵を誤り奔流の渦に巻き込まれた。
たちまち錐揉み状態となる。大会の救助船は周辺にセレニティー艦隊の巡洋艦や駆逐艦が展開しており遭難の恐れはないが、このままならレース続行は無理だ。
その時、ヒルデのディンギーがバンクして、渦に巻き込まれたディンギーに近付いた。
そして渦の周りをターンしながら、ロープを射出し錐揉みしている艇に絡ませた。そのまま自分のディンギーを風に対して直角に立てる。
「ヒルデ!」
茉莉香が叫ぶ。
ガクンと、錐揉みは収まったディンギーから通信が入る。
『何をしてるの?! 巻き込まれるわよ!』
だが抜け出せない。ロープはピンと張り詰めたままだ。
秒速一〇〇メートルを超える風の中だ。巻き込まれるどころか自分のディンギーも壊れかねない。
「このまま此処まで来たんです。棄権なんて、しないで下さい。」
自分を凧にして、強引に引っ張るヒルデ。
「一緒に行きたいんです!」
――あの子。――
風凪星の選手も、茉莉香たちも、見守る会場の観衆たちも言葉が詰まった。
『――わかったわ。』
諦めかけていた選手は、ヒルデの牽引に助けられながら、渦からの脱出を図った。
渦と無理に逆らわないように、ディンギーを流れから擦らせながら渦から抜け出る。
それを見た風凪星チームと白鳳、次々と同じ要領で渦に捉えられた選手の救出活動に続いた。
『ありがと。――でも』
なんて危険なことを、と言いかけた所でヒルデは遮った。
「一緒に行きたいだけでは無く、ディンギーどうしを繋ぎ合わせた方が、揺れも相殺できるかと思いまして。」
そう少しつんけんな口調で説明した。
二〇〇あったディンギーが、ここまでで僅か一二艇にまで減ってしまっていたのだ。
クスリと少し微笑みながら、風凪星チームのキャプテンが言った。
『連環の計ね、いいわ。』
連環の計は敵内部に弱点や争点を引き出す計略なのだが、ここでは敵同士の結束を作り出した。艇の構造計算を素早く出し合い、一二艇のディンギーどうしを結わえ付ける。
フェイを先頭に軽量の白鳳チームとチアキのディンギーを前列に、後方に残りの七艇が続く鋒矢の陣形。軽快だが横風に弱い白鳳を、安定性のある七艇が抑える。謂わばヨール(外洋ヨット)の、白鳳がメインマストで風凪星らがミズンマストに舵となるわけだ。
一隻の船ではなく、横波にも縦波にも、前後左右にしなりながら乗りこなすヨット。それを波乗りのフェイが誘導する。
『右舷二時方向、上下角三〇度。風来ます』
『よーそろ。』
風見の水先案内はアイだ。
茉莉香は全てを二人に任せた。『船頭多くして船山に上る』では何にもならない。山に登るだけならいいが、波に乗り損なって風に弾かれると即宇宙空間行きだ。二人の技量は、これまでを見ていて風凪星らも納得していた。彼女らは艇と進路の安定だけに努めた。
やがて奔流だった風の流れが揺らぎ始めた。ちょうど束がバラけていく感じだった。
姉妹の息吹が青い姉の大気圏に入ったのだ。
ここで、ディンギーたちは結んでいたロープを解き放つ。
息吹から離れて電離層に出る。
風が凪ぎ、しんとした空間。
『練習を重ねてきたのは、私達だけではなかったって事ね。』
『そのきっかを作った貴方たちが、一番練習を重ねてたって訳ね』
『去年も思ったけれど、やっぱ強いわ、あなた達――』
周りの選手たちから、白鳳に言葉が掛けられる。あの去年のような余所余所しい雰囲気はもう無い。それがとても嬉しい白鳳チームだった。
『さあ、最期の勝負よ!』
風凪星のキャプテンは宣言した。
それに一同が頷く。
電離層から再度の大気圏突入だ。
青い姉星に向かって、やや深めの侵入角度でもって突っ込んでいくディンギー。
眩いプラズマの尾を引きながら、一二艘は青い姉の昼の側を目指していく。
今回のレースで、完走したのは八艇だった。再突入を果たした一二艘のうち、四艇は操舵不能と燃料切れをきたして辿り着けなかったのだ。
二〇〇艇中、完走八艇。実に二五分の一。
出場者一四二名、完走者二名に次ぐ記録である。これが悪夢の一三回大会と並び称せられる『悪魔の二〇回大会』の結果だ。もっともその悪魔は、コースを改竄した者ではなく競技の難易度ゆえだったが。
いずれにせよ、ローレライで見せたスポーツマンシップは感動を呼び、完走できなかった選手たちにも惜しみない拍手が送られた。そして選手たちは、お互いの敢闘を讃え合ったのだった。
え、レースの結果はどうなったかって?
それは言わないでおこう。
勝負の勝ち負けよりももっと素敵なものを、観客を含む参加者たちは得たのだから。