Overture
うだるような暑さとは裏腹に、空と海は真っ青に広がっていた。
緩やかに揺れ動く波間を、二条の軌跡が白く水面を切り裂く。
ドン、とどこからともなく聞こえてきた重い音の直後、それが彼女の真横を通りすぎたのか、空気のうねりに髪がなびき、海面が炸裂して舞い上がった水柱に飲まれそうになる。
彼女――綾波は手慣れた動きで海面を滑り、降り被ってくる水柱を潜り抜けながら、手に持つ連装砲を構えて首を回す。
最初こそ同じような状況に陥れば悲鳴の一つでも口から漏れ出ていたはずだが、今となってはこの水柱と共に上がってくる潮の臭いに安堵すら感じている。
当たらずに済んだ、と。
「体勢建て直し! 複縦陣!」
通信を介して頭に飛びこんでくる、旗艦である川内の声。
前方に捉えた濃い橙色の花を象ったような姿は、すでに水飛沫を撒き散らしながら綾波との距離を放していた。
ぽんと肩に柔らかな感触を覚えてすぐに、自分と同じ水兵服、同じ艤装を纏った、同じ年齢ぐらいの少女が前に現れ、進む方向を変えないままにくるりと振り返って、口を開いた。
「アタシたち、おっくれてるよー」
柔らかな優しさの溢れる佇まいとした綾波とは違い、同じあどけなさと可愛さを持っているが、不器用に尖った印象を与える。
敷波。何かするときは、いつも一緒にいる姉妹のような存在だった。
「はい。そうですね」
すぐに足を前へ出し、綾波は敷波と肩を並べる。
そうして川内の姿を追いかける内に、また三人の艦娘が彼女たちの前と後ろに並ぶ。
合計して六人による縦二列の陣形――複縦陣。
「よし、このまま乗りきって夜戦だー!」
おー、と一人だけで川内は腕を高々と挙げるが、太陽がほぼ真上にある今から夜まで戦い続けるつもりかもしれないと思い、綾波は苦笑した。
他の四人――敷波、川内に並ぶ叢雲、後ろの村雨と春雨も、このまま日が沈むまで戦い続けるつもりはないだろう。嫌そうな表情がよく出ている。
真っ昼間なのに夜戦という言葉をリズムに載せて連発する川内を他所に、視界に一つの文章が浮かぶ。
『第一状況終了。各員が持ち場につき次第、第二状況を開始』
まばたき一つで、視界を埋め尽くしていたそれらはきれいに消える。そうなるように、綾波たち艦娘と艤装は出来ている。
背負っている缶から送り込まれてくる、燃料、残弾、速度など膨大な情報が、網膜に浮かび上がる。
綾波が、情報を呼び出すよう、艤装へ語りかけたのだ。声に出さずとも、頭の中にイメージすることで、そこと繋がった艤装が応える。
やがて一つの文章が視界に現れる。
提督から送られるメッセージだ。
『我がショートランド泊地とブイン基地による、水雷戦隊同士の合同演習任務。
第一状況:同行戦……結果。
此方:大破1、中破2、小破2。
彼方:大破2、中破1、小破1。
勝利のための健闘を祈る』
……まばたき一つ。
綾波はまだ提督の声を聞いたことがない。それどころか姿すら見たこともない。
日がな一日、執務室の中に誰も呼び寄せずに執務を行っているらしいが、しかし姿を見た人は誰もいない。
以前にいた提督を知っている叢雲たちは「おかしい」と口を揃えていたが、今の提督しか知らない綾波は、それがおかしいのかどうか判断することができない。
……頭をふるふると横に振って、見たことも話したこともない提督のことは意識のどこかに押しやる。
前を向いた叢雲が目を細める。
「見えたわ」
その言葉が一つの号令であるかのように、皆が揃って艤装を構え直し、それぞれの持ち物を確認する。背負っている缶の調子。足元の主機の唸り。持っている者は魚雷発射菅から魚雷が落ちていないか。
遥か遠くに離れている敵を、綾波は望む。
敵は散開していた。
本物の艦船なら、陣形として隊列を組んで、陣取り合戦じみた砲雷撃戦を行うはずだろうが、艦娘……こと人間の姿を持っていると戦術は変わってくる。
まず、艦船は砲塔を動かすためにそれなりの時間を要する。人の姿なら、手に持っているそれをすぐさま前へ出せばいい。
艦船には幾人もの人が乗り込んでおり、それぞれの位置に見張りがいた。人の姿では、前向きに二つある目以外に周囲を見渡せるものはない。
艦船の推進機関はスクリューが主だ。だから横を向きたければ、舵を切ることでゆっくりと横向きになるように移動する。人の姿なら、足に履く主機を器用に扱えば、移動することなくその場でくるくる回ることだってできる。
……他にも様々だ。
だから艦船同士の戦いではまず定石だった、陣形を組んでの戦いのメリットとデメリットも、また別の意味合いに変貌することになる。
あるいは、提督の言う第二状況とやらが、そういうように想定された状況だからか。
中央――ちょうど進行方向にいるのは、健康さや快活さという言葉を体現した体躯を持つ軽巡洋艦――長良。腕に銃器とも砲とも解釈できる見た目の艤装さえ持っていなければ、どこぞの学校で運動部に所属しているごく普通の少女にも見えただろう。
他にもこちらを取り囲むように弧を描いて並ぶ駆逐艦たち――暁、雷、電、五月雨、夕立。
こちらと同様、軽巡洋艦一人と駆逐艦五人による水雷戦隊の編成。
見つけてすぐに、川内と叢雲が顔を見合わせて頷き合った。川内が腕を前へ突き出し、叢雲が缶から伸びる艤装を広げる。
示し合わせたように、皆がこれから始まるだろう戦いに備えて、砲を構える。
「砲撃開始!」
川内の掛け声を皮切りに、第二状況が開始した。
どん、と響く轟音。
その片腕にいくつか括り付けられた単装砲の砲撃音。同時に叢雲も連装砲から砲撃し、薬莢の炸裂で生じた黒煙が周囲を舞い、綾波の顔にも焦げた火薬と鉄の臭いがかかって、すぐに掻き消えた。
「単縦陣。之の字!」
陣形は縦二列から一列へ変更となり、それぞれがジグザグに揺れながらの進路を取る。之の字操舵……右に左に舵を取りながら進む、蛇行とほぼ同じ進み方。敵から狙われにくい運航の一つ。
それを、より敵から狙いにくい単縦陣で進むことにより、被弾率を最大限まで下げる……つもりだったのだろう。
しかし一斉にして周囲が爆ぜるように吹き上がった。
撒き上がった飛沫が霧のように立ち込め、前後すら見えないほど視界を奪われる。
海水を頭から被ってしまう。
……敵の砲撃。至近距離に着弾。
この状態で下手に動けば、味方の誰かとぶつかってしまうことは誰もが把握していた。
だからこそ、之の字運動を始めかけた艦列は、そのままの動きに習って左右へ距離を置き、分断されてしまうことも。
となると次は……。
遠くからの砲撃音が耳に入ってすぐ、どこかで海面が炸裂する。
「うわぁ! びっくりしたー!」
敷波の叫び声が続けて聞こえる。
砲撃音は一度、一方向だけではない。周囲の様々な方向から、何度となく発せられており、その度に水面が飛沫に変わって散らばる。
こちらが下手に移動できないことを利用し、周囲から砲撃をひたすらに叩き込んでいる。
どこから弾が飛んでくるのか? 自分に当たるのか当たらないのか? それすらまともにわからない。向こうだってまともに狙ってなどいないだろう。とにかく霧の中に弾が放り込めればそれでいい――そういう考え方のはずだ。
命中する可能性は低いにしても、囲い込むような位置取りから飛んでくるそれは、袋叩きに近い。
「各個散開! こっから脱出!」
川内がそう通信を飛ばすのも、それしか打開の道がないからだ。
「はいっ!」
綾波も返し、とにかく前へ突き進む。
霧は視界を遮るためだけのもの。当然移動そのものを阻むわけではない。だからこそ、向こうの司令官もそれを想定しているはず。
視界が開けたと思った次の瞬間に、何かが顔を横切った。
いや、正体などは初めからわかっている。砲弾――相手の艦娘が放ったそれだ。
ふわりと横に結ってある髪の毛が風にかき上げられて、頭を引っ張る。
だがそれよりも、目の前で対峙する彼女をどうするかに意識を向けるべきだろう。
「こんにちは!」
溌剌とした声音。なびく金髪、ぱっちりとした碧眼。
……彼女のことは、艦の頃からよく知っている。
夕立。綾波と同じく駆逐艦娘。
「ごきげんよう」
挨拶がてらに手持ちの連装砲を向けるも、鏡写しのように同じタイミングで、お互いに砲口を見せ合っていた。
……これが少しでもどちらかが遅ければ、その瞬間に砲音が鳴り響いたはずだろう。
しかし砲撃戦をする距離ではない。あまりにも近すぎる。
訓練も実戦も、お互いにある程度の場数を潜り抜けてきている艦娘のはずだ。相手が撃つならば、その瞬間に合わせて撃つこともできるだろう。もちろん当てればこの場では勝てる。だが自分も相手の砲撃に撃たれるかもしれない。
自分が撃たれたくないために、相手を撃つことができない。膠着状態。
「……」
お互いに瞳を覗きこんだまま、引き金から指を離さない。綾波は唾を飲んで、網膜に魚雷発射管をいつでも動けるようにしておく。
そろそろ背中の霧も晴れる。そうすればゆっくりと之の字運動で逃げつつの牽制砲撃ができれば、距離を開けることができる。
夕立だって、同じことを考えるはずだと思っていたのだが……。
視線を逸らさぬまま、さながら今にも走り出さんばかりに前傾姿勢を取る夕立。
「さあ――」
その声は相手方の通信にも入れていたのだろう。砲撃音が一瞬だけ止んだように聞こえ、そのわずかな間だけ、静まり返ったように感じる。
「素敵なパーティーしましょ!」
夕立がいた水面が爆ぜ、距離が一瞬で詰まる。
もはや殴り合いに近いような距離にも関わらず、夕立は綾波の放った一撃をいとも容易く避けてみせた。
眼前で金髪が棚引いて躍る。
体に触れそうな距離で突き出された連装砲を避けてすぐ砲音が轟いた。耳のほぼ真横に生じた砲声で、頭が揺さぶられるような衝撃が襲う。
艤装の一つ――水兵服が破け、黒く煤けた穴を残す。
演習専用の砲弾は、命中しても艤装に織りこまれた繊維と化学反応を起こして液状化するようできているため、目立った傷は残らないものの、それでも当たった衝撃は痛いし、それが服ならば砲弾の纏っている熱にやられて焦げることもざらだ。
問題はこれほどの至近距離での戦いを行おうとする駆逐艦だが――。
綾波が後ろへ引けば、それだけ夕立が距離を詰めてくる。
お互いに一つしか持っていない連装砲。もう一つの武装である魚雷は、これほどの至近距離では自分も爆発にやられてしまう。
彼女と目を合わせる――演習とはいえ、およそ戦闘中とは思えないほど、爛々と煌めいている。
怖がっている素振りもない。ただ単に、戦うことを心の底から楽しんでいる者の笑顔。
自分とは大違いだと綾波が思って、少し気圧されてしまう。
しかし次の瞬間には、足を払われて海面に叩きつけられていた。
――艦娘は基本的に、背負っている缶から生じる抗磁圧がもたらす浮力の作用により、主機以外の面で海面に触れても、そう簡単に沈むことはない。
だがそれよりも――足払いなど、およそ人相手でなければ使うことなど決してない技を、こうも小慣れたように出してくる相手に、綾波は驚いていた。
ふらつく顔を上げてすぐに見えたのは、火薬の匂いが漂う連装砲の砲口。
青空を背負う夕立が、綾波に向かってなのか、はたまた単に呟いているのか、言葉を漏らす。
「これで勝ったっぽい……ッ!」
だが夕立のすぐ横で水柱が吹き上がったことに驚いたのか、放たれた砲弾は綾波の脇へ沈む。
今しかその時はなかった。
「ぽい!?」
主機を走らせた勢いで夕立の足を蹴って転ばせ、その間に立ち上がって距離を置く。
「綾波さん! 被弾状況は?」
飛んできたのは春雨の声だった。
「大丈夫です。お洋服にちょっとだけ掠っただけです」
「だったら大丈夫ですね。今からそっちに……きゃあ!」
通信にノイズが走った。視界の隅で桃色の髪が水柱に遮られているのを見る。
また別の敵に巻きこまれたのだろう。
やがて通信に砲撃戦の音も混じり始め、綾波の方から通信を切った。
目の前に視線を戻す。
仰向けの姿勢から足を上げ、それを突き出す膂力だけで起き上がるなんてことを、艤装を背負ったまま夕立はやってのける。
確かに艦娘は並外れた力を持っているものの、体の重さは並の人間と同程度なのだ。自分と同じ――もしくはそれよりも重い缶など背負って、まともにできるはずがない。
気負う素振りもなく、と笑いながら夕立は語りかける。
「綾波、結構強いっぽい」
「夕立さんこそ、あんな戦い方をするなんて思っていませんでした」
棒立ちする夕立に対して、綾波はまだ艤装を構える姿勢から力を抜いていない。
また距離を詰められたら、まともに張り合える気がしなかった。
しかしふらふらと宙に視線を泳がせる夕立に、綾波は疑問を抱く。
おそらく、網膜に見える何かしらの表示を見ているのだろう。
「それじゃそろそろ……時間ぽい!」
耳に大きなブザー音が響き、視界には『演習終了』の大きな文字が浮かび上がる。
実際にブザーが鳴っているわけではないが、そう聞こえるよう、艦娘同士の通信と同じように、そういったシステムができているのだ。
当然ながら、綾波以外の全ての艦娘にも。
そしてまばたきの直後に、また別の文章が並ぶ。
『水雷戦隊同士の合同演習任務。
第二状況:包囲戦……結果。
此方:大破1、中破3、小破2。
彼方:大破3、中破2、小破1。
これにて合同演習任務を終了。速やかな帰投を』
まばたき。
そのうちに、夕立が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「あなた、すごいっぽい!」
連装砲を持たない方の手を持ち上げて、握り締められる。
「え、ええ。夕立さんも、まさかあんなに近くで戦おうとするなんて」
あまりにも嬉しそうな言葉に、戦闘ではなくとも気圧されて綾波はたじろぐ。
「その方が当てやすいっぽい」
あっけらかんと割り切った答え。当てやすいということは同時に当てられやすいことを意味する上に、本来の相手はまともな人間ではない。
思い切りの良すぎる夕立の考え方に、綾波は唖然としていた。
「でも、あなたとは味方で良かったっぽい……あ、春雨、久しぶり」
言葉の後半で夕立の視線は綾波の奥へ向いており、いつの間にか綾波のすぐ後ろにいた春雨へ声をかける。
「夕立姉さん、お久しぶりです」
一礼した春雨の頭を撫でる夕立。
その横顔に、何かを懐かしむような、単なる笑顔ではない何かを綾波は見つける。おそらくそれは、艦娘の〝記憶〟のことについてだろう。
「あなたたちが、同じ艦娘で良かったっぽい!」
「……ぽい、ですか」
夕立が話す言葉のほとんどに着く語尾に、綾波は生真面目にも引っかかりを感じてしまう。
しかし元気そうに話していた夕立も、若干おどおどした様子で夕立を見上げていた春雨も、そして綾波も、途端に喋るのをやめて耳へ意識を向けた。
『あ、あーあー。聞こえているか? 聞こえているようだな』
野太さの中に、精悍な芯がある男の声。
『ショートランド鎮守府の諸君、初めましてだな。俺はブイン基地を預かっている……』
「うちの提督さんぽい」
男性の低い声に、綾波はピンとこなかった。
電文ばかりで自分の名前すら告げない提督しか、綾波は知らなかったからだ。
だから艦娘ではない人間という感覚に、なんだか現実味を持つことができない。
『まずはショートランドの提督へ。こちらからの要請である合同演習に合意してくれて感謝する。参加している艦娘たちもだ。
さすがに最前線を張る泊地の艦娘たちは練度が違うな。こちらの艦娘はしっかり学ぶように。
……だが一覧を見るに、そちらの綾波と、こちらの夕立はやはりこなしてきた場数が違うようだな。もう少しで次世代化改修も近そうじゃないか』
近代化改修というものを、綾波は一度経験している。
艤装の大幅な改造による、個人単位での戦力増強。余った艤装を分解して微調整を行う改造などとはかけ離れた戦力を得られるが、その強力さゆえに、艦娘にある程度の経験と技術の習熟を求められる。
第二段階目となる、より高度な改修が望めるほど、綾波と夕立が優れていると評されたのだ。
「ちょっと、嬉しいですね」
「もっと褒めて褒めて~!」
ちょうど向かい合っている者同士で褒められたのか、綾波は照れて頬を指でかき、夕立はその場でぴょんぴょん跳ねて、春雨はぱちぱちと小さい拍手を送る。
『夕立はすぐ調子に乗るからな。それは次の機会にしておこう。
それでは諸君、演習任務はこれにて終了だ。双方ともに帰還して、補給と休息を怠らずに。解散』
通信は切れて、綾波は夕立と顔を合わせた。
「それじゃ、綾波も春雨もまた会いましょう。次はお友達として」
手を振る夕立に、綾波も一礼してから踵を返し、他の艦隊のメンバーと合流しながら、自分たちの住処であるショートランド島へ――泊地へ向かう。
別の基地の提督とはいえ、褒められた嬉しさを胸に抱きながら。
はじめましてになります。
どうも、在田です。
アニメ艦これを見てから「じゃあ俺が面白いのを書くよ!」という動機で始まり、
ほぼ一年半という開きを経てようやく公開と相成りました。
この話を書いたのは2016年の2~3月となりますが、安定した毎月連載のために前半部分を書き溜めることが最善だと判断し、公開が遅れてしまいました。
よしなに。