どっしり重く感じる艤装を引きずるように岬まで帰り、主機も缶も連装砲も魚雷も、わらわらとやってきた妖精さんたちに外してもらって、補給を受ける前にシャワー室へ寄っていた。
塩水をたっぷり吸ってカピカピになった水兵服を脱いで、潮風を受けてごわごわになった髪の毛に熱いシャワーを当てる。
「お先に失礼するわ」
熱さも肌に馴染んだ頃になって、後ろで叢雲が早々にシャワー室を出ていく。
叢雲はいつも、シャワーも風呂もカラスの行水で済ませる。
それなのに、あんなにさらさらで透き通るような髪の毛なのが、正直嫉妬してしまいそうなほど羨ましい。
艦娘の髪はいつも潮風を受けてごわごわになっているのが常だから、髪の手入れはより丹精込めないとすぐにダメになる。
だから綾波も、頭の横に結っている髪をほどいて熱いお湯に浸し、たっぷりとシャンプーを施しているからそれなりの時間がかかる。
……髪を横で結っていると言えば、もう一人いた。
一人一つ分に区切られたスペースから顔を出して、隣を覗く。
とても明るい桃色で、柔らかく細い髪の毛は、春雨の……白露型と呼ばれる姉妹みたいな関係の中で小柄な彼女を、より幼く見せた。
金髪の、自分と同じくらいの少女――夕立もまた春雨と同じ白露型であり、そして夕立が演習の中で、綾波よりも前から知り合っているように振る舞っていた相手。
今は目をギュッとつむって、シャンプーで白いモコモコになっている真っ白な背中に言葉をかける。
「春雨ちゃん」
「は、はい」
シャワーのバルブを慌てて探しているのか、春雨の手が右往左往している。
「そのままで大丈夫ですから」
綾波が言い終える前に、シャワーのバルブが捻られて白いモコモコは溶けるように流れた。
「なんでしょうか?」
少し低い位置から綾波を見上げる、明るい赤の瞳。
確かにこうしてまじまじと見れば、夕立の碧眼をどこか想起させる何かが、春雨の目にはあった。
だが綾波が訪ねたいのは碧眼に宿っている、春雨のあどけない瞳にはない何かだ。
「ブイン基地の、夕立さんのことですけど」
「夕立姉さんですか?」
さらりと、姉さんと春雨は口にする。
確かに同じ白露型の姉妹艦であり、夕立は四番目、春雨は五番目となるならそうなるのだが、おそらく出自も違うだろう。生きてきた場所は海を隔てて離れている。
しかし、春雨は夕立のことを姉さんと呼ぶ。
いや、似たような境遇は綾波にだってある。綾波は綾波型と呼ばれる姉妹艦たちの一番目……言わば長女にあたるのだから。
「夕立姉さんが、どうかしました?」
「いえ、その……夕立さんは、どんな人なんですか?」
声をかけたものの、「あの戦闘中なのに楽しそうな目はなんでですか?」なんて突飛な質問を出すのが引けて、当たり障りのない質問に変える。
「そうですね。姉さんたちはみんな元気ですけど……」
春雨は人差し指で下唇を少し押し上げながら、視線を右に左に動かす。首もそれに合わせて揺れていた。
「どこまでも行きそうな元気ですね」
「どこまでも?」
彼女の例えを掴みあぐねて復唱してしまう。
「そうです。一人でどこまでも行っちゃいそうな、本当に一人だけでもずっと走って、ずっと戦い続けていそうな」
一人だけでも……春雨はそれを強調するように、何回か繰り返す。
艦娘の戦いは基本的に集団戦だ。先程の演習のように六人程度のチームを組んで、同じく複数の敵を相手取る。
敵が単体でやってくることなど、艦隊からはぐれて流れ着いた時ぐらいしかない。
例えば夕立が独りだったとしても、敵の艦隊へ向けて、さっきのような懐に潜り込んでの戦いを繰り広げるのだろうか?
……だとすればそれは自殺行為に等しい。
化け物同然の彼らにあそこまで距離を詰めて戦うのだとしたら、戦艦のように頑丈な肉体と強力な艤装を持っていても、まともに戦い続けられるはずがない。
ましてやそれを、小柄で、力がない駆逐艦が、だ。
「どうして、そんなに元気なんでしょう?」
疑問を、元気という言葉に置き換えて口にする。
春雨の言う元気にはきっと、無謀や蛮勇といった定義も含まれている……としか、綾波には聞こえなかった。
「さあ。さすがにそこまでは知らないです」
春雨も夕立も、お互いがこの姿になって始めて会ったようなものだったことを忘れていた。
古くからの馴染み――それこそ本当の姉妹へというわけでは、ないのだから。
「あー。夕立ね。知ってる知ってる」
そこで綾波に声をかけたのは、川内だった。
タオルで髪を拭きながら、そこ以外は何も隠す素振りもなくすたすたと歩み寄ってくる。
「あの子はすごいよ。さすがのあたしでも、夜戦じゃちょっと手こずるぐらいだね」
「川内さんが……?」
夜戦夜戦と連呼するだけあって、夜戦での川内は尋常ではないことを覚えている。
元々が暗闇の中、駆逐艦はその速さで常に移動し続けることで敵を撹乱できる。だからこそ急所に大きな一撃を叩き込める可能性もぐんと跳ね上がる。
だが川内は駆逐艦のものとは次元が違う。
神出鬼没――いつ、どこで襲い来るのかわからない恐怖が、静寂と共にじわじわを締めつけてくる。
思い出しただけで身震いする綾波。
「ま、綾波も十分すごいよ。昼間なのにあんなに動き回れるなんてよくやるもんだね」
感心するよ、と言外に言っているのか、どこか満足げに頷く川内。
「……しっかり鍛えた甲斐があったもんだよ」
綾波に戦い方を叩きこんでくれたのは、川内だった。
タオルを肩にかけた川内は綾波に笑いかけて、そのまま後ろ手を振ってシャワー室から出ていく。
「ありがとうございます」
綾波は背中に一礼する。儀礼的なものではない。
褒められたことが、素直に嬉しかった。
春雨と一緒にシャワー室を出たが、更衣室で綾波は敷波と、春雨は村雨と、それぞれ同室にいる者同士で話し始めて、夕立のことはうやむやになった。
「それであたしが撃とうとしたら、向こうの五月雨がさ……」
横で敷波が、さっきの合同演習で起こった珍事を話し、綾波はそれに耳を傾けていた。
更衣室に着いた時から、敷がずっと話したがっていたのかよくわかるほど、留まらない。
バスタオルを小脇に抱えながら廊下を進むと、それぞれの寮へ繋がるまでのロビーに出る。
広いロビーにはテーブルと椅子が少しばかり並んでいて、いつも誰かが何かをしている。
それぞれの寮にも小さなロビーはあるものの、そこにいけば綾波であれば駆逐艦としか会うことがないし、川内たち軽巡艦であれば、同じ軽巡艦としか会うことがない。
それぞれが雑多に話し合える場所といえば、このロビーか、外のどこかしかない。
ふと、とある席に目が留まる。
先ほどシャワーから出たばかりの叢雲が、真新しい新聞をテーブルに広げて、頬杖を付きながら読みふけっていた。
「叢雲さん、これなんて読むんですか?」
叢雲の新聞に指を立てているのは、同じ駆逐艦でもより一層……春雨ぐらいには幼く見える、雪風。
「こうしょう、よ。あんたもさっき新しい装備、もらってきたでしょ?」
叢雲が工廠のある方角を指差し、雪風は驚きなのか感動なのか、とにかく口を大きく開けた後に、元気良く返事する。
「はい! ドーナツもらってきました!」
「あたしも後で行こうかしら」
半目で返す叢雲。
「そしたらあっちの暁がね……」
身振り手振りで、ブイン所属駆逐艦の暁が連装砲を海中に落としてしまったエピソードを語る敷波のことは、もう綾波には見えなかった。
叢雲が顔を上げた先にいたのは、駆逐艦より一回りも大きな、女性らしい体つきの艦娘。本来なら駆逐艦とあまり話すことはないだろう、重巡洋艦と呼ばれるクラスの艦娘。
「古鷹さん」
「こんにちは、叢雲」
ハッと目を覚ましたように叢雲が立ち上がる。向かい合う重巡――古鷹は会釈もそこそこに、叢雲の読んでいた新聞を覗きこむ。
古鷹の表情は伺えなかったものの、あまり良い顔をしなかったことは、古鷹の言葉から察することができた。
「……そう。トラックが」
「にわかには信じられないけどね」
見上げる雪風を他所に、落ちた声音で話す二人は、新聞の同じところをじっと見つめている。
――トラック泊地。
ショートランドと並ぶほど……いやそれ以上に、敵との戦いにおける最前線と呼ばれていた場所。
だからこそ数ある泊地の中でも充実した設備を整え、また所属する艦娘たちは皆、群を抜くほど優れた練度を誇ると呼ばれていた。
「そこでさ、長良さんがすんごい速さで飛んできてさ……」
テーブルの二人の会話に気づいているのかいないのか、敷波の言葉はまだ続いていたが、もう綾波の耳には入っていなかった。
「だからなのかしらね」
叢雲がまた椅子に座って、新聞を畳む。
とんとんと新聞の尻をテーブルに当ててズレを直し、上下で半分に折ってから親指の腹で綺麗な折り目をつけ、今度は左右で折ってから同じように折り目をつける。
几帳面な叢雲らしい折り方だと思った。
「何が?」
古鷹も叢雲と向かい合うように座る。
雪風は叢雲の折った新聞を手に取って、読めているのか読めていないのかはわからないが、真剣に見つめていた。
「うちとブインの合同演習よ。他の訓練だって普段より厳しいのに変わっているわ。
トラックが壊滅なんてしたから、こうなったんじゃないのかしら?」
そこで一瞬、進んでいたはずの足が止まった。
「――波――?」
「壊滅……」
入ってきた言葉を、噛み砕くように綾波は口にする。
トラック泊地の壊滅。
敵との戦いに敗れた……というだけではない。泊地であるからには、今綾波たちがこうしているように、そこで暮らしている艦娘たちや妖精さんたちもいたはずだ。
ショートランドではほとんど見なくなってしまったが、艦娘以外の人間だって居たはずで、みんなが暮らしていたはず。
急速に、体から温度が抜き取られるような感覚がした。
考えたくもない。その人たちがどうなったのか……。
「ねえ、綾波ってば!」
「きゃっ!」
突然大きな声が飛びこんできて吃驚する綾波。眼前に、頬をぷっくりと膨らませた敷波の顔があった。
「あたしの話、聞いてなかったでしょ?」
「い、いえ……」
咄嗟に口をついて否定が出てしまったが、敷波の話なんて頭に入ってすらいなかった。
「聞いていまふぃふぁふふぇ」
「嘘つき~」
言葉の途中で、敷波が綾波のほっぺを摘まんでいじる。
「ま、ここでだらだらしてないでさ、部屋戻ろうよ。部屋」
頬を離した敷波はその手を頭の後ろにやり、くるりと回れ右をした。まだ乾ききっていていない結われた髪の毛が、重たそうにゆさゆさと揺れる。
一瞬だけ脳裏を過ぎった不気味な感覚は、どこかに消え去っていた。
「……はい。そうですね」
一度振り向いて、叢雲と古鷹がまだ話しているのを見やり、手を振ってくる雪風に返して、綾波は部屋に戻ることにする。
駆逐艦の寮。
とても簡素な部屋――両脇に二段ベッドと押し入れと箪笥。大きめの窓の下には背の低い小物入れ。中央にはちゃぶ台。そして扉の内側には連絡用の画面。あるのはこれぐらいだった。
しかし現在、二段ベッドの片方は使われていない。
この部屋に住んでいるのは綾波と敷波だけだった。
妹たちもいるにはいるが、彼女たち四人は別室でとても仲睦まじくしているだろう。
少し離れたお姉さんたちだから、というわけでもないが、現在ショートランドで駆逐艦の寮は、今いる駆逐艦娘の人数では空き部屋ばかり作ってしまうため、特に希望がなければベッドを余らせることになる。
入れ替わりが激しい……戦闘を重ねていればよくあることだ。
「あー、疲れたー」
入るなり敷波はベッドに倒れこんで枕に顔を沈める。
「お行儀悪いですよ」
敷波が脱ぎ散らかした靴を、自分のと合わせて揃えてから、綾波は窓辺の小物入れに背を預ける。
カーテン越しに見えるのは、木々と、その向こうに踏み固められた土の広場。提督が居るだろう庁舎は、ここからでは見えなかった。
「さっき、叢雲と古鷹さんが何か話してたじゃん?」
枕にくぐもった敷波の声。
「そうですね」
「なんか新聞読んでたけどさ、綾波、そっち見てたでしょ?」
さっき聞いていなかった分、しっかり敷波の話を耳に入れながら、髪を撫でて程よく乾いていることを確認する。手首に巻いていた髪結いのゴムを唇で咥えた。
「ふぁい」
長い髪を指でまとめてゴムに通す。ひねってまた通して、またひねって通す。
「あたしの話そっちのけにして、何聞いてたの?」
「……」
一瞬だけ、先ほどの暗い思いが脳裏を過る。だが暗い話は好きじゃなかった。
「叢雲さんが合同演習で活躍した話です」
「えー!? じゃああたしの話と変わんないじゃん」
ふん! と鼻を鳴らしてそっぽを向く敷波。
そこで会話は途切れ……綾波の中で、先ほどの不気味なわだかまりが渦巻く。
みんなが戦いに身を投じて、負けを悟り、それでも何かのために闘い続ける。
例え爆発の劫火に身を焦がされても、鋼鉄の軋みに骨肉を砕かれても、海水の侵入に息を奪われても。
昔の綾波の記憶では、そうだった。
きっと敷波にも叢雲にも、そんな記憶があるだろう。
その時には、こんなに柔らかい頬も手足も髪もなかったが。
でも皆一様に話したがらない。思い出として少しだけ話すが、その時の自分のことなんて滅多に話さない。
あの時は痛いなんて思わなかったし、海水を冷たいとも、しょっぱいとも感じなかった。
さらに、前の体は誰かの操縦に合わせて動くだけだが、今の体は自分で動かそうと思って動かせられる。
記憶として在っていても、現実味がない。
まるで夢の中の出来事で、起きた後になってもはっきりと覚えているような、不思議なぐらいしっくりしていることの違和感。
あの記憶は暗い海に沈んで真っ暗になって終わったが、気がつけば今はこうしている。
気がついた時には、もうこの体だった。
……そういえば、いつ、気がついたんだろう?
綾波はいつまで、その夢を見て過ごしてきたんだろう?
ふと気になったが、艤装のない今では表示枠を呼び出せない。
目が覚めたら綾波はこの姿で、敵と戦う使命を課されていて、それからずっと同じような毎日を過ごし、今になっている。
硬くて大きな体から、柔らかくて小さな体になった……その間が、ぽっかりと抜け落ちている。
それが全然思い出せない。