黒潮が袖についた煤を手で払った。
日が沈んでしばらく。夜の暗さに包まれようとしている海を、金剛がはしゃぎながら突き進んでいく。
金剛も榛名も、まだ砲撃どころか戦闘態勢すらとらないまま、ここに来た。
「さ、あんたたちはこっちよ! 長波! そっち向いてる場合じゃないって!」
旗艦が違うのではないかと思えるほどに、金剛よりも五十鈴が三人の駆逐艦へ指示を飛ばしている。
二人の高速戦艦は、このテキパキと動ける小さな水雷戦隊に護衛されている、という形だ。
かといって彼女たちが何かしらの負傷をしているわけでもない。せいぜい黒潮と涼風が砲煙を浴びて服を黒くしている程度だ。
軽やかに鼻歌を歌っていた金剛が、網膜に時刻と現在位置を確認して、全体に減速するよう言い放つ。
「そろそろ合流ポイントデース。霧島はどこにいるのかナ?」
キョロキョロ暗くなった周囲を見渡し、金剛たちはサボ島の手前で停止する。
サボ島の向こう……そこに見える鉄底海峡に、金剛も榛名も、そこまで思い入れがあるわけではない。言ってしまえば長いようだった記憶の一端に過ぎない。
帰ってきたという感慨もない。その時に目も鼻もなく、肌に感じるものもなかった。
鋼鉄の身体を横たえ続けているのならきっと、話は別なのだろうが。
「光が見えたわ!」
五十鈴が伸ばした指の先で点滅する光を読んだ。
艤装同士で行われる通信回線は、それぞれが認識できるほどの距離でようやく行うことができる。
点滅する光がギリギリ視認できるほど――ここから見える限りで、人影など見えるはずもないほどの距離で通信が届くはずもない。
「ワレセンダイ ゴウリユウナシ ハサミウチ ゼンシンセヨ……」
一つ一つを声に読み上げた榛名が首を傾げた。
「川内さんは何をしているんでしょうか?」
挟撃のため金剛たちの艦隊は前進する。つまり霧島たちは反対側へと回っているのだろう。
しかし川内は連絡要員として残すにしても、ならば金剛たちと合流して挟撃に加わればいいだけの話だ。
しかし川内は行わないと言う。
「あの夜戦バカのことデース。きっと昨晩の間に弾を使い果たしたんでしょう」
「ありえそうね」
五十鈴が笑いながらライトを用意する。返答の内容を金剛に求めているのだ。
「了解、ネ」
金剛は前進しながら告げる。
「にしても川内は夜目が効きすぎですネー。あんな遠くから見つけるなんて」
……ぼやぼや言葉を並べながら、金剛は別の原因を考える。弾がないから連絡要員にされた、ではない、川内が合流しない理由。
人差し指を立てて金剛は思いつく。
「誰かを守っている……?」
自分が通り抜けてきた道は川内たちが舗装した、ある程度の安心が約束された道だった。そのために川内たちが危険を負担したことになる。
だから川内が大破したのだろう誰かを守って、そこに居座っている……ということもありえそうだと。
ともすれば挟撃を行うための味方が、最低でも二人は減っていることになる。
生じた懸念はすぐに吹き飛ばされる。
しばらくして、サボ島を通り過ぎるあたりだ。
深閑。でなければ静寂。
単に夜だから、海のど真ん中だから、というものではない。
波の音すら聞こえないほどに物音がなく、重い空気がしんと突き刺してくるようだった。
「金剛お姉様……少しばかり寒そうに見受けましたが」
「私はNo problemネー。榛名こそ寒くない?」
「いえ、私は大丈夫です」
取り繕うように榛名は両手を振る。
「嘘は良くないネー。体温調節はしっかりやっておくのヨ」
艤装が発している抗磁圧の力場。巨大な艤装を腰に置いても浮力を維持するための作用の一つだが、その恩恵として艦娘の体温含めた周囲の空気も一定を保つことができるようになった。
だからこそ艦娘はそれぞれに見合った服装を着たままで、どこに出撃しようと暑くもなく寒くもなく、平気な顔をしていられる。
そんな艦娘が、中でもとりわけ自分の主張を控えがちな榛名が「寒い」と言ったのだから、やはりこの感覚は異様なものなのだろう。
鉄底海峡。
ここへ訪れるのが何度目になるのか、おそらく片手の指以下であることがわかっていても思い出せない。
しかし少なからず肉体を手に入れてからは初めてだ。
以前も榛名と共にこの海へ入ったことがある。むしろこの海が恐ろしい場所と言われるようになったのは、その後なのだろう。
寒さに震える。腕に一杯の力を籠めて誤魔化す。
夜の黒に一つのシルエットが浮かび上がった。
赤い煙を纏う女性。金剛たちのそれとは比べ物にならない、あまりにも巨大すぎる艤装を携える、真っ白な身体。二本の角。赤い瞳。
大きさから艤装の正体がよくわかる。巨大すぎる滑走路。巨大な咢と砲台。
表示枠に反応。深海棲艦だと断定。遅れて反応・甲と称されていた存在だとも判別完了。
――飛行場姫。
「本当に、夜中で良かったデース」
金剛は戦うことが好きなのではない。戦果をあげることが好きなのだ。
だから戦わずに全く同じ戦果をあげられるならそれに越したことはない。
そして艦載機は夜中の発着陸を困難とするため、空を飛ぶ絶対数は減る。
取舵に戦隊の横を見せながら砲撃のタイミングを伺う。
「準備、できてるよネー! 超高速戦デース! 目を回しちゃ、Noですヨ!」
六人の艦隊。
六つの返事。
金剛がにやりと笑った。
まだ寝ぼけているのだろうか、飛行場姫が目蓋をこすりながら、自分たちをようやく見つけた。
『ナゼ オ前タチガ……!』
「オーゥ、見つかっちゃったデース! 戦闘準備ネー!」
「ちょっと金剛! ふざけている場合じゃないわよ!」
五十鈴が急いで砲塔を構え、慌てた飛行場姫が艦載機の群れを空にばら撒いた。
白い弾のような艦載機群が一瞬で殺到する。
「ワーォ、大ピンチデース!」
おどけるように、金剛は肩をすくめて笑う。砲撃を放つつもりなど毛頭ないかのようだった。
しかし、獰猛な顎のついた白い玉が、夥しい数となってこちらへ迫ってくる。単純に当たるだけでも痛いという問題で終わりそうにないが、金剛は尚もじっと見つめている。
五十鈴の号令で、駆逐艦たちは対空砲撃を撒き散らしている。
その度に白い弾がポロポロ下へ落ちていくが、数にしても微々たるものだろう。
「金剛! 指示を!」
「軽巡の対空砲火じゃ間に合わないネー」
「じゃあさっさと逃げるとかあんたが撃つとか……」
「それは私の役目じゃないネー」
この会話を繰り広げている間にも、距離は縮まっていく。
切迫する中で余裕を見せる金剛に呆れたのか五十鈴も迎撃に加わる。
金剛がぼそりと告げる。
「霧島、何してるネ。さっさと迎撃するデース」
「もう撃ちましたよ。お姉様」
通信を介した声が耳に入ると同時。
空に花火のような閃光が輝き、瞬く間に艦載機群の大半が消滅した。
霧島の耳に金剛の号令が届いたのはつい先程だ。
飛行場姫の背中が辛うじて見えた。
夜闇の中で、奥に居るだろう金剛たちはまだ見えない。
空にばら撒かれる艦載機群に金剛たちが対処するだろうと思っていたら、金剛はあたかもおどけてみせるのだから、霧島は急いで砲撃の用意をせざるを得なかった。
できることなら、初めから合図を取って砲撃したいのだが、金剛にその意図がないことがよくわかった。
ただですら目標まで遠い上、仮眠の直後に、海峡の外側を迂回している。
疲労が溜まっていても、金剛が妹に容赦する気はないようだとわかって、すぐに三式弾を装填させ、一斉射をした。
「お姉様、本気で活躍したいんですね……」
溜息混じりの発言に、高雄が小首を傾げ、そして愛宕が欠伸混じりに霧島の肩をぽんと叩いた。
金剛が旗艦になった場合、金剛がその艦隊で一番の活躍を収める確率が非常に高い。
それも当然で、艦隊への指示は合理的に勝利できる戦術であると同時に、金剛が活躍しやすい戦略であるからだ。
つまり、敵の艦載機を葬るという、あまり評価されにくいところは他人に押しつけて、肝心の敵の撃破にのみ全力を注いでいる。
「や~っと私の出番デース!」
金剛が一気に前へ躍り出た。五十鈴たちは艦載機群の残りを撃ち落とすも、前へ躍り出た五十鈴の水兵服が艦載機から吐き出された砲弾に引き裂かれた。
飛行場姫が、また甲板に白い弾を見せた。
「榛名!」
「はい!」
信頼のおける姉妹艦への指示は、名前だけで通じる。
榛名の砲撃が金剛のすぐ真上を通り過ぎて、巨大な滑走路の片方でまたも三式弾が炸裂。白い弾もろとも、滑走路自体を穴とひびだらけにした。
滑走路といえども、陸にあるそれとは違って一つの板に近しい構造だ。穴とひびが作れればその後の砲撃で、粉々に砕くこともできる。
だからこそ三式弾の装填などしなかった。
砲撃を打ち込む。
破砕する滑走路に瞠目する飛行場姫。
『ア……アツイ……アツイ』
「霧島!」
「わかっています」
背後で高雄と愛宕が、霧島の号令で砲撃した。
戦艦ほど威力のある砲撃ではない。艤装に傷をつけることはできても、ダメージというダメージを与えることはできない。
それでも、飛行場姫の気を後ろに向けて金剛が懐へ入る隙を作ることはできる。
飛行場姫の巨大な砲塔が動き、高尾と愛宕に向けて放たれる。
すでに回避行動へ入っていたが、その莫大な衝撃に二人が巻き込まれ、甲高い悲鳴が漏れる。
被弾報告を聞くよりも先に、金剛が逐一艦隊へ通達する。
「あの巨砲の威力が馬鹿げてマス! 全員回避を優先してくだサイ!」
動きの鈍った二人を見て飛行場姫が笑みを浮かべるが、続く砲撃を阻む別の砲撃があった。初雪――高雄の背中から躍り出ていた彼女が、正確に飛行場姫の目を狙っていた。
咢の頭にある砲身が初雪へ動かされたが、しかしすぐに根本へ砲撃が浴びせられて照準を定められない。
五十鈴が、小さな水雷戦隊を働かせたのだ。
「Good! なんとか懐に入れまシタ!」
『鬱陶シイ……蝿メ!』
巨大な咢の咆哮が波を泡立てた。
飛行場姫の主な兵装といえば、長大な滑走路から放たれる膨大な艦載機群と、巨大な砲塔からの一撃である。
艦艇の基本だった遠距離からの攻撃という点においては非常に優れた兵装だが、しかしあまりにも多数の敵――それも艦載機群を放つに放てないほど近くへ潜り込まれては、無力化されたも同然だ。
滑走路の反対側で少しずつ形を作っていた艦載機群が、霧島と榛名が放つ二度目の三式弾で灰燼に帰す。
そして今度こそ、金剛の砲撃が滑走路の全てを粉砕した。
すでに目と鼻の先。飛行場姫の表情はひどく憎しみに歪んでいた。
当然だ。一艦隊を超える大多数による挟撃、それも戦闘能力が著しく低下する夜間の奇襲。姫級と呼ばれる、既存とは一線を画する能力を持つだろう個体に対しては、そうやって対処することでしか、勝利をもぎ取れないのだ。
飛行場姫が咢と共に砲身を大きく突き出した。。
しかし金剛は左側の二つの砲撃で、呆気なく葬り去る。飛行場姫の巨大な艤装はほぼ完全に崩壊した。
「これで、しばらくの間は平和デース」
バランスを崩しかけてよろめいた手首を、金剛が掴む。
金剛の笑顔。
眼前にある飛行場姫のひどく怯えた表情。
同じ人型を相手取り、憎しみをすり潰すほどの圧倒的な暴力。
そして、右側の二つの砲身から爆炎が飛び出した。
噴出する砲弾の炸裂と轟炎。
砲煙が風に流された頃には、飛行場姫は跡形もなく消滅していた。
榛名がじっと見守る。つい今、強大とされていた敵を屠って立ち尽くす金剛を。
敵が目の前で粉々になるのを見ておきながら、その返り血を浴びておきながら、平然と笑顔を浮かべていられる自らの姉のような存在を。
信頼と畏怖と、または悲哀を持って、金剛を見上げる。
合計して十人が、戦いの終わりを実感していた。
金剛は優越、榛名は不安、霧島は疲労――それぞれの悩みを抱えながら、一つの区切りがついた。
「さぁー! 帰りまショーウ! Follow me!」
金剛は両手をあげて、艦隊を指揮する。
それにつられながらも隊列を作る中で、高雄が近づいてくる。
「お疲れ様です」
「はい。ご苦労様でした」
笑みを貼りつけながら、榛名は握手に応じる。
手の中に異物感があった。
「榛名と霧島は、帰ったら比叡と一緒に紅茶を飲みまショウ! 平和を謳歌デース」
「平和……確かに、そうですね」
霧島が合わせたが、一つだけ、榛名に引っかかるものがあった。
「戦いって、まだ続くのでしょうか?」
「当ったり前デース! 敵はぁ、まだまだ居マース!」
「まだまだ居る敵が、いなくなったら、本当に終わりですよね?」
「その通りネ! 私たちはそれを目指して、日夜闘っているのヨ!」
「じゃあ……」
榛名が言い淀み、前進をやめないまま金剛が振り向く。そこに笑顔はない。
たどたどしく、おどおどと、いけないとわかっている禁忌へ手を伸ばしているように不安げな表情で、榛名は言葉を続ける。
「その戦いが本当に終わったら、私たちは、どうなるんでしょうか?」
疲労もあったのだろう。眠りこけている敷波を見下ろしながら、川内は遠くから響いてくる砲撃音に耳を傾けていた。
溜息が、意図せず溢れる。
「夜戦、もっとしたかったな~」
一つの作戦で、二夜続けての夜戦。しかも昼戦を抜きにして迎えることができるのだ。
弾が無限にあれば、川内は諸手を挙げて突っ込んだだろう。
敵に見つかるか見つからないか、味方ではないのか、どこから弾が飛んでくるのか……そのスリルよりも、闇に紛れて、自分の姿が見えなくなることが川内にとっては嬉しい。
戦いに身を投じる自分の身体に、まだ違和感がある。
鋼鉄の身体と、柔らかい身体――それが一本の道になっている記憶などおかしいに決まっている。
だから今の柔らかい身体の方が、夢ではないかと――虚構なのではないかと川内は思ってしまう。
海水に浸された鋼鉄の身体が、人の姿に憧れて魅せている夢なのではないかと。
鋼鉄の身体の時は、腕を伸ばして戦ってなどいなかった。器用に動き回ることもなかった。痛みがあるなど知らなかった。
だが人という姿で動き回れることそのものは嬉しいことだった。
人のように動き回りたいと思いながら、そうしている自分を見つめていたくない。
結果として、暗夜に魅せられた。
そして戦いに一区切りがついた後……疲弊と日光に目を眩ませながら、それでも夢から覚めていない、憧れの姿のままでいることが嬉しい。
川内がそれを吐露したのは、姉妹艦の二人でもない、たった一人だけだ。
「……綾波、また沈んじゃったのか」
戦艦と重巡の一斉砲射。一つの砂浜ごと吹き飛んだだろう、川内の弟子。
夜戦を教え、夜戦から明けた微睡みのような覚醒の喜びを伝えた、ただ一人の駆逐艦。
泊地の駆逐艦でも高い戦闘を組み上げることができるようになった、一つの誇り。
その喪失に、姉妹であった敷波がショックを隠せないのは当然だろう。
彼女に見せたくないと思いながら、自分も見たくなかった。
だから彼女を庇うふりをして背を向けたのだ。
……月がぼんやりとした白い光をまとっている。照らされた海が、墨に塗り損ねられた白紙のように見えた。静かな波の音が、横を流れて、背中の森へ霧散していく。
補給もなく、ぼんやりと憂いている。
なぜ綾波が自分たちを拒絶したのか――深海棲艦になってしまった、ではない別の理由を探したかった。
だが探す宛てもないと思って下を向いた時だった。
波をかき分ける音が最初にあった。
「……嘘」
まじまじと見つめてしまう。
夜闇に浮かぶ一つのシルエット。
全身をずぶ濡れにしながら海に立つ少女。艤装。水兵服。頭の横から長く伸ばした髪。
「ありえるの? あんな艦娘なんて……」
最初は幽霊かと思った。
だがそうではない。
艤装に住んでいただろう妖精さんたちに声をかけ、彼女は艤装を確認していく。
自分の姿は見ずとも、夜目が効く川内だからこそ離れていてもわかる。
通信の圏内に艦隊の皆が揃っていることを祈りながら、川内は敷波の身体を揺さぶった。
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