鉄底海峡に待雪草を   作:在田

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「状況はすでに手遅れだが、同時に緩慢だ。今更焦ることでもあるまいよ」


Remember

 ばらばらになった艤装から、黒焦げの服装をまとった妖精さんたちが綾波を見守る。

 

 近くにいる敷波の声が遠すぎて聞こえない。

 顔は真正面にあるはずなのに、表情が見えない。

 

 だから綾波は、頬に熱いものが降り掛かってくるまで気づかなかった。

 ――敷波が泣いている。

 

「……あぁ」

 

 なんとなく察することができた。

 誰かからなのかはわからないが、砲撃を食らったのだ。

 

 缶も主機も、妖精さんたちが無理矢理に動かしているからどうにかなっているものの、妖精さんたちがいなければまともに機能しないだろう。

 妖精さんがいなければ、綾波は浮いていることすらできない。

 

 すでにどうやって生きているのかもわからないというのに、鋼鉄の身体と今の身体の連続性も掴めないままだったというのに。

 砲弾を掠めた魚雷発射管がちらちらと炎を燃やしている。

 

 月が眩しくて、隠そうと伸ばした手を、敷波に握りしめられる。

 

「敷波……」

 

 呼びかける。そのつもりだったが、意識に身体が追いついていない。声が出ていないことにすら気づけなかった。

 

 敷波に隠れた月をぼんやりと思い返す。

 今の敷波のように見下ろしていた綾波。見下されていた夕立。

 

 敷波はこれから罪悪感に悩む必要はない。仲間を殺したわけではないのだから。

 だから、泣かないでほしいと思った。

 すでに死んでいてもおかしくない身で、敷波すら裏切って泊地を離れたのに、そんな自分のために悲しまないでほしいと。

 

 ――何か、何か敷波に、良いことをしてあげたい。少しでも幸せになるような。今でなくても、これからの敷波が少しでも明るくなれる何かを、与えてあげたい。

 

 まともに動かない身体で、できることがないというのに。

 綾波がする必要はない。敷波に訪れてくれればいいのだ。

 

 敷波だけじゃない。綾波がさきほどいなした四人の駆逐艦にも、砲塔を破壊した金剛にも、魚雷を直撃させた榛名にも。

 何か、何か些細なことでも良い――吉報が、吉兆が、福音が、来て欲しい。

 

 壊れた砲塔や沈みきっている缶から顔を出した妖精さんたちが、綾波を伺っている。

 敷波と一緒になって涙を流している。

 妖精さんたちにも泣いてほしくない。

 

 無鉄砲に泊地を離れた綾波に、新しい住処を見つけ新しい敵を見つけ、新しい指針をもたらしてくれたのは妖精さんたちなのだから。

 

「妖精さん、敷波に行ってください」

 

 声にならない声。だが妖精さんたちには聞こえていたようだった。

 どよめきながらも拒否してくる妖精さんたちに、綾波はもう一度告げる。

 

「今まで本当に、感謝ですねぇ」

 

 妖精さんたちが止まった。

 一人は悔しそうに、一人は悲しそうに、一人は辛そうに、敬礼を欠かさずに敷波へと乗り移っていく。

 

 優しく見届け、安堵に息を漏らす。

 

 既に綾波は一度沈んでいる。

 記憶だけが受け継がれたこの身体も、鋼鉄の身体と同じ道筋を辿る。

 

 ……死ぬのが怖かった。怖がっている自分にようやく気づいた。

 だがそれを敷波に見せるのは嫌だった。今更死にたくないと言ったら、余計に悲しまれるだけだと思った。

 

 その代わりになる言葉を残せないかと思った。

 ありがとうとか、さようならとか、ごきげんようとか――だがどれもが、敷波の心を余計に突き刺してしまいそうで、言えなかった。

 

 敷波が綾波の胸に飛びついて、ようやく月が見えた。

 きれいな満月。まあるく、白く、きらきらと星を纏って、凛と見下ろしている。

 

「お月様……きれいですねぇ」

 

 敷波がふと顔をあげたのがわかった。

 手に力を押して、敷波から離れる。

 

 缶がショートを起こして、主機から漏れていた油に火が着く。炎はまとわりついていた他の油に伝染していき、火花を散らしている、まだ中身のある魚雷発射管に至る。

 一際大きな爆発が、綾波の身体を海中へ落とした。

 

 また水面を見上げる格好。

 だが今度は上昇ではなく下降だ。海はだんだん暗くなり、波の白い煌めきは遠のいていく。敷波の姿も同様に。

 

 この感覚を覚えていた。

 鋼鉄の身体でも経験した轟沈の記憶。

 

 南の温かい海が、とても寒く感じた。凍てつく海が肌を突き刺して、まだ動いている鼓動が痛い。

 

 缶が外れて先に落ちていき、綾波の身体は頭から真っ逆さまに落ちていく。

 

 暗闇の底に、金属同士がぶつかり合う鈍い音が響いた。

 

 シルエットが浮かび上がる。

 先程まで背負っていた缶とぶつかった巨大な鋼鉄の塊。見る影もなくしたボロボロの船体。

 

 ……綾波はかつての自分自身を見下ろしていた。

 

 それが近づく度に、今まで聞こえていた戦火の声が強く轟いていく。

 かつてなかった底冷えのする恐怖が綾波を襲った。

 

 ……夕立も、この光景を見たのだろうか?

 

 呼吸もままならない酷寒の圧迫感の中で、そんなことが過ぎる。

 

 だが寒さもやがて遠のいていき、戦果の情熱が身体中を蠢く。

 泊地も、妖精さんたちも、声をかけてくれた金剛も、涙を流してくれた敷波も、全てが真っ黒な衝動に蝕まれて、意識すら呑まれていく。

 

 抗うことなどできない。心地良さへ自意識を明け渡すしかできない。

 だが欠片ほどしか残されていない自我が、たった一つの答えを結びつける。

 

 ――夕立がどうしてああなってしまったのか。

 

 しかし告げる相手はどこにもいない。

 泊地というシステム。艤装に組み込まれたプログラム。妖精さんという存在。艦娘と深海棲艦の関係。鋼鉄の身体だった記憶。今自分が生きている認識と自我。

 それら全てが虚構に構築された想像であり、現実を塗りつぶす空想であると――。

 記憶も認識も意識も自我も心も、全てを黒い微睡みに手放して。

 綾波は幻想に消えていった。




年内にやりきると言ったからには年内にやりましょうええ。

……コミケには行けそうにないですが。
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