鉄底海峡に待雪草を   作:在田

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「今我ら 鏡持て 見るごとく 見るところ 朧なり」


Virtual Crime

 上へ登っていく泡を見上げながら、古鷹はゆっくりと下降していく。

 静かに、冷たく、暗く、重くなっていく視界の中。静寂に身を任せて、自分さえも微睡みという暗闇へ呑まれていくのを感じる。

 

 ……背中のフローターが作動して、体がゆっくりと持ち上げられていく。呼気にボンベから出された空気が泡となって上昇し、それを追いかける。

 視界が明るく赤く染まっていく。重たい海の中から、ゴーグルを隔てた外側へ――海上へ辿り着く。

 

 ショートランド島北西。泊地庁舎から最も離れた狭い海に、プレジャーボートがあった。

 上がって、ゴーグルとボンベを外す。

 べっとり貼りつく髪を横に流して、見上げる。

 

 大型連絡橋。

 ショートランド泊地とブイン基地を繋ぐ唯一の陸路にして、輸送の要。ブインとショートランドの五キロほどしか離れていない狭い海では、船では遅い上に輸送量の限界がある。そのために陸路の延長として作られた巨大な橋が、一定間隔で赤い光を灯らせている。

 

「あんなところを飛行機が飛ぶはずもないんですから、警告灯をつけておく必要もないかと思いますけどね」

 

 声とともに、二つのコップを持った青葉が出てくる。シャツ一枚と半丈のデニム。ラフな服装。

 

「国際条約があるから、光らせなきゃいけないだけだと思うけど」

 

「条約なんて、それを見ている国なんてもうないじゃないですか」

 

 コップの一つ――ホットコーヒーを受け取って、古鷹はちびちびと口にする。

 

 そして視界に表示枠が現れる。

 

『遠征艦隊の派遣を行う 帰投時刻は明朝10:00』

 

 提督からの指示。表示枠が出たということは、古鷹はその艦隊に選ばれたということだろう。

 しかし古鷹は拒否のメッセージを送信し、まばたき一つで片づける。青葉から見れば、一瞬だけ左目が輝きを放ったように見えるだろう。

 

 ……治安維持機構に加わったために得られた特権の一つだ。

 通常であれば戦闘時にのみ使用が許可されている表示枠、並びに泊地の提督との通信を常時開放され、いついかなる時でも招集に応えられるようになる。

 そして同時に、通常出撃であれば拒否する権利も与えられる。それよりも優先するべき任務や稼働を維持機構が担っているからだ。

 

 そのために龍驤や叢雲は通信機能を担う頭の艤装を常時つけている。常に通信用の艤装が開放されているということは、行動のほとんどを顔も知らない提督に常時知らせていることを意味するが、何かしらの注意を受けたことはただの一度もありはしない。

 

 青葉がデッキの斜向いに座る。

 

 燃える夕焼けを背景に黒くそびえる連絡橋を、じっと眺める。

 ずっと遠くにあるように思える連絡橋――それより奥にある夕焼け……その更に奥にあるどこかを、見つめていた。

 まるで、二人が座っているプレジャーボートから目を逸しているかのように。

 

 青葉が語りかけようとして、やめる。

 青葉と古鷹が揃って出撃した最後の瞬間――鳥海も衣笠も夕張も、そして加古もいた。

 

 ――赤い瘴気を纏う、会話可能な深海棲艦。彼らが乗っていたのが、今二人が乗っているものと同じモデルのボートだった。

 そして彼らが使っていたヘリコプターも、泊地にあるものと同じモデル。

 

 そこに敵の潜水艦が乗っていたのだろうか? 直接沈む瞬間を確認していない敵といえば、それだけになる。

 それが加古を狙ったのだと考えれば……未然に防げるように対策を練っておけば……。

 

 今更そんなことに頭を回すのが嫌になって、青葉は瞼を閉じる。

 払拭しようとして、古鷹に話題を振った。

 

「艦娘で、しかも全身艤体のあなたが海に潜るって、どんな気分なんですか?」

 

「それって、インタビューとか?」

 

「そんなつもりはないですよ。だって場所は違いますけど、私たちは基本的に海の上で戦っているじゃないですか、沈むっていうのは……」

 

 言葉を選ぶために視線を彷徨わせ、じっと見つめてくる古鷹と目を合わせて後悔した。

 

「……沈むって、そういうことじゃないですか。怖くないんですか? それとも……」

 

 前々から感じていたことを悟るように、問いかける。

 以前には駆逐艦・暁がそうなった。最近では戦艦・霧島も暗闇へ消えた。そして加古も。

 

 加古がいなくなり、任務から離れられるからと治安維持機構へ入ることを進めたのは青葉だった。その数多ある特権を活かして古鷹が最初に行ったのが、この使うことのなかったプレジャーボートの使用と、ダイビング。

 

 ……青葉は怖かった。加古と非常に仲の良かった古鷹だ。後を追おうという衝動からの選択を取ってもおかしくない。

 

「そうじゃないよ。もちろん怖いのはあるけど。不安や、孤独と、暗闇……それから、もしかしたら希望も」

 

「希望?」

 

 青葉は目を剥いた。

 死んだ時にどうなるか。敵がどこから来るか。

 いつも揺れ続ける不安な足元。息ができない空間。澄んだ水か浅瀬じゃない限り底の見えない恐怖――海中といえば、艦娘にとっては絶望の象徴でしかないはずだ。

 

 古鷹はそこを希望と言う。

 にわかには考えられないことだった。

 

「真っ暗な、海の中でですか!?」

 

 古鷹はこくりと頷き、冷えつつあるコーヒーを飲み干してコップを置いた。

 落ち着いた、どこか悟っているような不思議な笑みが浮かんでいる。

 

「海面に浮かび上がる時に、今までとは違う自分になれるんじゃないかなって、そんな気がする時がある。

 夢から醒めるような気持ち良さを、上を見ながら海中から出て来る時に感じるの」

 

「……?」

 

 生まれ変わりたいという願望なのか、青葉には判別すらつけられなかった。

 艦娘であることを、古鷹は嫌だと言うつもりなのだろうか? それとも加古がいなくなってしまった記憶を消してしまいたいと言いたいのか? あるいは深海棲艦にでもなって、鬱屈を晴らすように破壊の限りを尽くしたいのか?

 

 ……どれが正解なのか見当がつかない。

 

「青葉さんにはまだわからないかもしれないけど……」

 

 古鷹がゆっくりと手を伸ばし、五指を開いて閉じてを繰り返す。

 

「艤体だと、他の艦娘より戦績が上がるらしいよ」

 

「それは……」

 

 理解できないわけではない。むしろ当然のことだ。生身の体よりも、戦うことを目的に作った艤体の方が効率的な効果を発揮するのは自明の理だ。

 知覚の鋭敏化、運動能力や反射の飛躍的な向上。情報処理の高速化と拡大による艤装とのシンクロニティ……他にも様々だ。

 艤体によって得られる恩恵は、単純な欠損した四肢の回復だけではない。

 

 これほど饒舌な古鷹を見たことがないかもしれない。

 青葉が継げない言葉を、古鷹はつらつらと並べていく。

 

「それが可能ならどんな技術でも実現せずには居られない。人間の本能みたいなものだよね」

 

 妖精さんの技術を人類が手にし、艦娘そのものがそれによって生み出されているのだ。

 それまでの歴史では禁忌とされていた生命への科学。それを看過しなければならないほど、深海棲艦は人類にとって驚異的な存在だった。

 

「だから、艤体によって以前よりも高度な能力の獲得を追求した結果として、最高度のメンテナンスなしには生存ができなくなったとしても、私たち艦娘には文句を言う筋合いはない。身勝手に死ぬ権利も」

 

 ……ようやく青葉の中で、古鷹の言いたいことがわかった。

 生まれ変わることも、加古の記憶をなくすことも、深海棲艦になることもできないとしても……艤体によって、治安維持機構に所属することで、古鷹の五感や行動の全てが厳重に掌握と管理をされていたとしても……。

 

 実現不能な夢を抱いていられる数少ない機会が、海の中にあったということだろう。

 心や夢まで、管理されているわけではない。

 

「でも私たち艦娘は、泊地に魂まで売ったわけじゃないんですから……」

 

 ならばいっそ、艦娘を辞めてしまうこともできる。

 解体処理……昼間の二人が例外的な事故だったが、それがなければ艦娘をやめる手続きは順調に進み、艦娘ではなく、一般の少女に戻ることもできる。

 

「確かに退職する権利は認められています。この艤体と記憶の一部を、慎んで鎮守府にお返しすれば、ですけど」

 

 古鷹は全身が艤体だ。夕張の話によれば脳みその一部だけ残して、全てが機械であり、ほとんどに艤装の技術が張り巡らされている。

 ……つまり艤体がなくなってしまった古鷹は、もはや人間とすら呼べなくなる。代替品の支給があるかもしれないが、記憶や過ぎ去った時間すら残らない一般人として暮らすには、古鷹は戦いで多くのものを失い過ぎたのだろう。

 

「昼間の二人だって、多少の障害を抱えてしまったことにはなりますが、それでも民間人として帰属が約束されています。そこから彼女たちの未来を作っていくことだってできます。もちろん、あなたも……」

 

 想像もできない悲しみの深さに肩を震わせる青葉。

 それを抱きながら笑っていられる古鷹の心が、いつ壊れてしまうのかと恐怖した。

 しかし見上げた古鷹の顔に、そんな色は介在しない。

 

「勘違いしてほしくないんだけど、私は別に悲しいわけじゃないの。

 ただ、すごくぼんやりしている。起きているのか寝ている間の夢なのか、自分でもよくわからないぐらいに。加古が沈んじゃったこともわかるんだけど、自分でも驚いちゃうくらい、あっさり飲みこんでいる」

 

「……っ!」

 

 青葉は気づく。精神の鈍化。戦いなどで激変していく日常や過度のストレスに耐えきれなくなった精神が生み出す防護殻。過度にストレスを感じてしまうのなら、感情そのものを殺して心の振れ幅を抑えこみ、ストレスを感じにくくさせる精神作用。機械のような人間が作り出される前兆。

 心が壊れそうになっているのではない。とっくに壊れていたのだ。

 古鷹は言葉を続ける。

 

「人間が人間であるための部品が決して少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なの。

 他人を隔てるための顔、それと意識しない声、目覚めの時に見つめる手、幼かった頃の記憶、未来の予感。

 それだけじゃない。外部装置や、私の艤体がアクセスできる膨大な情報や通信網の広がり。

 それら全てが私の一部であり、私という意識を生み出し、そして同時に、私をある限界に制約し続ける」

 

 古鷹が語るものが、青葉には理解の追いつくものではなくなった。

 そもそも古鷹が、ぼんやりしている意識を肯定しているのか否定しているのかすらわからない。

 

「それが、沈む体を抱えて海に潜る理由にはなりません! 暗い海の底に、一体何が見えるっていうんですか!?」

 

 まだ背中の艤装接続部分しか機械が体にない青葉には、到底理解できない。

 感情が死に、心が壊れ、肉体が機械と成り果て、魂すら閉じ込められた者が抱く希望とは何なのか……。

 

 皮肉げなのか、それとも青葉を滑稽に思っているのか、薄く笑う古鷹の表情は何も教えてはくれない。




見事に遅れました。

が先の進捗そのものは順調です。単純に投降日付を間違えただけなんです。
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