鉄底海峡に待雪草を   作:在田

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「遅かったな。言葉は不要か……」


Fall

 羅針盤に指示された道のりを進む。

 奥――泊地から離れ、ずっと南東へ。

 

 不思議な感覚だった。

 

 すでにここは敵地であるにも関わらず、先ほどここよりも手前にいる敵を倒したばかりだというのに、そこは不思議な静けさに満たされていた。

 

 ソロモン諸島に差し掛かろうかという辺りで、夜闇に浮かぶ一つの姿を見つける。

 

 黒と白の肌を見てすぐに深海棲艦だとわかったが、それよりも驚いたのはそのシルエットだ。

 人の形――重巡リ級。

 

 先ほど戦ってきた中で見てこなかった、より頑強な装甲と強力な火力を持つ敵。

 疲弊しきっている今の綾波からすれば、とても真正面から挑める相手ではない。

 

 気づくのに遅れて距離もかなり近くなってしまったが、すぐに停止して、様子を伺う。

 

 すでに気づかれているのが当然であるはずの距離なのに、しかしリ級は首を下に向けたまま、こちらに向き合う素振りを見せない。

 それどころか、全身から脱力しきっているかのように、だらりと腕をぶら下げたままだ。本来なら波に乗るために屈んでいなければバランスを保てないはずの足も、真っ直ぐ下がっている。

 

 疑問を抱きながらも、一瞬で張りつめた緊張の糸を絶えさせることなく、綾波は身構える。

 

 不意にリ級の体がぐらりと傾げ……あろうことか、そのまま軽々と宙を舞って、そのまま海面に叩きつけられた。

 

 ……何者かに投げられたかのように。

 

 あれほど抵抗もないとなれば、あのリ級はすでに事切れていたのだろう。

 だとすれば、それをした存在がいる。深海棲艦とまともに闘える存在。戦うべき理由がある存在――艦娘が。

 

 宵闇に浮かんだのは、真っ赤な双眸だった。

 

 紅く――血のような、焔のような赤をまとった真紅の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめる。

 

 一瞬、それを深海棲艦だと見間違えてしまう。

 深海棲艦の中には、赤や金色に目を光らせる亜種が存在し、それらは一様に、それまでの同型とは桁違いの力を見せつけてくることがある。

 

 だが、あれほどまともに人らしい姿を保った深海棲艦を、綾波は見たことがない。

 深海棲艦は、体と艤装が一体化しているのがほとんどだ。手が砲塔になっていたり、顔が装甲版に覆われたり、果てには顎に体を包まれているのもある。

 黒い水兵服と、真っ白なマフラーを羽織る深海棲艦など覚えがない。

 

 だからそれは艦娘だろうと、綾波は思った。

 

 きっと先ほど提督から電文で送られてきた一体の深海棲艦というのが先ほどのリ級で、どこからか派遣されてきた艦娘が、綾波よりも先にそいつを倒したのだろうと。

 

 だが、その超然とした佇まいに、綾波はどう声をかければいいのかわからず、じっと彼女を見つめるしかない。

 暗闇の中でただ一人、眼だけを赤く光らせているのが、艦娘だと判断できた後でも、深海棲艦と間違えそうで怖いのだ。

 

 波の音すら潜めるほどの静けさの中で、彼女が口を開くのが見えた。

 

「遅かったっぽい」

 

 どこかで聞いた声と、語尾。

 

 意図せず解いていた構えを改めなければならなかったのは、彼女が手に握る砲をこちらへ向け、身を屈ませたからだ。

 

「あなたは……どうしてここに!?」

 

 相手の砲撃――すでに魚雷のなくなった発射管がバラバラに破砕する。

 それに瞠目している間に、彼女は一瞬で距離を詰めてきていた。

 

 綾波の言葉など、彼女は初めから聞こえていないように思える。

 それまで疑念で留めておきたかったものが、確信へと変貌する。

 

 眼前で金髪が棚引いて躍る。

 

 今綾波が斜め前に踏み出して、真っ直ぐに突っこんでくる彼女とすれ違うように動かなければ、砲撃に肉体を撃ち貫かれていただろう。

 演習などではない。生かすために手加減をしようなどという動きは一切介在しない。命を奪うための挙動。

 

「……どうしてですか、夕立さん!」

 

 綾波の記憶にとは違う姿の夕立が、くるりと振り向いて魚雷発射管を綾波に向ける。

 

「……っ!」

 

 それが海中に投げこまれるまで、一瞬の躊躇が見えなかった。

 

 放射状に広がるそれから逃れようと距離を置き、それでも肉薄してくる一発を砲撃により爆発させる。

 立ち上った水柱に視界を奪われる。

 

 ――しかし次の瞬間には、それをかき割った真紅の瞳が肉薄していた。

 

「遅すぎるっぽい!」

 

 反射的に砲を向けるも、相手が深海棲艦ではなく艦娘であることを意識させられる。

 今綾波の連装砲に入っているのは演習用の弾ではない。対深海棲艦用の実弾だ。

 

 これ以上の接近を許さないためにも足音へ砲弾を撃ち込んだが、その間にも夕立の砲撃あ綾波の頬を掠め、すぐ後ろで缶と擦れ嫌な音を聞く。

 

 この状況が理解できなかった。

 

 なぜ夕立がここにいるのか?

 なぜ夕立の姿が記憶と違うのか?

 なぜ夕立が自分へ攻撃してくるのか?

 

 なにもかもが飲みこめないまま、綾波は翻弄される。

 現実を受け入れられずに瞠目して、殺されないために、逃げるための牽制でしか引き金を引くことができない。

 

 夕立は、ブイン基地に所属している艦娘であり、綾波の味方だと思っているから。

 

「私です! 綾波です!」

 

 もしかしたら夜闇のせいで自分を深海棲艦だと誤解しているのではないか――そんなことを思って声を張り上げても、突き出された砲口は、依然綾波を向いたままだ。

 

 逃げない限り止むことのないだろう攻撃に備えて、綾波は戦闘用の表示枠を呼び出す。

 それを見なければ、残弾を確認できなかったからだ。

 だが、視界に浮かぶそれを見て、綾波は逃れようもない現実を視ざるを得なくなる。

 

 夕立を囲う表示枠の反応だ。

 

 目の前に立つ夕立が敵であると、艦娘ではなく深海棲艦であると――そう表示されていた。

 

「どうして……!? 夕立さんは艦娘のはずじゃ……」

 

 間断なく注ぎこまれる砲弾を掻い潜りながら、綾波は夕立から目を反らせない。

 

 この反応は自分の見間違いではないかと、信じて疑わなかった。

 しかしどれほど凝視しても変わらない。

 夕立が深海棲艦であると、缶は識別したのだ。

 

 深海棲艦相手ならともかく、同じ艦娘に攻撃など、演習でない限りできるはずもない。

 

 とにかく夕立から距離をとれないかと試みる。

 牽制砲撃を繰り返しながら、じわじわと後退する。

 

 だが試みは呆気なく崩されてしまう。

 

 足元に砲弾が落とされても夕立は怯む素振りを見せず、真っ直ぐに綾波目掛けて接近してきた。

 

 ……逃げることすら、綾波にはできない。

 背を向けてしまえば、航行の要である缶を晒すことになる。今の夕立ならばそこを撃ち抜くことぐらい造作も、そして躊躇もないだろう。

 

 気がつけば、鼻の頭がぶつかりそうな近さで、紅い瞳が綾波をじっと見つめている。

 

 戦うことを楽しむ顔ですらない。獲物を前にした猟犬のような眼。

 

「夕立さん、言いましたよね? 次は友達として会いましょうって。

 こんなこと、友達のすることじゃ……」

 

 しかし綾波の言葉は、夕立が頬を吊り上げただけで止められてしまう。

 

「もう、言葉は……」

 

 溢れだす感情を抑える震えた声。興奮と歓喜に打ち震えた、今にも笑いだしそうな声。

 

「要らないっぽい!」

 

 砲を握った腕が、綾波の頭へ振り落とさんと落ちてくるのを、両腕で押し留める。

 その衝撃なのか、それとも夕立が意図したのか……綾波の腕の上で砲声が轟き、舌打ちをした夕立が綾波の腹を蹴り飛ばした。

 

「……くはッ」

 

 腹の底にあった空気がまとめて口から捻り出される。臓器まで潰れたんじゃないかと思えるほど重い一撃が、綾波の体を吹っ飛ばす。

 

 艤装の抗磁圧で、水切りのように海面を跳ねた綾波がすぐに体勢を立て直し、夕立を見やった時には、夕立の放った魚雷が海中へ飛びこんでいた。

 

 すぐにもう片方の魚雷をすべて打ち出し、進みだしたばかりのそれを自分の砲で撃つ。

 

 いくつもの魚雷が誘爆し、激しい爆発が二人の間に生じる。

 

 津波のように押し寄せる海水を頭から被った綾波は、自分と同じくずぶ濡れになりながらも屹立する夕立と目を合わせる。

 

「やっぱり、とても強いっぽいね、綾波は」

 

「……そんなこと、ありません」

 

 口を塗らす塩の味を拭いながら、夕立の顔に浮かぶ笑みに慄然とする。

 

 理性の色をほぼ残していない化物の双眸。狂気に爛々と輝く紅い眼。

 

 演習の時に見せた戦闘中の笑顔――それとは、全く違う笑顔だった。

 

「でも本気じゃないっぽい。綾波、あの時も本気じゃなかった」

 

 嘲るように、挑発するように、夕立は唇を舌で舐める。

 

「当然です」

 

 同じ艦娘を撃つなど、綾波には到底できないことだ。

 所属は違えど、同じ目的のために――本土を守り、深海棲艦を討伐するために、戦線を共にするつもりだったはずなのに……。

 

 なぜ今こうして戦っているのか、綾波はわかっていなかった。

 わかりたくもなかった。

 

 しかし構えをとった夕立の服の隙間に、不思議なものを見つける。

 黒い何か。

 

 艤装ではない、服でもない、また別の質感を持つ、湿った光沢を持つそれ。

 綾波には見覚えがある。いや綾波でなくとも、実戦経験のある艦娘なら全員が知っているだろう。

 

 深海棲艦。彼らの装甲のような固い表皮に似ている。

 

 依然として夕立を深海棲艦だと決めつける表示枠。

 あまりにも邪悪な笑みを浮かべる夕立自身。

 

 高いところから突き落とされたような怖気と背筋の凍りつく絶望を伴いながら、一つの答えを形作るには充分だった。

 

 唾を飲んで、砲を構える――足元などではない。夕立そのものへ向けて。

 

 それを見た夕立が、狂喜の色に顔を歪める。

 

「さあ――」

 

 ここで、綾波はその言葉を聞くと思っていなかった。

 演習の時にも夕立はそう言って、他の駆逐艦でも到底行わないだろう戦い方を見せつけてきた。

 

「――素敵なパーティーしましょ!」

 

 その時に見た夕立の瞳は碧眼で、まだ理性の光が宿っていた。

 今の紅眼は、狂気に染められている。

 

 言葉と同時に一瞬で距離を詰めた夕立が、立て続けに砲撃を行い、綾波はそれを潜り抜ける。

 砲弾は頬をかすめ、服を裂き、缶を凹ませ、もう片方の魚雷発射管を砕く。

 

 だが、綾波の頭にあるのは痛みよりも強い、ぼんやりとした冷静さ――鋼鉄の体の頃に、魂に刻みこまれた彼らの声と、その囁き。

 戦うために最適化された最良の動きが、考えるまでもなく、そして予め体に染みついていたように実現できる。

 

 夕立の放った砲弾が顔のすぐ横を通り過ぎて、缶から延びるマストとアンテナを折る。

 

 しかし、夕立が魚雷発射管に装填しようとする瞬間を、綾波は見逃さなかった。

 その一撃が、発射管を中に入りかけていた魚雷ごと爆散して、破片が夕立の肉体を襲う。

 

 両足から魚雷発射管を失った綾波にとって、今魚雷を装填されては迎撃が困難となる。先ほどみたいに誘爆を誘えず、至近距離で砲撃できても、今度はその水柱から夕立に懐へ飛びこまれてしまう。

 だからこそ夕立は魚雷を使う機を伺っており、綾波は魚雷を使わせるわけにいかなかった。

 

「あ、あああああッ――!」

 

 たった一本で深海棲艦の駆逐級なら悠々と屠ることができる魚雷が、至近距離で爆発したのだ。

 服を火炎に包まれ、黒煙を被り、全身を破片に切り裂かれて真っ赤に染まる。缶に火が燃え移ったのか、夕立の背中が真っ赤に燃え上がっている。装填を行っていた手など、肘から先の原型を失っていた。

 

 普通なら悶え苦しんでいるところだっただろう。綾波ならその場にうずくまって悲鳴ばかりあげていたかもしれない。

 だが夕立は一瞬だけ痛みに顔を歪ませたかと思えば、次の瞬間にはそれすらも悦楽とするかのような恍惚の笑みへと変わる。

 

 そのまま、おかしな方向に曲がった足を動かして、不器用に、真っ直ぐに、愚直に突き進んでくる夕立に向けて、綾波はまた引き金を引く。

 その寸前で、夕立も引き金を絞っていた。

 

 綾波の放った弾は腕を吹き飛ばし、夕立の握っていた連装砲が海中になくなる。

 綾波の頭の横を砲弾が通り過ぎて、結っていた髪が千切られ、海面に浸される。

 腰のあたりまで伸ばしていた長い髪の毛が、一瞬で短くなってしまった。

 

 武器を失った夕立が、尚も距離を詰めようとしてくる。手も足も使いものにならなくても、全身を自分の血に染め、灼熱に身を焦がされても――。

 

 その顔に浮かぶ笑顔だけは絶やさないまま、紅い瞳を爛々と輝かせ、振り被ってくる。

 

 すでに目と鼻の先。

 残された砲弾がどれほど少なくとも、外すことなどない距離。

 

 いくら姿を変えたとしても、既に夕立は瀕死に近いだろう。

 あと一発を当てればどうなるか、想像は難くない。

 

 悔しさか、それとも悲しみか――綾波は奥歯をきつく噛みしめた。

 

「……ごめんなさい、夕立さん」

 

 直後の砲声を残響に――再び周囲を静寂が埋め尽くした。

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