いつもの哨戒任務で海へ出る前。
叢雲はずっと、庁舎を見つめていた。
屋上からこちらを望む顔こそ見えなくても、吹雪は自分を見ているだと確信していた。
それぞれの艤装から異音が出ていないことを確認した明石が、両手の親指を立て、それを前に出す。
それが発進の合図であり、叢雲の旅立ちだった。
屋上の水兵服が手を額に当てた。
礼を返してから、何度となく見てきた海へ駆け出した。
吹雪がどんな思いを抱えてそれをしたのか、想像することができない。
残酷な道を辿るよう、無責任に押しつけたのは自分自身だからだ。
……どこを見ても同じ景色。一面の海、一面の空。
何度も通ってきた哨戒任務の航路。もはや目を瞑っていても通れるだろう道のり。
叢雲の後ろに、青葉と深雪と磯波が着いている。
毎日顔を合わせている彼女たちすら、今の叢雲には郷愁として見てしまう。
いつも通ってきた海。だが違う波を退けて航路を辿ることができる。
いつも通っている海とはいえ、景色は全く一緒というわけではない。
「それだけじゃ、いけないのかしら? それだけのことだから、行けないのかしら?」
一人でつぶやき、今朝の夢を思い出す。
執務執務室。
前に立つ吹雪。
銃を向けて引き金を引く。
銃声はしても銃弾はどこかに消えて、交代と言わんばかりに吹雪がこちらへ銃を向ける。
そして吹雪が引き金を引いて……目が覚めたのだ。
青葉が指差しながら声を張り上げる。
「二時方向、黒い影です!」
「全員、退避よ」
迷いなく出した声を皮切りに、叢雲は急加速で黒い影へ向かっていく。
「叢雲! なにやってんだよ! 戻って!」「援護します」
「いやよ。退避なさい」
通信越しに叫ぶ深雪と青葉を振り切って、加速する主機を止めない。
青葉が諦めて引き返そうとするまで、ずっと加速し続けた。
予定していた航路とは外れた場所。どこを向いても同じ海の、初めて見るどこか新しい感覚。
声に出さないまでも、叢雲は独りごちる。
――いつも通る海だからって、景色は同じじゃない。それだけじゃ……いけないのかしら?
「ハンターを撃破するわ」
揺るがない決意を改めて声に出し、叢雲は手に持つマストの槍を握り締める。
ハンター……理不尽すぎる存在を倒した向こうに、何かがあると信じて。
泊地で、明石の犬と戯れていたミズキが、遠くに見えた艦隊を見て、ふとそれを数える。
出撃したのは四人……戻ってきた姿の数は三。
横に見ていた吹雪が、シルエットが誰かを思い返す前に、居ない者が誰なのかわかってしまった。
わかってしまって、吹雪の表情はより引き締まったものになる。
戦いは、既に始まっていた。
黒い影は一つのみ。大きな外套に隠されたシルエット。
飛び交う弾丸をかいくぐりながら、叢雲は突き進んだ。
砲弾を吐き出し、幽霊のように揺れ動く姿を射止めようとしても、しかし敵わない。
叢雲は歯噛みする。ショートランドで鍛え上げてきたはずの技術が、全くと言っていいほど歯が立たない。
一対一で、海上という平面上の戦いでは、純粋な回避と命中の技術を求められる。激しい動きの中で、敵の未来位置をどこまで正確に予測できるか。そして敵が読んでいるこちらの未来位置をいかに欺けるか。
砲弾の往来よりも、その読み合いだということはわかっている。
回避のためにどれほど運動性能の高い主機が必要なのか。命中した際に有効な損傷を与えられるほどの砲を持っているか。
ハンターのそれは未知数だった。姿が捉えられない以上、どれほどが最適なのかを判断することもできない。
ただわかるのは、主機の扱いにおいては遥かに上手であり、そして砲の狙いは圧倒的に正確であるということだ。
勝てるはずのない相手。さっきまでいた三人が一緒なら倒せたかもしれない相手。
……だが、ハンターの砲火で艤装が吹き飛んだ。魚雷発射管が千切れ飛び、そして海中へ消えていく。
これで、魚雷で敵の進路を制限することができなくなった。
それでも勝機がなくなったわけではない。
一気に距離を詰める。
砲を構えなければいけない都合上、どれほど技術を高めた艦娘であっても構えの瞬間から射線を読まれないようにすることは不可能となる。
近距離での戦いとなれば尚更だ。
頭を狙っていたハンターの砲弾を、左腕を犠牲にくぐり抜け、マストの槍を突き刺す。
狙いはハンターそのものではない。こちらへ真っ直ぐ伸ばされた腕。握られている砲そのものだ。
鋼鉄の砲塔へ突き刺すことは適わなくとも、手から弾き落とすことは可能だ。
そして実際に、その通りになった。
左腕がなくなった痛みが、脳天を貫く。溢れてくる血と悲鳴を止めることはできない。
絶叫を共に、力任せに槍を振り払って、全身を覆っている外套を切り裂く。
姿が見えれば、姿勢から次の動きが読みやすくなるからだ。
……だが見えた姿に、絶句することになる。
艤装のない身体。主機だけを着けた大人の姿。
すらりと伸びた長身。透き通るようなガラス色の長い髪。ツンと釣り上がった目尻と、不機嫌さが抜け切らない口元。
……叢雲。
大人になるという未来を体現した姿。
叢雲にも叢雲の前任者がいて、吹雪に殺されたのなら、さらにもっと前の前任者が、そうではなくとも、別の叢雲がいてもおかしくなどない。
……だが知識として知っていても、実際に目にすると、鏡を見ているような気持ちになる。
空を写す海のような、同じ青でも異質で異色の蒼であるように。
「あなた、所属はどこ?」
ハンターが――大人の叢雲が口を開く。叢雲よりも少しだけ低い落ち着きのある声。
どこか懐かしむように、その目は細められていた。
「……ブイン基地よ」
「懐かしいわ。どうりであの吹雪が来たわけだわ」
「知ってるの……ねっ!」
叢雲が突き出したマストの槍――鏡を割る時のように顔を狙ったはずのそれはあっさりと避けられ、反対に掴まれる。
「ずっと仲良しだったわ。今はどう思っているのかわからないけど」
左腕はなくなって、赤い血を海に滲ませている。
だが叢雲には艤装がある。艤装から繋がる砲がある。
そのアームを向け、しかし遠くから聞こえてきた砲音にアームが吹き飛ばされる。
「……!」
「あんたは知らないでしょ。彼女は初雪よ。私の唯一の相棒」
鏡合わせの叢雲は、子供を相手にする大人のように優しく語りかける。
もう一つの黒い影を探す余裕などない。
目の前の鏡を見つめることだけで、精一杯だった。
「下手な砲弾なら、装甲粒子が守ってくれるわ」
去勢を張る。実際に今の叢雲にできることは何もないが、しかしそれすらも鏡合わせのように同じだ。
遠くから、ハンターのもう一角らしき初雪が撃ってきたとしても、数発なら耐え忍んでみせる覚悟があった。
どれほど痛いものかもわかっているつもりだった。
「そうね。なら悲しい話ね……」
鏡合わせの叢雲が、服からそれを取り出す。
砲などと比べればごくごく小さなもの。本来なら人類が持っているべきもの。
拳銃。
「……装甲粒子が何から守ってくれるか、知らないわけじゃないでしょ?
深海棲艦の攻撃。そして艦娘同士の砲弾……それは旧人類が対抗できない特殊な種類の攻撃。
それを守ってくれるのが装甲粒子。既存の分厚い鉄の塊じゃないからとても楽よね」
大人の叢雲が、悲しげな笑顔を称えて銃口を叢雲に向ける。
彼女がその言葉を並べている意味。それを悟った瞬間に、右の太腿から赤い血が吹き出ていた。
「うッ……ぁあああ!」
痛みに悶え、その場に崩れ落ちそうになる。
だが握り締めている槍から力を抜こうとはしない。
「普通の銃弾は、装甲粒子じゃ防げないのよ。それが何でなのかは知っているかしら?」
左腕と右足。血液と体温と意識を海へ溶かしていく中でも、叢雲はハンターへの敵意を忘れなかった。
倒すと決めていた決意はまだ、揺らいでいない。
次の一発は右腕から力を奪った。
槍を手に取った叢雲はしかし捨てて、屈んで視線を合わせる。
「人類がいつでも、艦娘を処理できるようにするためよ。深海棲艦を駆除するために生まれた私たちは、その役目が終わったら存在する理由なんてないもの」
皮肉げで寂しげな笑顔を間近に見ながら、しかしぼやける視界と遠退いていく声に朦朧する。
それでも告げなければいけない。物理的に歯向かう手段がなくなっても、どうにか彼女へ傷跡を刻めればいいと。
「……あんたは人類に殺されるのが怖いのかしら? 随分と臆病なのね」
「違うわ」
そして、胸に穴が開いた。水兵服に赤がじんわりと広がる。
立っているための力すら失って、膝を突く。
「私は、大好きな子がいる世界に生きていたいの」
腕も動かせず、そのまま倒れていく視界で、彼女を見上げることだけが叢雲に残された手段だった。
「私が好きな子も艦娘なの。ずっとね。だからこのゲームがずっと続いてられるようにするの」
ずっと見下されたままであるはずの声が、どんどん遠くなっていく。視界が霞んでいき、空と海の境界線が曖昧になる。
体温も、意識も、身体から溢れていく。
赤い血が青い海へ溶けていくように、叢雲の意識もゆっくりと掻き消されていく。
見上げる眩しい日差しに視界が侵食されていく。
微かに残された意識と心とゴーストが感じたのは、海の温かさと、吹雪の顔だった。
海辺に並んだ少女たちが、水平線の向こうをじっと見守る。
磯波が畳んだ膝に顎をうずめるように丸くなって、深雪はあぐらをかいて頬杖をつく。
後ろに立っている明石が時計を確認して、深雪の肩に手を載せて、踵を返した。
あのまま海を走り続けているとすれば、既に燃料の切れた頃合い。
ラバウルやトラックにいるはずもないだろう。
ここに来ていなければ、ショートランドにでも着いているのかもしれない。
そしてショートランドから一報が入らなければ、もはや海の上に叢雲はいなくなっていることになる。
立ち上がった深雪が、立ちすくむ青葉へ手を伸ばそうとして……しかし強く握り締められた拳と、固く噛み締められた口元を見て、声をかけることもできずに立ち去る。
青葉が鼻をすすって、目元を拭った。青葉だけずっと艤装を着けたままそこに立ち尽くしていた。
そして、最初から艤装をつけていない二人と一匹も、青葉と同じように立ち続けている。
空の青、海の青。雲の白、波間の白――ミズキと犬が、ずっとそれを見続けている。
吹雪が煙草を咥えて、マッチへ手を伸ばした時だった。
一際、大きな風が吹いた。髪を掻き乱して、肌を撫でて、熱気ばかりが満ちているはずのこのブイン島を、そうではない爽やかな涼しさが満たした。
そう、吹雪が思った。
思ってすぐに煙草を箱へ戻して、海へ背中を向ける。
戻るべき日々へ、退屈な出撃を繰り返す日々へ。
その昔――吹雪と同じく、一番最初に艦娘となった五人がいた懐かしさは、もう戻ってこない。
残されたのは吹雪ともう一人だけ……吹雪は陸でヒト紛いの書類仕事に徹し、彼女は海と空の狭間を泳ぎ続けている。
戻ってこない郷愁に身をすくませても、一歩も踏み出せない。
何かを変えるために、吹雪は生きることにした。
変えられる何かに、今度こそ逢える予感がした。
吹雪の背中に、ミズキが追いつく。犬が駆ける。
海辺に残された青空に、高く高く登る白い雲があった。
しばらく、時間が経った。
黴臭くて薄暗い庁舎の階段を軋ませて、執務室の向こうに一人の艦娘がやってくる。
短いノックに、吹雪はいつもと同じように返事する。
部屋に入ってきた少女の姿を、吹雪は見上げた。
すらりと伸びた体躯。透き通るようなガラス色の長い髪。ツンと釣り上がった目尻と、不機嫌さが抜け切らない口元。
「あんたが司令官……じゃないわね。何やってんの吹雪?」
吸おうと思っていた煙草を引き出しに隠して、吹雪は笑顔を作る。
「あなたを待っていたの。叢雲」
――第6章『blue fish』完
第6章がこれで終わります。
舞台がショートランドからブインへ変わり、テイストも変わった特殊な物語。
書いていて、とても面白かったお気に入りの章でもあります
続く第7章は、押井守リスペクトも最後。
遅すぎた話です。