鉄底海峡に待雪草を   作:在田

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「……ねぇ、聞こえる? ……ありがとう」


Thinker

 前に進もうとしていた動きを止めきれなかったのか、夕立はそのまま綾波目がけて倒れこむ。

 

「うっ……!」

 

 火達磨だったその体を受け止めたのだ。綾波の水兵服も焼け、肌も熱を通り越した痛みを脳に伝える。

 

 燃え上がるような熱の中で、自らの艤装にじんわりと広がるまた別の――液体の熱を感じていた。

 夕立の腹からびちゃびちゃと音を立てて水面に落ちるのも、今綾波の服に染みこんでいるものと同じ液体だろう。

 

 一度顔を上げた夕立が赤い瞳を合わせてすぐに咽て、その口から綾波の顔に、また熱い液体が飛び散る。

 

 驚きで、顔から熱が引くようだった。その代わりに顔に感じる熱をより熱く感じてしまう。

 

 夕立の血。

 

 夕立の背中で燃え盛る缶が落ちて、海中に消える。

 缶だけではなく、主機も曳航をしてもらうためだけの最低限の浮力を発生させられるが、これほどボロボロになっている以上、主機が機能を失うまでは時間の問題だろう。

 

「夕立さん!」

 

 綾波は言葉をかける。

 撃ったのは確かに自分だが、この水平線に囲まれた中で、夕立を見守ることができるのも自分しかいない。

 そうする資格がないと思っていながらも、許してほしいと思う心があった。

 

 屈んだ自分の膝に夕立の頭を乗せて、見下ろす。

 

 夕立が目を開いて、綾波と目を合わせ、一瞬だけ驚いたように表情を強張らせた。

 

「あ、綾波……髪、短くなったっぽい?」

 

「はい。短くなってしまいました」

 

 その一言で、綾波はわかった。

 

 夕立の眼に漲っていた狂騒が消えている。

 色こそ違えど、赤い瞳はどこか、以前見た碧眼と同じものを感じる。

 丸い無垢な理性、快活で怖いもの知らず。春雨の言っていた、どこにでも行ってしまいそうな明るさ。

 

 血を口の端から溢しながら、夕立は掠れた声を出す。

 

「やっぱりそれ、夕立がやったっぽい?」

 

 綾波は答えなかった。答えない代わりに、中途半端な長さになってしまった髪の毛に手を伸ばす夕立の腕を掴んだ――血に塗れて、手がなくなるほどボロボロになった手首を。

 

 罪悪感と、喪失と、失望……様々な感情がないまぜになって目から溢れそうだったのを、瞬きして留めようとした。

 

 しかしこらえきれずに、結局は夕立の頬に落ちてしまう。

 

「夢から起きた感じっぽい。私が私じゃなかった……もう一人の私っぽい」

 

 現実感がないと、夕立は言いたいのだろうか。

 

 常軌を逸していたあの行動はやはり、夕立自身のものではないとわかった。

 ただ単に寝相が悪かっただけだ。とびきり悪かっただけだ――そう、綾波は心の中で自分に言い聞かせる。

 

「……お許しはいらない。恨んでいいっぽい」

 

「私は恨みませんよ、夕立さんのこと」

 

 夕立の頭に手をのせて、綾波は袖口からのぞく黒い何かを見やる。

 深海棲艦のそれと、やはり酷似している。

 

「もう終わりっぽい……」

 

 夕立がそう言ってすぐ……膝の重みが急に増して、夕立の足は海中に飲みこまれ始める。

 艤装を扱うための機能が完全に止まったのだろう。夕立はもう海上を泳ぐことのできない体になってしまった。

 

「まだ、終わりじゃ、ありません……!」

 

 決死にその体を抱き留めようとするが、長い間戦い続けてきた肉体は疲労を訴え、腕から滑り落としそうになる。

 それでも決死に、嗚咽交じりの声で答える。

 

 夕立は不思議な微笑みを浮かべて、綾波を見上げていた。

 諦念と共に、全てを受け入れた微笑み。

 

「これで、いいっぽい」

 

「良くなんかありません!」

 

 上擦って甲高くなった、悲鳴のような声。

 

「一緒に帰りましょう! 私が抱えて連れて帰りますから!」

 

 そうして立ち上がろうとして――足がガクガクと震えていることに、ようやく気づいた。

 

 ――力が入らない。一人で立ち上がることすらまともにできない。

 とても、人ひとり分を背負いながら立っていられない。おまけに海の上となれば、いくら浮力があるとはいえ、波の抵抗が体力を奪う。

 正直、綾波一人だけでもちゃんと帰れるかどうか疑わしい。

 

 綾波の胸を、手のない腕が力なく押す。

 夕立が、綾波にもう離していいと言外に語りかけている。

 

「駄目です。駄目です夕立さん」

 

 夕立はその声を聞き入れない。

 代わりに、消え入りそうな言葉を囁いた。

 

「みんな、みんな……ちゃんと生きてほしいっぽい」

 

 堰を切ったように、保とうとしていた心のどこかが決壊する。

 もう、溢れてくる涙も泣き声も、綾波は止められなかった。

 ごめんなさい、ごめんなさい、と、まともに回らない呂律で何度も謝る。

 膝の上にある胸と顔の間で、綾波はうずくまって涙を流していた。

 

「ねえ、綾波……」

 

 ふと消え入りそうな声を出した夕立に、綾波ははっと顔を上げる。

 上を見る夕立の視線を追いかけて――うっすらと照るそれに眼が釘づけになった。

 

 日が昇ろうとしているのか、空が薄明るくなっている。

 その中でも、満月までいかないが、月が白く煌めいていた。

 

「お月様、とても綺麗っぽい」

 

「……はい。そうですね」

 

 何と返せばいいのかわからず、結局は素直に思ったことを口にしながら、月を見上げる血みどろの顔を見下ろした。

 

「やっと、肯定してくれたっぽい」

 

 もうそれは声なのか、単に開いた口を通り過ぎる空気なのかわからないほど小さなものだったが、しっかりと綾波には聞こえた。

 

 微かながら、夕立が口の端をつり上げたのを、綾波は確かに感じた。

 

 それが、最後の瞬間だった。

 

 海面に沈んで赤色を滲ませて、腕も足も力なく海に浸かっている。

 綾波の手から、握りしめていたはずの夕立の手が滑り落ちた。

 

「あ……」

 

 それを気づいた瞬間に、夕立の体が海へ吸いこまれていく。

 海面を隔てた向こう側に血の靄を広げながら、夕立は溶けるように海の色と混ざり合って、やがて見えなくなった。

 

 言葉も涙も、海面に阻まれて届かなくなってしまった。

 

 その場でしばらく、綾波は涙を拭っていた。

 波に揺れる水面を、映る自分の顔を、向こうに居るはずの夕立を見ながら、視界を邪魔する涙が止まるまで――水平線から太陽が顔を見せるまで、綾波はずっと泣き続けた。

 

 

 

 やがて帰投した綾波は、涙を以て仲間たちに迎えられる。

 

 敷波が目尻に見せる涙に見ないふりをして、艤装をいつも通り妖精さんたちに託し、いつも通り補給を受ける。

 

 そして皆が安堵に寝息を立てる中で、綾波は独り港に向かい、艤装を着けて、ショートランドを離れる。

 

 綾波は二度と、このショートランドに戻ってくることはなかった。

 

 

――第1章『Thinker』完




というわけで1話が終わり、物語はここからスタートします。

少々特殊なコンセプトの上で行っているので、読者様を翻弄することは百も承知です。

あと、第2章からは一気に全部アップロードするのではなく、短い周期で更新できればと思いますのでどうぞよろしくお願いします。
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