ヴェールヌイと高雄を追いかける気力も体力も、残されているはずなどない。
艦隊が取るべき進路は泊地。
比叡が海に消え、敷波は川内が手を引かなければ動くことすらままならない。
どうにか言葉を交わして気を紛らわそうとしても、明るい話などできるはずもなく、しかしそうではない話題を選べば誰かが涙を流すことになるだろう。
言葉以外の何かを求めても、海には何もない。
耐え難いほどに重く伸し掛かる沈黙の中、足取りが弾むはずがない。
警戒と称して誰もが誰もを見ないようにしていた。
ふと、敷波が口を開く。
「うん。いいよ。しょうがないよね……お疲れさま。今までありがとう。ごめんね」
どこか寂しげで、懸命に明るさを作った声。
……手を引いていた川内が振り返り、その肩からこぼれるように海へ落ちていく妖精さんの姿を見る。
「もう、妖精さんも保たないって?」
「そうみたい……綾波からもらったんだけど、あたし、まともに使ってあげることもできなかったな……」
「……」
返す言葉を失った川内が、引く手に少し力をこめるしかできなかった。
綾波を失った悲しみは、川内も敷波も、三度も味わっている。
最初は青葉の新聞を眺めながら、そして二度目は霧島たち艦隊の砲撃で。三度目は、金剛の砲撃で。
誰かが悪かったわけではない。艦娘が深海棲艦になってしまう――それが事実とわかって、誰もが怖かった。
そんな中で、未だにどうやって生きてきたのかわからない綾波を見たのだ。もしかしたら深海棲艦になっているのかもしれないと思って当然だろう。
だから霧島たちも金剛も……その事実を広めた青葉も、そして綾波本人も悪くなどない。
悪くないからこそ悲しみのやり場に困る。怒りの矛先に悩む。
溢れそうな感情の膨張と暴走に、心そのものが壊れてしまいそうなことをわかっていても、どうすることもできない。
……今の、沈黙に圧壊しそうなこの艦隊のように。
「敷波はさ、強いよ。だから自信持って。ちゃんと治して、綾波よりずっと長生きしないと」
「……」
返答はなかった。もうその元気がないのか、聞く余裕すらなかったのか。
敷波も本当なら立っていることすら痛苦だろう。服も髪も肌も煤と油に塗れて黒く焦げて、どこが火傷でどこが裂傷でどこが汚穢なのか、ひと目ではわからない。塩水では洗うことすらできない。
本来なら背負うべきだろうが、敷波が迷惑を理由に拒んだ。
「前方……敵艦隊です」
もはや口を開くことすら嫌がるような、青葉の重い声。
この期に及んでまだ敵は姿を現す。
胸中で蠢く蟠りを、しかし弾薬がなくて晴らすことができない。
「大した数やないけど……今の戦力じゃ……」
「それでもやるしかありません。……雪風さん、行けますか? もう、私とあなたしかいない」
「はい」
「辛いですけど、ここはどうにか……」
「はい」
青葉も雪風も、まるで感情のこもらない低い声でぽつぽつと言葉を漏らすようで、会話すらしていない。
戦う手段すらなくなった川内に――傷と呼べる傷がないのに戦えない川内に、これから傷を負うだろう二人へかける言葉などない。
ましてや、すでに虫の息になっている敷波にかける台詞も。
「敷波、私たちは待っ……」
「あっ、そっか……出撃しなきゃ、なんだね」
敷波の手がふらりと力なく、滑るように離れた。
海上にいるはずなのに、まるで陸を歩くように、足を浮かせて飛沫を立てる敷波。
何故か歩みは速い。伸ばした川内の手が肩にかからないほどに。
連装砲から、魚雷発射管から、何人かの妖精さんたちがボロボロと落ちて海に溶けていく。皆が黒く煤けて力を失っていた。
「そうだよ、綾波……」
声が、どこか幸せそうだった。
掠れてあまりにも小さなものだったが、まるで敷波には綾波の姿が見えているかのように、どこか足取りが軽い。
苦しいはずの、辛くて体も動かせないはずの敷波がなぜそうなっているのか、不思議に思った。
不思議に思ってすぐに、悪寒が背筋を駆け上った。
……敷波に見えているものが、自分たちの見ているものと同じだと思えなかった。
「敷波! 待ってっ!」
慌てて追いかけた川内がつまずいて転んだ。勢いの余りに顔面を打ちつけてしまう。
波に足をすくわれることはあっても、海でつまずくなど川内には久しくなかった。
つまずいたもの――それを見て、川内の呼吸が止まりそうになる。
――ボロボロになった敷波の主器。海へ立つために必要なもの。
だが敷波は陸に居るのと同じように海上を歩いている。
……その足先に生えた、黒く硬い光沢を持っているものなど見たくなかった。
「あたしは、さ……あんたの背中見てるだけで精一杯だから……」
自分の鼓動で、呼吸で、胸が破裂してしまいそうに痛い。
それでも急いで立ち上がって、敷波の肩に手をかける。
「……敷波ッ! 私が……私が見えるっ!?」
行こうとする敷波を力任せにこちらへ振り向かせた。ただ声を出すだけで胸が潰れそうになるほどに俯いて……両手にある敷波の肩の感覚だけを頼りに、川内は顔を上げる。
黒い装甲。青白く輝く目。
敷波の顔の半分ほどが、すでに埋め尽くされている。
虚ろな目は、川内に焦点を合わせることがない。
嗚咽が川内の唇を震わせた。
「……あたし、頑張んないといけないんだ」
「ダメだっ!!」
黒く、固く変質していく手を拾い上げて、握り締める。固く、強く、祈りをこめて。
感嘆に溢れ出た声が、今度は震えでたどたどしくなる。
それでも構わず語りかける。
「もう……もう頑張らなくていいから……そんなになってまでさ……」
届いていないと心の何処かで気づきながら、聞こえていないとわかっていながら、それでも届いてほしいと願った。
綾波が生き残って欲しいと思ったから、妖精さんを敷波に託したのだろう。
妖精さんを失って、だからと言って最悪の形で終わらせるのは、綾波にも、そして敷波にも申し訳なかった。
しかし敷波の目は川内を向かない。
敵の艦隊……青葉すら二人に愕然として立ち止まっているのに、単身で飛びこんでいく雪風を見つめる。
「すごく、強いな……化物……いや、あれは死神かな……?」
「死神なんかじゃない! 化物じゃない! 仲間だよ……っ! 雪風だよ!?」
流れる涙を拭う余裕もなく、敷波の肩を揺らす。
内側から、水兵服を引き裂いて現れる黒い装甲で、川内の手が滑って外れる。
川内から離れた敷波が、見る見るうちに体を黒く変えながら遠ざかっていく。
追いかけようにも、足ががたがた震えて動かせない。
「敷波! ……お願いだから……頼むから、そっちに行かないでよ!」
ようやくその声に気づいたのか、敷波が歩みを止めて、川内を真っ直ぐ見つめる。
やっと目を合わせることができた。
それだけで嬉しかった……しかし青白い双眸の下で、口元が不気味に笑う。
何が嬉しいのか、何が幸せなのか……全く読めない狂気に満ちた顔。
「あ、あんた……敵?」
敷波が川内へ腕を伸ばした。真っ黒な棒になっていた腕から手首が抜け落ちて、砲口が覗く。川内の顔へ向けられた砲が。
「……!」
後悔が胸中を渦巻く。
守ってあげれば良かったのか? 綾波とちゃんと別れの挨拶をさせれば良かったのか? あるいはもっと前に……何か自分が犯した過ちがないか? 懸命に探していた。
目の前の射線から逃れることよりも、それが頭を一杯にする。敷波の砲撃は、自分に対する何かの罰だったんじゃないかと思ってしまう。
だが終ぞ、撃たれることはなかった。
敷波が胸から爆炎を生み出して、バラバラに散る。
敷波も、敷波だった深海棲艦も、もういなくなっていた。
黒煙が晴れていく中で、川内はようやく涙を拭い、歯を食いしばる。口に溢れる鉄の味だけが川内の現実だった。
「なんで……なんで撃った!?」
すぐ横。硝煙を砲口から揺らめかせる青葉に、川内は絶叫する。
足腰から脱力しきって崩れ落ち、海を何度も叩いて、必死に叫んだ。
「仲間を! あれは敷波なんだよ? なんで! どうしてっ!」
「だってそうするしかないじゃないですか!」
川内よりも大きな怒号が、青葉の口からこだまする。
「私だって……撃ちたくないですよ。でも、それでも! みんなが殺し合うなら! だったら私が止めます! 私がそうなってでも!!」
声に、言葉に、思いに、川内は二の句が継げない。
……あのままでは敷波は川内を撃っていた。避けようとしなかった。敷波に、仲間殺しという汚名を被せてしまうところだった。
川内自身の犠牲や贖罪という話ではない。それに甘んじることで、さらに残酷な罪を着せることになる。
艦隊は個人ではなく仲間同士だ。自分と誰かだけではない皆がいる。
「……ごめん、なさい」
俯いて、どうにか絞り出す。決壊しかけていた感情を声にすることを諦めて、両手を真っ白になるまで握り締める。足元に散らばった黒い装甲が見えて、また涙が滲んだ。
「こんなことしている場合じゃないんです……早く雪風に加勢しないと、今度は雪風が――」
「終わりました。
敵艦隊、全部、倒しました」
驚愕に、青葉が顔をあげる。
前方――空を照らすほどに燃え盛る炎。それを背中に、こちらへ歩いてくる雪風の姿があった。
笑顔はない。ただただ辛そうに、悲しそうに、重そうに、下唇を噛んで、連装砲を強く握っている。
「あれほどの相手を、たった一人で……」
死神と敷波が言った理由がわかった気がした。
敵の艦隊を相手にして、まだ雪風は傷一つ負っていない。
歩けない青葉の代わりに、龍驤が前へ出て雪風を抱きとめる。
「ようやった……独りでな。ようやったで」
連装砲が腹にめりこむのも忘れて、力いっぱいに雪風を抱きしめる。
「比叡に大事にされてたもんな。そりゃ奴さんが憎いのもわかる。ウチらみたいな艦娘だったかもしれんから、怖いのもな。
だからって闇雲に突っこんだらあかん。それじゃみんな悲しいだけや」
下を向いたままの雪風の顎を、肩に載せる。
また両腕で包むように抱きしめて、背中を柔らかくさする。柔らかく。今まで見せたことのないほどの優しさをこめて。
雪風の返事は遅く、そしてか細かった。
「……うん」
「無事で何よりや。もう誰も死なせん。ウチも死にとうない。雪風にも死んでほしくない。みんな元気で帰ろう。な?」
「……っ、うん」
ようやく龍驤が離れて、雪風を真っ直ぐ見つめる。
涙をこらえてしわくちゃになった顔を、こぼさないようにと懸命に閉ざされた瞼を覗く。
そして連装砲を握りしめたままの雪風の手を自分の手でくるんで、もう片方の手で優しく頭を撫でる。
「ええ子や。だから今は肩の力抜いて、そんな辛そうな顔せんでや。ウチからのお願いや」
「……っ……うっ……ん」
じんわりと、雪風が呼吸を取り戻していく。
さっきまで泣いていたのを堪えて、それでもまた耐えきれない悲愴に、緩やかに雪風の心が決壊して、溢れていく。
連装砲から、ようやく手が離れた。
雪風の一際大きな泣き声が龍驤の胸に満ちた。
龍驤がまた優しく抱くように、雪風はひらすら力いっぱいに龍驤の体を両腕で抱き締めた。
いなくなってしまった誰かと、いなくなってほしくない誰かの分もこめて、力いっぱいに抱き留めた。
「……泣いちゃダメなんて誰も教えとらんやろ。我慢する必要なんてないんや」
泣きながら大きく頷く雪風。もはやどれが泣き声でどれが応答なのかわからなくなって、龍驤は少しだけ笑った。
こんな状況でも笑えてしまう自分を、どこかで呪った。
そして眼前の炎が止んでいくのを眺める。
雪風が一人で倒した敵の残骸。
「ほんま、雪風は強い子や」
「……本当に、そうですね」
青葉が後ろで、呟くように答える。
「今の状態で、私でも勝てるかわかりませんでした」
「過ぎた話は終わりにしよ。とりあえず一区切りついたら、帰ろ、な?」
「そう、ですね……」
振り返る龍驤に対して、青葉はまだ消えていく炎を見つめていた。
これほどの劣勢でも、まだ戦うことができる雪風を羨ましいと思いながら、同時に恨めしいとすら思ってしまう自分がいるのを、ぐっと押しこめて。
というわけで雪風パートの第7話。
それぞれの話ごとにスポットをころころ切り替えて、話の連続性を持たせるのはよくある手法で、まあそれをやらないとせっかくだから損だよな……
ということでこの順番が一番効果的かと。