帰りの岬へ、律儀にたどり着こうとは思えなかった。
ただひたすらに長い海の往路を、寝る間もなく駆け抜けてきた。
すぐにでも体を離れそうな意識を押し留めて、ようやくたどり着いたのは白い砂浜……旧居住区だった。
ショートランド島で浜辺があるところなど、そこしかない。
たどり着いて、すぐに寝ればきっと快適なことだろう。
……だがそれよりも先に優先するべきことがあった。
背負ってた潮を浜辺に寝かせながら、衣笠が叫ぶ。
「夕立! 急いでみんなを呼んで! 特に七駆の子たちを!」
「ぽい!」
夕立が一目散に突っ走る。
背負っていた艤装を浜辺に投げ捨て、主器も足の振りだけで浜辺のどこかへ飛ばして、すぐにその背中が見えなくなる。
……庁舎の方角から轟いた砲音に構っている余裕などなかった。
「起きてる? 寝ちゃ駄目だからね! いい? 絶対だから!」
叫ぶように語りかけても、潮は目を見開いたまま反応しない。
頬を何度叩いても、肩を揺すっても……変わらない。
泊地を発つ直前に見た、あの時に戻ったかのように、呼吸をしているのかすらわからない。
――ゴーストが侵食されている、とトラック泊地の明石は言った。
思い返したのは、同じような話を、沈んだはずの加古が浜辺に打ち上げられていた時に夕張がしていたことだ。
……結局加古が深海棲艦となったのかどうかわからないまま、古鷹も一緒にいなくなってしまったが。
「神通! 夕張呼んできて! 何かわかるかもしれない」
「わかりました」
すでに艤装を外し終えていた神通も、夕立と同じように砂を撒き散らしながら走り去った。
……原因は、なんとなくだがわかる。
帰りの戦いで潮は連装砲を失った。それまで今のようにぴくりともしなかった潮が、持たせただけで意識を引き戻した、あの連装砲をだ。
どんな理屈があるかなど、衣笠にはわからない。だが何かがあるのは明白だ。
だがそれを海に失った今、同じことをして潮を回復させることは不可能だということも。
せめて衣笠にできるのは、あるのかどうかわからない潮の意識を保とうと叫びかけるのみだ。
「……衣笠さん」
春雨が小さく出した声で、何か策を見つけたのかと思って、縋るように振り向いた。
しかし数瞬後に、何を告げればいいのかわからなくなる。
夕立が連れてきた三人――朧と曙と漣が、寝間着姿のまま浜辺に立っていた。
連れてこいと言ったのは自分だが、しかし潮を見て彼女たちにどうしてほしいと言えば良いのかを考えていなかった。
また同じような姉妹の姿を見せびらかすようなことをした、と。
こぼれ落ちるような朧の言葉。
「……潮、そっちに居たんですね」
「私じゃ何もできなくて……もうちょっとした夕張が来て、きっとどうにかしてくれるから……」
「いや――」
どこか、穏やかな声で、潮の顔を覗くように屈む漣。
絞めつけられるような痛みが、胸の奥に生まれる。
「――今は潮がちゃんと居てくれただけでいいです」
潮が着ている服の下で何が起こっているのか……まだ三人は知らない。
黒くて硬いものが肌色の皮膚を切り裂いて出てきていることなど、まだわからないのだろう。
それを告げて良いのか判断する前に、曙が腕を伸ばしていた。
「なんか、いつもの潮の胸に見えないんだけど」
衣笠が声をあげる前に、曙は既に潮の胸を掴んで……次の瞬間には短い悲鳴と共に飛び退いていた。
驚きに振り向く漣と朧……一瞬で青ざめていく曙の顔を見て、ようやく悟った。
「なに、いまの……ねぇ。ねえ!」
「潮、どうなっちゃったの?」
「……」
奥歯を噛みしめて黙りこむ衣笠……だが返答などしなくても、それそのものが答えとなってしまった。
朧と漣の顔も、曙と同じように温度が引いていく。
「待ってよ。なんで潮が……だってこんな、優しい子なのに!」
そういう問題じゃない――だが告げたところで、三人はまた声を荒げてしまうだろう。
明石から教わったこと――艦娘が深海棲艦へ成ってしまう条件。
すでに潮は、それを満たしているのだろう。
「止まらないの? どうにかしてよ……」
「……」
答える術などない。強いて夕張に希望をかけるのみだが、できない可能性の方が大きい。
深海棲艦になってしまった艦娘を止める手段を、明石ですら知らないのだろうから。
「いい。だったら潮を逃がそう!
一緒に暮らせないのは、悲しいけど……でもいなくなるより……っ!」
潮の身体を持ち上げようとした漣の手首を掴む手があった。
衣笠ではない。朧でも曙でも、春雨でも那珂でもない。
――潮。
瞳の奥に青白い光を宿しながら、しかし目を開いた潮が漣を見上げている。
その身体に、意識に、何が起こっているのかわからない。
当然、なぜ目覚めたのかも。
「……駄目だよ。私、きっと皆を忘れちゃう。そしたら、皆を撃っちゃう」
「大丈夫だよ! 私たちがちゃんと気づいて、撃たれないようにするから!」
叫んだのは曙だった。目覚めた潮に驚きを隠せないまま、しかし裏返った声で、必死に思いを届けようとする。
だが潮の言葉は――曙の声が届いているのかいないのか――返答ではなく、留まらない。
「――皆を、撃ちたくない」
曙の叫び声が止まった。朧も漣も、ただじっと潮を見つめて動かない。動けない。
青白い光――潮の視線が衣笠へ向かう。表情のない顔の奥に、悲憐が見える。
潮が見ているのは衣笠の脇に仕舞われているリボルバー。かつて潮の連装砲へ放ったもの。
「お願いします、衣笠さん。
……最期の我儘、聞いてもらえますか?」
息を飲むことすら許されないほどに、喉が干上がった。
肺腑をキリキリと締め上げてくる痛みに、呼吸すら詰まりそうになる。
潮の望みを聞くとなれば手段はもう残されていない。
手に持ったリボルバーが曙の瞳に映る。
「駄目! やらないで!」
曙の絶叫。衣笠へ飛びかかろうとした小さな体躯が、しかし姉妹の二人に阻まれる。
朧と漣が、曙の腕を必死に掴んでいた。
「……勝手にさ、旅団なんて変な組織に行ったり、私たちのドックを破壊したり、おまけにこっちを攻撃してきたり……
散々、我儘放題したものね。今更、一つや二つどうってことないわ」
「潮! ねえ潮! あんたそれでいいの!? ねえ! 答えてよぉ!!」
曙の絶叫だけが轟く中、気づけば泊地中の艦娘が遠巻きに皆を眺めていた。
眺めるだけで何もできないことを自覚していた。
焦点の定まらない青白い瞳――その眉間に、衣笠は銃口を突きつける。
「……すみません。胸で、お願いします」
「きっと苦しい時間が長引くわ。それでもいいの?」
こくりと頷く潮が、頬を釣り上げる……だが釣り上がっただけの歪な表情にしかならない。
きっと本心では、笑っていたいのだろう。
「これでも、女の子ですから」
「……っ!」
途端に溢れ出した涙が、潮の頬に落ちる。
人類の姿など久しく見ていなかった。見ていない間に忘れていた。
戦いに明け暮れて、それだけをひたすら繰り返して、ずっとそんなことを考えないままでいた。
今はもう叶わない夢がきっと、潮にもあったのだ。
戦争なんかに明け暮れている場合ではない。
そんなことに命を費やしている時間はない。
意識があって、心があって、魂がある姿に生まれた。
人間と同じような姿に生まれた。
「そう、だったね……忘れていた。
可愛いままで、いたいよね。
こんな戦争なんてさっさと終わらせてさ。
お洒落して、遊んで、それで恋とか、さ……
そういうの、したかったよね……」
ゴーストに見た、港で再会を喜ぶ人間たち。
今になって、確かにやってみたいと思える。
自分の帰りを待ってくれる人がいたり、自分が帰りを待ったりできる人がいることは、きっと幸せなのだろう。
潮はとっくのとうに気づいて、ずっと憧れてきたのだろう。
女の子が夢を抱く……それだけだ。だがありふれたものではない。衣笠はそんなことを思ってしまう。
だからこそ抱ける潮を尊敬できた。美しいと。儚いと。
……だが衣笠にできることは、こんなにも汚いことしかない。
水兵服の奥でまた新しく生えている黒い装甲の隙間……まだ柔らかい部分を探して強く押しつける。
硬い銃だからこそ、肌の奥で鼓動を打つ心臓の感覚が直接手に伝わってくる。
衣笠の拳銃に、拳銃を握る手に、潮が優しく手を添えた。
「震えてるの、わかります……ごめんなさい」
衣笠が潮の鼓動を感じているように、潮にも衣笠の動揺が伝わっている。
わかってまた、握り締める手が石のように固まってしまう。強張って動かない。
引き金で固まった衣笠の指……それを押しやって、潮の指が引き金へかけられた。
「潮ちゃん……」
潮の頭が不器用に三人を向く。また曙が叫ぶ前に、潮が口を開いた。
「ごめんね」
銃声が辺りに響いた。
吹き上がった赤い血が衣笠の銃を真っ赤にして、衣笠自身もべちゃべちゃに染まる。
血を吐いた潮が、しかし次の瞬間にはそのまま動かなくなった。
水兵服にじんわりと血が滲み、白い砂浜にも赤が広がっていく。
……朧が、感情の波を堰き止めきれずに決壊する。その場に崩れ落ちて悲鳴を上げる漣。最後まで立ちながら、曙がずっと涙を堪えて悲鳴も抑えて……しかし誰よりも泣いていた。
……目を開いたままの潮。閉ざしてあげようとして、両手が血に濡れていることに気づく。
彼女自身の血とはいえ、こんな汚い手で潮の顔を汚すわけにはいかない。
「ごめんね。本当に、何もしてあげられなくて……本当にごめんね……」
我儘を叶えたはずの衣笠。
だが叶えられる我儘はこんなものではないはずだった。
もっと誰かを幸せにできる我儘を叶えてあげたかった。
潮もそれを望んでいたのだろうから。
……衣笠の代わりに、春雨が潮の瞳を閉ざしてあげる。
泊地にこだまする悲鳴を聞きながら、しかし春雨は顔を上げた。
庁舎から聞こえてきた轟音の正体……。
それを探る前に、木々の隙間からこちらを眺める一人と、目があった。
――雪風と。
この瞬間を持ってして、雪風と春雨が合流します。