「いやいや! ちょっとお手伝いをね!」
浮き足立っていたはずの艦隊が、一瞬で静まり返っていた。
正体もわからない誰見えないどこかから放ってきた、たった一発。
こちらへ話しかけてくる深海棲艦? ――艦隊の誰疑念さえ抱けど、確信まで至らない。かといって艦娘だとも思えない。そもそも艦娘ならば、こちらへ攻撃する理由がないはずだ。
誰なのか、何を目的にしているのか、いつ現れいつ消えたのかすらわからない。こちらから見えない以上、もしかしたら今もこちらを見ているかもしれない。
遠くからこだまのように聞こえてきた声。正体不明の恐怖。
誰も一言も話さなくなった。
……特に雪風からは、普段から浮かべている好奇心旺盛な笑顔すらかき消えてしまった。
皆が察している。あの何者かが、雪風に執着しているだろうことを。
それでも任務は続けることとなった。
周囲をうろつく深海棲艦の小さな群れを叩いた程度に過ぎず、偵察としての充分な成果などこれっぽちも果たしていないのだ。
ましてやこれは強行偵察……バレずに様子を伺うものとは違う。敵にこちら側の痕跡を与えてでも、攻略の要となる重要な情報を引き出してこそのものだ。
まだそれに至る情報などない。
誰とも知らぬ存在がいる。そんなものが納得できる情報であるはずがない。だがその存在こそが、この先に重要な何かがあることを示唆する証左であることに変わりはない。
雪風の双眼鏡に頼り、艦隊は敵らしき影を見つけ次第迂回をして、極力決められた方角へ向かう。
限りある燃料を往復の分も含めて計算しなければならない。
しかし次第に迂回の頻度があがり、そして三度目となる戦闘の時が来た。
既に日が水平線に触れている。陽光よりも砲火が眩しく見える頃合い。
空を飛び交う虫のような艦載機はいなくなったが、赤く目を光らせる戦艦級が二隻も現れた。
ル級。駆逐艦ごときに歯が立つような相手ではない。
遠くから、まともに当たれば一撃で瀕死へ叩きこまれそうな砲撃が海を裂く。
雪風の背中にくっつく魚雷発射管からひょっこりと顔を出した妖精さんが心配そうに見上げる。
「大丈夫です。不沈艦の名は、伊達じゃありませんから!」
――『死神』
脳裏を過ぎり、貼りつけていた笑顔が曇る。
すでに妖精さんは再び魚雷発射管に戻っていたが、後ろへ引きずられるような重たさを拭えない。
両手で抱え持った連装砲を放っても、それは敵を掠めるだけにしかならなかった。
逢魔が時。昼から夜に移って明暗が急激に変わるため、一時的に視力が鈍る時間帯。ましてや双眼鏡の痕が残るほど陽光を見続けていた雪風なら殊更だ。
敵と自分との距離を測り損ねてしまい、前後と左右――夾叉と苗頭も予測がつけられない。
しかし他の駆逐艦が海を駆け巡った。ル級の砲弾を潜り抜け、他の駆逐や軽巡を次々に海の底へ落としていく。魚雷を放ち、砲煙を吐き出し――やがて、傷つく者が出てきた。
「暁さん、下がって!」
「まだ、まだへっちゃらよっ」
比叡が声を張り上げ、暁が威勢良く返す。比叡が次に心配したのは雪風だ。
「雪風、動けますか?」
「ちょっと当てにくいですけど、大丈夫です!」
袖で目元を拭う。少し視力が悪くなった程度で、何もできないままでいるわけにはいかないとお腹に力を入れた。
「わかりました。探照灯を照らします! みんなで協力して、あの戦艦を倒しましょう!」
「はい。かしこまりました!」
船速を上げ、頬を撫でる風が強くなる。煙の臭いを嗅ぎ、減速していく暁とすれ違う。
その時に苦悶の表情が見えた。
へっちゃらと言っていたが、暁の水兵服は黒く焦げ、艤装もあちこちがひしゃげて原型を崩していた。これ以上戦闘を続ければ、いつ沈んでもおかしくないような状態。
暁の前へ出るように加速する。
一条の光が海上を駆けた。
探照灯――夜間での視界確保と同時に、皆が攻撃するべき敵を浮き上がらせる装置。赤目のル級が暗闇から浮かび上がったル級が眩しそうに艤装を掲げる。この瞬間から、その一体目がけて、駆逐艦の皆が殺到する。
巨大な盾のようなル級の砲塔から火が噴くたびに海がたわんだ。
白波を立てながら海を之の字に駆け抜け、引き金を引く。しかし放たれた砲弾は艤装の表面で火花を作るに終始した。
ル級がこちらへ向く。
「マズいです!」
「全員、魚雷一斉射! 雪風を守って!」
「「はい!」」
空きのない連携と比叡の指示。雪風自身の逃げられないという即断も正しいものだった。
進路転換するべく足踏みをした直後に、雪風のすぐ前で海水が噴き上がる。落ちてくる海水から逃げるように、雪風はル級へ背を向けた。
刹那に真横の海面が炸裂。袖口が小さく燃えているのが見える。すでに狙いを定められている。次にもう一発飛んで来れば、間違いなく雪風の体を貫くだろう。
駆逐艦の全員が放った魚雷が進んでいく。それがル級へ届くまでの辛抱だとわかると、安堵と共に力もみなぎってくる。
冷や汗で滑り落としそうになる砲塔を握りしめて、跳躍した。
仰向けに倒れるような動き。砲塔を持ち上げるのではなく抱え込み、砲撃。反動が肺腑を圧迫するが、代わりに跳躍した距離が少しだけ伸びる。
その少しの間に、背中の魚雷発射管からありったけの魚雷を吐き出す。
放った魚雷たちが海中へ没するのと同時に、砲弾が雪風のいた空間を通り過ぎていく。
背中から海面に叩きつけられた時には、すでに砲弾は少し離れたところへ去っていた。
そして雪風の魚雷も加わり、それぞれ一点に魚雷が集中していく……盾のような巨大な砲塔の下を通り過ぎ、ル級の足元へと……。
一際大きな轟音が空気を揺さぶった。
起き上がって、探照灯に照らされながら背が低くなっていく水柱を見つめる雪風。呆然と眺める他の駆逐艦たち。
……飛沫の中から、それはいなくなっていた。
「やったわね雪風!」「すごいのです」
喜びのあまりなのか、雷と電の声は震えていた。
「やりましたね、はい」
「えっへん!」
「まだです! まだあと一体います!」
春雨の声へふんぞり返ろうとした雪風の耳に、比叡の叫び声が飛び込んでくる。
探照灯がゆっくりと海面を撫でていき、その姿を浮き彫りにした。
……雪風の背後。
「わっ!」
海面へ飛びこむように跳び退り、すぐ近くで轟いた砲音に頭蓋を揺さぶられる。
ル級が雪風目がけて一歩進み、嘲笑うように砲塔を振り上げた。ル級自身ほどもある砲塔の塊だ。単純に叩きつけるだけでも、駆逐艦のような小さい体を潰すには充分だろう。
見上げる以外に何の手段も持てず、ただ雪風は唾を飲みこむ。
次の瞬間だった。
ル級の背中で爆発が起こり、ル級が絶叫と共に足をぐらつかせる。
「今のうちに!」
「は、はいっ!」
立ち上がるというよりも、這うように逃げ出す。
遠くで砲煙を漂わせているのは、駆逐艦の誰でもない。
第一、戦艦に敵うほどの砲を駆逐艦が積んでいるはずもない。
比叡。
いつの間にか暁を傍らに置いて、比叡がようやく砲撃した。
「偵察作戦はここまでです。そいつを倒して、そして、みんなで帰りましょう」
ル級が盾型の砲塔を振り回し、弾が吐き出される。同時に比叡の砲口が火を噴いた。
ル級の砲塔が砕け散る。比叡の艤装が削り取られた。
探照灯ほど光るものを持つ以上、必然的に敵から狙われやすくなる。
だが比叡にとっては微々たる損傷でしかない。そいつを倒して「何の結果も得られませんでした」と笑いながら帰ると決意したのだ。誰かがいなくなることなんかより、その方がいいと思えた。
だが盾型のそれが一つなくなったところで、ル級の、戦艦級の防御力がわずかに削れた程度に過ぎないだろう。駆逐艦の砲撃では表面を叩く程度にしかならず、撃破までには至らない。
しかし探照灯を持ったまま攻撃しては、単純な打ち合いでも負けかねない。探照灯を消せば見失ってしまうリスクが高まる。そして駆逐艦たちが狙われるかもしれないリスクも。
探照灯を抱えたまま戦うつもりだった。
ここまで身を粉にして戦ってきた駆逐艦たちのために戦わない理由はなかった。体が衝動のような熱い情動に動かされていた。
遠くに臨むル級へ、比叡は一歩踏み出す。
手に抱える探照灯を握り直そうとして……しかし次の瞬間には、暁が探照灯を奪い取るように抱え持っていた。
「私が持つわ!」
「でも、その負傷で撃たれたら……」
「大丈夫よ! 雪風もそう言ってたでしょ。それに、比叡も、私たちのために戦うんでしょ?」
ゆっくりと噛みしめるように、暁は告げる。
「……お子ちゃま扱いされたくないの。私は一人前のレディーなんだから!」
体を突き動かしていた衝動のような殺気が和らいでいく。胸の中でぎゅっと固まっていたものがだんだんと溶けていく。
「かしこまりました。私の命も、この艦隊みんなの命を、あなたに託します」
「任せなさい! 一人前のレディーとして、しっかりいただくわ!」
探照灯が、正式に暁に渡される。中に乗っていた妖精さんに「よろしくお願いしますね」と告げ、勢いのある敬礼で返される。
そして比叡が前に踏み出し、ル級と距離を詰めていく。
予定通りというべきか、それとも唐突なのか――声は訪れた。
『仲間外レハヨクナイナァ 俺モ入レテクレヨォ』
咄嗟に身構えた比叡よりも、ル級が過剰な反応を見せた。
慌てたように周囲を見渡し、背を向けて距離を開けていく。自分たちのことなど眼中にないかのように、一目散に。
「逃げた?」
誰かが皆の思っていた疑問を口にする。声が聞こえた瞬間に、ル級が慌てて逃げ出すことの理由がわからなかった。
艦隊の全員が、薄らと思っていたことが一つある。あの声の正体は深海棲艦だろう、ということ。だからこそル級の増援だとすら思ってしまった。
しかしル級は逃げ出した。
そして、一つの砲音が聞こえた。
また自分たちに落ちて海を裂くのではないかと思っていた砲撃はしかし、ル級の体を中心に、巨大な火球を作り出した。
「え……!」
春雨が唖然とする。
朦々と立ち上っていた黒煙がなくなり、暁が照らす探照灯の先には海だけが映る。
「たった、一撃で?」
暁が震えていた。
戦艦級――それも赤目という特殊な個体が、一度の砲撃で沈んだ。
『デモマダ死神ガ残ッテイルノカ…… ジャア モウチョット遊ボウカ』
探照灯が照らす向こう側。
ル級がいた場所よりももっと奥に、一つのシルエットが浮かび上がる。
子供のような小さな体躯。フードを被った少女の井出達。とても楽しそうな口元の笑み。爛々と輝く金色の目。尻尾のように伸びる図太い先にある、巨大なもう一つの咢。
それは、雪風たちの見たことがない敵だった。
しかし目に浮かぶ表示枠には符号が為されている。
〝レ級〟
全員の視線が、レ級に集まる。
『見セテミナ オ前ラノ 力 ヲ』
尻尾の咢――頭部らしき砲塔の塊から雷鳴のような砲音が轟く。波が割断される。
その衝撃だけで、電が姿勢を保ち切れずに転倒した。比叡の砲塔がどこかへ千切れてしまっていた。
――ル級を一撃で葬った砲撃。駆逐艦がまともに喰らえばどうなるかなど自明の理だった。
切迫して腕を振る比叡。
「無暗に近づいたら駄目です! 分散して、なるべく狙われないように!」
皆が当然のごとく従うはずだった。事実として雪風は之の字運動で距離を置いているところだった。
しかし一人だけ違った。
探照灯の光が、レ級を目指したまま距離をぐんぐん縮めていく。
「暁さん!」
思わず叫ぶ雪風。
「さっきのル級と一緒よ。逃げてちゃいつまでも撃たれっぱなしじゃない!」
砲塔がなくなっても、暁にはまだ魚雷発射管が残っていた。
まだ距離はある。雪風も春雨も雷も電も、再装填できる時間はまだあると思った。
敵が深海棲艦であるなら艦娘の攻撃は通用する。通用するなら倒せないはずはない。
一番負傷を背負っているにも関わらず、先ほどよりも強大過ぎる敵へ、恐れる素振りもなく猛進する。
「味方を撃つようなやつよ。絶対おかしいわよ」
まだ、暁は勝てる希望を捨てていなかった。暁は希望に賭けたのだ。
暁が捨てていない希望を、皆が捨てるわけにはいかないと思わされた。
すかさず比叡が砲を放つ。数こそ減らされたが残されたものもある。その間に駆逐艦が魚雷を再装填できる時間を作るためだ。
しかしずっと立ち呆けているレ級に弾着が至らない。狙いを定めなかったわけではない。先の衝撃で砲身が曲がってしまったのかもしれない。
『残念ダケド 俺ニハ味方ナンテイナインダ ソウ イナインダヨ 味方モ ソシテ敵モ』
嘲るようなレ級の声音。
既に雪風たちは魚雷の再装填を終えている。
だが間に合わない。
暁の手の上――探照灯から顔を出した妖精さんが、慌てて暁に語り掛ける。
背負っている缶からも、暁に妖精さんたちは警笛を打ち鳴らしていた。
――このままでは死んでしまう、と。
暁は進んだ。進むことを選んだ。
魚雷発射管を構え、放ち、そしてレ級の砲撃が撃ち出された。
砲弾に追随した衝撃波が、波を真っ直ぐに切り裂く。
空になった魚雷発射管が粉微塵になり、幼子のような体躯が軽々と宙を舞った。探照灯を手から滑り落とし、艤装の欠片をばら撒きながら、暁は海面へ叩きつけられる。
……誰もが絶句した。
皆で帰ると誓ったはずなのに、それを一番願っていた子が真っ先に散ってしまった……。
だが暁は起き上がる。身体のどこに力が残っているのかわからない。艦娘が持ち得る膂力というだけで終わらせられるものではない。
暁の艤装から、妖精さんたちがいなくなった。既にどの武装も壊れて使い物にならない。それでもゆっくりと、覚束ない動きで立ち上がった。
「もお、許さないんだから……っ!」
通信の声にノイズが混じっていても、わかるものがある。
激情。怒りなのか決意なのかを定めることはできない。だが頑として揺るがない、強い意志があった。
「全員、砲撃! 暁を守ってください!」
比叡の号令が届く前から、雷と電は動き始めていた。
再び真っ黒になった、レ級がいるだろう場所へ、当たるかどうかなど度外視した乱射。
それをしながらも暁へ近づいていく二人は、ヨロヨロと水面を歩く体を抱き留めようとする。
しかし暁が次の一歩を踏み出す時――二人の手が届こうかという時だった。
暁の足が、下へ落ちていく。
まるで高いところから飛び降りるように、暁はほんの一瞬で水面の向こうへ沈んでしまった。
「あ……」
電が声をあげ、雷は黒い海に見えなくなった暁の姿を探そうと水面へ顔をくっつけていた。
だがすぐに首を横に振る。
『愛シテルンダ! 君タチヲォ!! ……アハハ アハハハハ!!』
レ級の声など、皆に届くはずもなかった。
暁がいなくなった。事実を飲みこめないまま、呆然と立ち尽くす。
『サア マタ味方ガ沈ンダゾ 死神!』
レ級が雪風を振り向く。
雪風の表情からいつもの明るさがなくなっていた。
雪風の放った雷跡が真っ直ぐ駆け抜ける。黙って見つめるレ級。
『ソウヤッテ オ前ハ イクツ味方ヲ沈メタ?』
ぞくりと、怖気が雪風の背中を凍りつかせる。
レ級と眼があったのだ。
金色の目は真っ直ぐに雪風を見つめ、歪に笑っていた。
魚雷が到達し、爆発音が周囲にこだまする。
『アハハハハ アハハハハハハハハハ!!』
レ級の笑い声が響いた。
爆発音に紛れても、水柱の向こうから、ずっと。
それが静まって、レ級の姿が見えなくなっても、まるで耳にべっとりと貼りついたかのように、いつまでも聞こえているような気がした。
しんと静まり返った暗い空の下で、電が焦げた帽子を拾い上げる。
紺色の生地に、白く描かれた錨。
暁が被っていたものだ。
ゆっくりと、静かに嗚咽を漏らす電を、雷が抱きとめる。皆が集まり、電が抱きしめる帽子を見つめていた。
「……帰りましょう」
悔しく、寂しく、悲しそうに、比叡が呟いた。