ビスマルクはダメマルク⁉   作:少佐5909

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第七話:妹の矜持

「つまり、以前からプリンツがこっちに来る話はあったけど、そのことは伏せてあったと?」

 

 翌日。朝から第七の執務室に集まったビスマルクにレーベ・マックス、そしてオイゲンは来賓用の安物の革張りソファに腰を下ろし、執務室最奥の中央に座る安曇の方を向いた。

 

「ああ。まだ確定事項じゃなかったから報告は出来ないでいたが、彼女をこちらに呼び込む話は以前から持ち上がっていた」

 

「でもよく本国が許可なんて出したわね……」

 

「戦争が終わって西欧では深海棲艦の出現もほとんどなくなったからな。それに向こうでは日本やアメリカほど艤装技術も普及していないし、艤装犯罪も起きちゃいない。戦時下ならともかく、EU内で艦娘所持国というのは色々と厄介なんだろ」

 

「まあ、特に隣の国は何かとケチつけてくるわよね……」

 

 ビスマルクの苦い横顔に安曇も苦笑した。

 

「どこの国だって同じだ」

 

 するとレーベが挙手をして質問した。

 

「でも今の話だとプリンツはまだこっちにくると決まっていたわけじゃないんだよね? それがどうして突然?」

 

「問題はそこなんだよ」

 

 安曇はオイゲンを見た。

 

「確かに俺も上からお前が来るかもしれないとは聞かされていた。だがそれはまだ来週のことだ。一週間繰り上がってこっちに来るなんて聞いてないぞ?」

 

「私、ビスマルク姉さまに会えると聞いていてもたってもいられなくなって、それで……」

 

「勝手に飛び出した、と」

 

 安曇の言葉にオイゲンは恥ずかしそうに頷いた。

 

「まあ、そんなところです」

 

「まあじゃないだろ……。よく本国に捕まらなかったな。あの後真っ先に大淀さん経由でお宅らの国に確認取ったら、『多分そっちに行ってるからよろしく頼む』ってなぁ。適当にも程があるでしょ」

 

「でも結局入庁許可証が無かったから意味なかったんじゃない」

 

 そう言うマックスにオイゲンは首を振ってこたえる。

 

「そんなことはないよ。だってこうしてビスマルク姉さまとお会いすることが出来たんだから!」

 

 そう言ってオイゲンは隣に座るビスマルクに抱き着いた。

 

「ちょ、プリンツやめなさい! みんな見てるから!」

 

 顔を赤くし恥ずかしがるビスマルクをよそに、オイゲンはビスマルクの白いふとももに顔を埋めて頬ずりする。

 

「いいじゃないですか~~久しぶりの再会なんですから。それに向こうじゃいつもこんな感じだったじゃないですか」

 

「昨日は誰かと思ったが、まさかウチの人員補充だとはなあ……」

 

 既に問題児が来ることには慣れている安曇だったが、それでも若干の辟易の色が顔に現れていた。

 

「それでビスマルク姉様、ここの提督さんはどこにいるんですか?」

 

「何言ってるのプリンツ。さっきからそこにいるじゃない」

 

 呆れながらビスマルクが安曇を指さすと、それまで笑顔だったオイゲンの表情が凍り付いた。

 

「え……じゃあまさか、この人が?」

 

 まるで信じられないものでも目の当たりにしたかのようにオイゲンは声を震わせる。

 

「う、嘘……こんな汚い中年のおじさんがビスマルク姉様の提督だなんて信じられない!」

 

「ちょっと待て、それどういう意味だオイ!」

 

 唐突なオイゲンの罵倒に流石の安曇も怒鳴る。そもそも安曇が提督でないのだとしたら、一体オイゲンは今までこの中年をなんだと思っていたのか。

 

「どうもこうもありません! あなたがビスマルク姉様を誑かしている悪い提督ということじゃないですか!」

 

 オイゲンの言葉にその場にいた全員が目を点にした。言葉の意味が飲み込めず、思わず聞き返す。

 

「どゆこと?」

 

 オイゲンは警戒の色を強める。

 

「誤魔化したってそうはいきませんよ! 本国にもあなたの悪名は届いています。職務対して不真面目、やる気はなく成績もワースト、レーベとマックスを出汁に金儲け、提督という立場を利用して艦娘にセクハラ、あまつさえ自分の失敗の責任を部下に押し付けてやりたい放題している足の臭い糖尿病の鬼畜でクズな提督だって!」

 

「ちょっと待て! たしかに間違ってはいないけど情報に偏りがありすぎるだろ! 大体その悪名って誰から聞いたんだ!」

 

「そんなの、こちらへの定期報告に決まってるじゃないですか!」

 

 安曇は目を細め、眼前のドイツ艦三人を睨んだ。然もありなんと肯定するかのように、各々気まずそうに安曇から視線を逸らす。

 

「おい、テメーら。これは一体どういうことだ?」

 

 怒りに声を震わせこめかみをひくつかせる安曇。確かに彼女たちドイツ艦の定期報告は義務付けられており、週に一度三千文字程度の報告書の提出が行われている。

 

 それは安曇も同様であり、彼女たちのメディカルチェックや艤装・艦娘としてのバイタリティなど事細かに情報が要求されている。しかしそのような公的な文章に私的な内容など、あまつさえ自身のことではなく他者を貶す内容を書いていいはずがなかった。

 

「どうもこうも、私たちはただ事実を述べただけよ」

 

 そう苦しい弁明を顔色一つ変えず論ずるマックス。

 

「どこが事実だよ! 私怨まみれじゃねーか!」

 

 明らかに悪意十割増しで脚色がなされている報告書の内容に安曇は大声で怒鳴った。対して今度はビスマルクが口を開く。

 

「何も間違ってないわよ。全部事実じゃない」

 

「お前昨日の今日でよくそんな口が叩けるな!」

 

 うぐ、と一瞬怯むビスマルクだったが、すぐムキになると声を荒げる。

 

「う、うるさい! 昨日のことは関係ないでしょ! それに誇張はしても嘘はついていないんだから何も問題はないじゃない!」

 

 今度は安曇が言葉を詰まらせる番だった。言い返したくとも、如何せん間違ってはいないというのがなんとも悩ましく、反論の言葉を探そうと視線を宙に泳がせた。そんな様子に一人レーベだけが苦笑いを漏らす。おそらく彼女だけがまともな報告書を提出していたのだろう。

 

「大体そんな報告書をよくそっちの担当は許容したな」

 

「そう? 大体いつもこんな感じよ。最初の頃は色々言われたけど、そのうち何を書いても文句なんて言わなくなったわ」

 

「今の言葉でお宅らが向こうでどう思われてるかがよーく分かったよ……」

 

 昨晩オイゲンの件について大淀経由で本国から来た、ドイツとは思えない程に適当な返事からも大凡の事情は察した。向こうの担当者の心労が慮(おもんばか)られる。

 

「というか向こうでも似たような感じだったのかよお前ら……」

 

「私はどこへ行こうと私よ!」

 

「うっせえよ」

 

 根拠もなくそう得意げに語るビスマルクに、安曇はようやく彼女だけが悪い意味で特別なのだと頭を抱えながら察した。

 

「とにかく、次からは報告書の提出前に俺が一度確認を入れる。これ以上あることないこと書かれたらたまったもんじゃない」

 

 不承不承といった様子で了解する三人を後に、オイゲンだけが納得のいかない様子で声を上げた。

 

「まだ話は終わっていません! 私の本当の目的はここからです!」

 

「本当の目的?」

 

 思い当たる理由が分からず思わずオウム返しをしてしまう安曇。

 

「この隊から。いえ、この国から早急にビスマルク姉様を連れ戻すことです!」

 

「ちょ、ちょとプリンツそれってどういうこと⁉ そんな話は聞いてないわよ!」

 

「ビスマルク姉様はまだご存じないでしょうが、姉様のご実家では今跡取り問題で父君と叔父君が大揉めに揉めています。これ以上馬鹿な家督争いで喧嘩する前に、早急にビスマルク姉様に結婚してもらい事態を鎮圧して欲しいと姉様の母君からもそう頼まれているんですよ」

 

「だから! 私はそういうのが嫌だからこっちに来たって何度言えばわかるのよ! 絶対に向こうになんて戻るもんですか!」

 

「ビスマルク姉様……」

 

 まるで本人が拒絶でもされたかのように、オイゲンは目じりを下げ悲し気にビスマルクの名を呼ぶ。ビスマルクも若干の負い目があるのか、目を合わせ辛そうに口をもごもごと動かす。

 

「分かったら、そう伝えて頂戴。もうこれ以上私に——」

 

「つまり、私と姉様が結婚するということですね!」

 

「なんでそうなるのよ⁉」

 

 目を輝かせ斜め上の発言をかますオイゲンにビスマルクは思わずソファからずり落ちそうになる。

 

「そうすれば万事解決じゃないですか!」

 

「万事問題しか残らないでしょ!」

 

「あー、この子もそういうタイプなのか……」

 

 珍しく突っ込む側に回るビスマルクに安曇は珍しいものでも見るかのように口を抑えるが、よくよく考えればこのプリンツ・オイゲンもベクトルこそ違えど、ビスマルクと同様に頭のネジが抜けた艦娘ということであり、安曇の心労が一つ増えることが確定してしまったことになる。

 

「何度も言うけど、私はこれっぽっちも結婚なんてする気はないんだから!」

 

「どうしてなんですか⁉ それは、確かに高貴で美しくて飾らなくて誰よりも強くて慈悲深いビスマルク姉様がどこぞとも知らない馬の骨の伴侶になるなんて私個人は大反対ですし、たとえ伴侶となっても心だけはいつも気高く高潔なままでいると私は信じていますけど……何をそこまで意地に。ハッ、まさか……」

 

 オイゲンは顔を蒼くすると何か良からぬことでも想像してしまったかのように怯え震えだす。

 

「ビスマルク姉様、もしや既に心を奪われる殿方が……⁉」

 

「ば、ばばばば馬鹿なこと言わないで頂戴プリンツ! 私にそんなす、すすす好きな人なんているわけないじゃない! あまつさえけ、けけ結婚なんてもってのほかよ!」

 

 顔を茹蛸のように赤くし錯乱するように長いブロンドの髪を揺らしながら慌てだすビスマルク。

 

「結婚⁉ 姉様結婚まで視野に入れているんですか⁉ 教えてください、誰ですかその男というのは! 私が直接会って轟沈させてきます!」

 

「ちっがうわよ! 物のたとえよ!」

 

「じゃあ一体誰が好きなんですか! この国に来て、どんな殿方とお会いしたのですか!」

 

「私がこの国に来てまともに会話したのはアズミだけよ!」

 

 まるでその一言が終止符を打ったかのように、あれほど騒がしかった第七の執務室が不意に静まり返った。プリンツは驚嘆に、レーベ・マックスはなるほどといった顔で、ビスマルクは沈黙に己の言葉を振り返って。そしてただ一人、状況を理解できず安曇だけが「え?」と間抜けな声を漏らした。

 

「まさか……この男ですか⁉ この何も考えていなさそうなちゃらんぽらんの中年がいいんですかお姉さま⁉」

 

 信じられないものでも見るかのような目で問い詰めるオイゲンに、ビスマルクはややあって先ほどの茹蛸ほどではないにせよ、頬を朱色に染めながら叫ぶ。

 

「ええ! ……ええ、その通りよプリンツ! 私はこの男、アズミと結婚すると約束するわ、いえ、したわ!」

 

 突拍子もないビスマルクの発言にレーベは勿論、マックスまでもが質の悪い戯言でも聞いたと言わんばかりに目を開き、安曇に至ってはカップを口に付け飲みかけていた甘ったるいコーヒーを盛大に噴き出し安いアルミの執務机に吹き付けた。

 

 気道にコーヒーが入りむせ返る安曇をよそにビスマルクが言葉を続ける。

 

「本国のパパにも伝えて。私、この男と結婚するから、そっちに戻って結婚する気なんて更々無い、だから諦めて頂戴って」

 

「おい、ちょっと待てビスマルク! そりゃ一体どういうことだ!」

 

 思わず会話に割り込む安曇だったが、不意にビスマルクがそれまで見たこともないほどに圧力のある剣幕で低く怒鳴った。

 

「少し黙ってろ」

 

「ウッス」

 

 安曇は本能的に短く、そして小さく謝罪すると全身から冷や汗を噴き出し顔を引き攣らせた。マックスの方から小さく「意気地なし」と聞こえたがそんなものは関係ない。怖いものは怖いのだ。

 

 すると今度は余程ショックだったのか、オイゲンは今にも泣きだしそうな顔で安曇を睨むと叫んだ。

 

「あ、あなた! ビスマルク姉様に何をしたんですか!」

 

「こっちが聞きてえよ!」

 

 思わずそう返してしまったが、大凡こちらの話など耳には入っていないであろうオイゲンは、ショックのあまりぼろぼろと大粒の涙をこぼし泣きじゃくるとソファを立ち叫んだ。

 

「嘘……嘘よ……ビスマルク姉様に好きな人だなんて、そんな……そんなの、フライヤの女神が許しても、私が許さないんだからああああ!」

 

 まるでそれが最期の言葉であるかのように、オイゲンは叫び終えると気が抜けたようにその場へと倒れこんだ。

 

「ちょ、プリンツ⁉」

 

 ビスマルクが慌てて倒れそうになるオイゲンを受け止めると横長のソファへ寝かせた。

 

 残った三人も慌ててオイゲンの元へと駆け寄る。ビスマルクが今にも泣きだしそうな顔で安曇に迫った。

 

「どうしよう、アズミ! プリンツが……プリンツが!」

 

「安心しろ。息もある。それに脈も正常だ」

 

 冷静に一つ一つバイタルチェックを行っていく安曇は、大きな異常がないことを確認するとようやく安堵のため息を漏らした。

 

「ショックで気絶しただけらしい。じき目を覚ますはずだ」

 

 その言葉にビスマルクは力が抜けるとそのまま床にへたりこんだ。

 

「良かった。本当に良かった」

 

「ショックで気絶する奴は初めて見たよ……」

 

 呆れた様子で床に付けていた膝を上げ立ち上がり、ソファに寝るオイゲンを見下ろす安曇。

 

「まったく、とんだ新入りが来たもんだ」

 

 

 

 ♦

 

 

 

 それはずっとずっと昔のことだった。まだお互いに顔も名前も知らず、大凡接点の見当たらない私にとって、彼女の登場はまさに太陽そのものだった。

 

 私は昔、今ほどは強くなかった。勿論今だって胸を張って強いとは言い切れないけど、昔は特に酷くって、何かあるたびすぐに泣いちゃう泣き虫だった。パパやママに慰めて貰ってその度元気にはなるんだけど、またすぐに泣いちゃうの。

 

 そのせいで私は近所のいじめっ子に目をつけられて、気が付いたらいつもいじめられるようになっていた。

 

 あの時も、私の大好きなクマの人形をいじめっ子のリーダーに取り上げられて、泣きながら懇願した。

 

「返して、返してよ! 私のクマさんなの」

 

「やーだよ! 毎日こんなクマとばっかり遊んで何が楽しいんだよ!」

 

「返して欲しかったら取り返してみろよ! ほーら!」

 

 きっとあの時私をいじめた男の子たちも、私と一緒に遊びたかったんだと思う。あの時の私はとても奥手で、誰かと一緒に遊ぶことが怖かった。

 

 だからいじめっ子たちも本当は気を使って私に声をかけてくれたんだるけど、結局私がつまらない反応をしちゃうから余計に逆上しちゃったんだと思う。

 

 今に思えば、相手の好意に対して素気のない失礼な態度をとった私にも落ち度はあったと思う。でも当時の私じゃそんなことに気づくだけの頭も余裕もなかったしなにより大人じゃなかった。だからただ返して、と拒絶をすることしかできなかった。

 

 でもそんな反応にいじめっこたちは余計腹を立てた。私が大人でなかったのと同じように、あのいじめっ子たちも大人じゃなかった。自分の中に膨らむもやもやとした感情の処理の仕方が分からず、つい目の前の私を捌け口にしちゃったんだ。だってそのモヤモヤの原因が他でもない私自身なんだもの。

 

 原因を叩けば状況が変化する。きっといじめっこたちもそう考えたんだと思う。

 

 でも当然そんなことをしたって何も変わらない。変わりはしない。それどころか余計心のモヤモヤは溜まっていく。

 

 そしてそんなモヤモヤが膨れ上がって心の器じゃ耐えきれなくなると、最後は音を立てて破裂しちゃうの。

 

 その破裂こそがいじめっ子たちにとっても私にとっても、全ての終わりの合図だった。

 

 いじめっ子たちは顔を赤くして私の大切なお友達を掴み取ると、それを雨上がりでぬかるんだ地面へ乱暴に押し付けた。

 

 その瞬間、私の頭は真っ白になった。遠くでいじめっ子たちの笑い声が聞こえるんだけど、そんな声すら最早どうでも良くなって、どうして私なの? なんで私が虐められなくちゃいけないの? って感情で心が塗りつぶされる。

 

 泣きながら嗚咽を漏らしているといじめっ子たちは私に近づいてきた。次はお前の番だって。にやにやと笑いながら。残酷な笑みを蓄えて。その時私の心は完全に閉ざされた。そして小さく呟いたの。

 

 どうして私だけ? って。

 

 でもそんな質問に誰も答えてくれるはずがなかった。だから私は絶望したし諦めた。この世界に。そして何より私自身に。

 

 その時だった。

 

「こらあああああああ! なにしてんのあなたたちいいい!」

 

 遠くから女の子の声が聞こえたの。何事かと思って顔を上げた瞬間、目の前に立っていたいじめっ子のリーダーが突然視界の端から現れた女の子にドロップキックをかまされて視界の端まで吹っ飛んでいったの。

 

 そこにいた全員が呆然としたわ。一体何が起こったのか理解できず、ただふっ飛ばされて気絶したリーダー格とドロップキックをかました女の子を交互に見やって。

 

 でもそのあとすぐに女の子が言ったの。

 

「男が寄ってたかって女の子虐めて恥ずかしくないの? あなたたたちの相手はこの私よ! かかってきなさい雑魚共!」

 

 女の子は私と同じくらい、いや少し年上だったかな。でもとにかく強かった。勿論いじめっ子たちとの喧嘩もそうだけど、何よりも強かったのがその魂。

 

 女の子なのにたった一人で複数の男の子に喧嘩を挑んで、傷ついても、顔を殴られたりお腹を蹴られたりしても、泣き言一つ吐かずに、むしろそれ以上に強烈なパンチやキックをいじめっ子たちに叩き込んで、最後はいじめ子たちを追い払った。

 

「大丈夫? 立てる?」

 

 女の子は私に手を差し伸べて屈託のない満面の笑みを見せた。私もおずおずと手を伸ばして立つんだけど、すぐに泥にまみれたクマの人形が視界に入って泣き出しちゃって。

 

 女の子がどうしたのって聞くから私はクマが、としか答えられず、ずっと泣きじゃくった。そしたら女の子がちょっと付いてきなさいって嫌がる私の手を強引に引っ張ってどこかへ連れて行ったの。

 

 そこは小さな小川だった。私たちの住む町は都市の郊外にあって、とても空気の綺麗な場所だったから、綺麗な水の流れる川は何本もあった。あと聞いた話なんだけど、あの辺りは貴族や富裕層の別荘がある場所だったらしく、私と同様にその女の子も恵まれた地位に生まれた子供だったそう。

 

 女の子は私を小川の前まで連れて行った。大人のひざ下程度の浅くて幅も狭い川なんだけど、当時の私はそこに突き落とされるんじゃないかって、内心怖かった。

 

 そしたら女の子は乱暴にクマの人形を小川に浸けると、力いっぱい強引に、でも丁寧に付いた泥を落としてくれた。

 

 女の子はあらかた泥を落とすと今度はクマの人形が吸った水分を搾り取ってそれを私に返してくれた。

 

「はいこれ」

 

「……ぐちゃぐちゃ」

 

「仕方ないでしょ! 乾けば元にもどるわよ……たぶん」

 

 それを聞いて私は再び泣き出した。

 

「あーもう! うるさいわね! 汚れちゃったものはしかたないんだからこれで我慢しなさいよ!」

 

 それでもなお泣き止まない私を見かねたのか、女の子は私に訊ねた。

 

「あなた、名前は?」

 

「……——です」

 

「そう。じゃあ——。あなた、今日から私の妹になりなさい」

 

「いも、うと?」

 

 意味が分からず聞き返すと女の子は歯を見せて笑った。

 

「そ、妹。つまりは私の子分ね」

 

「それはちがうとおもう」

 

「う、うるさいわね! とにかく、今日からあなたは私の妹なの! だから私の言うことは聞くし、私の言葉は絶対。その代り、何か困ったことがあった時は私を頼りなさい。絶対にあなたを助けてあげる」

 

「どうしてそんなことしてくれるの?」

 

「当たり前でしょ? 妹を守るのは、お姉ちゃんの役目だからよ!」

 

 当然に、傲慢に、女の子はそう言い放った。

 

「でもわたし、泣き虫だよ?」

 

「でも私は泣かないわ。お姉ちゃんだもの!」

 

「それに弱虫だし」

 

「当然よ。お姉ちゃんは弱音を吐かないわ!」

 

「みんなわたしのこと、つきあいがわるいって。くらいやつだっていうし」

 

「その分私は明るいしうるさいわ!」

 

「わたしといっしょにいてもたのしい?」

 

「とうぜんよ! だってあなたはわたしのいもうとなんだもの!」

 

 その時、不思議と私の中にあったモヤモヤが一気に晴れた気がした。この人にならこれから先ずっとついて行ってもいいのかもしれない。この人になら自分の全てを捧げていいかもしれない。

 

 そんな感情が心のうちからふつふつと沸き上がった時、私は自然と彼女をこう呼んだ。

 

 

 

 ♦

 

 

 

「姉様!」

 

 プリンツ・オイゲンはぐっしょりと寝汗をかきながらベッドから飛び起きた。周囲を見渡す。電機はついていない為部屋は薄暗いが、外から差し込む街灯の光が薄ぼんやりと十畳ほどの広さの部屋を照らしていた。

 

 部屋は非常に簡素かつ整理整頓が為されており、必要最低限の日用雑貨や小物を除いては全てがきっちりと戸棚や本棚に収納されていた。そしてほんの僅かにではあるがどこか懐かしい香りが部屋一杯に広がっている。

 

「ここは……」

 

 最初こそ随分昔の夢を見て思わず飛び起きたが、寝汗を感じようやく自分がうなされていたことに気づくと、次にここがどこであるか気になりだし周囲を見渡した。

 

 その時、突然室内が明るくなり、暖色系の照明が暗所に慣れたプリンツの目を細くさせる。

 

「気が付いたようね、プリンツ」

 

 声の主はビスマルクだった。

 

「ビスマルク姉様! ご無事でしたか!」

 

「それはこっちのセリフよ」

 

 呆れるようにそう返すビスマルクにオイゲンは返す言葉もございませんと恥ずかしそうに笑った。

 

「身体の調子はどう?」

 

「これといった問題はありません。その……色々とご迷惑をおかけしたみたいで申し訳ありません。私、ビスマルク姉様の気持ちも考えず一人で暴走して、挙句こんな失敗をして。妹失格です」

 

 表情を昏くして謝るオイゲンにビスマルはベットに腰かけ、帽子を被っていないオイゲンの頭髪を優しく撫でると小さく笑った。

 

「あなたが気にするようなことじゃないわ。レーベやマックスは勿論、アズミもあなたのことは別に怒っちゃいないわよ」

 

「本当ですか?」

 

「ええ。あの男も自分がクズであるところは自覚しているから、その分相手に対しても多少は寛容なのよ」

 

 褒めているのか貶しているのかよくわからないビスマルクの返事が少しおかしかったのか、オイゲンは噴き出し小さく笑った。

 

「何か変なこと言ったかしら?」

 

「いえ、ただビスマルク姉様はあの殿方を信用されているんだなと」

 

「まあ、信用とまではいかないにしても、それなりに頼りにはしているわよ。なんだかんだで私の話は聞いてくれているし」

 

「その……ビスマルク姉様にとって提督はやっぱり……」

 

 その時、オイゲンのお腹が小さくくう、と鳴った。

 

「あの、いや、これは、その……」

 

 顔を赤くし、思わず弁解しようとするオイゲンにビスマルクは小さく笑った。

 

「まったく、困った妹ね。丁度二十時を回ったところだし、ご飯にしましょうか。ここの食堂、結構美味しいのよ?」

 

 部屋を出た後、建物の一階に降りるとそこにはバスケットコート大の食堂が広がっていた。

 

「こ、ここは一体……」

 

 呻くオイゲンにビスマルクが注釈する。

 

「ここは艦娘専用の隊舎よ。中には外に自分で部屋を借りる子もいるそうだけど、基本的に私たち第七は全員ここの隊舎で生活しているわ」

 

 その時、食堂の奥から二人を呼ぶ声がした。レーベとマックスである。

 

「あ、プリンツ、起きたんだ」

 

 オイゲンとビスマルクは二人の元へ近づいた。

 

「うん、おかげさまで無事に回復したよ」

 

「そう。それは良かったわ。来て早々、倒れたんじゃこっちが困るわ」

 

 淡々とそう告げるマックスにオイゲンは慣れた様子で微笑んだ。

 

「マックスも相変わらずね。調子はいいの?」

 

「まあ、それなりにはね」

 

 そう言いながらマックスは皿に盛られたキャベツにフォークを刺すとそれを口に運ぶ。するとそれを見たオイゲンが目を輝かせた。

 

「マックス! それってもしかしてザワークラウト⁉」

 

「ええそうよ」

 

「こっちにもそれがあったなんて!」

 

「頼んだら作って貰ったわ。ここの食堂には趣味で料理を作る艦娘がいるから」

 

「へぇ、ヤーパンの艦娘は変わっているのね」

 

「それだけ多様性に富んでいるということよ」

 

「マックスが褒めるくらいなんだからきっと余程美味しいんだろうなあ」

 

「別に私は褒めたりなんかしてないわよ」

 

「ほらほら~そんなこと言って~、相変わらずマックスは恥ずかしがり屋さんなんだから」

 

 オイゲンにほっぺをぷにぷにと突かれ若干迷惑そうにするが、分かり易い拒絶反応は示さないマックスに、隣に座っていたレーベも微笑んだ。

 

「せっかくだしプリンツとビスマルクも僕たちと一緒にご飯たべようよ。夕飯、まだなんでしょ?」

 

「それもそうね。今日はプリンツの来日祝いも兼ねて、パーっとやりましょう!」

 

 そう言ってビスマルクは食堂の調理場に向かうと声を上げた。

 

「ホウショーウ!」

 

 すると調理場の奥から、小柄でどこか気品と大人気のある、髪を後ろで結い上げた袴姿の女性が小さな歩幅で急ぎ足にやってきた。

 

「はーい、分かりましたって、ああ、ビスマルクさんじゃないですか」

 

「昨日ぶりね、ホウショウ。トリアエズナマ二つよ」

 

 すると鳳翔と呼ばれた少女はビスマルクの顔を見るなり眉を潜める。

 

「ビスマルクさん、最近ちょっと飲みすぎじゃないですか? 昨日も一昨日もここで明け方まで飲んでいたじゃないですか」

 

「昨日は昨日、今日は今日よ」

 

「ダメです。いくら本場の国だからって飲み過ぎは体に毒なんですから、今日くらいは控えてくださいっ」

 

「いいじゃないそれくらい。それに今日はプリンツの来日祝いよ。盛大にしなきゃ」

 

「プリンツ?」

 

 鳳翔が聞き返すと、ビスマルクの隣にオイゲンがやってきた。

 

「あら、安曇提督のところの新人さん?」

 

「プンツ・オイゲンです。よろしくお願いします!」

 

 元気よく頭を下げるオイゲンに鳳翔は優しく微笑んだ。

 

「もう、仕方ありませんね。今日だけは特別ですよ?」

 

 そう言って鳳翔は一度厨房の奥に戻ると、冷えたビールジョッキとザワークラウトなどを盛りつけたつまみを持ってやってきた。

 

「さあ、今日は宴よ!」

 

 

 

 ♦

 

 

 

 二時間後、食堂の一角にオイゲンの咽び泣く声が響いていた。

 

「でずがらああ、わだじはびずまるぐねえざまのごとをおもっでぇぇぇ……」

 

 大ジョッキを六杯、日本酒を五合にハイボール三杯をキメたオイゲンは、顔を真っ赤に回らない呂律で泣きながら訳の分からない言葉の羅列を叫んだ。

 

 完全に悪酔いしていた。解れた緊張、ビスマルクの勧めも相まって酒がいつも以上に進んでいるオイゲンは尚も酒をあおり続けている。

 

 そんなオイゲンに流石にそろそろ止めるべきではないのかとレーベが必死に声をかけるが、それでも酒は止まらない。元凶は言うまでもなく彼女である。

 

「ええ、分かるわ……あなたの気持ち、よぉーーく分かる。だから今日はもう忘れましょう。嫌なことは全部忘れて気持ち良くなりましょう!」

 

 ビスマルクはビールジョッキ片手に新たなジョッキをオイゲンに渡した。

 

「今日は無礼講よ!」

 

「ビズマルグねえざまああああ!」

 

 オイゲンは涙と鼻水で顔をぐしょぐしょに濡らしながらビスマルクに飛びつき、ジョッキを受け取ると乾杯して一気に飲み干した。

 

「いい飲みっぷりよプリンツ! その調子で次もいくわよ!」

 

「ばいいいい!」

 

 空ジョッキを掲げるオイゲンを見かね、レーベがもう何度目かの声を掛けた。

 

「プリンツ、飲みすぎだよ! 今日はもうこのくらいにしておきなって!」

 

「なにいっでるんでずがああ! まだぜんぜん! ぜんぜんでずう!」

 

「ああ、ダメだ。まるで聞いちゃいない……もう、ビスマルクもいい加減にしてよ!」

 

「なに言ってるのよ! まだまだ夜はこれからよ!」

 

 ビスマルクも呂律こそちゃんとしているが明らかに目が据わっている。オイゲンほどではないにせよ顔もほんのりと赤く、とても人の話をまともに聞ける状態とは思えなかった。

 

「ああ、こっちもだめだ……ねえマックス、この二人をどうにかしてよ……」

 

 ビスマルク・オイゲンが席の向かいであるのに対し、隣に座っていたマックスに声を掛けようと横を向くと、そこには既に彼女の姿は無く、椅子の上に置き紙が残されていた。

 

 《疲れたので帰ります》

 

「マックスゥーー‼」

 

 レーベは悲痛な声を上げ頭を抱えた。友に逃げられ、収拾のつけようがない惨事の渦中に巻き込まれたレーベにはもはやこれ以上の解決策が見いだせない。

 

 どうすればいいのか。その時だった。突然ビスマルクの頭上に海事六法と記された分厚い本、もとい紙の鈍器が振り下ろされ、食堂内に重い音が響いた。

 

 気持ちよく酒を飲んでいたところに振り下ろされた重い打撃は、ビスマルクの酔いを一気に冷まさせ、同時に彼女を極めて不機嫌にさせた。

 

「痛ったーー……ちょっと誰よ! いきなりどういうつもり?」

 

 涙目のビスマルクはジョッキ片手に後ろを振り向くとそこには彼女以上に不機嫌そうな面で立っている安曇の姿があった。

 

「どうもこうもあるかボケナス! マックスからオメーが食堂で暴れていると報告があって慌てて飛んで来たらなんだこの惨状は!」

 

「私はただプリンツの歓迎祝いをしていただけよ。何も悪いことなんてしてないじゃない!」

 

「そうですよぉ、ビスマルク姉様はなにも悪くないんれすからぁ!」

 

 瓶ビールを片手に顔を真っ赤にしたオイゲンは突然後ろから安曇の背に飛びついた。

 

「オイゲン、お前も少しは節制して……ってうわ、コイツ酒臭え!」

 

 背から手を回し抱き着くオイゲンを安曇は強引に引きはがそうとするが、それでもなおオイゲンはがっちりと安曇をホールドし逃がそうとしない。

 

「誰かと思えば提督じゃないれすかぁ。ここは隊舎なんですから男性が勝手に入ってきちゃ駄目れすよお?」

 

「俺だって職務中に好きでこんな場所に来たわけじゃ……っていい加減離せオイ!」

 

 安曇は再び振り払おうと体を揺らすが、それでもオイゲンは一向に離れようとせず、据わった目を細め安曇を睨みながら唇を尖らせる。

 

「だいたいですねぇ、私はまだぜんっぜん納得していないですよぉ? どうしてビスマルク姉様があなたのようなさえない中年と結婚するなんて言い出したのか。本来なら姉様が誰かに惚れるなどまずあり得ないことです。まさかと思いますが、姉様の弱みを握って裏で脅しているんじゃないでしょうねえ?」

 

「邪推の極みだな。大体俺が結婚するならもっとおっとりしてて優しくて豊満で甘々で胸で俺の顔を優しく包み込んでくれる慈母のような人じゃなきゃ嫌だ」

 

「欲望に忠実過ぎていっそもう清々しいわね……」

 

「なんれすかぁそれは! そんな都合のいい女性が現実にいるわけないでしょう! 夢の見過ぎです!」

 

「うっせえ! 夢くらい自由に見させろ!」

 

「にゃにお~~! そんなふざけた提督にはこうです!」

 

 そう言ってオイゲンは片手に持った瓶ビールの注ぎ口に口をつけ一気に残りをあおると、安曇の顔を両手で抑え強引に口づけをした。

 

 安曇は勿論、ビスマルクやレーベ、その場にいた他の艦娘まで皆が目を白黒させるが、そんなことなどお構いなくオイゲンは口に含んだビールを安曇に口移しした。

 

 安曇はすぐにオイゲンを引きはがし慌てて口内のビールを吐き出した。

 

「い、いきなりなにすんだお前!」

 

 口の中に残る苦い味と、オイゲンの柔らかい唇の感触、僅かにであったが口内に滑り込んできたオイゲンの柔らかで熱い舌の感触が残り安曇は顔を真っ赤にする。

 

「ふふふ、ビスマルク姉様があなたの手に渡るというのなら、その前に私があなたを貰ってしまえばいいだけのことです。これでビスマルク姉様の純潔は守られますう」

 

「お、おおおおおお前自分が何やらかしたのか分かってんのか⁉」

 

「当たり前じゃないれすかあ。へえ、提督さんもそんな顔するんだぁ。可愛い。じゃあもう一度」

 

 そう言って再び顔を寄せてくるオイゲンに流石の安曇も今度は彼女の襟首を掴んで止める。

 

「いやー! 止めて! これ以上汚されるとお婿にいけなくなっちゃう!」

 

「もう遅いですよぉ、いい加減観念してその純潔をさっさと私に——」

 

 すると突然オイゲンの動きが止まり顔を俯かせた。様子がおかしいと思った安曇が恐る恐る声を掛けてみると、そこには先ほどまでの酒に酔った真っ赤な顔は無く、代わりにこの世の果てでも覗きこみ、六道地獄を廻ったような死人の如き蒼い顔があった。

 

「おい、お前……まさか」

 

 嫌な予感が脳裏を過り、警戒態勢に入った安曇はゆっくりとオイゲンから後ずさる。

 

 呼吸を浅く、目尻に涙を蓄えたオイゲンは嗚咽のような声で小さく呻いた。

 

「ぎぼぢわるい」

 

「落ち着くんだオイゲン。今ここでするのはマズい! 具体的にはお前の貞操と主に俺の制服が取り返しのつかないことになるから!」

 

 エマージェンシー! スクランブル! 即刻現場からの離脱を!

 

 安曇の脳内を様々な警報が鳴り響き危機的情報を知らせるが、逃げようにもオイゲンが安曇の両の二の腕をがっちり掴み逃れることを許さないでいた。

 

「待て、待つんだ! それだけはマジでマズいから!」

 

 涙目で首を横に振る安曇に、オイゲンは蒼い顔で小さく微笑むと。

 

「提督さん……一緒に、逝こ?」

 

 

 

 プリンツ・オイゲン着任初日の夜。隊舎食堂内には少女のものとは思えない濁流の如き嗚咽音と、中年のものとは思えない少女のような悲鳴が響き渡った。

 

 

 

 ♦

 

 

 

 翌朝、プリンツ・オイゲンが目を覚ますとそこは昨晩の見知った部屋ではなかった。むき出しの蛍光灯に無機質な防音壁、安っぽい革張りソファーの感触、ビスマルクの部屋とは違い、ヤニ臭さと埃っぽさが同居するこの薄汚い空間をオイゲンは知っていた。

 

「ここ……」

 

 ゆっくりとソファから起き上がると、身体にかけられていた毛布が床に滑り落ちる。周囲を見渡すとそこは昨日案内された、記憶にも新しい第七の執務室だった。

 

 自分が何故こんな場所に居るのか。沈殿した記憶をサルベージしようとするが、どうしても昨晩のことが思い出せない。記憶をすくおうとしても両の指から泥のように滑り落ち上手く思い出せなかった。加えると妙に頭痛がする。

 

 昨晩どこかで頭でも打ったのだろうか。そんなことを考えていた丁度その時、執務室のアルミ戸を開ける音がすると安曇が入ってきた。安曇はこともなげにオイゲンの座るソファの前を通り過ぎると、資料室からかき集めてきた海図や艦娘の艦隊運営に関する論文を若干凹んだアルミ机の上へ無造作に広げた。

 

「おう、目が覚めたんだな」

 

 安曇はソファに座るオイゲンに一瞥すらせず席に座ると、何やら調べ物を探し始めた。壁に掛けられた時計は朝の五時前を指し示しており、窓の外に広がる空も薄明かりが広がっている。

 

 どうやら安曇は寝ずの作業を一晩続けていたらしい。眠気眼を擦りながら時々欠伸を漏らし、冷めたコーヒーカップに口をつける。

 

「なにしているんですか、提督」

 

 己の状況を問うよりも前に、思わずそんな言葉が飛び出てしまった。それからしばらくの沈黙が続くと安曇はゆっくりと口を開く。

 

「高速戦艦・重巡洋艦・駆逐艦二隻を運用する際に最適な陣形と、選択するべき戦闘海域の検証だ」

 

 オイゲンは昨日この執務室で聞かされた話を思い出した。まもなくこの第七係は佐世保にある第五係と演習を組むことになっている。そしてその演習はこの艦隊にとっても、ビスマルクにとっても今後を左右する重要なものだと聞かされていた。

 

「本来は戦艦と駆逐艦だけのはずだったんだが、お前が来日したことで若干事情が変わった。だから作戦も一から練り直している」

 

 予想だにしなかった安曇の言葉にオイゲンは視線を落とす。

 

「その、すみません……私のせいでそんなことになって」

 

「何言ってんだよ。戦力はあるに越したことはないんだからお前が謝る理由なんてどこにもないだろう」

 

 もちろんその通りだが、それでもなぜかオイゲンの口から飛び出す言葉は謝罪だった。

 

「提督は……どうして第七の指揮官になろうと思ったんですか?」

 

「まあ、色々あるよ。最初はなし崩し的にだし、あまり褒められた理由ではないけどな」

 

 その辺りの話はオイゲンも、ビスマルクから送られてきた手紙で具体的に聞かされていた。安曇が元自衛官で、現在は外務省からの出向としてビスマルクのお守りを押し付けられていること。その経緯故にビスマルクとは反りも合わず、第三管区でも問題ばかり起こしてしまっていること。

 

 少なくとも文面だけではビスマルクは現状に強い不満を持っていたことは確かだった。だからこそ、オイゲンは急いで来日し、ビスマルクを本国へ連れ戻そうとした。ここにいては、最愛の姉の為にならないからと。

 

 しかしいざ来てみればどうだろう。彼女はとても楽しそうにしていた。それこそ本国ではほとんど見たこともないような笑顔や怒り顔を見せており、そこにはオイゲンですら知らない——否、忘れていた昔初めてであった時の彼女の姿があった。

 

 ここで何があり、何が影響を与えたのかは知らないが、それでもビスマルクは精一杯今を楽しんでいた。

 

 だからこそ分からない。勿論ビスマルクのことや彼女が安曇に少なからず好意寄せていることもそうであるが、それ以上に分からないのが、この安曇という男である。

 

「提督はどうしてそこまでしてビスマルク姉様に尽くそうとするんですか?」

 

 すると安曇は呆けた顔で「はあ?」と返した。

 

「俺があいつに尽くしている? 冗談は休み休みにしてくれ。そんなことをしたらまたあいつが付け上がるだけだよ。というか、なんで俺があのクソ戦艦に尽くさにゃならんのだ。俺の方が偉いのに」

 

「そういう意味じゃなくて……その、言いづらいことですが、姉様はこの国で酷く冷遇されていたと聞きます。確かに姉様は強くて綺麗で真っすぐな人ですから、私たちの国でも姉様を疎む人は少なからずいましたけど……」

 

「だろうな。だってあの性格だし。あいつ絶対友達とかいないタイプだろ」

 

「今その話は関係ないでしょう! そうじゃなくって、この国でも姉様は一人だった。なのにどうして提督だけはそこまで姉様に付き合おうとするんですか? 好きでもない人に対して、嫌々仕事をする人がここまでしようとする理由が私には分かりません」

 

「……逆に聞くけど、どうしてお前はそこまでアイツに固執するんだ?」

 

「固執……?」

 

 オイゲンは驚いた。何故安曇の口から好きではなく、固執——執着しているなどという言葉が飛び出してきたのか。

 

「私はただ、敬愛するビスマルク姉様のことを想って——」

 

「嘘だな」

 

 ばっさりと、安曇はオイゲンのアイディンティティとも捉えるべき言葉を否定した。

 

「お宅、別にそこまでアイツのこと好きじゃないだろう」

 

「……は? な、何を言ってるんですか! 私が姉様のことを好きじゃないだなんて、そんなことあるはずないでしょう⁉」

 

 思わず怒気混じりにオイゲンは叫んでしまうが、それでも安曇の顔は平静となんら変わらないものだった。

 

「じゃあなんで嫌がるあいつを無理やり本国に連れ戻そうなんて言い出した。本当にあいつのことを想うのなら、あいつのしたいようにさせてやるのが最善じゃないか」

 

「そ、それは! そうしないと姉様の為にならないと——」

 

「お前さ、さっきから姉様姉様、姉様の為とか言ってるけど、それって誰に対しての言葉なんだ?」

 

「そんなの、ビスマルク姉様に決まっているじゃないですか」

 

「そういうの、日本じゃなんて言うか知ってるか? 自己欺瞞って言うんだ。何某が好きだから、何某の為だから。相手を気遣っているように言い聞かせ無償の愛を公然する反面、その実自分が主導権を握るため、誰かの為にと免罪符を張って自分の思うがままに相手を操るための魔法の言葉。

 

 そして君が本当に好きなのもの、それはビスマルク本人でも、ビスマルクという名のカリスマの偶像でもない。その偶像を崇め奉る自分自身だ。君の昨日の言動の根幹にあるもの。それは自己愛と、それを自覚しない歪んだ自意識。

 

 そこまでする目的は俺の知るところじゃないが、まあ大凡考え付くのは君ら二人の出自ってところだろう。確か二人とも向こうじゃそれなりに名のある名家出身だろ。それに古くから交友関係のある一族だとも聞いているし、安直ではあるが考え付くことは家督問題。ビスマルクが結婚を拒否した場合、次にお鉢が回ってくるのはおそらく——」

 

「もうやめて! あなたに私の何がわかるっていうの⁉」

 

 これ以上は聞くに堪えられないと言わんばかりにオイゲンが叫ぶと、安曇は短く答えた。

 

「分かるわけないでしょ」

 

 あっけらかんにそう答える安曇に対し、オイゲンは言葉を失い声を震わせた。

 

「ふ、ふざけているんですか? さっきから適当なことばかり言って、私を怒らせてそんなに楽しいっていうんですか⁉」

 

「俺はお前じゃない。サイコメトラーでもない限り誰かの心を理解するなんてことは不可能だ。そんなものは人間でなく神の領分だろう。それにこれは誰に言われるまでもなく、お前自身が一番理解していることだと俺は思うけどね。まあ、もし本気であいつのことが好きだっていうんなら、『好きでもない人に対して、嫌々仕事をする人がここまでしようとする理由が私には分かりません』なんて言葉はそう出てくるとは思わないけど」

 

「そ、それは……」

 

 オイゲンは思わず口をつぐんでしまった。言われて初めて気づいたこと。そして心のどこかでは理解していながらも、直視することを恐れ、長年目を背けてきたという事実。

 

 それを知ってしまった以上、もう逃れることはできない。オイゲンは何も言わず、逃げるように執務室を飛び出した。

 

 執務室から飛び出すまで、その背中をじっと眺めていた安曇は小さくため息を漏らした。

 

「流石に言い過ぎたかな」

 

 そんな彼の呟きも、朝の静謐な空間に溶け込むと、窓から差し込む朝日と共にゆっくり消えていった。

 

 

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