あさき様の空澄みの鵯という曲が元ネタとなります。
雪の降りしきる湖。
その美しくも厳しい世界に歩く影が二つ。
雪を踏み分け進む人影と、それに付き従うように一定の距離を開け別の影が付いていく。
一つは男性、もう一つは女性。
それは奇妙な光景だった。
人影は確かに二つ。
しかし、雪原に残る足跡は一人分のものだけだった。
前を行く男は雪を踏み分け歩く。
いや、目的を感じさせないその動きは「さまよう」といった趣であり、その瞳は何をうつすでもなく、ただ虚空を見つめている。
風貌はこの場所に似つかわしくないスーツ姿。
しかし、ネクタイは無く、シャツの襟には若干の汚れが伺える。
年は30手前から半ばに見えるが、その疲れたような生気の薄い顔は60を過ぎていると言われても納得してしまいそうな雰囲気があった。
男は女を気にかける様子も無くただ歩く。
女はそんな男の後をただ静々と付いていく。
年の頃は20代後半だろうか、男に声をかける様子も無く白いつば広の帽子と、同じく白いワンピースの裾を風雪になびかせただ静々と。
その視線は前を行く男と自らの腕の中で眠る嬰児へと向けられている。
女は確かに男について行く。
しかし、その足元にあるべき跡は残らず、寒風吹き荒ぶ最中にも関わらず袖の無いワンピース一枚に幼子を抱えている。
にも関わらず、それを気にする素振りも無い。
何もかもが奇妙な光景だった。
二人の格好はおおよそこの場所に相応しいものではない。
しかしどちらもそれを気にかける様子は無い。
男は「どこか」へ向かい、さまよう。
目的があってさまよう、言葉の意味としては厳密には成り立っていないが、男の足取りはそんな矛盾した表現が当てはまっていた。
ふと、男は力尽き雪に倒れこむ。
どれほど彷徨しただろう。
それを知るには夜は長く、またそれを記した足跡は既に降りしきる雪により消えていた。
女はただ、そんな男の側でたたずみ、倒れている男を悲しげに眺めるだけだった。
男は仰向けになると何事か呟き、そのまま目を閉じる。
そしてそのまま眠りに落ちた。
女がなにをするでもなくただ男の側へしゃがみこみ、相変わらず悲しそうな目で男の顔を眺めると、眠っていた男の目から一筋の涙がこぼれる。
女は手を伸ばし、その涙を指で拭った。
その十数分後、偶然近くを通りかかったドライバーにより男は発見され、近くの病院へ運ばれる。
男はまた目的地に到達出来なかった。
男が行きたかった場所
今は亡き妻と子が待つ場所
それが男の彷徨の「目的地」だった。
男は眠るのが嫌いだった。
妻子を亡くした日から眠ると同じ夢ばかり見るから。
いつも同じ夢を同じ順番で見ていた。
最初は子供が生まれる前の夢。
妻と公園で名も知らない番の鳥をを眺めて微笑む妻の顔。
次は子供が生まれたときの夢。
ベットで眠る我が子の寝顔と小さい手を握ると、懸命に握り返してくるまだ新しい命のか弱く、しかし確かな感触。
そしてその夢が唐突に終わると最後の夢。
病院の霊安室で、白い布をかけられ冷たくなった妻と子を前にした喪失感と絶望感。
いつも男の夢はそこで終わる。
また行けなかった・・・
目を覚ました男の胸に去来したもの。
それは命が助かった安堵でも、助けた誰かへの感謝、あるいは憤りでもなく
ただただ失望感ばかりだった。
男は起き上がり、点滴を外すと側に畳まれていたスーツに着替える。
傍らに佇むワンピースの女に気づくことも無く。
そしてそのまま病院を後にする。
幾日眠っていただろう、病院を出ると夕暮れ時だった。
男は再び街をさまよい始める。
夕暮れの街には多くの人々が行き交う。
そして一組の母子とすれ違った時男は足を止めた。
何を話しているかは分からなかった。
ただ、その笑顔で話しながら手を取り歩く母子が通り過ぎていった時
男の感情は爆発した。
道行く人とぶつかっても気にも留めず、男はただがむしゃらに走った。
眠りから覚めた直後の体がそんな急激な運動に耐えられる訳も無く、足はもつれ、受身も取れないままコンクリートにしたたか体を打ち付けても
男は走った。走らずにはいられなかった。
やがて日は暮れ、周囲から人の気配が完全に消えた頃、体は限界をむかえ、男はつんのめる様に地面に倒れこむ。
男の意思とは裏腹に脚は全く動かず、好き勝手に痙攣し始めた。
それでも男は進むことをやめなかった。
腕だけで這いずりながら進む。
もう一度妻と子に会うために
その時、男は視界に何かがうつった気がした。
ここまで何があっても気に留めることの無かった男の注意が初めて他の何かを捕らえた。
這いずりながら顔を上げた時、男の視界は大きく歪んだ。
10m程先に白いワンピースを着た女が立っていた。大きなつば広の帽子をかぶり、その腕には赤ん坊を抱いている。
間違えるはずがない。最期に見た妻と同じ姿だった。
男は必死に腕を動かし女へと進む。ずっと願った目的地が目の前まで来ていた。
ごめんね、これからはずっと一緒にいるから
また三人で暮らそう。
そう言いながら男は目の前で立ち上がり腕を伸ばす。
しかし、女は男の腕をかわし、ただ悲しそうな目で男を見つめ、静かに首を横に振った。
何故目の前の彼女がそんなことをするのか男には理解できなかった。
いや、本当は理解していたのかもしれない。
ただそれを認めてしまえば、あの幸せだった日々が過去になり、色あせ、風化して、いずれ消えてしまうのではないか。
男はただそれだけが怖かった。
そして、女は男を見て悲しげに微笑み一歩後ずさると、姿を消した。
慌てて掴もうと腕を伸ばしたところで気付く。
男が立っていたのは岬の先端だった。
男の眼下にあるはずの海は底の見えない闇に覆われていて視認することが出来ない。
妻子を亡くして以来、彼女たちにもう一度会うため彷徨を重ねていた男にとって自分の命は最早重要なものでは無い。
しかし、今目の前で起きた出来事により男は少しだけ平静を取り戻していた。
そしてこの高さと底知れぬ闇、更には落ちたら助からないであろうという事実は冷静さを取り戻した男の頭に生物としての根源的な恐怖を思い出させるには十分なものであった。
男は目を閉じ、深呼吸をする。
瞼に浮かぶのは優しかった妻の顔とわが子の寝顔。
そして、自分の願いを再確認する。
もう一度愛する人と共に・・・
男にはもうそれしか残っていなかった。
男は決意し、道無き空へと足を踏み出した。
投身自殺する人間は落下中に走馬灯を見るという。
だが、男が見たものは走馬灯とは少し違っていた。
突然雪が降り出し、男の周りを白く染める。
しかし、普通の雪とは明らかに違っていた。
その雪は冷たくなく、更に男の下から舞い上がっていた。
よく見れば一つ一つが小さな羽だった。
やがて小さな羽は男を包み込み、そして男に見たことの無い光景をうつす。
そこは違う世界。
木漏れ日の差し込むベンチに座り、わが子をあやす妻の姿。
赤子も母の腕に包まれ安心しきった表情でやがて眠る。
それを見て妻は優しく微笑んでいる。
それはありえたはずの未来、もう二度と進むことは無い時計のその先だった。
男は嗚咽を堪えられなかった。
子供のように泣きじゃくるが声は出ない。
すると、男にに気付いた女が微笑みながら手を振ってくる。
その時
男は全てを悟った。しかし、それでも女に問い語りかける。
問わずのはいられなかった。
ごめんね、一緒に居られなくて
女はゆっくりと首を横に振る。
君は幸せだった?
女は微笑み頷く。
君は今でも幸せなんだね?
女は再び頷く。
僕にもそっちに来てほしい?
女は少し悩んで、困ったように笑いながら首を横に振った。
男には分かっていた。優しい人だった。そんな彼女がどんな形でも自分の死を望む訳が無いことを。
それでも、困らせると分かっていても言わずにはいられなかった。
でも君の側に居たいんだよ
女はやはり困ったように笑いながら、考え込む。
そして何事かを言うと、にっこりと微笑む。
声は聞こえなかった。
しかし、男には何を言ったか分かっていた。
「あなたがしあわせでありますように」
男は理解する。自分の、では無く
二人の幸せの意味とあり方を。
不意に彼女が立ち上がり、立ち上がり笑顔で、少しだけ寂しそうに手を振る。
同時に周りを包んでいた白い羽は空に昇っていき、男は海へと叩きつけられる。
意識が切れる寸前、天に昇っていくそれから、いつか聞いた我が子の笑い声が聞こえた気がした。
今の男には分かっていた。
恐らく自分はまた「目的地」へは行けないだろう。
彼女が最後まで見守っているから。
そして、男の予感は的中する。
意識を失った男は流木に引っかかり、近くの海岸に漂着しているところを発見され、再度保護される。
目覚めた男は確信するだろう。
今まで男の試みがことごとく達成されなかった理由と自分に向けられていた愛の大きさを。
病院のベットで男は夢を見ていた。
あの日以来、見続けた悪夢とは違う夢だった。
そこは白い木々の立ち並ぶ森。
男が歩いていると、木々の隙間から数々の思い出が浮かんでは消えていく。
楽しかったこと、辛かったこと、そのどれもが懐かしく、愛おしさで胸が一杯になる。
胸に詰まった「何か」は涙となって頬を伝う。
しかし、それは男が今まで体験したことのない暖かなものだった。
やがて思い出は終わり、森を抜けた時そこには子供を抱いた女性が立っていた。
母子は男に笑いかけ、背を向けて去っていく。
男は一瞬、追いかけたい衝動にかられたがそれを必死で押しとどめ、笑顔を作り見送る。
母子の背中が見えなくなった時、男は目覚めた。
男は眠るのが嫌いだった。
妻子を亡くした日から眠ると同じ夢ばかり見るから。
しかし、もうあの悪夢を見ることは無いだろう。
目を覚ました男の胸に去来したもの。
それは絶望でも失望でも無く未来への、幸せを願う意志だった。
男は体を起こして窓の外を見る。
厚い雲に覆われてはいたが、その雲間から差し込む光に晴朗の兆しが見える。
もう男の心に雨は降らない。
失くしたものは大きく、取り返すことは叶わない。
それでも、それでも一歩ずつ歩いていこう。
それが「三人」で望んだ幸せのあり方だったのだから。
初投稿となります。
拙文、並びにお目汚し失礼しました。
元ネタは神曲なのでこのような駄文で興味をもたれた方は是非お聞きください。
拝読ありがとうございました