美鈴が恵比寿家に泊まったのは、お盆で大勢の親戚が帰省する前の十一日だった。
彼女は、蛍狩り用の服をこの日の荷物に忍び込ませていた。
夕方、二人は『地主さん』にお参りすると称して、納屋に着替えを持ち込んだ。
恵比寿家には、民家にしては立派な祠があった。尼子の重臣の遺骨を敷地の北西の角にお祭りし、『地主さん』と称して深く信心していた。洋平は物心が付いた頃から、この地主さんこそが、彼の守護霊様だと教えられて育っていた。
すでに、西の空に太陽の姿は無かった。
夏は、太陽がその姿を全て隠しても、残光はしばらく辺りを照らし続けている。
洋平はこの時間帯が嫌いだった。
俗に言うところの『逢魔が時』であるが、このような時刻、彼はしばしば自己の気が沈んでゆくのを感じ、脱力感に見舞われることがあった。
昼の燦燦たる陽光でもなく、かといって冷たく澄み切った月光でもない凡庸とした明るさに、洋平は悪魔に出会う恐怖より、そこはかとない哀愁を感じることの方が嫌だった。
この頃は、夏になると就寝するときでも、窓という窓、戸という戸は全て開け放っ
ていた。もちろん、恵比寿家に限ったことではなく、この村の全ての家がそうであっ
た。それだけ平和で安全な村だった。
その夜は、美穂子を加えた三人で、母屋の奥中の間で寝ることになった。
三人で蚊帳を吊った。麻布の蚊帳は意外に重く、長押の鉤に輪型の釣具を掛けるの
には苦労した。
中に入って二人が蚊帳を頭の上に被せ合いをしてじゃれていると、開いた隙間から蚊が入って来て、せっかく蚊帳を吊った意味がなくなる、と美穂子に叱られた。
洋平は蚊帳で寝るのが好きだった。
外の世界と隔離された、一種独特な感覚に陥るのだが、それがまた密着感を呼び起こし、不思議と心地良い落ち着きを与えるからだ。
洋平と美穂子が、美鈴を挟んで川の字になった。
時刻は、まだ二十二時を廻ったばかりだったが、すでに村中は灯りに乏しくなっていた。閑静な空間に、ときどき表通りから聞こえてくる酔っ払いの発する奇声が、三人の笑いを誘い、妙に心を和ませた。
美鈴が。ふと美穂子に訊ねた。
「お姉さん、洋君は幼い頃はどんな子供だったんですか」
「洋平の幼い頃ねえ……」
美穂子は間を言いて勿体ぶるように続ける。
「自分の弟だけど、とっても可愛かったわね。お利口さんで、素直でなんでも言うことを聞く子供だった。まだ、下の二人の叔母さんたちが同居していてね、その叔母さんたちがとっても洋平を可愛がっておられたの。家の中は女ばかりで、洋平に悪戯をしたりして遊んでいたわね」
「女の子の服をきた写真を観ました」
「そうそう、そんな悪ふざけもしたわね」
美穂子も懐かし気に言う。
「中でも一番下の叔母さんは、目に入れても痛くないほど洋平を可愛がっておられた。あるとき、その叔母さんが洋平の睫毛があまりにも長いのをやっかんで、悪戯心からはさみで切ってしまい、お母ちゃんにかんかんに叱られたの」
「まあ……」
「美鈴ちゃん、そのとき叔母さんは、なんて弁解されたと思う」
「なんと言われたんですか」
「それがね、『だけど、洋平、睫毛を切るから、目を瞑りなさいと言ったら、うん、と返事して素直に目を瞑るんだもの。だから最初はそのつもりがなかったけれど、つい切ってしまったの』だって。それぐらい素直だったわねえ」
「洋君はそのこと覚えてるの」
美鈴が洋平に顔を向けた。
「うん、覚えちょう。四歳のときだったかな」
洋平は、この頃の出来事を数多く記憶していた。
そう言えば……と美穂子が意味深長な物言いをした。
「四歳と言えば、大変な事件があったわねえ、洋平」
洋平は、姉が何を話そうとしているのかわかった。
「大変な事件?」
美鈴は食い付くように美穂子の方に身体を向けた。
「美鈴ちゃん、訊きたい」
美穂子はすでに話す気満々である。
「訊きたい」
目を輝かせて言った美鈴は、美穂子に気づかれないように洋平の手を手探りし、握った手に力を込めた。
洋平はクスっと声もなく笑った。わずかに差し込んだ月明かりの中に、好奇に輝く彼女の両眼を想像したのである。
美穂子が話を始めた。
「それはね、永楽寺のお祭りでの事なの。毎年五月に、永楽寺で年中行事のお祭りがあり、多くの露天商が軒を並べていたの。その日はね、夜に大日堂でのお籠もりがあり、そのまま商いを続けている店もあったのね。大日堂のお祭りは、美保浦神社と同様にこの辺りでは有名でね、他の村や街からも訪れる人もいて、夜でも大変な賑わいだったの。
洋平は、お祖父ちゃんに連れられて、そのお籠もりに行ったの。『桜餅』という和菓子が目当てで付いて行ったのね。それが、大騒ぎの始まりでね。大日堂に着いたとき、本堂に上がる石段のところで、お祖父ちゃんが、『すぐに戻るからここで待っちょれよ』と洋平に言われて、石段を上がられたの。
しばらくしてお祖父ちゃんが戻って来られると、そこに洋平の姿がなかったので、お祖父ちゃんは、洋平は先に家に帰ったと思い、家に戻って来られたの。ところが、洋平が家に戻っていないので、お祖父ちゃんはもう一度、大日堂へ探しに行かれたのだけど、やはり居なかったので、こりゃあ大変なことになった。きっと洋平は、海に落ちたか、人さらいにあったと駐在所に連絡するわ、親戚中に声を掛けるわ、大騒ぎになったの。そうこうしているうちに、村の消防団もやって来るし、恵比寿の漁師さんたちは船を出す準備に掛かるわで、今まさに総出で村中を捜索しようとしたところへ、洋平が他所のお婆さんに連れられて帰って来たのね」
言い終えた美穂子は、ふうーと息を一つ吐いた。
「洋君は何処に居たんですか」
「後は本人に聞いてみて」
美穂子は洋平に話の下駄を預けると、喉が渇いたと言って台所へ向かった。
美鈴が寝返りを打って訊く。
「洋君、何処にいたの」
「それは……」
洋平は口籠ると、
「それより、鈴ちゃん」
美鈴の方に身体ごと向け、低い声で言った。
二人は布団に寝転がった状態で向き合っている。
洋平はゆっくり顔を美鈴に近づけた。
意図がわかった美鈴は静かに目を瞑る。
洋平は唇を合わせると軽く吸った。
美鈴が驚いた目で唇を離した。
「ご、ごめん」
「ううん……でもびっくりした」
そう言ってはにかんだ仕種がまた愛らしい。
そのとき美穂子が台所を出る気配がして、洋平は慌てて仰向けになった。
「本堂の中」
洋平は、美穂子に聞こえないように言った。
「えっ、なに?」
美鈴も囁くように問い掛ける。
「さっきの話の続き……」
「ああ、そうか。本堂の中って、どうして?」
洋平は、そのときのことをはっきりと記憶していた。
洋平は、洋太郎にしばらく待っているようにと言われたが、洋太郎が戻って来るのが遅いので待ち切れなくなった。それほど時間は経っていなかったが、幼い洋平は耐えられなかったのだ。
洋平は、洋太郎の後を追って石段を上がり始めた。生憎、数個の提灯しか灯っていなかったため、辺りは薄暗くて誰も洋平に気づかなかった。当の洋太郎もしかりだった。
石段を登り切って本堂の前に辿り着いたが、洋太郎の姿は見当たらなかった。
洋平は、きっと洋太郎は本堂の中に入ったのだと推量し、自分も中に入ることにした。
ところが、本堂の中にも洋太郎は居なかった。
洋平は焦った。心細くもなった。
このまま本堂の中に居るべきか、それとも家に帰るべきか迷ってしまった。
一刻も早く家に帰りたいところだが、洋太郎のここで待っていろという言い付けが洋平を拘束した。。
家に帰って、もし洋太郎が帰宅していなければ、言い付けを破ったことになるのだ。
というか、そもそもすでに本堂の中に入ってしまい、言い付けを破ってしまっている。洋平は、どうにか自分の方から洋太郎を見つけなければならないという強迫観念に駆られていたのである。
「送って下さった婆さんとはどうやって出会ったの?」
美鈴がそう訊いたとき、美穂子が戻ってきた。
「あれあれ、まだその話なの」
と呆れた声で言う。
「詳しく説明してたの」
洋平は怒ったように言うと、話の続きをした。
「しばらくして、一旦読経に区切りがついたとき、横にござったお婆さんが、やっとおらに気づき、『あんたさんは、恵比寿の総領さんじゃないかいの?』と訊かさったので、おらが『あい』と返事をすると、『あれぇ、だんさんは、だいぶ前に帰られたぜぇ。そりゃあ、大切な総領さんが帰って来られんので、きっと、えりゃあ心配をしてござあよ。わしが送りますけん、一緒に帰えらい』と言われて、家に帰ることになっただ」
洋太郎は、一度大日堂に戻ったが、まさか洋平が本堂の中にいようとは思いも寄らないことだった。
何とも皮肉なことだが、このとき本堂の中だけが、唯一村の喧騒から隔離された世界だったのである。
「それから、どうなったの?」
美鈴は眠気も忘れ、話の続きを知りたがった。
「帰る途中、おらの気持ちは暗かっただ。幼いおらにも、お祖父ちゃんの言いつけを破り、その場を離れたために家中の者が心配しちょうことはわかっていた。きっと、お祖父ちゃんに、がいに叱られるなあと思って、おらの足取りは重かっただ。
鈴ちゃんも通っちょう、あの海岸通の角を曲がると、百メートル先にうちの門に、がいな人だかりがあって、慌ただしい気配が伝わってきただ。『ああ、やっぱり大事になっちょう』と、おらは泣きたくなっただ。おらの足取りはますます重くなって、まるで恐ろしいものに近づいて行くようにゆっくりとあるいただ。
ちょうど半分ほどのところまで進んだときだった。
向こうからお祖父ちゃんの声がしただ。『洋平か?』って。
『あい』とおらが返事をすると、『よかった。ああ、よかった。よかった』と何度もそう言わさりながら、お祖父ちゃんは走ってござっただ。そして、おらを抱き上げっさあと、おらの顔に自分の顔を擦り付け、何度も何度も、『よかった。よかった』と繰り返してござった。そうやって、お祖父ちゃんが顔を擦り付けっさあ度に、おらの顔には冷たいものが当っただ。
そいが、お祖父ちゃんの涙だとわかると、おらも涙が出てきただ。おらはお祖父ちゃんが泣いてごさるのと、叱られんかったんで、ほっとして泣いただ。そげしちょううちに、お祖母ちゃんやお母ちゃん、お姉ちゃんもやってござっただ。お祖母ちゃんとお母ちゃんは、送ってくれたお婆さんから事情を聞かさって、何度もお礼の頭を下げてござった」
「洋平、わいは知っちょうか? お祖父ちゃんは、『わしが目を離したから、こげんことになった。わしが洋平を抱いて石段を上がりゃあよかった』と自分を責めてござった。わいの身にもしものことがあったら、お祖父ちゃんも自らの命を絶つ覚悟でござったと思うよ。いつもは、威厳のあるお祖父ちゃんが、あんなにうろたえ、狼狽してござったのを見たのは、後にも先にもあのときだけだが」
美穂子がしんみりとした口調で言った。
洋平は、美穂子の言葉で洋太郎のそのときの覚悟の程を初めて知った。姉の言葉が真実かどうか確かめる気はないが、たしかに洋平も、洋太郎の涙を見たのはあのときだけだった。そして祖父の性分を考えれば、自らの命を絶つまではしなくとも、出家して仏門に帰依し、残りの生涯を自分の魂を弔うためだけに生きることはしかねないと思った。
「洋君は、本当に家族から愛されているのね」
美鈴は、握った洋平の手に力を込めた。
彼女の言葉を潮に会話がなくなった。
ただ庭で鳴く鈴虫と風に触れて鳴る風鈴の音が、寂寞たる深夜に物悲しく響き渡っていた。その均整の取れたリズムは、しだいに身体の波長と調和してゆき、いつしか洋平は心地よい眠りに入ったのだった。
浅い眠りのせいなのだろうか、洋平は誰かの話し声で目が覚めた。声のする縁側の方を向くと、背を向けたウメと美鈴が腰掛けていた。
東の空がようやく白み始めたところで、薄闇の中で時計を見ると、まだ四時を過ぎたばかりだった。ウメはいつものように日の出前に起きたのだろうが、美鈴がこんなに早く起きている事に驚いた。
――何を話しているのだろうか。
二人の会話が気になり、すっかり目が冴えてしまった洋平は、身体を起こし蚊帳の中から声を掛けた。
「こがいに朝早くから何をしちょうの?」
「ああ、洋平か。起こしてしまったかの。おらが神さんを拝もうとしたら、美鈴ちゃんが起きちょったけん、ちょっと話ちょっただが」
二人は同時に振り向くと、ウメがそう言った。洋平は蚊帳を出て、美鈴の横に座った。。
「どげな話?」
「美鈴ちゃんが、『あの世って本当にあるんですか?』って訊いたけん。おらは、『それは難しい質問だが。有るって言えば有るし、無いって言えば無い。それは誰かに教わるもんじゃなくて、美鈴ちゃんの気持ち次第だが。わしは有ると信じて生きてきたけんど、それは人に押し付けるもんじゃないだが。美鈴ちゃんも、これから大人に成長していく過程で、色々な経験や勉強したうえで、自分自身で判断するだが』と答えただ」
と言うと、ウメは洋平向かって何かを催促するように顎を引いた。
「美鈴ちゃん、お祖母ちゃんの言うとおりだが。お祖母ちゃんはおらにも自分の心が決めることだって言ってござあけん」
ウメは誰に対してもそのような態度だった。ウメは孫の洋平にさえ、自分の信じるものを押し付けるような事はしなかった。
「洋平が起きたなら、おらは神さんにお経を上げるとするかな」
ウメは神棚のある奥の間に入って行った。
「美鈴ちゃん、えらい早く起きたんだね」
「なんか、寝ているのがもったいなくて……ずっと起きていても良いくらいだった」
「まさか,ずっと起きちょったの?」
違うよ、と美鈴は顔を横に振った。
「最初はなかなか寝付けなくて、そのまま朝まで眠らなくても良いかなって思ったんだけど、洋君の寝息を聞いているうちに眠ってしまったみたい。でも、まだ暗い内に目が覚めて、しばらくじっとしていたんだけど、そのうちにお婆さんが起きてこられたので、私も蚊帳を出てお話をしてたの。ねえ、洋君。それより、せっかく早起きしたんだから、日の出を見に海岸へ行かない?」
美鈴は、洋平の腕を取った。
「海岸かあ……」
洋平が曖昧な返事をすると、
「ねえ、行こう」
と、美鈴は立ち上がって洋平の腕を力強く引っ張った。
「そいなら、海岸よりももっとええとがあるよ」
「どこ?」
美鈴は少し考えて、
「もしかして、お墓?」
と訊いた。
「いいや、たしかにお墓も眺めはええけんど、もっとええとこがあるだが」
「お墓じゃないのか……そうだ。だったら、あそこかな?」
彼女は顔を赤らめながら言った。洋平はその仕種で、美鈴が思い浮かべた場所がわかったが、
「あそこって、どこ?」
と顔を覗き込むようにして意地悪く聞いた。
「キスしたところ……」
美鈴は、顔を叛けるようにして呟いた。洋平は、その愛しさに思わず抱きしめたくなったが、そのようなことができるはずもない。ウメの目もあるし、美穂子だって様子を窺っているとも限らないのだ。
「いいや、それも違う。今からあそこまで行くには時間が掛かるけん、日の出の一番ええとこを見損なってしまうがな」
洋平は冷静を装う。
「ねえ、それならいったい何処? 早く行かないとお日さん出ちゃうよ」
美鈴は焦れた様子で、なかなか場所を言わない洋平を急かした。
洋平は、ようやく指を上に向けて、勿体付けるように言った。
「この上」
「この上って?」
美鈴は上を向いたまま訊いた。彼女はその場所がどこか、まだわからないようだった。
「屋根に上るだが」
「ええー、屋根に上るの、どうやって?」
と、美鈴は目を丸くする。アパート暮らしの彼女には、屋根に上がるという発想など思い浮かばないのだ。
「梯子を掛けてもええのだけんど、そげんことせんでも、もっと簡単に上がれるだが。鈴ちゃん、行かい」
言うや否や、今度は洋平が美鈴の手を取って離れに移った。そこで二人は、一旦離れた。洋平は自分の部屋に、美鈴は荷物を置いてある客間に入った。着替えを済ませるのだ。二、三分後、着替えを終えた美鈴が東南の角部屋にやって来た。日当たりが良く、十畳もの広さがある部屋が洋平の自室だった。
「わあ、ここが洋平君の部屋なんだ。広いね」
美鈴が感激したように言う。
というのも、これまで洋平は美鈴を自室に入れたことがなかった。そもそも離れ自体に入れてはいなかった。
母屋は、全ての襖や障子が開け放たれてある。つまり、二人がどこにいても周囲の監視の目に晒されているということである。対して、離れは土間に繋がる廊下こそガラス戸で仕切られているが、他の部屋全てが引き戸なので、必然と密室になる。
洋平は、有らぬ誤解を防ぐために、敢えて離れで過ごさなかったのである。
「この窓から上がっていくだが。鈴ちゃん、おらがすることを真似して、後を着いて来て」
洋平は窓の格子に手をやり、身体を抜いて屋根の上に出た。そして、彼女が同じようにして出て来るのを待ち、そこから上の層に上がって行った。
「すごく高いね。洋君、ちょっと怖い」
美鈴は恐怖心に襲われていた。無理もなかった。生まれて初めての体験の上に、恵比寿家は天井を高く造っていたため、頂上の高さは、他所の家の倍近くになっていた。
ただ、洋平が屋根に上がっていることを知った里恵が、大工に頼んで命綱ならぬ、命手摺を施してあった。
「鈴ちゃん、手摺があるから大丈夫だよ」
洋平は笑みを浮かべ、美鈴の気持ちを和らげる。
「下を見たらいけんよ。それと絶対に立ったらいけんよ。大丈夫、瓦はすべえしぇんけん。両手両膝を瓦につけて、つま先を立てて、ゆっくり這うようにして上っていくだが」
洋平はまず美鈴を先に上らせた。万が一、足を滑らせたとき支えるためである。
「やだあ、パンツが見えない?」
美鈴が恥ずかしように言う。この日は短パンではなくスカートだった。
「見えないから安心して、それより手摺をしっかり掴んで集中して」
洋平は怒ったように注意した。
パンツは見えなかったが、その白い太腿が目に眩しかった。
洋平は高揚を悟られないように、わざとぶっきらぼうに言ったのだ。
二人は無事に天辺まで辿り着いた。ちょうど水平線上の彼方より、白い太陽が顔を出し始めたところで、東の空から明るさが広がっていた。
「うわあ、ほんとに凄い。朝日だけじゃなくて、山の景色も綺麗だね」
恵比寿家は村の中央にあったため、ぐるりと周囲を一望できた。暗闇を抜けたばかりの山の木々は、深い緑から鮮やかな緑へと変わり始めていた。
「おら、気持ちが沈んだときは、いつもここに上がって来るだ。屋根の上に寝そべって広い空の中に雲の流れや、雲雀がのんびり飛んでいる様子を眺めちょうと、なんだか自分ががいに小さく思えてきて、くよくよしちょうことがバカらしくなってくるだ」
「へえー、こんなに恵まれている洋君でも、くよくよすることがあるんだ」
「そりゃあ、あるが」
「おうちはこの辺りの名士でお金持ちだし、家族からはとても可愛がられていて、しかもこんなに恵まれた自然の中で暮らしているのに?」
「鈴ちゃんには、そう見えるのかもしれんけんど、ええことばっかりではないけん」
「鈴には良くわからないけど、でも、それって贅沢な悩みじゃないの」
「そうかもしれんけんど、悩みは人それぞれじゃないだか。他人から見れば取るに足らんように見えても、本人しかわからんことってあると思うだが」
「そう言われるとそうかもね。でも、洋君でも悩むときがあるって知って、少し気分がすっきりした」
「なに、どげんこと?」
「だって、これで悩みも何もなかったら、洋君は腹が立つぐらい恵まれ過ぎだもの」
美鈴は、少し茶化すように言った。
――だが、あまり何もかも揃っているということは、後は失って行くことばかりのような気がする。最初は何もなくても、少しずつ自分の力で手に入れていく方が幸せなのかもしれない。
そう言おうとして洋平は口を噤んだ。自分の気持ちは、同じ立場にいる者にしかわからないと悟ったのである。
「鈴ちゃん。おらは、毎年ここから花火を見ちょうだが。ほんとだったら、今年の花火もここで鈴ちゃんと見ようと思っちょっただが」
洋平は話題を転じた。
「そっかあ、洋君は毎年ここから見てるんだね。ここだと、きっと特等席なんだろうなあ」
「うん。花火が、がいに近くに見えるよ。まるで、火の粉が降ってくるみたいで、思わず身体を捻って避けたりするだが。もちろん、ここまで振って来るはずはないけんど……。だいてが鈴ちゃんにも見せたかったなあ」
洋平の残念そうなに口ぶりに、美鈴も口惜しそうに言った。
「私も見たかったなあ。でも、蛍の方がもっと大事だしね……」
自分自身に言い聞かせているような彼女を見て、洋平は余計なことを言ってしまったという後悔した。
「鈴ちゃん、花火は毎年やるけん、間違いなく来年でも見れえだが。だいてが、鈴ちゃんの言うとおりで、蛍は自然のことだけん、いつどげんことになるかわからんけんな、今年のうちに見ちょかんとな」
洋平は精一杯の慰めの言葉を掛けた。
「そうだよね。花火は来年でも見れるよね。きっと見れるよね……」
美鈴は、何かに縋るように呟いた。
そして、未練を断ち切るかのように、
「お陽様にお願いしておこうっと」
と、朝日に向かって両手を合わせた。
その姿は見事なまでに大自然と調和し、声を掛けることすら憚られる厳粛な気が伝わってきた。洋平は、初めてキスをした丘でも夕日に向かって手を合わせていたことを思い出した。
――彼女は自分などより遥かに信心する心を持ち合わせている。
と強く思った。
皆が去ってから一時間も経ってはいなかった。
洋平は、玄関で女性の声がしたような気がした。
風の声か、と耳を澄ましていると、今度は戸を叩く音と共に、たしかに自分の名を呼んでいる声が聞えた。
洋平が急いで迎えに出ると、律子が手提げを持って立っていた。
「嵐の中を、どないしたんや。帰ったんやないのか」
――驚きと心配と喜び……。
洋平の口調は、彼の複雑な心境を端的に表していた。
「洋平君が一人じゃ寂しいと思って戻って来たのよ。はい、差し入れよ」
律子は、酒のつまみを手渡すと、
「積もる話もあるし、朝まで飲み明かしましょう」
とウインクをした。
「だがな……」
洋平の困惑した様子に、
「二人きりだと、なにかまずい事でもあるのかしら。洋平君、下心でもあるの」
と、律子は薄笑いをする。
「な、なんもないけど、それこそ悪い噂が立ったら、俺は大阪に戻るからええけど、そっちは迷惑やろ」
洋平は動揺を押し隠すように言った。
「全然、洋平君となら、むしろ歓迎よ……大丈夫よ、夜明け前には帰るから」
洋平は、十数年ぶりに会った律子に度肝を抜かれていた。内向的でおとなしかった彼女が積極的で快活な女性に変貌を遂げていたのである。
「洋平君、私の変わりように驚いた様子ね」
律子が見透かしたように言う。
「いや、そうでもない。高校時代に、その片鱗は感じていた」
二人は松江の名門進学校に通っていた。
「気に入らない?」
「そうでもない」
「良かった。じゃあ、飲みましょうか」
「君もかなり飲めるみたいやな」
「ええ。でも、酔っ払ったら介抱してね」
律子はグラスを差し出しながら、甘ったるい声で言った。
洋平は、酒ならぬ律子の色香にすっかり酔ってしまっていた。彼女は、美鈴が出現するまでとは全くの別人格になっている。詮無いことではあるが、彼女が最初からこのような性格であったなら、あれほど美鈴に惹かれただろうか。いや、そもそも美鈴と出会わなければ、彼女と同じ道を歩いたのかもしれないのだ。
そう思うと、洋平は胸にざわめきを覚えずにはいられなかった。彼にはずいぶんと久しい感情だった。