「何が始まるの?」
美鈴の声で、宴席の方がなにやら騒がしくなっているのに気づいた。
「里恵義姉さん、まな板とすり棒をもって来て下さい」
昌造が里恵に頼んでいた。
洋太郎と万太郎の二人を残し、皆立ち上がって座敷に移動し、南北の座敷を隔てる襖を取り外していた。
「総領と美鈴ちゃんもこっちに来て踊りなさい」
昌造が二人を呼んだ。どうやら、盆踊りへ繰り出す前に、ひとまず稽古をしようということになったらしい。
昌造は、里恵から手渡されたまな板とすり棒を、太鼓とバチに見立ててリズムを取り始めていた。
「節はどげするの」
洋平の懸念に、
「叔父さんが、口説いてみせるよ」
と、昌造は自信満々に答えた。
洋平は、いつも場を盛り上げようと、率先して音頭を取る叔父のこういうところが大好きだった。
「半分ぐらいまでしか憶えていないけど、まあそれで何とかなるだろう」
「ああ。半分も口説ければ、上等、上等。そいを繰り返せばええがな」
誰もが口々にそう言った。地元に住んでいる者でも、半分も憶えている者は少なかった。
盆踊りの節は四十九番まであった。
四十九番といっても、一番一番の節は短く、それが踊りの動作のひと括りになっていた。節の間に二度の合いの手が入り、二度目の合いの手で踊りの最初の姿勢に戻った。
昌造は、海岸から聞こえてくる太鼓の音に合わせて、まな板を叩きリズムを取りながら口説き始めた。大人も子供も一緒になって、昌造を中心に楕円を作って周回した。
村に住む親戚の人々は誰もが上手に踊れたが、外から帰省して来た人たちは初めてだったり、忘れてしまったりしていて、教わりながらあるいは他の者の踊る様を見て、思い出しながら踊った。
美鈴は、洋平のすぐ後ろを付いて来ていた。
彼女は、これまで盆踊りを見たことすらほとんどなく、ましてや実際に踊ったことなど一度もなかったので、洋平の動作を見ながら、少しずつ覚えようとしていた。
たまに、まるっきり動作を間違えると、おどけた仕種をしながら、ケラケラと声を出して笑った。その笑い声が周りの笑いを誘い、広い屋敷の中は和みの声で満ち溢れていった。
途中で、昌造が洋平に目配せをした。彼の意図を見抜いた洋平は、踊りの輪から外れ、叔父の元に寄り、まな板とすり棒を受け取った。
昌造は口説きながら踊っていた。そのうち一人、また一人と一緒に口説く者が増えてゆき、合いの手は全員で声を上げた。
単純な振り付けなので、美鈴もすぐに覚えたようだった。洋平はリズムを取りながら、皆が笑顔を溢し、楽しく賑やかに踊っているこの情景の一つ一つをかけがえのないものとして、脳裏に焼き付けていた。
ひとしきり踊った後、洋平は再び昌造と役目を代わり、美鈴と縁側で休んだ。すると、いとこたちも踊りの輪から外れてやって来て、二人の手を引いた。庭で花火をし
ようというのだ。どうやら、美鈴と触れ合う機会を窺っていたらしい。
洋平は、彼らの輪には入らず、少し離れた庭石に腰掛けて眺めていた。彼は、家でする花火はあまり好きではなかった。花火を終えた後の、そこはかとない虚しさに、胸を締め付けられるからだ。とくに線香花火は、火花と人のはかない命が重なり合い、ついものの哀れに思いを馳せてしまうのだった。
持ち前の人見知りをしない明るい性格が幸いし、美鈴がいとこたちと馴染むまでに、それほどの時間を要しなかった。まるで本当の親戚のように戯れていた。洋平は、火の粉に映し出される彼女の顔をじっと見つめ、このまま時間が止まって欲しいと強く願った。
洋平は彼女と出会う前から、自分の生涯の中で、小学生までが一番幸福なときであろうと思っていた。
ただでさえ、大人になれば人は誰でも何がしかの責任というものを背負わなくてはならない。ましてや、自分は恵比寿家の総領である。この界隈で一番の旧家の跡取りなのだ。
家格だけではない。
この村の半数以上の家が恵比寿家の事業に携わっている現実を見れば、近い将来彼らの生活の浮沈は自分の双肩に掛かると言っても過言ではないのだ。そうであればこそ、この先周囲が寄せる期待は日に日に過剰なものになり、つれて見る目は厳しさを増してゆくことが火を見るより明らかだった。
言葉を改めれば、洋平は生まれながらにして、絶えず己の真価を世間から問われ続けるという、過酷な宿命を背負っているということである。
洋平の腹の底には『それに良く応えることができるだろうか』という不安が、絶えず澱のように横たわっていたのである。
だからこそ、少なくとも家族の期待に対して言えば、完璧なまでに応えている今こそが、最も安んじて幸福感を満喫できるときであり、己の人生において、おそらく二度とこのような心の安穏は訪れないと、洋平は直感していたのだった。
しかも美鈴との初恋の真っ直中にいたことを加味すれば、
――数十年後の未来から振り返ったとき、きっと最も輝きに満ちた時を生きていたと懐かしむことだろう。
と、思い詰めていたとしても無理のないことであろう。
花火を終えたいとこたちは、家の中に戻って行った。洋平と美鈴は庭に残り、直径が二メートルもある半球の庭石に凭れて夜空を見上げた。
片田舎の明澄な夜空には、狭い空間に放り投げられたビー玉のような無数の星々
が競うように潤んでいた。
「ねえ、洋君、宇宙ってどうなってるの」
美鈴は洋平の心を見通しているかのように訊ねた。
「ちょうど、おらも鈴ちゃんと同じことを考えてただ」
「洋君は、天体観測をしているのでしょう?」
洋平は、天体の授業を受けたのを契機に、天体望遠鏡を買ってもらい、家で星を観測していた。宇宙に関する本も数冊購入し、多少なりとも学習はしていた。
だが洋平は、
「地球は太陽系だろう。太陽系は銀河系の中にあって、銀河系の中に地球のような星は何十万もあるというし、その銀河系のような星雲は無数にあるし……いったい宇宙の果てはどげんになっちょうかな」
とありきたりのことしか言えなかった。しかも、途中から美鈴が求めているものは、決してこのような乾いた答えではないことに気づいていた。
彼女が、少しも反応を示さなかったことが、それを如実に証明していた。
洋平は、ばつの悪さを隠すため、校庭で天体観測をしたときに、先生から聞いた話を口にした。
「鈴ちゃん、プレアデスって知っちょう?」
東の夜空に、星座を探しながら訊ねた。
「プレアデス? 知らない。それ、なに」
「日本語では昴(すばる)っていう星団だが」
「昴なら聞いたことがあるけど、よくわからない。どの星なの」
洋平は、美鈴がプレアデスを知らないことに、ほっとした。
「あれだが」
洋平は、南東の空を指差した。そして、美鈴が指差す方向に視線を向けたのを見て、言葉を継いだ。
「ほら、あそこに、大きくて少し赤く光る星が一つあるけど、わかる」
「たくさん星があって、よくわからない。どれ?」
美鈴が、洋平の指差す方向に視線を合わせようとして顔を近づけため、頭がぶつかってしまったが、彼女は構わず頭を押し付けてきた。彼女の息遣いが耳に届いていた。
「ローマ字のVが横を向いているようなのがわからんかな」
「Vが横を向いてるの?」
美鈴がさらに顔を傾けたため、今度は頬と頬が触れてしまった。夜とは言え、庭は燈篭の薄明かりの中にあった。誰かに見られているのではないか、と心穏やかではない洋平を他所に、美鈴は全く意に介することなく夢中で星を探していた。
「あっ、Vが横を向いている星たちって、あれがそうなのかな?」
美鈴はそれらしき星を見つけると、顔を元に戻した。洋平は、ほっとした反面、彼女の頬の温もりが名残惜しく思った。
「そう、それ。そこから少し真上に、小さい星が六つ固まっているのがわかる」
「小さい星が六つ? あれかな? いち、に、さん、し……。四つしかないけど、あと二つは……。あれとあれかな? 洋君、あれでいいの」
美鈴は、目当ての星を見つけたらしい。
「うん、そう。それだが。鈴ちゃん、それがプレアデス星団だが」
「ふーん。さすがに洋君、よく知っているね。やっぱり勉強しているんだ」
素直に感心した美鈴に、気が咎めながらも、洋平は本題の神話へと話を進めた。
「鈴ちゃん、プレアデスは、目に見えるのは六つなんだけんど、ギリシャ神話では、星は七つなんだが」
「えっ、どういうこと?」
「プレアデスはね、七人姉妹を現しているんだが。だけん、元々は七つの星が光っていたんだけんど、あるときから、一つ減ってしまったのだが」
「どうして一つ減ったの」
「それがね、二つの説があって、一つは七人姉妹のうちの一人の娘が、ギリシャの都市が滅びるところを見ていられなくて、髪を靡かせたホウキ星になったという説と、もう一つは同じ娘なんだけど、彼女が人間に恋をしてしまい、地球にやって来たからという説だが。おらは、後の方だと思っちょうけんど……」
「へえー。すごく素敵な話だね。洋君って、案外ロマンチストなんだ」
洋平には当てが外れた反応だった。言葉とは裏腹に、彼女の声は沈んでいたのである。
美鈴は、しばらく黙考した後、
「でも……」
と口を濁した。
「でも、なに?」
「でも、相手は人間でしょう? その人が死んだ後、どうしたのかな」
洋平は唇を噛んだ。
――ああ、そういうことか……。
そこまでは知らなかった。
「うーん、それは知らんけんど、星が七つじゃないということは、プレアデスには戻らんかったということかなあ。もしかすると、この空のどこかで二人仲良く星になっちょうのかもしれんね」
咄嗟の思い付きにしては気の利いた答えだと思ったが、美鈴はそれの先には触れなかった。
「でも不思議だね。今こうやって輝きを放っている星も、実際にはもうすでに無くなってしまっているかもしれないんでしょう」
と話題を変えた。
「光の中にはこの地球に届くまでに、何千万光年、何億光年も掛かるものもあるけん、星の寿命を考えると、そげなこともあるよね」
「それって、死んでからも人の記憶に残ることと同じだよね」
美鈴が呟くように言う。
「――そげ、かな」
洋平は、その悲し気な響きに間の抜けた返事しかできなかった。
美鈴は、時々このような物言いをした。宗教的な影響を受けている様子でもなかったが、観念的なことを言って洋平を戸惑わせた。
わっはっは……、という笑い声に、家の中の様子を窺うと、すでに踊りの稽古は終わり、皆はまた酒を飲んで騒いでいた。男たちはしきりに何かを論じ、女衆は酌をしながら興奮する者を宥め、子供たちは広い屋敷の中でかくれんぼをして遊んでいる。その賑やかな光景が、なぜか洋平の目には物悲しく映っていた。
そのときだった。突然美鈴が、洋平の肩を二、三度叩きながら叫んだ。
「あっ、蛍。洋君、池に蛍がいるよ」
美鈴の声に池に目をやると、池の淵に植えてある水仙の葉の上で、夜空より零れ落ちた迷い星のように一匹の蛍が明滅していた。屋敷に一番近いところでは、北西に広がる水田の横を流れる小川に蛍を見ることができた。
今宵、夏の夜風に乗って一匹だけ逃避行をして来たのだろうか、と不思議に思っていると、
「洋君、捕まえて」
と、洋平にすれば突拍子もないことを言い出した。
普段であれば彼女の願いを叶えてやるのだが、お盆にそれはできない相談だった。
洋平は、美鈴をやさしく諭した。
「鈴ちゃん、お盆に虫を捕まえちゃいけんだ。お盆には亡くなった人の霊が乗り移って戻ってござあけん。あの蛍もきっとそげだけん」
「そうなんだ。誰でも帰って来れるの」
「誰でも……、だと思う」
「好きなところに?」
「たぶん、そげじゃないかなう」
美鈴の核心を突く問いに、洋平は曖昧な返事しかできない。
「ふうーん。そうなんだ。だったら……」
そう言ったきり美鈴は口を噤んだ。
洋平には後に続く言葉が想像できた。先刻の灯篭を見たときの彼女の言葉を思い出したからだ。
『だったら……私が死んだら蛍になって洋君ちに戻って来よう』
洋平は、なんと皮肉なことだろうかと思った。
彼女の問いには明確な返事ができないのに、このことは確信が持てたのだ。
その悲しい言葉を美鈴の口から聞かなかったことだけが、洋平にとってせめてもの救いだった。
二十二時を過ぎる頃、海岸に押し出そうということになった。
盆踊りは十三、十四、十五日の三日間行われた。十三日と十四日は二十時、最終日の十五日は花火大会の後に始まることになっている。いずれも午前零時が終了時刻になっていたが、そのようになった試しはなかった。
男衆は、皆どこかの家に集まって酒盛りをしており、踊りに繰り出すのは遅くなってからだ。それまでは女衆と子供が踊る時間帯だった。二十二時頃になって、ようやく酔いの回った男衆が踊り始めるので、零時に終わるはずもなかったのである。
踊り手が大勢残っていれば、深夜一時、二時は当たり前で、場合によっては東の空が白み始める頃まで踊る場合もあった。
海岸に出てみると、すでに大勢の人だかりができていて、踊りの輪は三重にもなっていた。海岸通りに並んだ夜店の前には、色とりどりの浴衣を着た子供たちが、眠気も忘れて金魚すくいやら、的当てやらの遊興に没頭し、年にわずかな機会しか許されない夜遊びを満喫していた。
洋平たちは、さっそく踊りの輪の中に入っていった。
美鈴は洋平のすぐ後ろで、愛嬌を振りまきながら踊っていた。その無邪気にはしゃぐ彼女を見て、庭で想像した言葉は思い過ごしだったのだろうか、と惑う洋平だった。