美鈴と過ごした最後の日を迎えた。
洋平は、今でもこの日のことを細微に至るまで鮮明に記憶している。まさにこの夜の出来事こそが、彼女との思い出の全てをより夢幻的なものとして、彼の脳細胞に刻み込んだのだった。
美保浦においてお墓参りということに限って言えば、十五日が最も重要な日であった。
この日だけは、家族全員で墓参をするというのが慣わしだった。信心深い村だったので、お盆を問わずそのような家は多かったが、この日が特別だったのは正装と言うべきか、身なりを整えなければならないということだった。
恵比寿家では、洋太郎は家紋の『丸に木瓜』の付いた羽織袴、洋一郎はスーツにネクタイを着用し、洋平も学校の制服姿でお参りをした。
恵比寿家の墓は丘の頂上付近にあった。他家の五、六倍は広く、先祖代々の古い墓石もいくつか置かれていた。この共同墓地の造成費用も、大半が恵比寿家の寄付で賄われていたので、当然のことではあった。
この日、洋平と美鈴は墓地で出会えるようにと、それぞれの家族に墓参の時刻を願い出ていた。もっとも、両家とも毎年八時頃に家を出発していたので異論が出ることはなかった。
洋平は墓の隅に立ち、大工屋の墓にいる美鈴に視線を送った。
大工屋の墓は丘の中腹より少し下の位置している。
彼女は出会って二日目の朝、美保浦神社にやって来た服装だった。美鈴は洋平を見つけても、さすがに大きく手を振るようなことはなく、顔の辺りで控えめに振った。
ほどなく、美鈴が恵比寿家の墓にやって来た。二人は、傍らに聳え立つ松の巨木に背凭れて、眼下に広がる風景を眺めた。足元を這うように伸びている根の中で、太さが庭の松の幹よりも成長しているものは、地中に収まり切らず鱗のようにひび割れた肌を地上に晒していた。
「鈴ちゃん、あの小さな岩が点在しちょうところが小瀬だけん。わかる?」
洋平は、湾の南側を指差した。
「うん、わかる。ちょうど、お寺と堤防の間だね」
「じゃあ、小浜は?」
洋平は視線を北側に向けた。
「一箇所だけ砂浜になっているところでしょう」
「当たり」
「やったあ。もうすっかり憶えたよ」
美鈴は無邪気に笑った。
早朝の美保浦湾は、太陽が天中に昇るまでには未だ間があるものの、すでに相当な強さで放たれている光りに照らされて、一面さざめく波が銀色を反している。その中を何艘もの小型の舟が、お盆の最後のご馳走を獲るため、沖に向かって走り出していた。
堤防付近の磯に目を遣ると、釣り人の巻き餌をあてにした数羽のかもめが急降下し、嘴で海面を突いたかと思うと、すぐさま再び空高く飛翔する所作を繰り返している。
それは普段といささかも変わらぬ風景だったが、見上げた空にいつになく広がりを見せていた灰色の雲が洋平は気に懸かった。
墓地の周囲を囲む樹木では、往く夏を惜しむかのように、耳を劈かんばかりの蝉時雨が響いている。あたかも、暗い地中に幽閉された時間に比べれば、まったく割に合わない短い生涯ながら、それでもなお精一杯生命を全うしようとする魂の咆哮のようであった。
その今を盛りと刹那に鳴き狂っているヒグラシに、確実な時の歩みを思い知らされる洋平だった。
「洋君、前から思っていたんだけど、洋君ちはともかく、他の家も新しくて大きなおうちが多いね」
美鈴は、目線を手前に落としていた。
見慣れているはずの風景をあらためて凝視した洋平は小さく肯いた。日頃は、とくに気に掛けることもなかったが、村全体を一望すると一目瞭然だった。
実は、この頃の美保浦は活況を呈していた。洋平の知る限り、最も活力に満ちていた時代であったと言っても過言ではない。
三、四年前よりかつてない豊漁が続き、しかも主な獲物が真鯛という鯵や鯖と異なり、豊漁であってもさほど値崩れしない高級魚であったため、水揚高が空前のものとなっていたからである。
当然、漁師の歩合給は跳ね上がり、気前の良い彼らが次々と家を新築したため、好景気は大工、左官はもちろんのこと、他の様々な職種にまで浸透していった。
他になぞらえて言うならば、『真鯛御殿』と言うべきか。この頃の美保浦は、まさにそのような状況であった。
おっ、総領さんのガールフレンドだかい?
とまた二人に声が掛かった。彼らは墓参の合間を見て、洋太郎と洋一郎に挨拶にやって来るのだ。周囲の墓の人々はもちろんのこと、麓近くに墓がある家の者たちも、わざわざ丘を上がって来て挨拶をしてから帰宅した。その光景を目の当たりにする度に、祖父や父の存在の大きさを再認識させられる洋平だった。
洋平は、とうとう自転車を調達することができなかった。大人用の自転車ならば、どうにかできたが、そうはしなかった。彼は大きな自転車の後ろに美鈴を乗せる自信がなかった。舗装された道ならともかく、でこぼこの砂利道であり、もし砂利に車輪が取られて転倒して彼女に怪我をさせでもしたら、それこそ取り返しが付かなくなる。
洋平は、すでに歩いて行くことを決心していた。墓地の裾野を歩くことは、少しの勇気を出せば済むことで、帰宅時間が遅くなることは、母に申し出て潔く罰を受けようと腹を括ったのである。
ところが、昼近くになってさらに厄介な問題が浮上しようとしていた。夕方から夜に掛けて天気が崩れる、との予報が出たのである。墓参のときの気掛かりが、現実のものとなって立ちはだかろうとしていた。
もし雨になれば、二本の刃を突き付けられることになる。
一つは、雨量と時間帯によっては花火大会が中止になるということである。それは取りも直さず、洋平たちが夜に家を出るための大義名分を失うということを意味していた。
もう一つは、仮に通り雨であっても、蛍そのものを小川に落とし下流まで押し流してしまう危険が生じるということである。
午後になると、洋平はしばしば庭に出て、しだいに暗くなり始めた空を恨めしく眺めていた。彼は、村の漁師の子供なら誰もがそうであるように、大まかな天候を予測することができた。雲の湧き具合や流れ方、季節によっての風の向きや肌に受ける湿り気で判断するのだが、洋平の見立ても芳しいものではなかった。
日が暮れて、洋平はウメの後、地主さんに参拝して裏門の鍵を開けておいた。
洋平は朝晩、必ず地主さんに参拝していた。朝は今日一日が平穏無事に過ごせるようにと祈願し、晩はその日の無事のお礼を申し述べた。
秘めた冒険計画を立てた後は、計画成功の願いを加えたが、この日がさらにいつもと違ったのは、天候の回復を付け加えたことだった。人智の及ばない自然が相手となれば、神に祈ることしか他に成す術がなかったのである。
夜の気配と共に美鈴が訪れた。
夜空に浮かぶ星の数は、両手で足りるほどだったが、幸いにも雨は落ちておらず、花火大会は予定通りの運びとなっていた。洋平は、一刻を争う事態に、いまさらながら自転車が調達できなかったことを悔やんだ。
ところが、その痛手は思わぬ形で手当てがなされた。
二人は降雨のことを考えて、少し早めに冒険計画の遂行に移った。
「お母ちゃん、鈴ちゃんと花火を見に行ってくるけん」
洋平は何食わぬ顔で言った。
「おや、今年は屋根に上がらんだか?」
母の問いは想定していた。
「鈴ちゃんがおるけん。危ないことはしない」
「そげだな、その方がええ。だいてが早くないかい」
当然の指摘にも、洋平は言い訳を用意していた。
「早めに言って、良い場所を取るけん」
「そげか、そげか。そいなら、気を付けや」
優しい里恵の声に、洋平は心に痛みを覚えずにはいられなかった。
二人は、いとこたちにも十分注意を払った。美鈴に興味を抱いている彼らの目を盗むことは、ある意味で最大の難関かもしれなかった。誰か一人にでも興味を抱かれれば、全てがご破算になってしまいかねないのだ。
二人は彼らの行動に神経を尖らせながら、首尾良く門を出た。
「洋君、これ」
その直後、美鈴が指差した先に自転車があった。しかも車体の低い子供用である。
「これ、どうしたの」
洋平の声が思わず裏返った。
「うちの親戚から借りてきたの、どう、これで良い?」
「もちろん、ええよ。鈴ちゃん、だんだん、だんだん」
洋平の胸は熱くなった。時間との争いに役立つということもあったが、それよりもまして、彼女の心遣いが嬉しかった。
とはいえ、喜びに浸っている暇はなかった。冒険は、たった今始まったばかりで、しかも天敵の雨はすぐそこまで迫っているのだ。
二人は海岸を背にして進み、屋敷の裏手に回った。裏門は鍵が外れたままになっていた。
納屋に入り、着替えを始めた。
「洋君、あっちを向いていて。絶対、良いって言うまでこっちを向かないでね」
「わかっちょうけん」
美鈴の懸念など全く意識の外にあった洋平だったが、その一言で却って邪な衝動に駆られてしまった。
一瞬、美鈴の目を盗んで振り向きそうになったが、
――駄目だ、駄目だ。今はこの計画を遂行することに集中しよう。
と雑念を振り払った。
二人は、笹竹切りと同じ出で立ちになり、自転車に乗って出発した。
ほどなく墓地の裾野に入った。砂利道なので、車輪がくぼ地を通る度に振動でヘッドライドが点滅した。
美鈴は洋平の背中にしがみついていた。それが振動のせいなのか、それとも暗闇の恐怖のせいなのかはわからない。洋平もまた必死の思いだったので、彼女の身体の温もりを背中に感じる余裕などなかった。
墓地の裾野を過ぎると、小学校までは池の横を通る一本道となった。
ここまで誰一人として出会うことがなく、見咎められずに済んだ。たまに宴会の歓声が漏れ聞こえるだけだった。怪しい空模様に、皆が家の中で様子見をしていたことが幸いしていた。
小学校に着いた二人は、そのまま正門から入り校庭の中を体育館まで一気に走り抜けた。体育館の傍らにはポンプ式の井戸があった。
二人は井戸端に自転車を置き、冷たい水で渇いた喉を潤した。
洋平が何気に振り向くと、そこには一つだけ点った裸電球の灯りに、木造の校舎がまるで廃屋のように浮かび上がっていた。
美鈴は風に叩かれ、悲鳴を上げる窓硝子にたじろいだが、洋平はしばしば友人と共に校舎に宿泊していたので、その際の肝試しの体験からこの種の恐怖には慣れていた。
彼が真に恐怖と感じるのは、休日に皆が遊んでいるものと思い込んでやって来たものの、誰一人として姿がなく、深閑とした広い校庭に一人だけ取り残されてしまった孤独感だった。
ところが、体育館の裏手を通り、田んぼのあぜ道に一歩足を踏み入れた途端、まるで別世界にワープしたかのように空気が一変した。その五感に受ける寒々とした感触は、これまでとは比べようもない恐怖心との戦いが待ち受けていることを洋平に予感させた。数日前、笹竹を切りに行ったときと同じ道なのだが、昼と夜とでは、その趣は全く異なっていた。
雲の流れに、明暗が去来していた。
月が顔を覗かせているときは、薄明かりに周囲が何となくわかったが、雲に隠れて全くの暗闇になると、懐中電灯の光が一部分だけをくっきりと照らし出すという、異様な空間となった。
辺りに民家の灯りなどあるはずもなく、深々とした闇夜に、蛙の鳴き声が響き渡っていた。遠く山の方で風にたなびく木々の音は、山奥を住処とする悪鬼羅刹の類か、あるいはあの世からの警告のように聞こえていた。
昼間は、小鳥のさえずりのように心地良い小川のせせらぎさえも、今は地獄へと引きずり込もうとする、下心を押し隠した悪霊の猫なで声のようにも聞こえ、これらがこの闇を一層不気味なものにした。
「はあ……」
思わず洋平の口から溜息が出る。
美鈴はそっと洋平の手を握った。その温もりは洋平に勇気を与えた。
「鈴ちゃん、行こう」
二人はゆっくりと歩き出した。
歩みを進める先々で、眠りの邪魔をする気配に反応した、何者かの蠢く様子が伝わってきた。水辺の飛び込む音、山側での草を踏みしめる音……。その度に懐中電灯を向けるが、彼らの正体を見定めることができず、気味悪さだけが増幅していった。
中でも水の上を滑る音は、蛇が泳いでいることを想像させ、鳥肌が立つほどだった。
多くの敵に囲まれながら、何一つとして自分の目で捉えることができず、一方的な監視の中を進まねばならなかった。そのため、わずか三百メートルほどの道のりだというのに、洋平には果てしない暗黒の世界を突き進んでいるように思えてならなかった。
この圧倒的な恐怖の前に、洋平は熱の汗とも、冷や汗とも区別の付かぬものを掻いていた。その肌を伝う汗に、雨を誘う湿気を含んだ生暖かい風が絡みつき、いっそう不快さを増した。
一瞬、洋平は計らずも二人だけでやって来たことを後悔した。しかし、いまさら引き返すことはできなかった。それは美鈴に対する見栄ということだけでなく、すでに彼自身の問題に転化していたからである。
洋平には、この場所にやって来て、腑に落ちたことがあった。
隆夫の怪我を知ったとき、美鈴と二人だけの蛍狩りに拘った理由が、ようやくわかった気がしていた。彼は無意識のうちに、この冒険を己自身の試金石と捉えていたのだ。恵比寿家とは関わりのないこの冒険で、一己の人間として自らを試そうとしていたのである。
したがって、もしここで引き返せば、彼はこの先自分自身の力のみでは、何事も乗り越えることができなくなるのではないか、という漠然とした未来への恐怖を感じていた。
洋平は、内面から沸き起こるもう一つの恐怖を払拭するためにも、今対峙している自然の恐怖に打ち勝たなければならなかったのである。
いつしか、美鈴が洋平の腕にしがみついていた。
「鈴ちゃん、大丈夫? 怖くない」
洋平は、自身の葛藤の中で訊ねた。
「怖いけど、洋君と一緒だから……」
美鈴は、洋平の腕を一段と強く締め付けた。彼女の手に触れて伝わった温もりが、洋平の挫けそうになる気持ちを奮い立たせた。
ようやく道程の中ほど辺りまでやって来たときだった。
突然、
「バーン、バーン」
という音が、背中越しに聞こえた。
驚いて振り返ると、東の空に花火が打ち上がっていた。様子見となっていた花火の打ち上げがいま始まったのだった。
「バーン、バーン……、バーン、バーン」
花火は間髪を入れずに、次々と打ち上がった。時ならぬ爆裂音は、洋平を勇気づける手助けとなった。四方八方を敵に囲まれた中で、天からエールを受けているかのように、彼の心を鼓舞したのである。
とはいえ、悠長に天空の芸術を見物している余裕など与えられるはずもない。花火の明かりに垣間見られた雲行きは、あらためて雨の襲来が近いことを知らしめていたのである。ここまでやって来て、もし雨に祟られたりなどすれば、蛍狩りに寄せた二人の想いは、水泡に帰すことになってしまうのだ。
――何としても、蛍を見つけなければならない。
洋平は、花火の爆裂音に背を押されるように道を急いだ。
どうにか山道の入り口に着いた。
そこから先は、隆夫に聞いた話を思い出し、紙に書いてもらった地図を頼りに進んで行くしかない。
洋平は、帰り道に迷わない工夫もした。適当な間隔を置いて、裁断した新聞紙をセロハンテープで、木々に貼り付けながら進んで行ったのである。
覚悟はしていたものの、足取りは鈍いものなった。昼間とは違い、足は取られるし、木の枝に頭をぶたれるし、挙句に蜘蛛の巣を顔に受けたりしたのである。
二人が木々にぶつかる度に、眠りを犯す振動に怒った山鳥の、翼のはためく音や奇声があちらこちらで鳴り響いた。
美鈴は、洋平の背中に顔を埋め、ぴったりと密着して離れなかった。このことが、ただでさえ覚束ない足元をより困難にさせたが、その反面、二人だけでこの障害に立ち向かい、恐怖に耐えているのだという心理的な抑圧を受けた中での一体感が広がっていった。
それは、秘密の共有とは全くの対極にあるものだった。
しばらくすると、かすかに小川のせせらぎの音が耳に入ってきた。隆夫の描いた地図に間違いはなかったようだ。二人は顔を見合わせ肯きあった。
現金なもので、希望が湧いた二人の足取りは自然と軽くなった。そして、水の音を頼りに進んで行くと、ほどなく前方のそこかしこに点在するほのかな灯りが見えてきた。
鈴ちゃん、懐中電灯を下げて」
蛍の群生が近いと思った洋平は、声を落として言った。洋平は、彼らを刺激しないようにと、自らも懐中電灯の光を足元に落とした。そこから先は、蛍の光を目印にして進めば良かったのである。
目の前を塞いでいた枝葉の束を払ったときだった。
「あっ!」
洋平は、立ち止まって絶句した。
「す、すごい……」
洋平の背中越しに覗き見た美鈴も呻いた。
目の前に信じられない光景が広がっていた。何百、何千、いや隆夫の言ったとおり、数など計り知れないほどの蛍が蠢いていた。
いくつかの塊に別れ、ある者たちは水辺を飛び交い、またある者たちは水辺の木々の葉や草に止まり明滅していた。彼らは、オスの求愛行動をきっかけにして、一つの群れの塊が一斉に飛びまわり、やがて別の葉や草に移って行った。
一定の間隔を置いて、あたかも光のマスゲームのように幾度も繰り返すのである。
その見事なまでの幾何学的な演舞は、とてもこの世のものとは思えず、もし天国が存在するとすれば、きっとこの空間も、その一部に違いないとさえ思えた。
これぞ大自然の営みだった。
洋平は天の星々も宇宙ならば、蛍の群生もまた宇宙なのだと思った。遠い彼方から光をかざし、無言で見守る大宇宙が父ならば、手の届きそうな眼前にあって、無限の優しさで暖かく包み込んでくれている小宇宙は母なのだと悟ったのである。
二人は、暫し放心したように見つめていた。
すると、突然一匹の蛍が群れから外れ、美鈴の袖に止まった。それは、まるで仲間を代表して、二人に挨拶にやって来たかのようでもあり、時ならぬ闖入者を検分しにやって来たかのようでもあった。
この思わぬ出来事に、
「うわっ、蛍が止まった。どうしよう」
と、美鈴は小さい声で、しかし興奮を隠せずに言った。
「そのままにして」
洋平がそう言うと、彼女は身じろがずにいた。
蛍もまた、彼女の袖で明滅していた。美鈴は蛍を刺激しないように、静かに袖を顔の近くに寄せると、息を潜め、瞬きもせずに凝視していた。闇の中に、蛍の明滅に合わせて、彼女の顔が浮かび上がったり、消えたりしていた。
洋平は飽きもせず、美鈴と蛍の無言の交信を見つめていた。蛍の群れは、変わらず神秘の舞踏を続けていた。ときおり吹く風に煽られて、規律を乱したりするが、それがまた玄妙な趣を漂わせ、二人をいっそう幻想的な世界に引き込んでいったのだった。
たおやかな時間が流れていった。
「鈴ちゃん、そろそろ、帰らか?」
洋平が重い口を開いた。この情景を見ていると、悠久の時の流れに漂っているようで、少しも退屈しなかったが、そうかと言っていつまでも居られるわけではなかった。二人に与えられた時間は、それほど残ってはいないのだ。
「もう……」
美鈴は名残惜しそうな顔をした。
「雨も近いし……」
洋平も後ろ髪を引かれる想いで言う。
「蛍さん、さあ、仲間のところに戻って」
美鈴は口を窄めると、促すようにやさしく息を掛けた。
蛍は羽を広げて飛び立つと、まるで別れの挨拶をするかのように、彼女の顔の前を二、三度旋回してから群れの中に戻って行った。
「蛍さん、ちゃんと仲間のところに戻ったね」
美鈴の口元に、優しい微笑が宿っていた。それは蛍の瞬きに少しも劣らない美しさだった。