付き合いの薄かった隆夫の親戚の者たちが早々に席を立ったため、精進落としの酒宴はさながら同窓会の様相を呈していた。
洋平は皆の顔を一人一人見渡し、つくづく彼らとは利害関係がなくて良いと微笑んだ。高校や大学の同窓会だと、懐かしさよりも職業や肩書きの方が気になるものだ。名刺交換をすれば、優越感と劣等感が去来し、ときには翌日の営業電話にうんざりさせられたりもする。
だが目の前の彼らは、昔話に花を咲かせるだけで、お互いの現況を深く探ったりはしない。一応尋ねたりもするが、おざなりなことは明白である。きっと、明日になれば忘れているだろう。
この場だけは、社長も従業員も大工も漁師も肩書きなど一切関係がない。独身だろうと離婚者であろうと、子供が有ろうが無かろうが全くの同等なのである。
その彼らも、時間の経過と共に一人抜け二人去りして、二十二時頃ともなると、残ったのは洋平と律子の他数名となっていた。
「台風も近づいちょうけん、そろそろ今夜はお開きにしょいや」
善波修吾がそう言うと、
「そうね。明日の夜の精霊舟流しもあることだしね」
律子が同調した。
「ちょっと、待てや。仏さんを一人にするのか」
「そが言ったって、家族が居らんけん、仕方ないだが」
不服そうな顔をした洋平を修吾が宥めた。
「せやけど、仏さんが寂しいがらんかな」
「洋平君。お通夜と違って、一晩中仏さんの伽をしなくても良いのよ」
そうか、と律子の言葉に頷いた洋平は、
「でも俺は残るよ。俺はお通夜にも葬式にも出とらんしな。今夜ぐらい隆夫の傍に居らんとな」
隆夫の遺影に向かって言った。
洋平は美穂子に、朝まで共をすると言って家を出ていたので、今更恵比寿に戻るのもばつが悪かった。
「そげしちゃれ。隆夫も喜ぶがな」
修吾はそう言いながら、家の鍵を洋平に渡した。
皆が帰ると、洋平は戸締りを始めた。先ほどまで届いていた松虫の鳴き声が、風の音に掻き消されていた。予報どおり台風が接近しているらしかった。
一人きりになった洋平は、線香を継ぎ足しながら隆夫の遺影をまじまじと見つめた。
隆夫が怪我をしたという連絡が入ったのは当日の昼前だった。
巣潜りをしていて、誤って岩場で足の裏を切り、山に分け入るのは無理だというのだ。隆夫が同行できないのであれば、蛍狩りは取り止めとせざるを得なかった。
美鈴は痛々しいほど憔悴していた。
洋平が二人だけで蛍狩りに行く決意を固めたのは、まさにその姿を目の当たりにしたときだった。
美鈴が今年の蛍狩りに拘る真の理由は何か――。
絶えず心に纏わり付いている、漠然とした不安を一掃するためには他に方法がないと覚悟を決めたのだった。
お盆の夜であれば、休漁なので誰かの同行は可能かもしれないが、洋平がそうした考えを抱くことは全くなかった。二人だけで蛍狩りをすることに意義があると思い込んでいたのである。
実は、こういう事態を予測していた訳ではなかったが、洋平は万が一、隆夫が裏切ったときのために、ある一つの計画を練っていた。ただそれは、十二歳の自分たちにとって、あまりに無謀とも言える計画だったので、心の片隅に追い遣っていた。
洋平はうな垂れている美鈴の気持ちを探った。
「鈴ちゃん、どうしても蛍を観に行きたい?」
「どうしても行きたい」
顔を上げた彼女の表情から、切実な想いがひしひしと伝わってきた。
「たとえ、どんなことがあっても行きたいだか」
「行きたい!」
美鈴は洋平の謎掛けにも、瞬きをする間もなくきっぱりと答えた。その表情には、彼女の意思の強さが現れていた。
「そんなら、おらに一つ考えがあるのだけんど……」
「どんな」
美鈴は期待の滲んだ表情で訊いた。
洋平は声を落として秘めた計画を話し始めた。
それは、
二人だけで蛍狩りをする。
決行日は花火大会がある十五日とする。
まず、前もって着替えを納屋に用意しておき、二十時前に花火を観に行くと言って家を出る。
門を出たら、海岸の方ではなく、反対の方向から屋敷の裏手に回り、裏門から中に入って納屋で着替える。
懐中電灯や長靴、軍手、タオルも事前に用意して置く。
裏門の鍵は、夕方地主さんにお参りするときに開けておけば、誰も不自然には思わない。
時間が掛からないように、自転車を用意して置く。
蛍を見たら、すぐに帰って来て再び納屋で浴衣に着替える。
というものだった。
「鈴ちゃん。十五日の朝までに、この前笹竹を切りに行ったときの服を、うちに持って来ることができるだか?」
「うん、持って来る」
声に張りが戻っていた。美鈴は一縷の望みを見出せた嬉しさで、精気が甦っていた。
冷静に考えれば、実に稚拙な計画ではあったが、思わぬ副産物も生み出していた。
『雨降って地固まる』ではないが、二人を落胆させた隆夫の怪我は、一転して秘密の冒険計画を共有しているという、愛しい感情とは異なる、ある種の同志のような一体感を生む転機となったである。
このときから、二人は来るべき未知の冒険に向けて、日を追う毎に精神的な繋がりを深めていったのだった。
ただ当の洋平は、この計画が不完全なものだとわかっていた。
彼は自転車を持ち合わせていなかった。事情があり、中学に上がるまで自転車は与えてもらえないことになっていたのだ。
これは意外と難題だった。墓地の裾野を歩かなければならないし、余計な時間を費やすことによって、冒険から帰った後の、厄介な状況も覚悟しなければならない。
「私も洋君に話があるんだけど……」
思案に耽っている洋平を窺うようにして、美鈴が話を切り出した。
「なに」
「あのね。お盆までに洋君ちにお泊りしたいんだけど、だめかな」
洋平の顔が、ぱあっと明るくなった。
「それ、ええね。うちは大工屋さんがええと言わさったら、たぶん大丈夫だと思う」
美鈴の言動にすっかり慣れた洋平は、こういった提案にも驚かなくなっていた。むしろ、彼女の恵比寿家への溶け込みようからすれば、至極自然なことのように思えた。
「お祖父ちゃんは、恵比寿さんが良ければいいよ、って言ってくれた」
「そんなら、お母ちゃんに訊いてみるけん」
洋平は自転車のことなどすっかり放念し、喜び勇んで里恵に願い出た。
ところが、里恵の表情は芳しくなかった。
うーん……と険しい顔をしたのだ。
「お母ちゃん、どうかした」
「まずはお祖父さんの許しを貰わんといけんけど、洋平、ちいと難しいかもしれんよ」
「えっ、なんで」
思い掛けない里恵の言葉に洋平は呆然とした。彼は、密かに難問が持ち上がっていたことを知らなかった。
不安の種を抱えながら、洋平は足早に書斎へ行き、祖父の許しを得ようとしたが、里恵の言ったとおり、洋太郎は渋い顔になった。
「洋平、それは無理だが。そいに、家の中はええが、美鈴ちゃんと外に出掛けたらいけん」
「お祖父ちゃん、なんでだかい」
洋平は、祖父の心変わりが納得できなかった。
「わいたちの噂が村中に広がっちょうだが」
「だいてが、裕子叔母さんには、おらの好きにさせると言わっしゃったがの」
洋平は洋太郎を問い質した。彼が、絶対者である祖父に反論するなど考えられないことだった。
「ああ、確かに裕子にはそげ言った」
「そげなら、なんでだかい」
「そいがな、洋平。噂がトラ姉さんの耳に入ってしまっただが」
「ええー、船屋のおばさんに……」
洋平は絶句した。
「でも、なんで……」
呻くように訊ねるが精一杯だった。
「わからんが、どうやら誰かがトラ姉さんに告げ口したみたいだがな。今朝、わしに釘を刺す電話があったばかりだが」
まさに青天の霹靂だった。
――くそー、余計なことしやがって。いったい誰だ。
洋平は、姿を見せぬ敵に苛立ちを覚えた。
洋平は『おばさん』と呼んだが、祖父洋太郎の実姉なので、実際は大伯母に当たる。洋太郎より十歳年上で、権力者の祖父が唯一頭の上がらない存在だった。
洋太郎は次男だったが、女の子が三人続いた後、ようやく誕生した長男が夭折してしまったため、その後すぐに生まれた彼は、家族から一層愛情を注がれた。
特に長女であり十歳も年嵩のトラの可愛がりようは尋常でなく、物心が付く頃から、それこそ母親代わりとなって養育したと言っても過言ではなかった。
洋太郎が経営者として成功し、没落していた恵比寿家の再興を果たすことができたのも、トラの薫陶が下地になっていたことは間違いなかった。
トラは男尊女卑の風潮が残る時代にあって、男も舌を巻くほどの進取の精神の持ち主で、当時では珍しいほど学問に精進した才女だった。彼女は、家庭教師代わりとなって、己の持てる教養を洋太郎に授け、まるで洗脳するかのように恵比寿家再興を耳に吹き込んだ。
洋平は大伯母のトラが大嫌いだった。
お盆や正月、あるいは法事のときなど、たまに恵比寿にやって来ては、ウメや里恵にあれこれと指図をし、それこそ主のように振舞っていたからである。彼の絶対者であり、敬愛する洋太郎に対してまでも、同じ態度を取っていたため、自尊心を深く傷つけられた彼はトラを忌々しく思っていた。
そのトラが自分の恋にまで口を挟んできた。今年のお盆も、間違いなくやって来る。それまでに、何らかの決着を付けなければ、宿泊どころか蛍狩りや盆踊りも危うくなる。
洋平にとっては、看過できない難敵の登場だった。
洋平が大伯母トラとの対決を決意するまで、多くの時間を要しなかった。良き理解者である洋太郎と里恵も当てならない以上、彼には直談判するより他に手立てがなかったのである。
トラは、美保浦から大きな峠を越えて南に下り、そこから東へ五キロ行き、再び大きな峠を越えて北に上がった『片田(かただ)』という、美保浦に匹敵する村の『船屋』に嫁いでいた。船屋は、その名のとおり船の建造や修理をするドックを生業としていて、漁業で成り立っているこの界隈の分限者だった。
恵比寿水産がこれといった支障もなく順調に発展していったのも、トラが当時船屋の当主だった夫、つまり洋太郎の義兄を通じて、各方面に根回しをしていたことも大きな要因となっていた。祖父洋太郎が彼女に頭が上がらないのは、この辺りにも原因があるのだろうと洋平は推察していた。
さて、思案すべきはどうやって片田へ行くかであった。
路線バスはあったが、直通は無く、乗換えを含めると片道二時間も掛かったうえに、洋平は一度もこの方面のバスへ乗ったことがなかった。しかも、一人でバスに乗っていれば、不審を抱いた誰かが余計な気を回して、恵比寿家に連絡をするかもしれない。
洋平は、自分の思惑を前もってトラに知られたくなかった。彼女は、まさか従順だった自分が直談判に訪れるとは夢にも思っていないだろう。彼は、トラの虚を付きたいと思っていたのである。
洋平は、海岸線沿いの山道を歩いて行くことにした。五ロ足らずの距離なので、一時間あまりで辿り着くことができる近道である。
しかも、洋平はその道を良く知っていた。片田へ行く途中に、アケビや栗の穴場が数多くあったので、毎年秋になると、頻繁にそれらを採りに行っていたからである。
ただ、いくつか問題もあった。栗取りは、いつも友人や下級生ら七、八人と連れ立っており、一人きりで歩いたことは一度もないということ。そして最大の難所、別名『蝮沢(まむしざわ)』と呼ばれる、蝮が繁殖する沢を通らなければならないということだった。
洋平の耳には、沢には蝮がうようよしているという噂も入っていたため、これまでに渡ったことは一度もない。沢の先にアケビや栗の穴場があっても、決して近づいたことはなかったのである。
だが、洋平の決意は揺るがなかった。
トラとの直談判が避けられないように、蝮沢の踏破も乗り越えなければならない試練だと腹を据えたのである。
翌日、午前の勉強を済ませると、洋平は美鈴に理由を話して大工屋へ帰し、釣り道具を手にして片田へと向かった。片田は小瀬へ行く道筋の先にあったので、釣り道具を手にしていても、誰も疑うことがないし、蝮沢の備えとして長靴も履けると計算したうえでのことだった。
熟知した道とはいえ、山道の一人歩きは、結構勇気がいるものである。
片田までのほとんどの道幅が、人一人が通れるほどの狭さで、しかも小瀬を過ぎた辺りからは、至る所でそれをも塞ぐように雑草が生い茂っており、場所によっては足元どころか、前方が全く見えないところもあった。おまけに、木々の密集しているところは灼熱の日差しをもすっかり閉ざし、夕闇のように薄暗くて気味が悪い。
洋平が足元に注意しながら、緩い坂を下っていくと、ふいに水の音が聞えてきた。
――蝮沢だ。
洋平の背筋に緊張が奔った。そして、いよいよ蝮沢かと思った途端、とぐろを巻く夥しい数の蝮が脳裏に浮かび、足が竦んで動けなくなった。立ち止まっていれば、余計危ないとわかっていても、まるで金縛りにあったように一歩が踏み出せない。
――このまま引き返そうか。
と弱気が心を覆い始める。前にも踏み出せず、後ろにも引けず、洋平が逡巡していると、前方でガサッという音がした。
その刹那、洋平は踵を返していた。
――情けない、情けない……。
と唇を噛み締めながら、早足で戻って行った。
小さな峠を越えると、美保浦の景色に戻った。視線の先には、小瀬が見えていた。見慣れた風景なのに、なぜか懐かしさを覚えた洋平の瞼に、ふいに美鈴の笑顔が浮かんだ。彼女のはしゃぐ声も聞えたような気がした。
――よし、もう一度挑戦しよう。
洋平は、身体に力が漲ってくるのを感じた。
洋平は、再び片田へ向け力強く歩みを進めた。また水の音がしたが、今度は怯まなかった。それこそ、呼吸も忘れるほど無我夢中で蝮沢を走って渡った。蝮がいたかどうかもわからないほど、一目散に走り切った。
蝮沢が背に遠くなると、どっと疲れが襲ってきた。だが、道のりはまだ半ばである。洋平は立ち止まって、二、三度深呼吸をして息を整えると、片田へと歩き出した。
時計を持っていなかったので、確かな時間はわからなかった。ただ、歩いた距離の感覚で、本能的に片田が近いことを肌に感じていると、峠の頂上に立ったところで、急に視界が広がり、紺碧の海が目に飛び込んで来た。
――片田の海だ。
これまで一度も見たことはなかったが、洋平はそう確信した。
片田の海の表情は、美保浦のそれとは違っていた。東向きの美保浦湾と違い、北向きの片田湾は、波の向きに加えて光の当る海面の反射角が違うからなのだろう。
村人に場所を訊き、どうにか船屋に着いた。さすがに、この界隈有数の分限者だけのことはあって、恵比寿家に勝るとも劣らないほどの立派な屋敷だった。
洋平は深呼吸を一つすると、眦を決して門を潜った。
「こんにちは!」
洋平は玄関先に立ち、まるで宣戦布告でもするかのように、ことさら大きな声を上げた。
「どちらさんですかいの」
この家のおばさんらしき中年の女性が出て来て、小首を傾げながら訊いた。
「野田洋平です」
「野田……洋平?」
「恵比寿の野田洋平です」
「あれま……恵比寿の総領さん。これはこれは、ずいぶんと大きくなられましたなあ。すっかり見違えてしまったがの」
洋平だとわかると、女性は懐かしげな眼差しで、まじまじと彼を見つめた。
「一人ですかい」
「はい」
「バスで来なさったか」
「いえ。山道を通って来ました」
「あれ、まあ。それは大儀なことでしたなあ。そいで、今日はまた何の御用ですかいの」
「ちょっと、トラ大伯母(おば)さんに用事が有ってやって来ました。大伯母さんは居られますか」
「ええ。自分の部屋で休んで居りますけん、呼んで来ますだが、まあ中に入ってごしない、冷たいもんでも用意しますけん」
女性は洋平を応接間に通すと、トラを呼びに屋敷の奥に消えて行った。
やや間があって、トラが姿を現した。トラは、すでに七十歳を超えていたが、顔の色艶も良く、腰も曲がっておらず、歩く動作も矍鑠としていた。あの祖父が一目置くだけのことはあって、洋平はその威風に圧倒されそうになった。
「洋平。突然やって来て、おらになんの用じゃ」
トラは訝しげに訊いた。
トラに気付かれなかった……。思惑通りだったが、反面自分にとっての重大事を少しも気にも掛けていないことに、洋平は腹立たしくなった。
――こんな軽い気持ちで、二人の間に介入されたくない。
洋平の口調が自然と強くなった。
「大伯母さんには、おらの事は放っておいて欲しいだが」
「なにい。わいは何を言っちょうだ」
と言い掛けて、
「そげんことか」
トラは来訪の用件に気付いた。
「洋平。そいはならんぞ」
低い声で諭すように言った。
「なんでだかい」
「軽率なことをして、恵比寿の家に傷を付けたらいけんがな」
「傷って、どげなことだかい。わいは、トラ大伯母さんに文句を言われるようなことは何もしちょらんが」
「わいはそげ思っちょっても、世間というのは、そげに簡単なものではないだが、わいの知らんところで、色々と噂をするもんだが」
「だいてが、お祖父ちゃんはええって言わさった」
「洋太郎はわいには甘いけん、なんでもいうことを聞くだが。だいてが、おらはそういう訳にはいかん」
洋平はその言い様が気に入らなかった。
「トラ大伯母さんは、もう恵比寿の人間じゃないだが」
「な、なにを言うだか、この子は。わいは、いつからそげな生意気な口を利くようになっただか」
怒気を含んだ声だった。だが、洋平は臆しなかった。
「いつからって。本当のことだが。大伯母さんは、とっくに『野田』ではないだが」
「まだ、言うか! これ以上生意気な口を利いたら承知せんぞ」
その言葉に心の奥の何かが切れた。
洋平は、
「承知せん? それはおらの台詞だが。大伯母さんがこれ以上、おらたちのことに介入してくるつもりなら、おらにも考えがあるけん!」
と言葉を荒げた。
トラは、初めて見る洋平の形相に、驚きを通り越したようで、口を半開きにしたまま見つめていたが、やがて我を取り直すと、
「わいの考えとはなんだ」
と静かな口調で洋平の腹を探った。
「おらは恵比寿のなんだかい?」
「そりゃあ、総領に決まちょうがな」
「ということは、いずれおらが恵比寿を継ぐちゅうことだの」
「当たり前だがな。だけん、おらも心配しちょうだが」
「そんなら、大伯母さん。おらが当主になれば、恵比寿はどうにでもできるっちゅうことだの」
そう言って、洋平は不適な笑みを浮かべた。
「わ、わいは、いったいなにをする気だ」
漠然と洋平の悪意に気付いたウメは、鋭い目つきで睨み付けた。
「なにを……って、いま大伯母さんの頭に浮かんだことだが」
「わ、わいは、わざと恵比寿を潰す気か」
トラの脳裏に、少女の頃、恵比寿の身代を傾かせた祖父の記憶が過ぎった。洋平にとっては高祖父に当たる。
「なるほど、それもええな。大伯母さんは、わいよりも恵比寿の方が大事らしいけん、その恵比寿を潰すのもえかもしれん」
洋平は、極めて冷めた目で言った。
「それもええ? なら、そげではないのか」
さすがのトラも、洋平の真意は見抜けなかったようだった。
「おらも、恵比寿は大事だけん。そげんことはせん。むしろ、松江高校から東京大学へ入って、うんと勉強して恵比寿をもっと大きくしちゃる」
「それなら、わいはいったいなにを……」
と言い掛けたトラの紅潮した面が、一瞬にして青ざめた。
「まさか。まさか、わいは……」
「大伯母さんが、おらの大事なものを踏みにじる気なら、おらも大伯母さんの大事なものを壊しちゃる。手始めに、恵比寿の船の建造や修理は、他所に頼むことにするけん」
「な、なんてことを言うだ」
思わずトラが身体を震わせる。
「そのときは、大伯母さんはこの世にいないけんど、落ちぶれていく船屋をあの世から見ちょらさい」
洋平は捨て台詞のように言うと、
「そげんこと、そげんこと……」
うわ言のように繰り返すトラに止めを刺した。
「おらは本気だけん。それが嫌だったら、恵比寿は美穂姉ちゃんに継がせるよう、お祖父ちゃんに言ったらええ。けんど、それはそれで恵比寿は世間の笑い者になるけんね」
確かに頭脳明晰な嫡男を差し置いて、凡夫な姉に婿を迎えて跡継ぎに据えることなど、世間の目には狂気の沙汰と映るだろう。
「うっ……」
トラの顔面から生気が失せていった。
洋平が学力優秀なのはトラも知っていた。神童とまでは言わないまでも、俊童であることには間違いがなかった。言葉の通り、東京大学に進学し、経済と経営学を学び、必ずや恵比寿水産を成長させることだろう。
しかし、トラの憂いは他にあった。
トラは嘯くように言った洋平の眼底に、怪しげな妖火を見ていたのである。
――この子の心には狂気が宿っている。子供だと侮ってはいけない。
返す言葉がないトラは、苦渋に頬を鈍く歪めるしかなかった。
美鈴に向けた言葉の刃もそうだが、一旦心の箍が外れた洋平は人が変わったように狂気が顔を覗かせ、すこぶる悪知恵が働いた。
バスに乗って帰宅した洋平は、さっそく洋太郎に呼ばれた。
洋太郎は何か不思議なものを見るかのような目で見つめると、トラからこれまでどおり美鈴との交際を認めるとの連絡あったと告げただけで、洋平がどのような談判をしたかなど一切訊かなかった。
八年後、二十歳になった洋平が、突如として恵比寿家の後継の座を放棄したため、姉の美穂子が継ぐことになる。言うまでもなく、今回の件とは全く無関係だったのだが、この面談がトラウマになっていたのか、トラはしきりにその理由を洋太郎に訊ねたという。