3
黒鉄斬輝は、決して寝起きのいい方ではない。
いや、悪い、と言い切った方が正確だろう。
低血圧なのだ。
「むぅううぅう」
喉の奥で唸りつつ、まだ半ば眠ったような状態で、のっそりと一人だけのベッドから起きて、部屋を出る。
ぽっかりと欠伸をしながら、斬輝が朝イチで向かうのはキッチンである。
ゆうべ、いつ眠ってしまったのか覚えていない。
懐かしい感覚がしたが、その正体が何だったのかも、忘れてしまっている。
まあいいか。どうせ適当にトーストでも焼いていれば、そのうち思いだすだろう。
「あら、おはよう」
だからキッチンの方から艶のある柔らかな女の声が彼を迎え入れた時、寝惚けた脳天を蹴り飛ばすほどの衝撃があった。
深紅の髪を揺らして、リアス・グレモリーが振り返る。駒王学園の制服の上からは、どこから引っ張り出してきたのか裾にフリルのついた黄色いエプロンまでつけていた。
「あれ……お前、なんでウチにいるんだよ」
「なんでって、忘れたの?」
「忘れたの、って言われても……」
……何かあったか、と言いかけて、
「あ」
思い出した。
「思い出した?」
「あ、ああ。まあな」
懐かしい感覚だと思ったのは、彼女のぬくもりだったのだ。
……いや、突き詰めて言えば、自分以外の者のぬくもりだろうか。
一気に目が覚めた黒鉄斬輝は、だから苦笑めいた笑みしか浮かべられなかった。
「ゆうべはよく眠れたか?」
「ええ、おかげさまでずいぶん気分が良くなったわ。本当にありがとう、斬輝」
そう言って屈託のない笑顔を浮かべるリアスに、よせやい、と斬輝もつられて微笑んだ。
キッチンのテーブルに並べられたサラダやら目玉焼きやらに気がついたのは、その時だ。
「なんだ? これ」
「なんだって、見て判らないの? 朝食よ」
「作ったのか?」
「もちろんよ。冷蔵庫に残ってるもので作ったから、それくらいしか出来なかったけど……もしかして足りなかった?」
こちらを見上げつつ不安げに尋ねながら、リアスが席に着く。
「いや」
斬輝も向かい側に座った。
この前はお互い立場が逆だったよな、なんて思いながら。
そして、唇を笑みに歪める。
「大丈夫だ。ありがとな」
「良かった。それじゃ、食べましょう?」
「おう」
いただきます、と誰かと一緒に言える日が来るなんて、本当に何年ぶりだろうか。
「ねえ、斬輝」
リアスがそう呼んだのは、彼女が作ってくれた朝食をあらかた食べ終えた頃だった。
「なんだ?」
「今日ね、部室でみんなに話しておかなければならないことがあるの」
すぐに、ぴん、ときた。
「最近、ずっと悩んでたことか」
斬輝の問いに、ふとリアスの目が見開かれ、それから、微笑むように細められた。
まるで、こちらの台詞があらかじめ判っていたかのように。
あるいは、待っていたのか。
「ええ」
彼女はうなずいた。
「そうよ。仲介人にグレイフィアを呼んでいるから、詳しい話は放課後になってしまうと思うけど……」
「グレイフィア? ……ああ、あのメイドの人か」
聞いた覚えのある名だ。
だから斬輝も、
「ま、俺はお前が話してくれるまで、訊きゃしねえよ」
「ふふっ、あ~りがと」
そういえば、
「ああ、そうだ」
「なに?」
「旨かったわ」
言ってから、にやり。
リアスは一瞬呆けたような顔をしてから、すぐに頬を赤らめた。
「なによ、もう」
「なんだよ、素直な感想は嫌いか?」
「そ、そうじゃないけど……いきなりというか、何というか……」
「なんだよそりゃ」
苦笑しながら立ち上がる。時間的に、そろそろ登校する準備をせにゃならんころだからな。
だが、そのままリアスの脇を通り過ぎて廊下へ出ようとする斬輝の腕を、ふいにリアスが摑んだ。
「ん?」
肩越しに振り返って、彼女を見やる。俯いているのか、ボリュウムたっぷりな紅髪の、そのてっぺんしか見えない。
「どうした?」
「あ……いや、あの……」
何か言いたげだが、いかんせんうつむいてるのと彼女らしくもないボソボソとした喋りのせいでよく聞えない。
「リアス?」
「い、一緒に……行かない?」
「へ?」
「だ……だから! 一緒に学校行きましょうって言ってるのよ!」
ぶん、と勢いよくこちらを見上げるリアスは……おいおい、なんで耳まで真っ赤になってるんだよ!
「あ、お……おう」
斬輝としてはそれぐらいどうってことないのだが、リアスのあまりの気迫に押されて少々返答に詰まってしまったが、そういうことになった。
結局、そのままリアスと一緒に駒王学園に登校した斬輝は周りから色々な感情を含ませた視線で見つめられたわけだが、気にするのはもうやめた。
授業を終えてリアスと部室に到着した斬輝は、そのまま他のメンバーが来るまで待つことになった。
先客とともに。
ソファーに仰向けで寝そべった斬輝が顔を仰のかせるとリアスと彼女の執務机が逆さになって見える。
無論、彼女の隣に屹立する美しい銀髪の姿も。
メイド服を着込んだその出で立ちに、斬輝は見覚えがあった。たしか、斬輝がはぐれ悪魔討伐への協力に関しての具体的な話し合いを進める際に、リアスの兄貴と一緒にいた奴だ。
冥界とやらに直接出向いたことはないが、空間投影型の連絡時に一度顔を合わせた覚えがある。
だから今日が本当の意味での初顔合わせなのだ。さっきも、お互い軽く挨拶を済ませた。
名を、グレイフィア・ルキフグスという。
「あとどれくらいだ?」
残りの部員が来るまで、だ。
「もう少しよ」
応えるリアスの声音にも、若干の緊張が伴っている。
黒鉄斬輝は、宣言を忠実に守った。
彼女から切り出してくれるまでは、こちらからの詮索は一切しない。
その気になれば、今まで何度も問い質すチャンスはあったはずだ。
何があったのか、と。
だがそれをしないのは、彼女のプライベートにかかわるというよりもむしろ、彼自身のプライドが許さなかったのだろう。
興味がないわけではない。可能ならば、事情が把握出来るのであればすぐにでも喰ってかかる。
だが、それは駄目だ。
彼女が自分の口で話すまでは。
重苦しい空気をこじ開けるようにして部室のドアが開かれたのは、それから五分ばかり経ってからだった。
最初に入ってきたのは、姫島朱乃だ。彼女はどうやら一連の事態をあるていど把握しているようで、いつも通りの笑みを浮かべるも、その表情はどこか硬く感ぜられる。
それから塔城小猫が来て、斬輝の向いのソファに腰を下ろすと軽い会釈を投げてきた。
彼女も似たようなものだった。もっとも、可能な限り関わりたくなさそうに黙りこくっているのだが。
リアスのようすが変わり始めたのに気づいたのは、まさにその時だ。メンバーがそろってゆくにつれて、彼女のまとうオーラが少しずつ……ほんの少しずつだが冷たいものへと移り変わってゆくのである。
その瞳には、すでに『少女としてのリアス』の面影は微塵もない。
『グレモリー侯爵家としてのリアス』、ただそれだけだ。
たまらず、斬輝も起き上がって、ちゃんと座りなおした。
会話のない張り詰めた空気が、部室を支配していた。
やがて、残りの三人も入ってきた。木場祐斗にアーシア・アルジェント、そして兵藤一誠である。もっとも木場もこの異様さから何かを感じたのか、その瞳は真剣だ。
見ると、アーシアも文字通りの無言の圧力に耐えかねてか、一誠の裾を摑んでいた。その頭を、一誠の手が優しく包み込み、撫でてやる。
それを見てから、
「揃ったな」
アンティークのテーブルへとため息交じりに呟いた。
「ええ」
応えて、リアスも立ち上がった。
思い出すのは、昨夜の一件である。
これでようやく、判る。
判ってやれる。
リアスが今、何に悩んでいるのか。
何が彼女をあそこまで追い詰めたのか。
「お嬢さま、私がお話ししましょうか?」
「いえ、いいわ。自分で話す」
グレイフィアを制して、リアスは部員達の顔を目で舐めた。
それから、実はね、と切り出した、まさにその瞬間、
部室を煉獄の炎が引き裂いた。
「なに!?」
部室の中央から立ちのぼる炎に、思わず斬輝は立ち上がる。
そのまま、すぐにリアスの近くへと駆け寄った。いつでも彼女を護れるようにだ。
その時になって初めて、『炎』が部室の中央に描かれたグレモリーの紋章の魔方陣から噴き上げていることに気がついた。
熱気が瞬時に部室にたち込め、炎がひりひりと頬を焼く。
「……フェニックス」
そして紋章が見たことのないものへと組み替えられてゆく時、ぼそり、とそばの木場がつぶやいたのが聞えた。
フェニックス?
火の鳥……か?
やがて、灼熱のエネルギーとして噴出する『炎』の中に、何かのシルエットが浮かび上がる。入れ替わるように炎は弱まってゆき、そして完全に消え去った時、転移魔方陣の上には一人の男が立っていた。
結構な長身だ。並んで立てば、斬輝よりも少しばかり大きいかも知れない。
「ふう。人間界は久しぶりだ。あいかわらず『こっち』の風はむず痒くて敵わん」
金髪にワイン・レッドのスーツを着崩して……その鋭い双眸が一人の女に向けられると、途端に笑みに変わる。
「よう」
にやり。
「逢いに来たぜ。愛しのリアス」
愛しのリアスだあ!?
見ると、リアスの方は半眼で男の方を睨んでいた。どうやらこちらとしては、歓迎する気はないらしい。
もっとも、斬輝もこの男の印象からして快くは思っていないが。
少なくとも、リアスにソノ気はないらしい。
だがそんなことはお構いなしにと、金髪の男は堂々とリアスへと近づいてゆく。
その挙動を視線で追っているうちに、ふいに目が合った。思った通り、斬輝よりもいくらか高身長だ。
男の瞳が、きゅう、と細くなる。
瞼を細めたのではない。文字通り瞳が縦に狭まったのである。
「おい」
頭のてっぺんからつま先まで、まるで値踏みするかのように視線で舐めてから、男が口を開いた。
だがそれは、斬輝に向けてのものではなかった。
「なんでこんなとこに人間がいるんだよ、リアス」
「人間だから……、なんだというの? 彼はれっきとしたウチの部員よ。この場にいて然るべき存在だわ」
それとも、とリアスは付け加えた。
「黒き血濡れの魔人、とでも言わないとあなたには判らないのかしら」
なんじゃそら。
聞いたことないぞ、と言いかけたが、
「なに?」
男の方は、どうやらそれで通じたらしい。
もう一度、こちらを向いた。
再び、お互いの視線が交わる。
底知れぬ瞳だ、と斬輝は思った。
それはまさに、あまたの闘いを切り抜けてきた戦士の瞳なのだ。
「こいつが、噂の……」
「おい、リアス」
男と視線を合わせたまま、ついに斬輝は尋ねた。
「その、黒き血濡れの魔人、ってのは、なんだ?」
「冥界でのあなたの二つ名よ」
「はあ!?」
無理やり視線を引っぺがし、弾かれる勢いで思わずリアスを見た。
「なんだよそりゃ!」
「あなたのご活躍は」
グレイフィアが引き継いだ。
「すでに魔王サーゼクスさまのお耳にも届いています。リアスお嬢さまの協力者という形といえど、すでに依頼されたはぐれ悪魔討伐を次々と遂行されている事実に変わりはありません。そういった功績もあり、すでに冥界においてその名は上級悪魔の家を通じて徐々に広まりつつあるのです。そして……」
「その中でついた名が、黒き血濡れの魔人である、てか?」
「そうです」
「ふうん」
まあでも、相手がこちらを知っているのならば、むしろやりやすいか。
「ていうか! あんた誰だよ!? ロクに名乗りもしないで俺達の部室にズカズカ入り込んできやがって!」
突如、割り込んでくるのは一誠だ。話の流れについていけてないのか、単にこの男が不愉快なだけなのか、挑むように前へ出た。
あん、とそんな一誠へと睨みを利かせる男を横目に、
「まあ、そういうことでな」
黒鉄斬輝は金髪の軽薄な男へと向き直る。
「そっちは俺達のことを知ってるんだ。あんたの名前も聞かせてもらいてえな」
「なんだよ。キミの協力者なのに、俺のこと話してなかったのか?」
「話す必要がないもの。するわけないじゃない」
「手厳しいのは相変わらずか、はは……」
男は目元を引きつらせながら、心から残念そうにつぶやいた。浮かべるのは、自嘲の笑みである。
それから、
「ご紹介します」
グレイフィアが、ぽつりと言った。
「こちらの方は、ライザー・フェニックスさま。純血の上級悪魔である、フェニックス家のご三男です」
上級悪魔……ということは、リアスと同じ爵位持ちの家柄ということか。
だが、眷属悪魔でもなければグレモリー家と密接に関係しているわけでもない、一部の上級悪魔の……それも長男ならともかく三男坊が出張ってくる理由とは、なんだ?
炎とともに現れるなんて言う、派手なアプローチをしてまで。
そこまで考えて、一つ引っ掛かりを覚えた。
アプローチ?
そうだ、さっきのは紛れもない、派手なアプローチだ。
ではそれは、いったい誰に対してだ?
ライザーと呼ばれたこの男は、ここに現れてからずっとリアスに熱烈な視線を送っている。まるでそれ以外の者には興味がないようで、かろうじて斬輝の二つ名にかすかな反応を示しただけだ。
リアスが軽くあからさまに目を背けても、構いもせずに。
「そして、グレモリー家次期当主の婿殿でごさいます」
思わず、背後のグレイフィアを振り返った。
今、こいつは何と言った?
「む、婿殿って……それにグレモリー家の次期当主って……ええ!?」
一誠も、当惑した声をあげるしかない。
白状しよう。
正直俺も、今のお前と同じ思考だよ。
だが、これでつながった。
ライザーがド派手に表れたのは、
執拗にリアスにからもうとするのは、
そしてリアスが逃げるように俺の家へ裸になって押しかけて来たのは、
「まさか」
「そうです」
グレイフィアは静かに頷いた。
「すなわち、リアスお嬢さまのご婚約者であらせられます」
「こっ、婚約ぅうぅうう!?」
直後、一誠の絶叫がこだました。