※5/14 加筆修正。
それは些細な偶然だった。
寝る前にレーティング・ゲームの対策を練ろうとネグリジェのまま寝室を出たリアスは、リビングへと続く階段で一誠とすれ違ったのだ。
あら、どうしたの?
あ、部長。何か色々悩んでたら眠れなくなっちゃって……、だから水を飲みに。
悩み?
あ、でももう大丈夫っス。斬輝先輩が話を聞いてくれて、おかげで吹っ切れました。
斬輝が?
はい。俺、頑張ります! ライザー達との闘いに勝って、部長やみんながまたいつもみたいに笑えるように!!
イッセー……、ありがとう。
じゃあお休みなさい、と言って部屋へと戻ってゆく一誠を見送ってから、ふう、と息をついた。
彼もまだ起きているのね。
バルコニーへと続く扉が開け放たれていたことに気がついたのは、だから伊達眼鏡をかけたリアスがリビングに入った直後だ。
吹き込む風を、感じた。
「斬輝?」
思わずそう呟いて、バルコニーに出る。
そして、
「……そんな」
見た。
見てしまった。
芝の溢れる庭の奥……湖にほど近いところにいる影を。
見慣れたその背中を。
「ぉおぉおおぉおお……!」
呻いて、黒鉄斬輝は腰を落とす。ばすばすという不気味な音が彼の軀から発せられると、幾つもの血飛沫が舞う。
手首から何かが腕輪のように突き出したと思えばすぐに引っ込んだ。
背中から一瞬だけ、肩甲骨が変形したような刃が突出するのが見えた。
だがそれも、一瞬で彼の軀へと引っ込んでしまう。
彼がついにくずおれた時には、思わずバルコニーから躍り出ていた。そのまま仰向けに寝転がる斬輝に、リアスはたまらず、彼の名を呼んでいた。
「斬輝!?」
その声に応えてか、斬輝が身を起こす。
「リアス……」
驚きで開かれる口許が、赤黒く汚れていた。
血に。
そしてちょっと悔しそうに、見つかっちまったな、と呟いた。
近くのテラスまで彼を連れて行って、適当なベンチに座らせた。
リアスもその向かい側に座る。
一抱えほどもあるレーティング・ゲーム用のマニュアル本と重要なところをまとめたノートを抱きしめたまま、リアスは覗き込むように身を乗り出した。
「大丈夫?」
「ああ、まあな」
「こんな時間まで修行してたの?」
「見てりゃ判ンだろ? でなきゃ、夜更かししてねえさ」
そう言って立ち上がると、斬輝はそのまま外の方を向いた。テラスの塀に両腕を乗せて、寄っかかる。
「兵藤の奴も木場も塔城も、必死こいて強くなろうとしてる。その相手をしてる俺が、いつまでもウカウカしてられねぇだろ? 俺だって、まだ『こいつら』のことを把握しきれてねぇんだ。そんな状態で、満足に闘えるかよ」
リアスも追いすがるように立ち上がり、斬輝の横に立つ。見上げた先にある斬輝の横顔は、はるか彼方を眺めているようだった。
思えば、リアスが初めて黒鉄斬輝と出逢った時も、そうだった。
孤独を抱えた、その哀しそうな瞳だ。
そして、ぽつりと言った。
「お前の方こそ、こんな時間まで起きて勉強か?」
「え?」
「眼鏡」
言われて、目元を触ってみる。
「あ……」
あった。
斬輝のことを気に掛け過ぎて、かけていることすら失念していたのだ。
「テスト勉強の時、集中出来るからっていっつもかけてたろ? 度も入ってないのに」
「……ええ、そうね」
だが、おかげでいくらか冷静になれた。小さく息を吐いて、呼吸を整える。
「どうだ、集中出来たのか?」
「いつもはそうなのだけど……駄目ね、何日もこうしているけれど、気休め程度にしかならないわ」
「そりゃあ、相手がフェニックスだからか?」
「……あなたって時々、私の心でも読んでるんじゃない?」
斬輝の的を射た発言に軽口を叩きつつ、リアスは手元のノートを開いた。
探すのはカラフルな付箋が張られた本の中の、黒いところだ。
見開きいっぱいに書き込まれた単語や文章は、すべてある一つの項目によるものだった。あとから開いたマニュアル本にも、雄々しく炎の翼を広げる火の鳥が描かれたページがあった。
すなわち、
「これよ」
「ん、さんきゅ」
その昔、フェニックスは命を司りし聖獣として人々に崇められていた。語り継がれる伝説は数知れないが、流す涙はいかなる傷も癒し、その身に流れる血を飲めば不老不死を手に入れられるとさえ言われたそうだ。
「あなたも知っているように、伝承にあるフェニックスには悪魔側の……『七十二柱』にも数えられた侯爵家のフェニックス家が存在する」
悪魔でありながら聖獣と同じ名前を持つライザーの一族は、有する能力も聖獣と同じだ。
それが意味するところは、一つしかない。
「不死身なのよ。どんな攻撃をしてもすぐに再生して、たちまち傷を治してしまうわ」
「不死鳥の名は伊達じゃないってことか……、んん?」
リアスの言葉に呟きで返しながら、斬輝は渡されたノートのあるところに注目する。
そしてリアスの方を向くと、その一点を指して訊いてきた。
「この数字って……」
八勝二敗。
リアスはうなずいた。
「ええ。レーティング・ゲーム公式戦におけるライザーの戦績よ。ただし、この二敗は懇意にしている家系への配慮だから、実質的には全勝と変わらない」
つまり、それだけライザーの実力は本物だというわけだ。悔しいが、この事実だけは変わらない。
レーティング・ゲームが悪魔の中で流行るようになって、急激に台頭してきたのがフェニックス家だった。下僕悪魔だけでなく『
フェニックスが持つ不死身の特性が、相手となる全ての悪魔にとって相性が悪いことの証明になったのである。
それもそのはずよね、とリアスは自嘲の笑みを浮かべる。
リアス・グレモリーは、誰よりも正確に、そして冷静に、自身が置かれている状況を完璧に理解していた。
「不死身である以上、絶対に負けることなんてないんだから。最初から私が負けることを見越してこのゲームを仕組んだのよ」
「ずいぶんと無茶な試合を組むもんだな、冥界の連中も」
「ええ。チェスで言うところのハメ手……スウィンドルね。そこに私の意思なんてない、お父さま達は何としても私とライザーを婚約させたいのよ」
「あさましいよなあ。それが約束を破る理由にはなりゃしねぇのによ」
そう言って、斬輝は視線を戻した。
かすかに、庭の茂みから虫の羽音が聞えてくる。
訪れる静寂の中、リアスはしきりに斬輝の横顔をのぞいていた。
……やっぱり。
こうして二人きりでいる時、彼は時々、誰にも見せないような哀しい表情を浮かべることがある。それが何に対してなのか、どうしてそうなるのかは判らないが、決まってリアスと二人でいる時でしかないことは確かだった。
そして同時にリアスが思い出すのは、初日の昼間に見たあの奇妙なヴィジョンだ。
炎に焼かれながらもライザーに立ち向かおうとする、目の前の彼の姿が……。
幻覚であって欲しいと思う。
一瞬の夢であって欲しいと思う。
……けれど、
「ねえ……」
言葉では言い表せない不安に押しつぶされそうになったリアスは、思わず声をかけていた。
「んん?」
「一つだけ……一つだけ、訊かせてほしいの」
「なんだ」
「どうして、そこまでしてくれるの?」
開きっぱなしのゲームの資料を閉じて、リアス・グレモリーはとうとう口にした。
それはずっと、胸の奥につかえていたことだ。
だから、どうしても聞きたかった。
なぜ、あなたが私なんかのために闘おうとしているのか。
「こう言ってしまうと悪いけど、これは私の家の問題なのよ? ライザーに向かってあんなふうに言う必要だって……、あなたが首を突っ込む理由なんて、どこにもないはずでしょう?」
応えはない。
知らず知らずのうちに、言葉がつっかえる。
リアスは胸に両手を当てて落ち着こうとするが、それでも心臓の鼓動は速くなる。
熱い。
軀が熱い。
黒鉄斬輝は虚空を見つめたまま、しかし応えなかった。
「……ねえ、教えてちょうだい。どうして、私なんかのためにそこまでしてくれるの? あなたは私の眷族じゃない。もしかしたら死んでしまうかも知れないのよ? それなのに……」
「俺ぁよ」
遮られた。
「前にも話したが、何年も前に全てを失った。家族も、俺の感情も……何もかもだ。叔父貴の誘いを蹴ったのは俺だがよ、そいつぁ、こっちでの生活も悪くないって思えるようになったからなんだ。なぜだか判るか?」
……………………え?
どういうこと?
きょとん、となったリアスに、斬輝は微笑んだ。
唇の端を釣り上げた、器用な笑みだ。
だが同時に、眉をわずかに寄せた、それは哀しい笑みになった。
まるでいつくしむように……けれど壮大な絶望を乗り越えた者だけに許される微笑みなのだ。
そして、
「お前がいたからさ」
ああ、
なんてこと。
「二年前に学園に入学した時によ、最初に俺に話しかけてきたのがお前だったよな。覚えてるか? お前が何て言ったか」
忘れるわけがない、とリアスは思った。
あの日こそ、リアスの何かが変わった瞬間なのだから。
そしてそれは、斬輝にとっても同じだったのだ。
あの瞬間こそが、彼を絶望の闇から救い出す一歩だったのだから。
「一緒にお昼いかがかしら?」
嚙みしめるようなリアスの呟きと斬輝の声が見事にユニゾンして、二人して笑ってしまった。
「やっぱり覚えてたか」
その笑みのまま、斬輝は湖の方を眺めた。月明かりが水面に反射してきらきらしている。
「まあともかく、それからだよな、お前がよく俺に声かけるようになって」
そして、だんだんと斬輝の方からもリアスに声をかけるようになった。
それから、あっという間に二年の時が経っていた。
「そしたらな、気がついたら失ったはずの日々が戻ってきてた。いつの間にか、昔みたいに笑えるようになってたのさ。たしかにそれは、今までとまったく同じってわけじゃない。それでも俺は今の生活にすげえ満足してるぜ。そいつぁ全部、お前さんのおかげなんだ」
そう言ってこちらを振り向いた斬輝は、リアスの肩に手を乗せた。
「ありがとな、リアス。お前がいてくれたから、俺は今、ここにいる」
やめて。
やめて。
そんなふうに言わないで。
だが、それで終わりではなかった。
「感謝してんだよ、いや、マジで」
そう言われた途端、胸の奥に熱いものが拡がってゆくのが判った。
彼の瞳越しに、不安そうなリアス自身の顔が写っている。それはつまり、彼の目はリアスしか見ていないということでもある。
私の瞳には、とリアスは思った。
彼はどんなふうに映っているのだろう……。
だがその目が、ふいに逸らされた。
どうやらリアスの表情に気づいて、単に気恥ずかしくなっただけのようだ。苦笑して鼻を搔いてから、
「……こんなこと言うガラじゃねぇんだがな。つか、そんな辛気臭い顔すんなよ。こっちまで不安になっちまうじゃねえか」
「あっ、ご、ごめんなさい……でも、だけど……」
「でももだけどもねぇよ。……実はさっきな、兵藤の奴と話してたんだ」
「イッセーと?」
それはさっき、階段で一誠本人から聞いたばかりだ。
うなずく斬輝は、真顔に戻っていた。
「それであいつ、言ってたんだよ。弱くてもいい、みんなが笑える日常を護りたいんだって。それがあいつの闘う理由なんだ」
「そう、あの子が……」
「誰かのために闘える奴なんて、そうそう居るもんじゃねえ。……すげぇよ、あいつ。そんな大層なこと、俺には逆立ちしたって出来やしねえだろうさ」
「……あなたは、違うの?」
「ああ、違う」
即答だった。
だがそれには、続きがあった。
「……そうか、そうだったのか」
一人でどこか納得した様子の斬輝に怪訝そうな視線を向けると、
「いや、何でもない。正確に言えば、違った、だな」
そう言った。
「俺が今まで闘ってきたのは、ただの罪悪感だった。俺が闘わなかったら何人の人間が傷つくのか……あるいは死ぬのか……、そう思ったら、それ以外の道を選ぶことが出来なかったんだ。あいつみたいな正義感でも何でもない。罪悪感を抱えて生きることが……これ以上、俺の目の前で誰かを失うのが怖かったんだ……」
五年前の悲劇を繰り返したくないから。
家族を失う痛みを……大切なものを失う痛みを、これ以上味わいたくないから。
ただそれだけのために、彼は闘っていたのだ。
ずっと。
「俺には兵藤みたいに誰かを護るなんてことは言えねえ。自分の手が届く範囲で手一杯なんでな。……だがな、だからこそ、これだけは言っとかなきゃならねえ」
そう言って、斬輝はもう一度、リアスを真正面から見つめた。
その頬を、両側から優しく包み込まれた。
彼の温かい両手で。
「いいか、よく聞けよ」
頷いて、けれど彼の紡ぐ言葉はリアスに向けられたものであると同時に、彼自身にも向けられているように聞こえる。
だが続く彼の言葉を聞いたリアスは、膝から崩れ落ちてしまいそうになった。
「今度は俺の番だ」
「今度は……」
斬輝の番……。
リアスはみなまで言われなくとも、その言葉の意味することを正確に理解していた。
だが、
しかし、
それは……まさか。
彼のその言葉は……、
「……いいの?」
徐々に俯いてしまったリアスは、そのままの姿勢で、ぽつり、とこぼした。
それは情けないくらいに頼りなく、消え入ってしまいそうなほど弱々しい声量だった。
答えは、熱い抱擁だった。
背中を、急に抱き寄せられた。
斬輝だ。
片方の腕でリアスを抱きしめ、空いた方の掌を分厚い胸板に押し付けられた格好の彼女の頭に載せた。
「私は、あなたを『こちら側』の世界に巻き込んでしまったのよ?」
……それでも、いいの?
「信じて、いいの?」
「信じなくても助けてやる」
そして、くしゃり。
「それが今の俺に出来ることだ。お前が教えてくれたんだぜ、リアス」
ああ、そうか。
そうだったのか。
唐突に、リアスは気がついた。
気がついてしまった。
きっと、私は……、
「……だからリアス、頼む」
斬輝の声のトーンが下がり、抱きしめる力が強くなる。
そして続く言葉で、リアスは目頭が熱くなった。
「一人であろうとするな、俺を頼れ。俺に……俺にお前を護らせてくれ」
「……! ……うん」
絞り出すように囁く彼の言葉に、リアスはそれしか言えなかった。
そう応えるのだけで精いっぱいだった。
それはこの前の堕天使達との闘いの際に、まさにリアスが斬輝に向けて言ったことだからだ。
こんな形で言い返されてしまうなんて、思ってもいなかった。
でも、
ああ……。
彼は、ずっとそれを胸の内に秘めていたんだ。
言い出したくてもなかなか言えなくて、ずっと彼の中でくすぶっていた彼の『想い』だったんだ。
彼の服の裾をつまむ力が強くなる。
腹の底から、何かが湧き上がってくる。
なに?
何なの、これ?
目元から温かい何かが伝う。
涙だ。
泣いてる。
私、泣いてる?
なぜ?
どうしてなの?
「うっ、うぅぅっ……」
駄目なのに。
私はリアス・グレモリーなのに。
グレモリー公爵家の次期当主で、オカルト研究部の部長で、イッセー達の『
なのに……、
「な、んで……私……こんな……ッ!」
「ったく、こんなところまで学園のお姉さまを演じなくてもいいんだよ」
そんな苦笑とともに、斬輝が微笑んだ。
そして、
「いいぜ、泣いちまいな。大声で泣きわめいちまえ。別荘までは届かねえから」
その言葉で、ついに限界が切れた。
「ああーっ!」
リアスは、斬輝にしがみついた。
「あー。あっ、ああっ! ああーあーああーっ!」
暖かい彼の胸にすがって、泣きじゃくった。
「嫌っ! 嫌よ! ライザーと結婚なんてしたくない! 私はリアスとして……私を私として愛してくれるヒトと一緒になりたいの!! それが……それだけが私の夢なのよ!!」
絶叫だった。
「子供のころからずっとそうだった! 誰も私を『リアス』として見てくれない! それがずっと嫌だったの!!」
泣き叫んだ。
「なのに……それなのに、どうして……どうして…………!」
斬輝の胸板に顔を押し付けて子供のように泣きじゃくるリアスを、斬輝は抱き留めて、ずっと背中を撫でてくれた。
「心配すんな、俺が傍にいる。お前の夢も護ってやる。お前を一人になんてさせねえよ」
その時、リアスはついに自身の心臓が激しく高鳴るのを敏感に感じ取った。
そして、理解した。
ずっと感じていたこのどうしようもない胸のときめきは、
「絶対だ。約束する」
「ぐすっ……うん、ありがと……ありがとう、斬輝……!」
愛だ。
かなりの突貫作業だが、私事ながら本日が誕生日なこともあったので意地でも投稿してやろうと本気出しました(^^;
おそらく次回か次々回ぐらいにはレーティング・ゲームに入れるかな。
そんじゃ、次回までゆったりとまったりと、お待ちください。
……本編は真面目に行くんで、ゆったりもまったりもしちゃいられないけど(苦笑)。