ハイスクールD×D 呪われし鉄刃   作:椎名洋介

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第三章 深まる謎

       1

 

 暗闇の中に、たたずむ影があった。

 ヒトの形をしていることは一目で判ったが、しかしそれだといくらか不自然な個所があった。

 なぜ、その姿は炎のように揺らめいているのだ?

 なぜ、その拳から先が『地面』に届きそうなほどに長いのだ!?

 

「てめぇは、何なんだ?」

 

 やけに反響する自身の声を聴きながら、斬輝(ざんき)は『そいつ』に問いかけた。

 だがそれは、愚問である。

『そいつ』は、ヒトなのだ。

 それ以上でも、それ以外でもない。

 だが。

 

「その先に何があるってンだよ、なあ?」

 

 そう。

『そいつ』の後ろ……その向こう側には、炎があった。

 劫火である。

 だがその炎の明かりを背後に受けながらも、なおも『そいつ』は黒いのだ!

 

「てめぇ、いったい誰なんだ!」

 

 無数の人間のうめき声が聞こえてくる。

 助けを求める声が聞こえてくる。

 

「……なっ、何だよこりゃあ!?」

 

 絶望に満ちた呪詛とも取れるそれが、すべて斬輝の中へと入りこもうとする!!

 

「糞っタレ! 離せってんだ、こン畜生!!」

 

 腕に脚に、まるで意思を持ったように絡みつくそれは、まさに負の念が込められた触手である。

 

「がはぁっ!?」

 

 うねる触手が斬輝の首回りを周回し、さらに締め上げる。

 そして、気がついた。

 同時に、黒い『そいつ』が目の前に迫っていたことに驚愕した。

 いつのまに?

 すでに斬輝は、両手足を絡みとられ、呼吸も満足に出来ない状態だった。そんな恰好の前で、しかし『そいつ』はゆっくりと『掌』をこちらに向けてくる。

 ああ、判った。『地面』に届きそうだった拳の正体は、剣だ。どうやって握っているかさえ不明瞭な剣だったのだ。

 その時だ。

 

「か、は……ッ!?」

 

 黒鉄斬輝の肉体は、漆黒の刃に貫かれた。

 

 

 気がついた時、すでに斬輝は目を覚ましていた。

 同時に、自分の軀にべっとりとした感触を覚えた。

 汗だ。

 

「……ったく、何だったんだよありゃ……」

 

 額の汗をぬぐって、もう一度状況を整理する。

 夢だったのだ。

 すべて。

 だが、その夢には断片的なものしか記憶していなかった。

 少なくとも彼が今覚えているのは、『影』と『炎』である。

 そう。

 あの日、俺から大事なものを奪っていった炎……。

 途端に過去の記憶が甦って来て、咄嗟に両目を覆った。

 

「……駄目だ、余計なもんまで思い出しちまった」

 

 それは決して忘れたかったわけではないが、しかし頭の隅にとどめておくだけにしたかった『記憶』である。

 あの時の絶望と失意の渦がまた、彼の心の前に姿を現そうとしていたのだ。

 そいつを無理やりねじ伏せて、起き上がろうとしたが……、

 

「ここは……」

 

 妙な違和感を覚えたのである。

 少々狭苦しいが一人で暮らす分には充分な広さ……今彼の眼に映っているのは、間違いなく彼の自宅である。

 だが、どうにも記憶と嚙み合わない。

 自分の家で、それも自分の布団でちゃんと床に就いた記憶がないのである。

 ……いったい、いつ寝たんだよ俺は?

 しかし、まだセットした目覚ましが作動していないということは、もう少し時間の余裕があるということだ。

 仕方なくもう一度寝ようとした時だった。

 

「……あ?」

 

 布団をかけようと伸ばしていた左の手が、くぐもった音とともに何か別のものを摑(つか)んだのである。やけに大きなスポンジのような……まるで上質の抱き枕に触ったような感触だ。もっといえば、巨大な餅といったところか。

 しかし斬輝の家に、抱き枕など置いているわけがなかった。それこそまだ斬輝が小学生だった頃、母親が自身の腰痛を少しでも和らげるために一時的に使っていたことはあったが、それでもここまで抵抗のない触感ではなかった。餅ともなれば、それ以前に布団とシーツがベットベトになってしまう。

 斬輝が寝ているベッドは、部屋の角にぴったりとくっついている。そのため起き上がるには軀を右へとずらすか、前のクローゼットとの間にある床へと移動するしかないのである。

 今、この家には彼一人しかいない。

 そのはずなのだ。

 だが。

 彼が手を伸ばした布団が、変に膨れていることに気がついた。

 それは奇妙な隆起だった。初めに大きく盛り上がっているかと思うと、わずかなくびれのあとにさらに出っ張って、あとはゆるやかな線を描きつつ徐々に細くなっている。

 しかしよく見ると、それはどこかヒトの形にも似ていた。

 

「……ちょっと待て」

 

 そう。

 それはまさに、ヒトの形をしていたのだ。

 たしかにそうだ。もしこれを見たままに言ってみろと言われたら、おそらく誰もが口をそろえて言うだろう。

『布団にもぐった誰か!』

 極めつけは、先ほど彼の手が感じた、あの極限までに柔らかい感触である。

 抱き枕でもなければ、餅でもない。

 だとしたら、いったい何だという!?

 そして、摑んでしまった瞬間に中から聞こえたくぐもった音。

 その時だ。

 

「……んぁっ」

 

 嬌声ともとれる声がした途端に、腰のあたりから悪寒が這い上がってきて、一気に脳天まで駆け抜けた。

 わずかだったが、しかし今の声には確実に聞き覚えのある声だ。

 まさか。

 まさか!?

 あとはもう、頭に浮かんだ光景を否定しながら行動に移すだけだった。不自然に盛り上がる布団を、空いていた右手で勢いよく剝(は)いだのである。

 そして、

 

「マジかよ、おい……」

 

 認めたくはなかったが、いたのだ。

 そこに。

 彼のベッドの中で……しかも全裸で眠っている紅髪の少女が。

 斬輝の左手が鷲摑みにしていたのは、そこに眠る少女の胸だった。しかも思ったよりも力んでしまっていたのか、五指は己の目を疑うほどに埋没していた。

 

「ぁん……んっ!」

 

 ほぼ零距離で、わずかな痙攣とともに少女の顔が歪んだ。

 男ならば金的が弱点であるように、胸もまた、女の弱点の一つなのだ。

 だが、その反応は苦痛から来るものではなさそうだった。

 本当ならばすぐにでも手を離したい。だがあまりに衝撃が過ぎて、全身が硬直してしまっているのである。

 声も、思うように出なかった。

 たしかに恰好や今の状況こそ問題ではあったが、それ以上に問題だったのは布団に潜り込んでいた人物の正体の方だった。

 そう。

 紅髪なのだ!

 だがしかし、もうどうすることも出来なかった。ただ黙って固まっていることしか出来なかったのだ。

 そして、

 

「ぅん……。思っていたより、ずっと積極的なの……ね……」

「お、ま……え……!」

 

 彼女は微笑を浮かべて、ゆっくりと目を覚ました。そして斬輝の声も、徐々に大きさを増してゆく。

 

「……お前なんで俺ン家(ち)に居んだよ!? それに俺のベッドで、しかも裸で!?」

「そんなことッ、言われても……私は裸でないと眠れないのよ……」

 

 小刻みに震えながらも、紅の少女はそう応えた。

 すると、

 

「ふぁんっ!」

 

 やや強い喘ぎとともに、彼女の肢体がわずかにはねた。そこで斬輝は、自分の手を見る。

 ……それはまだ、力強く彼女の胸を摑んでいたのだ。

 

「だぁあーっと!!」

 

 さっきまで動かなかった手が嘘のように、今度はいとも簡単に彼女の乳房から離れた。

 

「ああ、いや……その、さっきのはすまん」

「……いいえ。それは別に……構わないわ」

 

 構わないのかよ! 俺としちゃあ結構なことやっちまった気がすんぞ!?

 だが次の瞬間、起き上がった少女はこちらを見つめて、

 

「軀、大丈夫?」

 

 彼女は、心配そうに訊いてきた。

 

「軀……あっ!?」

 

 リアス・グレモリーのその一言で、黒鉄斬輝は記憶の一端を思い出した。

 そして、現在自分も彼女と同じ恰好であることにも気がついた。

 

 

 起きたのがすでに登校時間を過ぎていたことに気付いたのは、彼がシャワーを浴びた直後である。

 

 

 

       2

 

 

 リアスの話によると、つまりこういうことだった。

 彼女からオカルト研究部への入部を勧められて渋々承諾した斬輝が帰ろうとした時、彼の軀に突如異変が起こった。

 謎の激痛である。

 一度はそのまま気絶したらしいのだが、その後二分と経たず再び意識が覚醒して激痛に悶え始めたというのだ。

 さて。問題はここからだった。

 当時彼が倒れたのは、旧校舎とはいえ駒王学園の中だったのである。このまま斬輝を放っておけば、やがて咆哮のような声に誰かが気づくに違いない。

 だがそれ以前に、リアスのプライドが『放置』という選択肢を許さなかった。

 リアスは、どこか彼を休めさせることが出来る場所へと移動しようと考えたのである。

 しかしここで、第二の問題が発生した。

 何度目かの気絶の際に抱き起こして肩を貸そうとした時だ。

 それは、斬輝自身がもっとも実感していたことだった。

 そう。

 重過ぎたのである。

 だが、彼の体重は七一キロ。同級生の中でも割と重めなのは、人知れず行い続けて使い込まれた筋肉のためだ。

 それでも、悪魔である彼女であれば造作もないこと。それなのに、彼女でさえ抱えあげることが困難なほどの重量を、その時の彼は有していたらしい。

 そのため、徒歩での移動手段も断たれた。

 残されたのは、魔方陣による転移である。

 だが斬輝はリアスとは違い、悪魔ではない。

 人間なのだ。

 しかしそこに関してだけは、人間でも移動可能なていどの微小な魔力まで抑えることで意外とすんなり解決したらしい。

 

「んぐっ。あー……それで?」

 

 言いながら、黒のジャージのズボンに白のシャツを着た斬輝は正面に座るリアスへと目を向けた。

 

「その魔方陣を使って飛んだ先が、俺の家だったと」

 

 こうしてゆっくり食べられているのは、すでに彼女が学園への欠席連絡を済ませていたからだ。

 まさか斬輝のために彼女まで休むとは思わなかったが。

 

「はむ……ええ、そうよ。厳密に言えば、あなたが以前貰ったっていうチラシに向かった、と言う方が正しいわね」

 

 応えるリアスも、しかし放課後の部活へは向かうため駒王学園の制服に身を包んでいる。

 あれからまず、シャワーに入った。もちろん交代で。今二人が食べているのは、後にリアスが浴びている間に急ごしらえで作った簡易な朝食である。

 焼いたトーストにハチミツを塗っただけのものだが、むしろ簡易過ぎて相手に申し訳ない気持ちがないわけでもなかった。

 

「チラシがあなたの部屋の中に落ちていたみたいだから、ベッドに寝かせるのは時間がかからずに済んだのだけれど……それでもまだ苦しそうにしていたから、中々目を離せられなかったのよ」

 

 その時点でまだ、午後六時を回ったかどうかだったというのだから正直驚いた。

 それからずっと、彼女は彼の容体を見守り続けてくれていたのだ。

 

「でも、さすがに私も眠くなっちゃって……ね?」

「ね、じゃねえよ」

 

 ベッドの空いているスペースに潜り込む格好で寝た、というのである。

 結果的にそうなったとはいえ、しかしそれは添い寝と同じことだ。

 

「それも全裸って……」

「私、裸でないと寝れないの」

 

 予想の斜め上をいく回答に、思わず斬輝はため息をついた。

 だが、そこで斬輝はふと思い出す。

 ……俺も素っ裸だったじゃねぇかよ。

 

「あのな、別に一人でいる分にはそれでも構わねえよ。だが俺っていう第三者が居るんだから、その辺はちゃんと考えるべきだろ? んん?」

「そんなこと言われても、これだけは譲れないわ」

「譲る譲らないの問題じゃねえだろ。俺ぁよ、せめて一枚くらいは着てくれっつってンの。マッパは困るんだよ、こっちも。判るか?」

「あんなに強く揉んでおいて、よく言うわよ……」

 

 わずかに紅潮した頬をうつむかせて、ぽつり、と呟くリアスにさらに斬輝は付け加えた。

 

「いや、そいつに関しては俺が悪いがな、そもそもお前が脱がなきゃイイ話だろ?」

「それは……否定できないけれど…………」

「それにグレモ……、リアス」

 

 いつもの癖でつい、グレモリー、と言いかけるのを、あわてて言い直した。こりゃあ、無意識に名前で呼ぶまでは相当な時間がかかりそうだぞ。

 

「……なに?」

「好きでもない男の布団にすっぽんぽんで入るもんじゃねえぞ。いつか絶対に、お前が後悔することになるぜ?」

 

 斬輝がそこまで言った時、ふいに彼女の表情が曇った。

 

「後悔、ね……」

 

 ぼそり、とつぶやくその姿は、まるで思い当たる節があるかのようだ。

 そして。

 

「ねえ」

「ん?」

「親御さんは、いらっしゃらないの?」

 

 リビングに視線を巡らせて、リアスが訪ねて来た。

 二階建てではあるが、決して広いとはいえない家である。キッチンに面したテーブルには椅子が二つだけ。ちょうど、リアスと斬輝が座っている奴だ。

 窓際に置かれたソファーの前方には、センター・テーブルを挟んで小振りなテレビ台がある。

 トイレと風呂は廊下に出た左右のドアだし、二階に上がっても実質使っているのは寝室を兼ねた自分の部屋のみだ。

 自室のドアの反対側には、かつてこの家に住んでいた者の部屋がある。

 

「私があなたを連れて来た時も帰って来る様子はなかったし……泊まり込みか何か?」

「いないのさ」

「え……?」

「死んだんだよ」

 

 四年前。

 まだ彼が中学二年だったころ。

 夏休みに、斬輝は例年通り駒王町の祖母の家に帰省していた。

 ただし、その年は一人で。

 両親は仕事の都合で一緒に行けなかったため、夜に車で移動してくると言ったのだ。

 だが、

 

「親父達は、移動中に事故に遭った」

「事故?」

「おう。高速道路でな」

 

 斬輝が一足先に帰省した、その日の夜だ。

 大事故だった。

 関越道上り線での玉突き事故だ。

 ちょうど寄居を過ぎたあたりで、それは起こったのである。

 無謀運転の車が先行車両の前方に割り込んだことで、眼の前の車が咄嗟にブレーキを踏んだらしい。そしてその行動が、結果的に二〇台以上を巻き込む大事故になったのである。

 割り込んだ車と割り込まれた先行車両は無事だったが、両親の乗っていた車は突如停止した車と後方から遅れて来たブレーキによって停まろうとする車とに挟まれてひしゃげた。

 無惨にも、二人は前と後ろから鋼鉄の塊に挟まれて圧死した。

 

「叔父貴からの電話でやっと知ったんだ」

 

 そして翌日、関東圏だったこともありさまざまな局で報道された。

 そこで見たのだ。

 見慣れた、しかし無惨に潰れた黒鉄家の車を。

 だが最大の誤算は、巻き込まれたタンクローリーに積まれたガソリンが何らかで引火して、巨大な爆発を起こしたことだろうか。

 追突したタンクローリーは、両親が乗っていた車の数台後ろだった。

 爆発に巻き込まれていた。

 二人は車の中で挟まれていて、だから助け出すことは出来なかったそうだ。

 映像には、燃え盛る炎が一本の柱となって夜空を突いていた。

 埼玉の自宅には、あれから何度か戻った。葬儀に出席するのと、荷物を取りに行くためだ。

 そして、こちらに移り住んだ。

 祖母と二人で。

 

「そうだったの……ごめんなさい、変なことを聞いてしまって」

 

 いいさ。

 その祖母ちゃんも、去年に老衰で死んじまったけどな。

 だから実質、この家に過ごしているのは斬輝一人だ。叔父からは、ウチにこないか、と誘われたが、駒王学園の空気にも馴染んでいたから断った。

 だがそれでも、毎月叔父からの仕送りが届いてくることは本当にありがたかった。

 それなりの金額で、だから裕福ではないまでも、そこまで質素なわけではなかった。

 

 

 リアス・グレモリーが次に口を開いた時、彼女はすでに斬輝が用意した食事を食べ終えていた。 

 

「私も、少し尋ねていいかしら?」

 

 こちらも最後の一口を終えたところで、おう、と応えた。

 彼女が言いだしたのは、彼の左腕の傷についてのことだった。

 やはり心配してくれていたのだろう、治療をしようと彼の服を脱がせた時に、見つけたというのだ。

 嘘のようにきれいな上腕を。

 

「あれからまだ二日しか経っていないと言うのに……驚いたわ」

 

 悪魔である彼女が驚嘆するのも、無理はない。

 二日前、たしかに斬輝は深手を負った。傷は、骨が見えるほどにまで達していたのだ。

 だが、今彼の腕に刻まれていた傷は、すでに消え去っていた。

 苦戦しながらも何とか行った縫合に使った糸も、いつの間にか彼の軀からなくなっていたのだ。

 

「あなたの神器(セイクリッド・ギア)って、いったい何なのかしら……?」

 

 いよいよ、判らなくなってきた。

 自分の軀が今、どうなっているのか。

 あの謎の痛みと重量に、どんな意味が隠されているのか。

 だから斬輝の答えは、さあな、だった。

 ついでに胸に手を当て、タンクトップの布地を強く握る。

 

「そもそも、俺の中にあるこいつが神器(セイクリッド・ギア)なのかどうかさえ、よく判らねえ」

 

 つぶやく斬輝の言葉は、決して韜晦(とうかい)ではない。

 しかし一つだけ、確実なことがあった。

 彼の中に眠るものが神器(セイクリッド・ギア)であろうがなかろうが、そいつはヤバイものであることに変わりはない、ということだ。

 二日で裂傷を完治させるほどのものだ、それがマトモなわけがないだろう。

 ゆっくりと、右の拳を握って、開く。

 ぎ、ぎぎぎ……。

 応えるのは、内部から響く骨格の『軋み』である。

 今朝から、ずっとそうだ。彼の一挙手一投足(いっきょしゅいっとうそく)において、わずかながらの『軋み』が彼の軀で反響しているのである。

 たしかに、まだ軀が重い気がする。だが昨夜に比べるとなぜか、軽い、と感じるのである。

『慣れ』とは、また違った感覚だ。

 彼の軀がすでに『異変』に適応し始めているのではないかと考えると、我ながら総毛立つ思いだった。

 ぎしり、と椅子が軋んだ。

 

「とりあえずは、様子見ってとこか」

「そうするしかないでしょうね」

 

 もしかしたら、という考えを頭の片隅に置きながら……。

 

 

 

       3

 

 

 日課と呼べるものが、斬輝には数えるていどのものしかない。毎日の食事や家事は当然だが、あとはこれといったことがないのである。

 しかしその数少ない日課の中に入るのが、走り込みや毎日の筋トレなどのトレーニングだった。

 少し前までは、それを毎日欠かさずに行ってきた。

 それが今では、どうだ?

 たしかにここ一週間ほど、いつもの日常から逸していた出来事が多過ぎた。それによる体力や精神の疲弊があったのは事実である。だがそれとは関係なしに、どうにもやる気が起きないのだ。

 今だ思い通りに軀が動かないというのも、もちろんある。

 ダラクしちまったな、と斬輝は思う。

 ともかく、また鍛え直さねえと。

 

「うーす」

 

 日が沈みきったあたりで、帰宅前に久しぶりに旧校舎の部室へと寄った。

 すると、

 

「二度と教会に近づいちゃ駄目よ」

 

 直立不動なままの一誠にリアスが強く念を押していた。彼でも滅多に利いたことのない、わずかに怒気を含ませた声音だった。

 近づいて、声をかける。

 

「おうおう、どうした? まぁた兵藤が契約関係でトチったのか?」

「せっ、先輩!?」

「……斬輝、違うのよ」

 

 こういうことらしい。

 夕方、帰路についていた一誠はある女子と出逢った。道に迷っていたところを助けたまでは良かったもが、彼女は近くの教会に新しく赴任したシスターだったというのだ。

 それだけでなく、どうやら彼女は治癒系の神器(セイクリッド・ギア)所持者でもあったらしい。

 彼ら悪魔にとって、教会は敵地であると同義。一度踏み込めば神側と悪魔側に新たな問題が発生しかねなかったのだという。

 特に懸念すべきだったのは、天使側にいる悪魔祓い(エクソシスト)の存在だった。神の祝福を受けた彼らの力は、たとえリアスのような上級悪魔でさえも滅せるほどの力を持ち合わせるというのである。

 つまり一誠の行動は、自らの命を投げ捨てるも同然だったというわけだ。

 

「なるほどなあ、そういうことか」

 

 ソファに腰をかけ、顎に手を当てながら斬輝は唸った。

 それが、彼がリアスから説教を受けていた理由である。

 

「……イッセー、今回は何事もなかったから良かったけど、今後は気をつけてちょうだい」

「は、はいっ……!」

「判ってくれたなら、それで良いわ。私も、少し熱くなってしまったみたいだし……それより斬輝、あなたどうしてこの時間に来たの?」

「んん? ああ……最近顔出せてなかったから、ちょっとだけ邪魔しに来ただけさ。だいたい、お前ら悪魔ってのは夜型だろ? だから来るならこれくらいの時間がベターだったわけ」

 

 まさか説教タイム中とは思わなかったが。

 だがそれにしても、と斬輝は思う。

 妙だな。

 神器(セイクリッド・ギア)所持者のシスターが、なぜ今更になって町の教会へ赴任したのかが、だ。町中では一つしかない教会だったが、しかし今ではすっかり廃れているはずだ。

 そんなところへ、しかも一誠と同じ年代の子がはるばる日本までやって来たのである。

 なにか、ウラがありそうだ。

 

「あらあら、お説教はもう済みました?」

 

 思慮している最中に部室の扉が開けられたと思うと、そこからいつもの穏やかな表情で朱乃が入って来た。

 だがその声は、いつものような静けさが感じられなかった。

 

「……朱乃、どうかしたの?」

 

 訝しげなリアスの問いに、わずかに彼女の顔が曇ったように見えた。

 

「先ほど大公より連絡が」

「大公から?」

 

 一気に、空気が重くなる。

 うなずき、朱乃は続けた。

 

「この町で、はぐれ悪魔が見つかったそうですわ」

 

 それは駒王学園の生徒同士ではなく、悪魔同士の会話だった。

 

 

 人間社会がそうであるように、悪魔にも『オモテ』と『ウラ』の顔がある。

 危害を加えず、対価を支払ってもらうことで人間と契約する連中を『オモテ』とするならば、かつて斬輝が思い描いていたように、ヒトへの害がある連中が『ウラ』だ。

 主を裏切り、あるいは殺すことで制約から逃れて野に解き放たれし存在……いわば野良犬だ。

 リアス達悪魔はそんな野良犬どもを、はぐれ悪魔、と呼んだ。

 奴らは他勢力からも危険視されていると言われている。そういった道を外れた悪魔達を、その土地を有する悪魔が対処に追われるのだ。

 すなわち、

 リアスの領土であるとも言える駒王町に、はぐれ悪魔が紛れ込んだのである。

 その討伐の依頼が今回、上級の悪魔から届いたらしい。

 彼女から渡された魔法陣による移動時で必要となる特殊な通行証をしまいながら、斬輝もリアス達の後を追うように歩き始める。

 メンバーは、緊急招集されたオカルト研究部全部員である。

 とはいえ、斬輝を除いて皆(みな)悪魔だが。

 時刻は、すでに零時を回っている。

 町外れの小高い丘に建てられた、しかし今は住人のいない廃れた屋敷である。周りをうっそうと茂る木々が覆い、さながらそれはどこかのホラー映画にでも出てきそうな雰囲気だ。

 

「よいしょっ……」

 

 先を行く木場が、分厚い木製の扉の把手を握り、ゆっくりと開く。全員が中に入って彼が扉を閉めるまで、錆びついた蝶番が悲鳴をあげ続けた。

 真っ暗で何も見えず、だから斬輝だけはホコリや蜘蛛の巣がついた壁を手探りしつつ歩いて行く。

 ゆっくりと、しかし確実にリアス達は歩いて行く。暗闇に強いのは、やはり悪魔だからだろうか。

 畜生、こういう時には向こうが有利じゃねぇかよ。

 屋敷に入った瞬間に、腐臭が鼻をついた。

 そして、生臭い鉄の臭い……、

 

「血、か……?」

「……はい」

 

 それもかなり濃い。鼻が利くのか、小猫は顔をしかめつつ制服の袖で鼻を覆った。

 実際、斬輝も今すぐ鼻を塞ぎたかった。そうしないのは、彼が暗闇の中でも歩けるようにするためだ。

 いまだずっしりと重い軀を引き摺りながら、なおも斬輝は歩を進める。

 

「ここにおびき寄せた人間を、そのはぐれ悪魔さんが食べているそうですわ」

 

 しかし、この閉鎖された空間でここまで臭うということは……、

 

「何人喰ったんだ……」

「判らないわ」

 

 それが、リアスの答えだった。

 

「いずれにせよ、いい機会ね。あなた達には悪魔としての闘い方というものを経験してもらうわ」

「闘い方、ですか? あの、俺……悪魔になってまだそんなに日が経ってないと思うんですけど……? それに、先輩から格闘技をちょろっと教えてもらったぐらいですし……」

 

 全身の震えを押し殺そうとしながら話す一誠に、しかしどうやらリアスは別のところが気になったらしい。

 

「そうなの?」

 

 稽古をつけていたことが初耳だったのか、リアスがこちらを『向いた』。目が慣れ始めたのか、リアスの鮮やかな紅の髪が彼女の動きに合わせて揺れるのが見える。

 

「ん?  ああ、まあな。ちょいと昔に」

 

 触りていどだよ、と付け加えて。

 もともと、我流に近いものだ。そんな、ある意味出鱈目に出来上がった動きを他人に教えようとしても、当然ながら無理がある。

 一年前に一誠に頼まれて渋々コーチとして稽古をつけたものの、実際たったの二週間でバテてしまった。

 

「……そうね。ちょうど頃合いだし、悪魔の歴史についても話しましょうか」

 

 大昔、悪魔や天使、そして堕天使は三つ巴の戦争を引き起こした。大軍を率いて、それはまさに総力戦のようだったという。

 永遠にも等しい永きに渡って繰り広げられた戦闘は互いの勢力を削り合い、疲弊させたままに戦争は数百年前に終結した。

 勝利した軍勢などいない、いわば痛み分けである。

 悪魔側も、当然ながら大きな打撃を受けたらしい。多数の軍勢を率いていた爵位持ちの悪魔や上級悪魔……言ってしまえば純粋な悪魔の多くが先の大戦で死亡したのである。かろうじて生き残った悪魔達も、もはや軍団を保てるほどではなくなった。

 種の存続が危ぶまれるほどに激減したのだ。

 だが問題は、他にあった。

 

「戦争が終わっても、三代勢力の睨み合いは今でも続いています。いくらお互いに部下のほとんどを失ったとはいえ、少しでも隙を見せれば危うくなるのです」

 

 朱乃の補足を聴いていると、ふいにリアスが斬輝達に尋ねてきた。

 

「ねえ二人とも、チェスは判る?」

「チェス、ですか?」

「ボード・ゲームの、あのチェスか?」

 

 そうよ、と彼女はうなずいた。

 

「主である私が『王(キング)』で、『女王(クイーン)』、『騎士(ナイト)』、『戦車(ルーク)』、『僧侶(ビショップ)』、そして『兵士(ポーン)』……。爵位を持った悪魔は、この駒の特性を自分の下僕に与えているの」

「駒の特性?」

「私達はこれを、悪魔の駒(イーヴィル・ピース)と呼んでいるわ」

 

 他勢力に対抗する手段として用いられた、少数精鋭制度の過程で誕生したものだと言われている。先の大戦で軍団を持てなくなった代わりに、少数の下僕たちに強大な力を分け与えることにしたのだ。

 だが、この制度が思ったよりも爵位持ちの悪魔達に好評で、ちょっとした眷族自慢からついにはチェスのように実際のゲームを自身の下僕を使って競うようになったのだと言う。

 しかし斬輝達が何よりも驚いたのは、ゲームの結果が悪魔達の爵位や地位に影響を及ぼすということだった。ゆえに『駒集め』と呼ばれる、優秀な人間を自分の手駒にすることも流行しているらしい。

 ……そして、

 

「きた」

 

 ある時、ぼつりと小猫が呟いた。

 一気に辺りの空気が重くなり、対応するようにリアス達の視線が一点に集中する。

 彼女達の視線を追った先はいっそう暗くて、だからそこが広間なのか廊下なのかは判らない。

 

「……そこに『居る』のか?」

 

 斬輝の問いに、うなずくのはすぐ隣にいた木場だ。わずかに腰を落とし、左手で『鞘』を、右手で柄を握る。しかしそれは反り身の細い刀身ではなく、幅広の直刃である。

 西洋剣、とかいうやつだ。

 臨戦態勢である。

 やがて前方の深い『闇』の奥から、声が聞こえてきた。

 

「不味そうな臭いがするわ……でも美味しそうな匂いもするわぁ……」

 

 若い、女の声だ。

 同時に、何かの咀嚼(そしゃく)音もする。

 

「……ひぃっ!?」

 

 突然、前にいた一誠が消え入りそうな悲鳴をあげた。

 彼の足元に、得体の知れない何かが放り投げられたのである。

 一メートルほどの、細長い何かだ。

 蛇かナメクジにも見える。だが蛇にしては太すぎるし、ナメクジにしてはあまりにも巨大だ。だがそこには、ぬめぬめと光る体液が付着している。

『慣れた』目で見ると、その全体のシルエットにはどこか見慣れた雰囲気があった。上半分は太く、中程でくびれ、下へゆくほど細い。しかも単に長いだけでなく、中央のくびれた部分で微妙に屈曲しているのである。

 何となく、馴染みのあるカタチ。

 少し考えて、判った。

 

「腕、か……?」

「……なんてこと」

 

 ぬめりのある光は、体液ではない。

 かつて『腕を持っていた人間』自身の血だった。

 

「甘いのかしら? それとも苦いのかしらぁ?」

 

 立ち込める殺意が剝き出しになり、『そいつ』は姿を現した。

 白い肢体に、艶やかな黒い髪。細身で長身の、それは紛れもない『女性』である。

 そして、

 

「おお! おっぱい!!」

 

 鼻の下を伸ばした一誠の言うように、彼女はその身にいふくをまとってはいない。

 全裸なのである。

 ぺたぺたと、裸足で床を歩く音が残響する。そして咀嚼音が、止んだ。続く鈍い音は、『女性』が肉塊を呑み下す音だ。それも二つ。

 見ると、彼女の下腹部には左右に開く顎(あぎと)があった。そこから滴るは、真っ赤な雫だ。

 

「はぐれ悪魔バイサー。主のもとを逃げ、その欲求を満たすために暴れまわる不逞の輩……、その罪万死に値するわ。グレモリー公爵の名において、あなたを、吹き飛ばしてあげる!」

「小賢しい小娘だこと」

 

 応えて、しかし『女性』の顔に浮かぶのは焦りではない。

 嘲笑なのだ。

 その時だ。

 ゆっくりと、バイサーが上昇してゆく。

 それだけではない。

 めきめきと生木を裂くような音をたてて、バイサーが変わってゆく。

 まるで見せつけるかのように己の乳房を揉みしだきながら、その下半身が変化してゆくのである!

 

「な、なんだよこりゃあ……」

 

 やがてその軀が天井に当たりそうになったあたりで止まった時、すでに彼女の『変身』は完了していた。

 その体長、およそ五メートル。

 巨木の幹ほどの太さのある大腿に、その『胸部』に値する部分には肋骨が変異したバインダーのような『口』がある。腕を巨大化させたような前肢に、黒い外骨格に覆われた後肢は膝から下の長い獣脚である。

 その後ろで、蛇を模した尾がのたうった。

 

「バケモンかよ……」

 

 呻くように呟いたその言葉は、まさに正鵠(せいこく)を射ていた。

『変身』したバイサーの姿を形容するならば、それしかない。

 

「その紅い髪のように、あなたの軀を鮮血で染めてあげましょうかあ!」

 

 変異した肉塊の上で、バイサーが長い髪を振り乱して吠えた。

 これが、と斬輝は思う。

 悪魔の末路だ。

 制約にとらわれず、己が欲望のままに生きるこの姿こそが、悪魔の成れの果てなのだ。

 歪んだその『魂のカタチ』が、悪魔の肉体をも変化させているのだ!!

 

「……お、おい! こいつ結構やべぇんじゃねえのか!?」

「判ってるわ! ……祐斗!!」

「はい!」

 

 リアスの言葉に応えるなり、

 

「……消えたっ!?」

 

 さっきまで彼女のそばで構えていた木場祐斗の姿が消えた。

 ……いや、違う。

 

「せ、先輩! あれ見てくださいよ!」

 

 そういう一誠が指差す先には、すでにバイサーのどデカイ図体の、その懐へと潜り込んだ木場の姿があった。その手には、黒い鞘が握られている。

 斬輝達とバイサーの距離は、およそ一〇メートルほど。

 まさか、あの一瞬で距離を詰めたのか!?

 いくら彼が悪魔だとはいえ、その挙動にはどう考えても無理がある。たった一度の踏み込みであそこまで到達するには、相応の脚力が必要になるからだ。

 

「斬輝、イッセー。さっきのレクチャーの続きをするわ」

 

 レクチャー? 悪魔の駒(イーヴィル・ピース)の説明ってことか。

 

「祐斗の役割は『騎士(ナイト)』、特性はスピード。『騎士(ナイト)』となった者は速度が増すの」

 

 つまり木場の姿が消えたように見えたのは、実際には目視出来ないほどの超高速で前方への移動を終えていたからなのだ。

 

「そして、その最大の武器は剣」

 

 深く腰を落とし、左半身に身をひねるのは『抜刀』の構えだ。鞘から銀刃が抜き放たれた時、屋敷の窓から入ってくる月明かりを受けてわずかに煌めいた。

 そして、再び音も無く動き出す。

 次の瞬間、聴こえた音は三つ。

 肉を切って骨を断つ斬撃音と切断された両前肢が床へと叩きつけられる音、

 そして、

 

「ギャァアアァアァァアァアァァアァアアアァァアアアッ!!」

 

 異形となったバイサーの悲鳴である。溢れ出す鮮血が、血のシャワーとなって彼女の周囲にまき散らされる。

 並みの剣術では、こんな芸当は出来ないだろう。おそらく『騎士(ナイト)』の特性である加速と自身の剣術を組み合わせて相手へと叩きつけているはずだ。

 激痛に悶え苦しむバイサーの足元には……、

 

「……塔城のやつ、何やってんだ!?」

 

 なんと棒立ちで相手を見上げる銀髪の少女の姿があった。

 

「おい、早くそっから離れろ!!」

「大丈夫よ」

 

 焦る斬輝に、しかし応えるリアスはいつだって冷静だ。

 

「はあ!?」

 

 たしかに彼女も一人の悪魔であることに違いはない。そしてリアスの眷族であるということは、その身に悪魔の駒(イーヴィル・ピース)を宿しているということだ。

 ……ああ、思い出した。

 もしも悪魔の駒(イーヴィル・ピース)の個数まで本来のチェスの駒と同じだとするならば、彼女は決して『騎士(ナイト)』ではない。

 数日前、部室でリアスから余りの駒を見せられたからだ。

『騎士(ナイト)』と『戦車(ルーク)』である。

 だが、速さに秀でた『騎士(ナイト)』は、すでに木場へと振り分けられている。

 つまり、

 ほぼ零距離に近いこの状況から目にも留らぬ速さで脱する方法など不可能なのだ!

 

「グォォアァアアァアアァアアァアアッ!」

 

 痛みと怒りに身を任せ、ついにバイサーの上半身までもが変異を始める。端正な顔立ちは歪な牙によって醜くなり、かろうじて穏やかに見えなくもなかった瞳は鋭く吊り上がった。

 同時に、胴で左右に裂けた肋骨のバインダーが一気に開かれる。

 

「ジャァアアァアアアアァアァア!!」

 

 激昂したはぐれ悪魔はそのまま足元にいた小猫をまるごとバインダーで包み込んだ。

 いくら身体的に普通の人間とは比べ物にならないほど向上しているとはいえ、生身の状態であんな攻撃を喰らってしまえばひとたまりもないだろう。

 脇にいた一誠が咄嗟にバイサーのもとへ走りだそうとするが、

 

「大丈夫」

 

 リアスのつぶやきに、足を停めた。

 大丈夫、だと?

 いったい何が……、

 

「……むう!?」

 

 突然、小猫を『喰らった』バイサーの表情が曇った。

 何が起こったのかと見てみると、さっき小猫を閉じ込めた骨のバインダーが、ぎしぎしと軋みを上げている。

 そしてそれは、ゆっくりと左右へと開かれてゆくのだ。

 

「……小猫は『戦車(ルーク)』よ。その特性はシンプル。莫迦げた力と防御力」

「……なっ!?」

 

 やがて完全にバインダーが開ききった時、そこには溶解液か何かで衣服を一部溶かされてはいるものの無傷なままの少女の姿があった。

 

「あの程度じゃ、びくともしないわ」

「……ぶっ飛べ」

 

 かすかに、そう呟いたのが聴こえた。すると小猫はわずかに上体を引き絞り、返す勢いで両腕を思い切り薙いだのである。

 たったそれだけで、彼女を閉じ込めていたバインダーがすべて叩き折られた。

 華奢な少女の、たった二つの拳で。

 反動で後方へとはね飛ばされたバイサーは、そのまま延長線上にあった屋敷の柱を粉砕する。二回ほどバウンドしてようやく止まったはぐれ悪魔のそばに立つのは、長い黒髪をポニーテールに結んだ朱乃だ。

 

「朱乃」

「はい、部長」

 

 応えて、朱乃はさらにバイザーとの距離を詰める。

 ゆっくりと、相手を焦らすかのように。

 

「あらあら、どうしようかしら。うふふ……」

「ぐぅううぅううぅう」

 

 もうそれほど力も残っていないのだろう、バイサーは自身の体液に顔をうずめながらも、その双眸は朱乃へと向けられている。

 威嚇のつもりなのだろう。だが当の本人は気にも留めずに、ただ笑みを浮かべるだけだ。

 それは彼が見たことのない、不敵な笑みだ。

 

「あらあら、まだ元気みたいですね?」

 

 何でもないように上げた両手から、時折『光』が発せられる。

 違う、と思ったのは、両手の間を駆ける『光』によって空気が、ばちん、と弾けた時だ。

 これは、まさか雷か!?

 

「彼女は『女王(クイーン)』。他の駒すべての力を兼ね備えた、無敵の副部長よ」

 

 魔力を使った攻撃が得意なの。

 そうリアスが言った時に、斬輝はふと理解した。

 なるほど、たしかにあれは雷だ。

 しかしそれは自然的に発生したものではなく、彼女自身の魔力に意志の力でベクトルを与えて掌から放出していることになる。

 

「……なら、これはどうでしょうか!」

 

 朱乃が両手を前方へかざし、そこから蓄えられたエネルギーが一気に放出する。それはまさに、横方向への落雷だ。

 瞬間、辺りが閃き、一気に雷がバイサーへと叩きつけられた。

 後に続くのは、熱せられた大気が瞬時に膨張して爆ぜる音だ。

 爆発である。

 

「グッ、ガァアアァアァアアァアアアッ!!」

 

 一億ボルトの電撃が全身に襲いかかり、バイサーは激しく痙攣した。

 一般的に、雷の発生における基本的な原理は静電気の放電とされている。大気中で、大量の正負の電荷分離が起きるのだ。

 やがて帯電した雲が雷雲となり、その中にあるマイナスの電気につられて地表にはプラスの電気が集まってくる。限界まで帯電された正と負の電気が中和しようとして発生する現象が、つまり落雷である。

 だが朱乃は自身を『マイナス』に、そして標的であるバイザーを『プラス』と思考の力で置き換えることで、『真横への落雷』という不自然なエネルギーの動きを可能としている。

 雷鳴に交じって、わずかにバイサーの断末魔が聴こえる。爆発音が派手過ぎて、もはやはぐれ悪魔の叫びさえも搔き消してしまっているのだ。

 流れ込む高圧電流と叩き込まれる熱によって、すでにバイサーの軀からは白い煙があがり始めている。

 だが、それで終わりではなかった。

 

「あらあら、まだ元気そうですわね?」

 

 彼女の赤い舌が、赤い唇を舐める。すると次の瞬間、さらに威力を増した雷撃がバイサーへと放たれたのだ!

 

「ギャヴッ!?」

「いったい、どこまで耐えられるでしょうか!!」

 

 喜悦の笑みに頬を歪めて、さらに二度、三度と雷をバイサーへと叩きつける。

 楽しんでいる。

 この状況で、なんと朱乃は相手をいたぶることを楽しんでいるのだ!

 そして、と思い出したかのようにリアスが続ける。

 

「彼女は究極のSよ」

「いや、究極ってぇか、あいつただのドSじゃねぇか!」

 

 おっかな過ぎるだろ、と喚く斬輝だが、リアスはただ、朱乃の雷撃を見守り続けていた。

 

「うふふふふ。まだ耐えますのね? でも、まだ死んでは駄目よ? とどめは私の主なのですから……」

 

 おほほほほ、と高笑いをかます朱乃の姿を見た斬輝と一誠は、彼女が醸し出すオーラに恐怖し、その軀を震わせていた。

 味方には優しいと付け加えるリアスだが、しかしその言葉はにわかには信じがたいものだった。

 

「朱乃。その辺にしておきなさい」

 

 あれから何分経っただろう、止まることない朱乃の猛攻に、ついにリアスが待ったをかける。

 

「あらあら、仕方ありませんね……」

 

 心から残念そうに呟くその目には、明らかな不満が込められている。まさか、あれだけやっておいてまだ物足りないのか!?

 朱乃の言うように、とどめをさすべくリアスが無惨な姿となったバイサーのもとへと歩み寄る。

 かつん。

 かつん。

 鳴り響く革靴は、まさに死刑へのカウント・ダウンである。

 あと一歩踏み込めば黒く炭化したバイサーに触れそうな距離まで来ると、

 

「最後に言い残すことはあるかしら?」

 

 見下ろすようにして尋ねた。

 だが、応(いら)えは、ない。

 

「死んだふりをしたって無駄よ? どの道あなたは消し飛ばされるのだから」

 

 応えは、ない。

 その反応のなさに、見守る斬輝はどこか不可解に思った。

 今更、そんな猫騙しのような手を使っても無意味であることは、バイサーも承知のはず。

 ならば、なぜそんな姑息な手を使う必要がある?

 見たところ、まだ息の根は止まっていないらしい。

 だから余計に、疑問に思ってしまうのだ。

 訪れる死を、すでに受け入れたというのか? それにしたって、殺せ、の一言くらいは言うはずだ。

 

「なぜ……?」

 

 そう口にした途端、ゆっくりとはぐれ悪魔が起き上がる。

 その顔に浮かぶのは、不敵な笑みだ。

 にたり。

 瞬間、嫌な予感が頭を過ぎった。

 ……まさか!

 

「……そう簡単にやられるとでも思う?」

 

 バイザーの呟きに、弾かれたように斬輝は前方へ走り出していた。

 

 

 

       4

 

 

 悪魔でありながら、しかし悪魔としての特徴を、この時リアス・グレモリーは失念していた。

 それも相手がはぐれ悪魔であれば、なおさらだ。

 制約が関係なくなった悪魔というものは、より凶暴になる。

 だが同時に、より狡猾になるのだ!

 

「……そう簡単にやられるとでも思う?」

 

 バイサーがそう呟いた時、

 

「あなたも道連れにしてあげるわぁああぁぁあぁぁあぁあっ!!」

 

 大きく開かれた口から細長い触手が勢いよくこちらへ飛び出してきた。

 

「あぐっ!?」

 

 それは狙ったようにリアスの首へと巻きついて、きつく締め上げてくる。

 

「ヒャハァアァアアァアアァア!!」

 

 喰らいついてこようとする顎(あぎと)を咄嗟に後方へと飛び退って回避したが、しかしそれは単に奴との距離を一時的に遠ざけたに過ぎない。

 

「……う、そ……!?」

 

 着地して顔を上げたリアスは、目の前の状況に戦慄した。

 今まさしくリアスの気道を塞ごうとしている一本は、かろうじて舌が変形したものだと理解出来た。だが今彼女の視界に広がるのは、どこから生えているのかさえ判らないほど大量に蠢く無数の肉の鞭なのである!

 誤算だった。

 バイサーの……いや、はぐれ悪魔の力を少しでも見くびっていたことが生んだ、致命的な油断だった。

 あの数を喰らえば、たとえリアスであっても無事では済まない。

 

「先輩! 何してるんですか!?」

「……斬輝くん! 戻って!」

 

 後方から一誠と朱乃の上擦った声が聞こえたのは、その時だ。

 ……え?

 今、誰の名を呼んだの?

 引き延ばされたような時間感覚の中で、弾かれるようにリアスは背後を振り向いた。

 一人の青年が、こちらに向かって必死に走ってくる。

 思い通りに動かない軀に鞭を打つようにして、その右手はまるでリアスに差し伸べる格好である。

 その後、リアスはこれから起こることのすべてを理解出来なかった。

 

「死ねぇええぇええええぇぇえ!」

 

 バイサーが叫ぶと同時に、世界が回った。

 抱き締められた勢いで、背後を向いていたリアスの位置が一八〇度回転したのである。

 咄嗟に目をつむった直後、ひと続きの轟音とともに衝撃がリアスの軀を襲ってきた。

 痛みはない。

 そう。叩きつけてきたのは、衝撃だけなのだ!

 

「そんな……」

 

 そう呟いたのが祐斗なのか一誠なのかは判らない。

 締め付けられてやや息苦しい中、ゆっくりとリアスは瞼を開ける。頭も強く押し付けられていて、だから余計に苦しかった。

 やがて視界に映ったのは、背中から生えるいくつもの棘だった。

 ……いや、違う。生えているのではなく、突き刺さっているのだ。

 捕らえた獲物は、リアス・グレモリーではなかった。

 その前……彼女を護るようにして抱き締める青年である。

 その姿勢のまま、彼は動かない。

 

 

「ざん、き……?」

「ふーっ! ふーっ! ふーっ!」

 

 リアスの呟きに応えたのは、荒い息で呼吸するバイサーだった。

 

「莫迦な人間ねぇっ! わざわざ悪魔なんかを庇って死ぬなんて!!」

 

 血反吐を吐き散らしながら、満身創痍のはぐれ悪魔が吠えた。

 死ぬ……?

 私を護るために、斬輝が……?

 

「そ、んな……」

 

 嘘よ。

 

「部長!」

 

 朱乃の声に、さらに追い打ちをかけるようにバイサーが肉の棘がリアスの頭上を越えて行った。続く破砕音は、床が抉れたのだろう。

 

「今度こそ……」

 

 喋るたびに血を吐き出しながら、徐々にその頭がバイサーの肉体から離れてゆく。

 首だけが、異様に長く伸びていた。

 

「あなたを食べてあげるわぁあぁああぁぁああ!!」

 

 あれがおそらく、バイサーの最後の一撃なのだろう。

 許せない、とリアスは思った。

 許せない。

 バイサーはもちろんだが、何よりも自分が許せなかった。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ゆっくりと、リアスの頭を包んでいた手が離される。

 

「……ぇんだよ」

「えっ?」

 

 突然の声に、密着していた胸がかすかに振動する。

 なに?

 なんなの?

 バイサーの歪な顔面が、さらに迫ってくる。

 

「死ねぇえぇえぇえええ!!」

 

 だが。

 

「……痛ぇっつぅんだよ、こンの糞莫迦がぁあっ!!」

 

 突如として斬輝が叫び、垂らした右腕を遠心力の勢いに任せて振り向きざまに振り抜いたのである。

 今まさに、リアスの頭を喰らわんとするバイサーへと。

 ぶん、と大気を切った拳は、

 

「……あ?」

 

 一瞬の呆けたようなはぐれ悪魔の声とともにバイサーの顔面へと叩きつけられる。瞬間、じゃりん、と金属が擦れ合うような音が聞こえた気がした。

 そして、拳がそのままバイサーを打ち抜いた時、

 

「えっ……?」

 

 その直後の光景に、己の目を疑った。

 大きく開かれた口を基準にして、ゆっくりと上部がずり落ちてゆくのだ。

 そして、大量の血飛沫(ちしぶき)。

 返り血は、ちょうど斬輝の影になる位置にリアスが立っていたために彼女が浴びることはなかった。

 首を絞めていた触手が解かれ、リアスはたまらず咳き込んだ。

 何が起こったのか、はっきり言って彼女には判らなかった。おそらく、それは朱乃達にも同じことが言えるだろう。

 なぜ、たった一度の殴打でバイサーの頭部が両断されたのか。

 問おうにも、口から言葉が出てこなかった。

 ただ黙って、『バイサーだった』者が力なく倒れ伏すまで見届けているしかなかったのだ。

 肩で荒く呼吸をする斬輝はリアスの代わりに盛大に返り血を浴びていて、その姿を見た途端、彼女は恐れよりも畏怖を覚えた。

 何が起こったというの……?

 

「……終わった、のか?」

「え、あ、あの……」

 

 斬輝の呟きに、応えるリアスは咄嗟に顔を俯かせた。

 さっきの醜態を思い出して、途端に気恥しくなったのだ。

 

「……ありがとう」

「おう」

「その……痛く、ないの?」

「何がだ」

「背中」

 

 リアスが言う先には、無数に空いた穴からどくどくと鮮血があふれ出る背中があった。

 

「痛ぇに決まってんだろうが。今もズキズキしてて、堪んねえよ」

 

 頬を左手で搔きながらあっさりと返す斬輝に、しかしリアスは吃驚(きっきょう)した。

 それだけ?

 これだけの傷なのに、そんな程度にしか感じないの!?

 

「お前こそ」

「え?」

「首、大丈夫か。痕ついてんぞ、赤いの」

 

 言われて、首元をさする。

 絞められていたからだ。

 

「え……ええ、今は何ともないわ。痕もしばらくしたら消えるでしょう」

「そうか。とにかく、無事ならそれでいい」

 

 行くぞ、と言って、斬輝は踵を返してとっとと朱乃達のもとへと歩いて行った。

 血の跡を残して。

 

 

 その後、屍体(したい)となったバイサーの亡骸を滅びの魔力で跡形もなく消し飛ばしたリアスは、すぐさま朱乃とともに斬輝の治療を始めた。

 止血を終えて包帯を巻こうとした時、バイサーによって穿たれた背中の穴から、骨が見えた。ちょうど、背骨と肋骨が繋がっているあたりだ。

 銀色だった。

 

 

 右の拳の打面に一直線の傷があることに気づいたのは、それからだった。




 今回、朱乃の雷攻撃において独自に付け加えた設定がある。
 とはいえ、単に文字どおり上空からの落雷を横方向への『落雷』にした方が絵的に面白いかなあ、と思って足したものだ。特撮モノの敵キャラが稀に使う電撃攻撃……もっと言えば「スターウォーズ」シリーズでダース・シディアスが使ってるアレをご想像していただければ間違いないだろう。
 なんか、あっちの方が痛そうでしょ?(苦笑)
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