第1話 雪風、使い魔を得るの事
――建国から数千年という長い歴史と伝統を誇る王国、トリステイン。
保有する国土はさほど広いとはいえないものの、王都トリスタニアやその周囲は四季折々の花や噴水などによって美しく彩られ、国内にある世界最大の湖が観光名所となっているなど、風光明媚な『水の王国』として名高い国家である。
そのトリステイン王国にある名門貴族の子女たちが数多く集う学舎。それが、ここトリステイン国立魔法学院だ。かの学院では、毎年春になると、必ずある儀式が執り行われる。それが〝春の使い魔召喚の儀〟である。この儀式によって学生たちは生涯のパートナーとなる使い魔を呼び出し、契約する。
ここで召喚されるのは、一般的に犬や猫、鳥などといった動物が多く、召喚者によってはバグベアー、バジリスクといった魔獣を呼び、特に素質のある者が儀式を行った場合、グリフォンやドラゴン、サラマンダーなどといった幻獣が現れることもある。
つまり。呼び出した使い魔の種類を見、召喚者の資質を計るという目的でもって、この儀式は長年継続されてきたのだが……この日。思わぬ事故が発生した。
本来ならば、ありえない事態――なんと人間を召喚した者が出てしまったのだ。しかもその事故を起こしたのは……学院内でも特に優秀な生徒として、それなりに名の知られた少女だ。二重にありえない事態に周囲は騒然となった。事故を起こしてしまった本人も、呆然とその場に立ち尽くしている。
と――その場を収拾すべく動いた者がいた。この儀式の現場監督責任者にして、魔法学院に勤める教師『炎蛇』のコルベールだ。彼は周囲の生徒たちに静かにするよう声をかけると、ごくごく丁寧な口調で〝呼び出されてしまった〟少年に声をかけた。問いかけられた相手も特に慌てた様子はなく、素直に自分の名前を告げた。そんな相手の態度を見て安心したのであろうコルベールは、言葉を続けた。
「ええと、ミスタ・ジェイコブでしたかな?」
「タ・イ・コ・ウ・ボ・ウ、だ」
「わかりました。では、ミスタ・タイコーボー。早速ですが、質問をさせてもらってもよろしいでしょうか?」
「別にかまわぬぞ。答えられるかどうかはわからぬがのう」
まるで、今日の天気について答えるような気軽さでもって、コルベールの問いかけに頷いたのは『タイコーボー』という、このあたりでは聞き慣れない……というよりも、まず存在しないであろう名を持つ少年だ。周囲の喧噪など、どこふく風といった様子で悠然とその場に立っている。
ここに至って、ようやく……瞳に絶望の色を浮かべていた少女タバサは現在の状況を把握し――改めて自分が呼び出した相手を観察する余裕ができた。
――まずは、相手をよく見なければいけない。タバサは即座にそう判断した。
自分が召喚した――おそらく自分と同じ、あるいはひとつかふたつ程度年上であろう少年。彼はこのハルケギニアではとても珍しい黒髪で、異国のものとおぼしき衣服――一見してわかる程度に高級な布地で作られたものを身につけている。また、突然見知らぬ地へ呼ばれたにも関わらず、まったく動揺した様子がない。
それどころか、ふてぶてしいとも言える態度で大人のコルベールに相対している。その様子から察するに、それなりに場数を踏んでいる可能性がある。もしも彼が状況を見抜けないただの馬鹿者だとしても、普通でないことだけは確かだろう。
タバサは、よりにもよって人間を召喚してしまったという衝撃など既に忘れてしまったかのように観察を続けている。しかし現場監督者のコルベールはというと、そんな彼女の様子には全く気付かず、件の少年へ問いかけた。
「それではお伺いします。あなたはどちらの国の貴族でいらっしゃるのでしょうか?」
コルベールの質問に周囲がざわつく。もっとも、それに対する答えは、彼らをしてやや斜め上を行くものであったが。
「う~む。今のわしには、その質問全てに答えることはできぬ」
「ええと、それは一体どうしてでしょうか?」
その場でズッコけそうになるのを必死にこらえたコルベールは、さらに問うた。
「そうだのう……まず、わしは周という名の国からこの地へ呼び寄せられた」
「シュウ、ですか? 失礼ですが、聞いたことがありません」
首をかしげるコルベールに、我が意を得たとばかりに答える太公望。
「まあ、そうであろうな。こう見えてもわしは、世界各地を旅をして回った経験がある。だが、ここは確かトリステイン……と、申したか? かような地名は初めて耳にするものなのだ」
再び周囲が騒がしくなる。トリステインを知らないなんて、とか、どこの田舎者? とか、シュウ、なにそれ? などという心ないものがほとんどであったが、それらの反応もこの少年――太公望にとっては折り込み済みのものであるようだ。
「どうやら、まわりにいる者たちも周を知らぬようだ。つまりわしは、互いにその存在すら知らぬほどに遠い場所からやってきたことになる、と。ここまではよいかのう?」
「ええ、ですが……」
「国が違えば文化も異なるものだ。すなわち、わしの持つ常識がおぬしたちの持つそれと同じ可能性は非常に低い」
「ま、まあその通りですね」
「つまりだ、おぬしの言う『貴族』とやらの定義が、わしの国では全く別のものを指すのかもしれぬということだ。よって、今のままではおぬしの質問全てに正しく答えることができぬ、と……まあ、こういうわけなのだよ」
このやりとりを聞いたタバサは、太公望という少年に対してさらなる興味を持った。
彼はコルベールの「どこの国の貴族なのか」という、自分の所属する国とメイジであるのかどうかをいっぺんに聞き出そうとする質問を逆手に取り、必要な情報を集めるために己のペースに巻き込もうとしているのだと判断したからだ。そして、そんな彼女の推測を裏付けるかのように問答は続いてゆく。
「そこでだ。質問に質問を返す形になってしまうが、まずは答えてほしい。先程そこにおる娘にも問おうとしたことなのだが……さて。いかなる理由でわしはここへ呼び寄せられたのかのう?」
――まずいことになった。
コルベールは、既に内心の焦りを表に出さないようにすることだけで精一杯であった。
異国の装いをした少年を呼び出してしまったことで、すわ国際問題勃発か!? と慌てて場の調停を行おうとしたものの。生徒たちとほぼ同年代(と、思われる)若い太公望に対して、正直油断していたことは否めない。ゆえに深く考えずに発言してしまったが、その言葉の隙を突かれ、会話の主導権を握られてしまった。
彼が本当に、お互いに存在も知らないほどの遠方から来たのか、また貴族……メイジであるのか。ハッキリ言って、それはもはやどうでもいい。問題は、現時点でこの少年が何者であるのか全く判断がつかないことである。もしも彼が異国における貴族だったとしよう。そんな相手に対し、
「使い魔にするために、あなたを呼び出しました」
などと答えたらどうなるか。質問をしなおす? 問題外だ。
こっそり
この失策を取り返すためには時間が欲しい。そう考えたコルベールは、問題を先送りすることを選んだ。目の前の生徒と上司には申し訳ないが、事は既に自分の手にあまる。
「そ、そうですね……と。実は、今ここに集まっている彼らはこの学院の生徒たちなのですが……今後の人生に関わる非常に大切な儀式を行っている最中でして、はい。私には、その監督をする義務があります。ですので……ミス・タバサ」
と、側に立つタバサに声をかけた。それから懐から1枚の羊皮紙を取り出し、素早く何かを書き付け手渡す。
「彼を学院長室へ案内してください。そのメモを秘書のミス・ロングビルへ渡せば、優先的に通してもらえるでしょう。あっと、急ぎの用件ですので〝
「わかりました」
タバサはじっと師の目を見て頷き返した。せめてもの抵抗に、どうやら自分の教え子は気付いてくれたようだと、コルベールは内心でほっとしていた。これで、もしも彼が魔法を使うことができなければ話はずいぶんと楽になる。
「ついてきて」
タバサは太公望にそう告げると、ふわりと宙に浮いた。
口をあんぐりと開けて、太公望はその様子を見つめた。
――と、飛んだ? 宙に浮いた?
予想はしていたが、やはりここに集まる者たちはただの人間ではない。改めて周りを見ると、みな棒状の何かを持っている。今飛んでいった少女も、長い杖を持っていた。もしや、アレは
そんなことを考えているうちに、徐々にタバサの姿が小さくなってゆく。太公望は焦った。せっかく主導権を握りつつあるというのに、このままでは置いて行かれかねない。しかし今の姿で……かわいがっていた霊獣に乗ることなく飛ぶことができるのだろうか。
太公望はふと不安を覚え、懐をさぐった。彼が愛用している宝貝『
「はてさて……鬼が出るか蛇が出るか。楽しみだのう」
ニヤリと笑みを浮かべた彼は、すぐさまふわりと浮き上がり――既に豆粒ほどの大きさになってしまったタバサを追って空を征く。
――その場に残されたコルベールの、正直寂しいと言って差し支えない頭髪が数十本単位ではらはらと抜け落ちたのは……太公望と名乗った少年の飛翔によって巻き起こった〝風〟のせいだけではないということを、念のため付け足しておく。
『雪風』のタバサは驚いていた。その対象は、自身の執り行った〝使い魔召喚の儀〟で人間を呼び出してしまったことではない。師と仰ぐ人物の、思わぬ失態について……でもない。彼女をして最も驚かせたもの、それは。先に飛び立ち、既にそれなりの距離を稼いでいた自分に追いついてきただけでなく、
「う~む、これはまた異国情緒あふれる風景だのう」
などと軽口を叩きながら、田舎から出てきた観光客よろしくきょろきょろと周囲を観察している彼が見せた余裕。それこそが彼女を驚かせた最大のポイントだ。
空を飛ぶ魔法〝
タバサは自分が呼び出した少年に対する評価を、もう一段階上げた。
○●○●○●○●
――ちょうどそのころ。トリステイン魔法学院の学院長を務めるオスマン氏は、長く白い口髭と髪を揺らし、本塔の最上階にある学院長室で、背もたれつきの高価な椅子に腰掛けながら、ゆっくりと水ギセルの煙を燻らせていた。
今、この部屋には「健康のために喫煙はおやめください」などと言う無粋な人物はいない。喫煙は身体に良くない。そんなことは、とうの昔に自覚している。だからこそ求めたくなるのか……などとぼんやり考えながら過ごすこの時間は、彼にとって至福の刻。
オスマン氏の顔に刻まれた数多くの皺は、彼が過ごした歴史の証だ。齢百歳とも、三百を越えているとも言われているが、本当の年齢は誰も知らない。本人も、とうの昔に忘れてしまっている。
そんな彼の元へ、すらりとした美女が訪れた。艶やかな若草色の髪をひとつにまとめ、アンダーリムの眼鏡をかけたこの女性は学院長付の秘書ミス・ロングビルだ。
「オールド・オスマン。これをご覧下さい」
オスマン氏は彼女から手渡された羊皮紙を一瞥すると、眉を寄せてため息をついた。どうやらとんでもない厄介事が舞い込んできたらしい。
「ここへ案内しなさい、ミス・タバサとその……異国のメイジとやらを」
「承知致しました。と、その前に」
ミス・ロングビルは懐から羽ペン状の杖を取り出すと、ついと一振りした。途端にオスマン氏の手元から水ギセルが離れ、彼女のところへ飛んでゆく。楽しみを奪われた学院長は、不満げな声を漏らした。
「老い先短い年寄りから娯楽を取り上げるのがそんなに楽しいかね? ミス・ロングビル」
「上司の健康を管理するのも、わたくしの仕事ですから。それと……」
美しき秘書は、ドン! と音を立てて床を踏みならした。
「使い魔のネズミをわたくしの足下へ忍ばせるのはやめてください」
大きな音に驚いたハツカネズミが主人の元へ駆け戻ってゆく。それを見届けたロングビルは片手で眼鏡の位置を直すと、両開きの扉を開けて学院長室の外へ消えた。
「モートソグニル」
オスマン氏が声をかけると、小さなハツカネズミは彼の足を駆け上がり、肩の上にちょこんと乗っかった。それから主人の耳元へ向かってちゅうちゅうと鳴いた。
「ふむ、今日は白だったか。彼女は黒のほうが似合うと思うんじゃが。それはともかく、よくやったぞモートソグニル」
褒美のナッツを貰ったハツカネズミは、満足げな声で鳴いた。
――学院長室の中へ案内された太公望とタバサのふたりは、まず椅子を勧められた。
学院長のオスマン氏は腰を下ろした両者が落ち着くのを待ち、太公望がこの地へ呼び寄せられてしまった原因について、互いの認識の摺り合わせを行いつつ説明した。
「なるほどのう。つまりわしは、この娘御が起こした事故によって、この地へ呼び出されてしまった……と。そういうことかの?」
それを受けた太公望はというと、これまでの情報を脳内で反芻していた。
曰く、この国では〝魔法〟という技術を使う人間が『貴族』と呼ばれること。
曰く、ここは貴族の子弟たちが魔法を学ぶための場所であること。
曰く、そんな彼らに最も適した魔法を探すために行われる儀式があること。
曰く、その儀式は「使い魔を喚び、その性質を見て決める」ものであるということ。
そして。今自分がここにいるのは、その儀式とやらのせいであることを。
「わしも、それなりに長くこの職に就いておるが……〝サモン・サーヴァント〟によって人間が召喚されるなどという事故は初めてのことでの。一学生の起こした不手際ということで、事を大きくしないでくれると助かるのじゃが」
心の底から申し訳なさそうな顔をしつつ語るオスマン氏と、固い表情を崩さないタバサの顔を交互に見やりつつ太公望は考えた。正直なところ、召喚されたことに関して言えばどうでもいい。むしろ、感謝さえしていると言っても過言ではない。何故なら、彼は心の底から休息を欲していたからだ。
太公望と名乗ったこの少年――実は、本名を
見た目はただの少年のようだが、実際には違う。現在の肉体を得てから、なんと百年近く生きている、人間を超えた存在たる〝仙人〟なのだ。
伏羲は本当に疲れていた。何故なら、彼はこれまで生きてきた永き時の流れの中で『世界の命運』という、たったひとりで背負うにはあまりにも重過ぎる責任をその両肩に乗せ、見守り、待ち望み、仲間を集め……戦い続けてきたからだ。
だから、彼は全てが終わり、見守ってきた世界に平和が訪れた後――あらゆる束縛を捨て去り、人々の前からその姿を消した。
……いちばん面倒な戦後処理を他人に押しつけたんだろう、とか、元来持っていた重度のサボリぐせが再発したんだろう、とかいう諸説はさておくとして。
とにかく、ここに至るまでの数ヶ月間――己を慕う者や、さらに仕事をさせようと自分を追い掛け続ける大勢の部下たちの厳しい捜索の目を逃れつつ、野を渡る風のごとく気ままな旅を続けていたところなのだ。そんな時に、誰も知らない土地へ呼び寄せられたというのは、伏羲にとって、その場で飛び跳ねたいほどに喜ばしい出来事であった。
自分の『心』を構成するうちの半分である『太公望』の部分のみがこの地へ引き寄せられるという事態が発生したのは何故か。その原因は未だ不明ではあるものの――伏羲は既に確信していた。ここが『空間』を越えた異界であることを。
『空間』を、それも自分たちが居る場所とは異なる世界へ移動するには相当な手間がかかる。
かつての仲間達、あるいは周の地へ残してきてしまった残りの『半身』がほぼ間違いなく自分を連れ戻しにこの地へやって来るだろうが、それまでの数ヶ月間……いや、もしかすると数年はのんびりぐうたらできるのではないか。伏羲は、そう考えた。
伏羲――現在『半身』である太公望へ、姿だけではなく持っていた〝力〟までもが戻されてしまった彼は、改めて現在の状況を整理した。
ここまでの情報から判断するに、このタバサという少女は本来使い魔――自分に隷属する存在を呼び出そうとしたものの、何の手違いか、伏羲から太公望の部分『だけ』を切り離し、この場所まで連れて来てしまったらしい。そして、使い魔を呼ぶことができなかった場合……今後の生活に不都合が生じるというのだ。
つまり、彼女の命運は彼の手中にあるといっても過言ではないだろう。
ならば、やるべきことは決まっている。
そう……今ある手札を利用して、この地における己の立場を確立するべし!
追っ手の気配に神経を尖らせることなく、悠々自適の毎日を送れるであろう土地へ招いてくれたことには感謝するが、それはそれ、これはこれである。別に誰かに頼らずとも、この世界でひとり生きていく自信はある。しかし、せっかく用意されたぐうたら生活のチャンスをふいにするほど、この男『太公望』は生真面目ではない。
なにせこの男は、とある自給自足の村で、食料を盗んで捕らえられた際に――大勢の村人たちに囲まれ、彼らを纏める長から「労働か処刑か好きなほうを選べ」と迫られるという、ある意味極限の状況下においてもなお、
「働くぐらいなら食わぬ!」
と、突っぱねた程に生粋の怠け者なのである(結局働くはめにはなったが)。
とはいえ、まだ顔に幼さを残すような少女に対して意地の悪い駆け引きを行うほど彼の性根は腐っていない。よって、目の前にいる老人――師であり、かつての上司と似た雰囲気を持つ者に、その矛先が向くこととなる。
――かくして、トリステインを代表する偉大なメイジ・オスマン氏と、仙人界No.1の腹黒と謳われた軍師・太公望の仁義なき戦いは幕を開けた。
○●○●○●○●
――ここは
魔法はもちろんのこと、剣同士がぶつかる音も聞こえないけれど……目の前で繰り広げられるこれは、間違いなく『戦い』と呼べるものだろう。風の刃ではなく、言葉をぶつけ合う戦場。
競い合うはトリステインのみならず、他国にまでその名が知られた偉大なるメイジ、オールド・オスマン。その彼に一歩も引かず火花を散らしているのは――わたしが呼び出した使い魔候補。
タバサは、その激戦を固唾を飲んで見守っていた。
「話し合い」が始まる前に、太公望は彼女に向かってこう言った。
「事故の責任は、おぬしにはない」
……と。
わざとやった訳ではない。とはいえ、彼を故郷から無理矢理見知らぬ場所へと誘拐同然に連れ去ったのはタバサである。にも関わらず太公望は、それを責めるどころかにっこりと笑ってこう続けたのだ。
「使い魔とやらに、なってやらんこともないぞ」
タバサは耳を疑った。いくらなんでも人が良すぎるだろうと。
そんな彼の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべたオスマン氏が、それでは早速契約の儀式を……と、言いかけたその時。 タバサは見た。太公望と名乗った少年の瞳の色が、瞬く間に黒く変わるのを。
「では……さっそく条件を詰めるとするかのう。そうだな、まずはここに足止めされることに対する補償その他について、学院側がどの程度支払う用意があるのか、そこから始めるとしようか」
その言葉を起点に発生した『交渉劇』は、オスマン学院長・太公望のどちらも相当な食わせ者であることを実証した。太公望が『魔法学院に対して求める待遇』についての詳細を提示するやいなや、学院長は「あくまでこれは生徒が起こした事故であり、そのような条件を学院側が飲むいわれはない」と返した。
すると太公望は、事故の責任の所在について「生徒は、教師の監督のもと召喚の儀式を執り行ったのであり、故にその場で起きたことに対する責任は監督者、ひいてはこの学院の長にある」と、追求した。責任問題に関して圧倒的な不利を悟った学院長は、それに対して一歩譲ると、学院にいる間の食事、及び寝床の提供を申し出た――補償金の大幅減額と引き替えに……。
両者の戦いはそれから小一時間ほど続き、最終的に、双方がある一定の条件――
・書類上は使い魔とするが、お互いを尊重し貴族とほぼ同等の権限を与える
・タバサが卒業するまでの間、学院が太公望の衣・食・住の面倒を見る
・同期間、学院は太公望に対して、所定の給与を支払うこととする
・太公望は使い魔として常にタバサの側にあることとする
・太公望は、事故ならびにこの場での交渉について口外しない
……を、飲むところで決着した。
「ふむ。結局のところ、この交渉はだな……おぬしが生徒をどれほど大切に思っておるのか、それに尽きる。わしは、そのように考えておるのだがのう?」
「カァーッ! ミスタ・タイコーボー。君はまだこのわしから引きだそうとするか。まったくその若さで抜け目のない……将来が恐ろしいわい」
「かかかか、オスマン殿こそようやりおるわ! ここまで条件を剥ぎ取られたなぞ、わしの記憶の中でもそうはないぞ」
微妙な盤外戦を繰り広げる両者を尻目に、いつのまにか席へ戻っていたミス・ロングビルが書面の作成を行っている。おそらく、ここまでに交わされた契約内容をまとめているのだろうが、心なしか少々顔色が悪いようだ。
それにしても……と、タバサは考えた。人間を召喚したこともそうだけれど、使い魔が学院に対して待遇の交渉をするなんて、前代未聞の出来事なのではないだろうか。交渉のテーブルへついた手腕といい、あの高速飛行といい……まさしく彼は、規格外の使い魔だ。最初のうちこそ絶望しかけていたけれど、わたしは思わぬ当たりを引いたのかもしれない……。
その後、書面を交わし〝コントラクト・サーヴァント〟の儀式を終えたタバサと太公望が部屋から退出した途端。オスマン氏は全身の力が抜けてしまったかのようにソファーへ沈み込んだ。
――オスマン氏は、全身に冷や汗をかいていた。
先程の一戦は、彼の脳裏に宮廷に住まう魑魅魍魎どもとやりあっていた時代の出来事をまざまざと蘇らせていた。どう高く見積もっても二十歳には届かないであろう少年の交渉術が、老獪な政治家そのものであったからだ。
と……彼の秘書、ミス・ロングビルが心配そうな顔をして彼の側へと近づいてきた。
「オールド・オスマン? その……大丈夫ですの?」
オスマン氏は、くわっと目を見開いた。
(ミス・ロングビルがいつになく優しい!)
彼はそっと手を伸ばした……彼女のお尻に。だが、僅かに触れるか否かといったあたりで見事阻止されたばかりか、おもいっきり手の甲をつねられてしまった。
「あいたたた……。まったく! ただのお茶目なやりとりだっつーのに」
などとぶつくさ言い続けるオスマン氏を睨み付けながら、ロングビルは言った。
「まったく、ちょっと甘い顔をするとこれなんですから! ……それにしても、さきほどの件はいくらなんでも譲りすぎではありませんの?」
彼女の言葉にオスマン氏は小さく笑った。
「本当にそう思うかね? ミス・ロングビル。わしとしては、なかなかうまくいったものだと自負しておるのだが」
オスマン氏は学院長室で水ギセルを燻らせながら、さりげなく見ていたのだ――離れた場所の光景を映し出す効果を持つ魔法具『遠見の鏡』を使い、学院の中庭で執り行われていた〝使い魔召喚の儀〟を。
そこに突如現れたイレギュラー。異常事態に全く動じぬ度胸。異国の技であろう系統魔法に近いようでいて、ごく一部が微妙に異なる未知の魔法の使い手。さらには今すぐ宮廷で通用するほどに洗練された交渉術の持ち主。
それほどの人材を、たったあれだけの条件で手元に囲うことができたのだ。まさに僥倖といって差し支えない。
「それに……」
契約の書面に、オスマン氏がどうしても紛れ込ませたかったのはたったの一文だけ。それ以外は、ただの目くらましに過ぎない。
『使い魔として、常にタバサの側にあること』
ミス・タバサはただの学生ではない。あの若造、これから間違いなく苦労の連続になるじゃろうて……そう心の内で嗤う老爺の姿は、まさに狸そのものであった。
○●○●○●○●
太公望――地球に残る歴史においては、古代中国・周の軍師にして政治家。
その実体は、人間たちの住む世界の遙か上空に存在する〝仙界・
周囲の期待に応え、周軍の軍師として
「ごめんなさい」
トリステイン魔法学院は、本塔とその周囲を囲む壁、それらと一体化した五つの塔からなる。自室がある寮塔五階へと向かう道すがら、タバサは自分の使い魔となってしまった少年――太公望へ謝罪していた。
「む、何のことだ?」
学院長とあれほどのやりとりができるのだから、そのくらいわかっているだろうに。わざわざ聞き返すなんて、実は結構意地悪なひとなのかもしれない……そんな思いを欠片も外へ出さず、タバサは再び言葉を紡ぐ。
「あなたを召喚してしまった」
「さっきも言ったが、おぬしに責任はない。これはあくまで事故なのだ。そもそも、自分の意志でわしを呼び寄せたわけではなかろう?」
「でも」
それでも、変わらない事実がある。
「あなたを、故郷から無理矢理引き離してしまった」
「そのことなら気にすることはない。そもそも――」
そこまで言った太公望は、先程までの饒舌ぶりが嘘のように、ほんの一瞬口ごもった後――タバサにとって、完全に予想外となる言葉を返してきた。
「呼んでもらえて、逆に喜んでいるくらいなのだ」
思わず絶句してしまったタバサだが、なんとか思考を立て直す。
励ましの言葉……ではないだろう。
単なる強がり……でもなさそうだ。
喜ぶ? 彼の言葉が本当なら、異国へ拉致されたことを歓迎するような何かがあるということだろうか。そこまで考えるに至って、まさか悪事を働いて追われるような事をしていたのではないか……という不安がよぎる。そんな彼女の胸の内を見透かしたかのように、太公望は続けた。
「ここ何年ものあいだ、ずっと働きづめでのう。いい加減疲れておったので、暇をもらってのんびり旅をしておったところなのだよ。そこへ、なんと! 見たことも、聞いたことすらない国から招待を受けたと、まあそういうわけなのだ。ハッキリ言って、こんなに嬉しいことはないわ」
タバサは、それを聞いて呆然とした。
「学院長には」
「建前上、というやつだよ。それに」
ニヤリと笑った太公望は、人差し指をピッ、と立ててのたまった。
「もらえるモノは、もらっといたほうが良いであろう?」
……と。
タバサは思った。このひとはとんでもない曲者なのではないだろうか。使い魔として契約したのはいいが、果たしてわたしに使いこなせるのだろうかと。いや、この程度の人材を御せぬようなら秘めた目的を果たすことなど到底できないに違いない。もしや、これはわたしの信仰心の低さ故に与えられた『始祖』ブリミルによる試練なのでは……。
俯き、押し黙ってしまったタバサを見て、太公望は珍しく焦りを覚えていた。学院長室でのやりとりを彼女に見せたのは失敗だったのではなかろうか、と。
先程の言葉は本心だ。実際、彼女に対して含むところなど全くない。だが、あの応酬を側で聞かせてしまったせいで罪の意識を持たせてしまったのではないか。ならば、なんとかその重さを取り除かねばなるまい。何かよい方法はないものか――そう考えた。
――この男。腹黒そうに見えて、実は根の部分は非常にお人好しなのである。
「そうだのう……そんなに気になるのなら、頼みがあるのだが」
その一言を聞いて顔を上げたタバサを見て、内心「食いついた!」と安心する太公望。釣り師の面目躍如である。もちろん、それを顔に出したりはしない。
「わしは、喚ばれてから説明を受けたこと以外、ここについて何もわからぬ。だが、これから生活をしていくにあたって、知らぬと不便なことが多いと思うのだ……ここまではよいか?」
頷くタバサ。
「よって、おぬしにそういった細かいことを教えてもらいたいのだ。それを引き受けてくれるのなら、おぬしとわしとの間に貸し借りはナシ。それでどうだろうか?」
「わかった。貸し借り無し」
「では、契約成立だのう」
そう言って太公望が差し出した片手を、タバサは両手でしっかりと握り返した。二度と手離さない、と言わんばかりに強く、しっかりと。